表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
淡々史記  作者: ンバ
第六十六、伍子胥列伝
208/274

十三〜十五、死人に鞭打ち

13.

始伍員與申包胥為交,員之亡也,謂包胥曰:「我必覆楚。」包胥曰:「我必存之。」及吳兵入郢,伍子胥求昭王。既不得,乃掘楚平王墓,出其尸,鞭之三百,然後已。申包胥亡於山中,使人謂子胥曰:「子之報讎,其以甚乎!吾聞之,人眾者勝天,天定亦能破人。今子故平王之臣,親北面而事之,今至於僇死人,此豈其無天道之極乎!」伍子胥曰:「為我謝申包胥曰,吾日莫途遠,吾故倒行而逆施之。」於是申包胥走秦告急,求救於秦。秦不許。包胥立於秦廷,晝夜哭,七日七夜不絕其聲。秦哀公憐之,曰:「楚雖無道,有臣若是,可無存乎!」乃遣車五百乘救楚擊吳。六月,敗吳兵於稷。會吳王久留楚求昭王,而闔廬弟夫概乃亡歸,自立為王。闔廬聞之,乃釋楚而歸,擊其弟夫概。夫概敗走,遂奔楚。楚昭王見吳有內亂,乃復入郢。封夫概於堂谿,為堂谿氏。楚復與吳戰,敗吳,吳王乃歸。


14.

後二歲,闔廬使太子夫差將兵伐楚,取番。楚懼吳復大來,乃去郢,徙於鄀。當是時,吳以伍子胥、孫武之謀,西破彊楚,北威齊晉,南服越人。


15.

其後四年,孔子相魯。


(訳)

はじめ、伍員は申包胥しんほうしょと親交しており、

伍員は逃亡する際に

申包胥に向かってこう言っていた。


「我は必ずや楚を覆してみせよう」


申包胥は言った。


「我は必ずや楚を保ってみせよう」


ここに呉の兵が郢へと入るに及んで

伍子胥は昭王を求めた。

得られないとなると

かくて楚の平王の墓を掘り起こして

その屍を引っ張り出し、

これを三百発も鞭で打って

然るのちにようやく止んだ。


山中に逃亡していた申包胥は

人を遣わして伍子胥に言った。


あなたの報讐がこうまで甚だしいとは。


吾はこう聞いているぞ、

〝人多ければ天に勝つが

天命が定まれば、また能く人を破る〟と


子はかつて平王の臣下であり

自ら北面して事えていたのに

今になって死人を辱めるに至った。


これは、そうした天道を

無視する事の極みでないと

どうしていえよう」


伍子胥は(使者に)言った。


「我の為に申包胥にこう述べてくれ、


〝吾が日は暮れたが、みちは遠い。

吾は故に逆さまの方向へすすみ

道理に悖る事を行(わざるを得なか)ったのだ〟


こうして申包胥は

秦へと走って急を告げ、

秦に救援を求めたが、

秦は許可しなかった。


申包胥は秦の宮廷に立って

昼夜慟哭し、七日七晩その声は絶えなかった。


秦の哀公は彼を憐れみ、こう言った。


「楚は無道ではあったが、

このような臣下がいるならば

存続せぬことはあるまい」


かくて、車五百を遣わして

楚を救援し、呉を撃った。


六月、呉の兵を稷にて破った。


楚の昭王は呉で内乱が起きたのを見て

そこで再び郢へと入った。


(呉王の弟)夫概は

堂谿に封じられて堂谿氏となった。


楚は再度呉と交戦し、

呉を破ると、呉王はかくて帰還した。


二年後、闔廬は太子の夫差ふさ

兵を率いさせて楚を伐たせ

番(鄱)を取った。


楚は、呉が再び大挙して

来攻することを懼れ、

かくて郢を去り鄀へと移った。


この時に当たって、呉は

伍子胥・孫武の謀によって

西は強楚を破り、

北は斉・晋を威圧し、

南は越の者を帰服させた。


その四年後、孔子が魯の相となった。



(註釈)

●死人を鞭打つ


●日暮れて道遠し


●倒行逆施


この節だけで三つも古事成語が。


遂に楚を打倒した伍子胥。

楚の昭王の消息を尋ねるも

見つからなかったため、

伍子胥は平王の墓を暴いて

遺体を300発鞭で打った。


もと友人の申包胥しんほうしょ

「それはやりすぎだ」と非難。


伍子胥は

「年を取ったのに素志を遂げられていない、

(日暮れて道遠し)だから

道理に悖る行為でもせざるを得なかった」

と返す。


この激烈な気性から、伍子胥は

悲劇の最期を遂げる事になってしまいます。


闔廬の弟、夫概ふがい

兄が越と戦っている隙に

ちゃっかり王として自立。

闔廬は急いで取って返してこれを平定し

敗れた夫概は楚に亡命して

堂谿の食邑を与えられ、

「堂谿氏」と名乗った。


闔廬は、自分も同じような手口で

王位に即いてるから

コレは文句言えないかも……。


また、闔廬の在位中に

あの孔子が魯の宰相に。

次の列伝第七は孔子の弟子たちを

収録した巻になっています。


↓三家注


【人多ければ天に勝つが、天命が定まればまた能く人を破る】

〈【正義】申包胥言聞人衆者雖一時凶暴勝天,及天降其凶,亦破於彊暴之人。〉

正義によると、申包胥が言っているのは

多くの人に聞こえし者が

一時は凶暴(強勢)となって

天に勝るが、天がその禍を降せば

やはり、強暴の人に

破られてしまう、ということである。


【吾が日は暮れたが、みちは遠い。吾は故に逆さまの方向へすすみ、道理に悖る事を行ったのだ(吾故倒行而逆施之)】

〈【索隱】按:倒音丁老反。施音如字。子胥言志在復讎,常恐且死,不遂本心,今幸而報,豈論理乎!譬如人行,前途尚遠,而日勢已莫,其在顛倒疾行,逆理施事,何得責吾順理乎!〉

索隠によると、調べるに

倒の音は丁老の反切。

施の音は字の如くである。

伍子胥が言っているのは、

志は復讐する事にあるものの

常に今にも死にそうになっていて

本心を遂げられぬ事を恐れていた、

今、幸運にも讐に報いられたのに

どうして道理など論じていられよう、

という事である。

人の行いにたとえるなら

前途がなおも遠いのに、日がすでに

暮れてしまっているかのようで、

さかさまになってでも早く進み、

道理にそむいて事を行

(わざるを得なか)ったのだ。

どうして私にたいして

理屈に順え、と責められよう。


【六月、呉の兵を稷にて破った。】

〈【集解】稷丘,地名,在郊外。【索隱】按:左傳作「稷丘」。杜預云「稷丘,地名,在郊外」。〉

稷丘しょくきゅうは地名で、郊外にある。

索隠によると、調べたところ左伝は

「稷丘」と作している。

杜預はいう、

「稷丘は地名で、郊外にある」


なんでも知っとるわぁこの人……。


【夫概は堂谿に封じられて……】

〈【集解】徐廣曰:「在慎縣。」駰案:地理志汝南有吳房縣。應劭曰「夫概奔楚,封於堂谿,本房子國,以封吳,故曰吳房」,然則不得在慎縣也。【正義】案:今豫州吳房縣在州西北九十里。〉

徐広はいう、

「(堂谿は)慎県にある」

裴駰が勘案するに、

地理志では汝南じょなん呉房ごぼう県がある。

応劭おうしょうはいう、

「夫概は楚に奔り、堂谿に封じられた。

本来の房子国であり

以て呉に封じられたので

呉房というのだ」

しからば、すなわち

慎県ではありえないのだ。

正義によると、勘案するに

現在の豫州呉房県は

州の西北九十里にある。


【闔廬は太子の夫差ふさに兵を率いさせて楚を伐たせ、番を取った】

〈【集解】音普寒反,又音婆。【索隱】音普寒反,又音婆。蓋鄱陽也。〉

(番の)音は普寒の反切、

また、音は

索隠によると、音は普寒の反切、

また、音は婆。

恐らくは、鄱陽はようであろう。


【かくて郢を去り鄀へと移った】

〈【集解】楚地,音若。【索隱】音若。鄀,楚地,今闕。〉

(鄀は)楚の地。音はじゃく

索隠によると、音は若。

鄀は楚の地で、今は欠けている。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ