30話―最悪、―
翌日、教室の雰囲気が異様だった。それは覚えのある居心地の悪さ。
悲しみと悪意が入り混じったどろどろとしたような空間。
学校という場においての一番考えられる『最悪』。
教室ではひそひそ話は絶えず、朝のすがすがしさなんて欠片もなかった。
俺が教室に入ると同時に数人が前の方のドアから教室を出て行く。
一人の少女が、雑巾を片手に机を一生懸命に擦っていた。今にも壊れそうな顔をして。
これは、知っている。いつか見た記憶だ。まだ、まだまだまだ、こんなことは存在するのか。
「おい、大槻。どうした?」
「っく、………霧谷くん。なんでもないよ」
精一杯の笑顔、違う。無理矢理のぎこちない笑顔に俺は悲しみと怒りで一杯になった。
タイミングを計ったかのようにチャイムが鳴り響き、担任が教室に入ってくる。
雰囲気には気づかない。所詮教師なんてそんなものだと俺は理解していた。だから俺は自分でやるしかないと。そう思ったのだ。
しかし、しかしながら、だ。過去の記憶が邪魔をする。それに約束してしまった。
俺は何があっても自分から動いちゃいけないんだ。姉貴とあいつとの約束なんだから。
だから、大槻が頼ってくれないことには始まらない、始まれない。
自分の中の制約と現実の現象に苦しむしかなかった。
昼休み、いつもなら大槻が飯に誘ってくれる。だがそれもない。
その前にもう大槻は教室にはいなかった。嫌な予感しかしない。
クラスメイトはいつも通りいたって普通。それはそうか、所詮他人事。それで正しい。
自分も動けない。だから動かなくていい。このままでいい。
そう自分に言い聞かせるのだがどうも落ち着かないのが分かる。
目を瞑って黙っているとクラス内での会話が耳に入ってくる。
「なぁなぁ、大槻の奴なんでいじめられてんの?」
「はぁ? お前しらねーのか、霧谷に告白したんだよ」
「えぇ? 確かに仲はいいとは思っていたけど………なんでそんなことするかなぁ」
「そんでさ、振られたらしいんだけどさ。まぁ、問題はそこじゃないんだ」
「うん? まだ何かあったのか?」
「ああ、霧谷に振られた後には他の男に告られたらしいんだ。それを見ていた、えーとなんだっけ。そう、神坂って奴が茶化して言い合いになってキレた神坂がいじめを起こした、ということだ」
「ふーん。あ、その告ったっていう男はどうなったんだ?」
「もちろん振られたよ。そこがまた神坂が気に食わなかったんだろ、『霧谷じゃねーと駄目なのかよ』とかなんか笑い飛ばしてたらしいな。大槻も反論しなけりゃあ良かったのにな」
目をあけて考える。そんなことがあったのか、と。問題は複雑に絡み合っている。
こういうのは俺の本分じゃあない。最初から考えることなんて嫌いだった。
理由はわかった。こんなもの、大槻が俺に頼れば問題は解決したも同然だろう。神坂とかいう奴も俺が動かないと知っての行動だろうから。
今は考えることをやめて昼食に集中することにした。
翌日も、その翌日も大槻は俺を頼ることをしない。何を聞いても『大丈夫だから』の一言だ。
日に日にいじめがエスカレートしていっているのも分かる、それにつれて大槻が弱っていくのも分かる。
動けない自分が腹ただしい。分かっている、頼られなくても自分から行動を起こせばいいんじゃないかと怪しむ奴もいるかもしれない。俺は人のせいにしているのだ。あいつが頼らないから。どうだから。
本当はすべて終わったあとの結果がどうなっているのかが怖くて進まないだけ。
過去の出来事にすべてを投影してしまって動けない。
これはいい呪いだ。これだけで俺は動けなくなる。
なんて、なんて俺は弱いのだろうか。
見ていることしか出来ない、悔しい。
正直、もういいだろうとか言う考えもよぎっている。相手がどうも言わないならそれで終わりなんだって。
あの告白のあった日、少しは気づいていた。俺と大槻は今後はいつも通りに接することは出来ない、と。
俺は、どうしたらよかったのか。
すべて俺が招いてしまっていたということなのだろうか。
ついに、そしてついに。大槻みろるは学校に姿をあらわすことはなくなった。
彼女の机はポツリと、孤独を表していた。
「………なるほど、な。神坂とかいう奴が噛んでいたか。まぁ、知っていたけどな」
部長はすべてを見透かしてなお話をさせたのだ。
「私なら机に落書きしてきた時点で消えることのない落書きを相手に刻んでやりますけどね」
平然とした声で水原は言う。本気でやりかねんから怖い。
愁兎はというと、ただ俯いたままだった。そんな顔は見たことはなかった。
たぶん、自分が何とか出来ただろうって。そう思っているのだろう。そしてそれにまた後悔している。
でもできないから。俺は昔愁兎に何があったのかは知らないが、大きかったのだろう。
その気持ちは分からなくもない。
「さぁて、……こんなところで後悔したって始まらないだろう? 向かうぞ」
部長はクイッっと親指で外を指した。
「え、この状況で行っちゃうの!? 愁兎のテンション異常に低いよ!?」
何故かわめきだしたのは竜児だった。そういえばこういうシリアスな話になると竜児って苦手だからなのか影が薄くなるよな………。
「行かないと始まらんだろう」
何を言っているんだ、と部長は自然に言ってみせる。確かに行かないとね。
「あんまり遅くなっても迷惑だから行こうよ」
そう促してみる。部長はウィンクを送ってくる。不純だけどドキリとした。
「早く行かないと意味無いだろうがこの馬鹿どもがぁ、という意味ですね。理解しました」
「ちょっ、水原。訳がおかしい!」
「あれ、違いましたか」
微妙にだが、本当に微妙にだが水原は不満、というような表情をしていた。
俺は呆気に取られていた。
「鳴川 春希、どうかしましたか? 馬鹿ですよ」
「んなっ! 今の台詞の馬鹿の後には普通『のよう』とか『みたい』が入るでしょ!」
「おいおい、お前らはどこで盛り上がってんだ。脱線しまくっているぞ」
部長がジト目でこちらを見ていた。そうだそうだ、こんなことしてる場合じゃないんだった。
「とりあえず行くっていう選択肢以外無いからな」
部長はそう言ってカバンを持って部室を後にした。おそらく愁兎は行くと分かっていての行動。
無理には連れ出そうとはせずに、自らで。
もう、流石だな………部長は。
いまだにオロオロしている竜児も部長が出て行ったことで、理解したらしい。らしくない小さなため息をついて、カバンを持つ。
「愁兎、先行ってるよ」
俺はそう促してから部室を後にした。
生徒玄関の前にはすでに部長が待機していて(まぁ、最初に出て行ったから当たり前だが)太陽はもう傾きつつあった。いろんなものが茜色に色づけされている。
「まぁ、全員集合だな。家まではそんなに距離は無いらしいからな。すぐ着くぞ」
振り返ると愁兎は面白くなさそうな顔をして、部長の話を聞いていた。
やっぱり責任みたいなものを感じているのだろうか。
「何ですかその顔は。これから人様の家に向かうんですよ。いつもみたいなアホ顔に戻してください」
酷い言いようだ……。
「分かってるけどよ……」
反抗しない愁兎。重症のレッテル。
「………オロオロ……」
いつまでも駄目な竜児。シリアスが多分唯一の弱点。
「分かったから! お前らうるさい! 家向かえばすべて解決、万事オッケー!」
無理矢理に部長が空気を引き裂く。なかなか進まない展開にイライラしているのかもしれない。
「ぶ、部長。少し落ち着いてください」
「ま、いい。行こうか」
そっこーでスイッチを切り替え、歩き出す部長。心なしか歩みが速い。
みんなはそれについて行くが、愁兎は校舎を見て固まっていた。
「愁兎、どうしたの?」
「いや、なんでもない。行こうぜ」
愁兎が見ていた方向を目で追ってみると、どこかの教室窓からこちらを見ている男子生徒がいた。
顔はよく見えない。学生服でしか判断できなかった。
男子生徒はそこから姿を消した。教室の奥のほうに入っていったのだ。
ぼぉっとしていた俺は我に返って、部長たちを追いかけた。