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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

リビラ

篝火になれない

作者: 小林マコト

 うつくしいと持て囃された過去のことは、もう忘れることにしている。

 今だってじゅうぶんに褒め称えてくれる男は数多く存在するけれど、ベラミナは娼婦だ。それも、落ちぶれた。最盛期に比べれば、客も減ったし、歳も取った。


 いつからか、毎朝、鏡の前に座るのが嫌になった。

 今年で、もう三十五になる。街の女たちはもう子どもを育てている歳だ。ベラミナにはもちろん子どもがない。産むはずだった子どもは、いたが。


 新人娼婦のシェリィに起こされ、昼前に目を覚ました。

 シェリィは今日も今日とてバカバカしいくらいに明るい笑顔で、ベラミナの周りをうろちょろする。美人ではないが個性的でかわいらしい、素朴なイモくささの残る、あどけない表情が一周まわって色気に見えなくもない少女だ。


「朝から元気ね」

「何言ってるんですか、ベラ姉さん。もうお昼もとーっくに過ぎちゃってますよ」

「そうね。その呼び方やめて」

「はあい」


 若々しい声だった。とてもかわいらしい、少女だ。

 ベラミナにもこんな時代があった。まだ誰にも体を開いていなくて、自分の将来をよくわかっているつもりで、けれどのんきなままでいられた時代が。


 だが、ベラミナはシェリィのように無垢ではなかった。

 少女らしい少女では、なかった。


 今日も今日とて仕事がある。シェリィに手伝われながら、のろのろと顔を洗い、服を着替え、化粧をした。

 シェリィはベラミナの容姿をよく褒める。髪を梳いている間は、特に。


「あたし、ベラミナさんみたいな大人の女になりたいんです。どうしたらなれるんだろう」

「歳は嫌でも食うんだから、黙って待ってなさい」

「あたしが大人の女性になってるとこ、想像できますか」

「できないわね」

「でしょ。あーあ、ベラミナさんみたいな、男の理想そのものの女になりたいです。そしたら、いっぱいお客さんが来て、いっぱいお金稼げて、こんなところともおさらばできるのに」

「……そんな簡単なもんじゃないわよ」


 そんなに簡単にうまくいくなら、ベラミナはとっくにこんな娼館なんてところから抜け出せているはずだ。


 シェリィにはまだわからない。

 底抜けに明るく、能天気で、頭のどこかが悪いんじゃないかと心配になるくらいの少女に、ベラミナのような行き場を失った娼婦のことはわからない。


 ベラミナは三十五になるが、今でも二十七やそこらで通るくらいの若さと美貌と保っている。化粧をしていなくとも。

 別にサバを読むつもりはないが、実年齢を口にするとあからさまに驚かれ、ちょっと距離を置かれるものだから、自分からわざわざ言うようなことはない。言いたくなる話題でもない。

 客が勝手に勘違いをしてくれるならそれでいいし、若く美しく見られる気分は、悪くない。


 この時代の女にしては珍しく、ベラミナは髪を短く切りそろえている。

 深い茶色の髪の手入れは行き届いているし、伸ばせばいいものをとよく言われるが、ベラミナは今の髪形が気に入っていた。髪が短いと、幼く見える。ほんの少し、気のせいだけれど。


 身支度を済ませると、女将の呼び出しをくらった。

 シェリィを自分の持ち場――彼女の場合は炊事場――に戻らせて、重い足を引きずるように女将の部屋に向かう。


 女将は何か書き物をしていた。

 部屋の中に入ってからコンコンコン、と壁をノックすれば、ちらとこちらに目を向けて、大きく溜め息をつく。


「ノックは入る前にするもんだよ」

「あらそうだったの、勉強になったわ」


 そう返せば、今度は舌打ちをされた。

 ベラミナの態度の悪さは今に始まったことではない。それこそ、この娼館にやってした十二の小娘だった頃から、ベラミナはこんな風に不真面目だ。


 ベラミナがそういう女だと知っているからこそ、女将は表向き厳しくベラミナに接してくる。

 だが決して見放さない。優しくはないが、きちんと働く者を不当に扱うことはしない立派な人だとベラミナは評価していた。憎たらしい女であることは事実だが。


「単刀直入に訊くけど、あんた、いつまでここにいるつもりなのかい」


 女将の目は鋭かった。ごまかすことを決して許さない目だ。


「そんなに嫌われてるとは思わなかったわ。私はこんなに女将のことが好きなのに」


 冗談めかして言えば、やはり女将は厳しい目をやめなかった。けれどベラミナは、こんな風にしか答えられない。


 ベラミナは大人だ。三十五にもなれば当然のこと。

 もうこの程度で傷つくことも、わめき散らすことも許されない。大人の女はそんなことしない。


 女将の言いたいことはわかる。

 もう歳も歳だ。ベラミナのような、娼館を出るタイミングを逃した娼婦に残された道は少ない。

 このままここに居座れば、客がつかなくなればせいぜい行きつく先は雑用か教育係だ。ベラミナは新人教育がうまいわけでもないから、いいところで雑用だろう。


 そんな未来を想像して、おかしくなって笑ってしまった。


「ここの雑用係になれたら最高ね」

「最低に決まってんだろう。花形だったあんたを雑用係に使うなんざ、常連になんて説明すりゃいいんだい」

「適当に言えばいいじゃない。それとも何も言わないか。哀れむんなら買ってくれるでしょう」

「ひねくれんのもいい加減にしな。そんな風だから売れたんだろうけどねえ、そんな風だから客が離れたんだよ。わかってんだろ」

「わかったわ、素直になればいいんでしょう。でもどうやって」

「ああ、もう、埒が明かない。いいかい、ベラミナ。あんたはもう自分を買い取れるくらいの財産はあるんだ。あたしが預かってる分だけでもね。なんで出ていこうとしないんだ。あんたなら、外に出て行ったって強く生きていけるだろ。あんたは頭がいいし、手先だって起用だ。お針子になれるくらいの腕だってある。それなのに……」


 ベラミナは女将の言葉を遮って、落ち着き払った声で言った。


「いいのよ、女将。私、これでいて結構この仕事のことが好きなの。蔑まれようが何されようが、自分が誇りを持てるなら、それだけで立派なお仕事じゃない?」


 半分本心で、半分強がりだった。けれど半分も本心なら、それは真実そう思っていると言ってもいいだろう。ベラミナは、無理やり微笑んだ。


 ベラミナは望んで娼婦になったわけではない。

 大きな戦争に巻き込まれ、両親が死に、孤児になり、食うに困ってこの娼館の戸を叩いた。


 この国の娼婦は、大きく分けて三種類いる。

 位が高い順から、邸娼婦、見世娼婦、街娼婦だ。簡単に言えば高級、中級、下級になる。

 ベラミナは見世娼婦で、その中でもわりと稼ぐ方だった。二年ほど前までは。


 見世娼婦は娼館に所属している娼婦を指す。

 稼ぎのいくらかは娼館に取られるが、娼館を経営するには娼婦たちの定期的な健康診断が義務付けられているため、客が安心して女を買える。

 上流階級も中流階級も利用するものだから、ある程度の収入が見込める。そのため、娼婦のほとんどは見世娼婦になる。


 ベラミナはこの娼館の一番の売れっ子だった。

 多い日には一晩で五人も相手をした。この娼館で一晩に取れる客の上限だ。そんな夜を七日間、過ごしたこともある。


 財産のほとんどは女将に預けていたから、貯まりに貯まっていることだろう。

 小さな家を一軒買って、しばらく働かずに生活できるくらいには。


 しかし、ベラミナはここを出るつもりはない。


「追い出したいなら追い出して。言ってくれたら出ていくわ」


 はあ、と女将が大きな溜め息をつく。苛立ちというよりは呆れだった。

 やれやれと立ち上がり、女将が机の引き出しから何か書類を取り出して、ベラミナに突き出した。


「追い出しはしないよ。居たいだけ居ればいい。……これは無駄になっちまいそうだけど」

「なに、これ」


 受け取って、見れば、それはお針子募集のチラシだった。本気でベラミナをお針子にするつもりだったのか。


 女将も一見、実年齢よりずいぶんと若く見られる年齢不詳の女だが、ベラミナが入った頃の一番人気の娼婦だった。

 さらに言えばベラミナの教育係でもあったから、先代の女将のあとを継いでからも個人的に気にかけてくれている。これも、その一端だ。


 ベラミナが、本当は外でのごく普通の生活を望んでいると、見抜いているから。


 少し泣きそうになって、うつむきがちになる。


「ありがとう」


 絞り出して、向き合っていられなくて逃げるように部屋を出る。

 女将は止めなかった。


 自室に戻れば、窓の外はもうすっかり夜で、なんとなく安堵した。

 結局、ベラミナは夜に生きる女だ。昼は似合わない。どんなに男に望まれなくなったとしても。


 ――違う。男を拒むようになったのは、ベラミナの方だ。


 二年前のあの夜、ベラミナは初めて、年甲斐もなく恋をした。

 ひどい男だった。血塗れで、猫のような黄金の眼をした、鋭く硬い爪を持つ男だった。


 今もベラミナの首には、あの男につけられた傷跡がある。ほんの小さな、よくよく見なければわからないくらいの。けれどベラミナには、それがどうしようもなく愛おしい。


 客を見送るために、外に出た瞬間のことだった。

 その客からもらったタバコを二人でふかし、他愛もない話をして、また来て、なんて甘えて背中を見送った。月の綺麗な夜だった。

 ベラミナは背中が見えなくなるまでは外でタバコを吸っていようと思い、好みとは正反対の味のする煙を吸い続けていた。


 月が雲に隠れた一瞬の出来事だった。

 ギラッと何かが光ったと思ったら、遠くなった背中は地に落ちて、かわりに、そこにあるはずのない噴水ができあがっていた。

 驚いて息を呑む。驚いて駆け寄れば、噴水は止まり、血だまりが生まれていた。


 叫ぶ前に何かがベラミナを地面に叩きつけた。あまりの衝撃に肺の中の空気がすべて抜けて、息ができなくなる。

 首が絞められる。鋭いものが食い込む。顔の間直に、黄金の眼があった。見開かれたそれは獰猛で、邪悪で、けれど、美しかった。


 すぐにわかった。

 自分を襲っている男は、悪の化身ゴードヴェルニだと。


 凄惨な事件を何度も起こしておきながら、たったの一度も捕まらず、その正体すら知られない男。悪魔そのもの。

 四百年前から度々姿を現すことから、かつてどこかの国をたった一人で滅ぼしかけた悪の魔女リーゼヴィットの手下とすら言われている。

 真偽はわからない。事実に尾ひれがついて誇張されている面も確かにあるだろう。けれど、ゴードヴェルニが起こす事件の凄惨さは、言葉にはしきれない。


 自分でもおかしいと思うが――ベラミナはゴードヴェルニがあまりに美しく見えてしまった。

 その眼の奥に、どうしようもない、どこまでも冷たいさみしさがあるように見えたからだ。


 あのとき息ができなくて気を失ってしまったのが、今となってはもったいない。

 目覚めたときには自分の部屋にいて、医者に治療をされたあとだった。


 それから、毎晩、あの眼を思い出すようになった。すべてを壊すような眼を。これまで通りに男を受け止められなくなったのは、あの眼の他に自分を明け渡すのが嫌になったからだ。

 わがままだ。わかっている。この仕事を誇りに思っていると言っているくせに、ちゃんと仕事もできてない。客を選ぶようになったし、接客にも身が入らなくて怒らせては顧客すら失った。


 情けないとは思うものの、どうしても、あの眼にもう一度出会いたかった。


 今夜はあの夜とよく似ている。

 客が訪れる気配もなく、窓を開け、窓枠に座ってタバコに火をつけた。夜風が冷たくて気持ちがいい。

 ベラミナの部屋は三階だから、それなりの高さがあるものの、怖くはない。片足をだらと垂らして、地面を見下ろした。あの眼を持つ男が歩かないだろうか、とありえない期待をしながら。


 娼館の集まったこのあたりでは、夜こそが昼だと言わんばかりの灯りがともされ、女たちも男たちもどこか色づいた仕草に見える。けれど誰もベラミナを気にしない。欲で視野が狭まっているのだろう。


「――変わらないものね わたしたち 冷たい夜のように」


 流行りの歌を口ずさむ。

 ベラミナの娼館の入り口を何人かの男がくぐっていったが、自分の名前が呼ばれることはないだろう。もう、忘れさられた花なのだ、ベラミナは。


 ふと、目を引く男が下を歩いていた。

 ここから見ても背の高い男だ。図体は大きいが、けれどこちらからわかるほど、気弱な空気を背負っている。


 その男だけがベラミナに気づいた。ちょうどベラミナの真下で。目が合う。思わず息を呑む。


 ――よく、似ている。あの夜に見たゴードヴェルニの眼に。


「……待って、行かないで、そこにいて」


 うっかり身を乗り出して叫んでしまった。そんな自分に驚いて、バランスを崩す。きゃ、なんて自分にしては気持ち悪いくらいかわいらしい声が出たが、なんとか持ち直して落下だけは防げた。タバコも落とさずに済んだ。

 男を見れば、その場でベラミナ以上に慌てた様子だった。大丈夫よ、と声をかえればあからさまにほっとした顔をする。


「待ってて、お願い。ちょっと話さない?」

「……僕?」

「あなた以外に誰がいるの。他は相手がいるでしょ。ねえ、今からそっちに行くわ。どこにも行かないでね」


 窓から離れ、灰皿にタバコを押し付ける。姿見の前でちょっと身なりを整えてから、微笑みの練習までして、玄関まで速足で向かう。

 こんなにわくわくするのは、久々のことだった。


 男はちゃんとその場で待っていた。駆け寄ったベラミナにぎょっとする。


「なあに、どこかおかしい?」

「い、いや、おかしくは……」

「……もしかして、娼婦は苦手?」

「苦手、というか。あまり接点がなくて」

「うそ、あなたゴードヴェルニでしょ? 王都一の邪悪、悪魔そのものの。女慣れしてないなんてありえないわ」

「僕がゴードヴェルニ? そんな話どこで……ありえないよ」

「でも……似てるわ。本当に」


 少し色が薄くなっているし、目元がやわらかい印象を受けるが、確かにこの男は、あの夜に見たゴードヴェルニの黄金の眼にそっくりだ。夢で何度も会った。ベラミナが間違うはずがない。


 それでも男は違うと言う。嘘をついているようでもない。焦がれすぎて、ついにおかしくなったのだろうか。泣きたくなった。


「……でも、お願い、ちょっとだけ話をしない? お願い。お金はいらないわ。私、これでも安くないのよ、本当よ、口説いてるわけじゃないの、切羽詰まってるわけでも、余裕がないわけでもないの、お願い、信じて」


 目頭が熱い。本当に情けない。鼻をすすって、笑顔を作ろうとした。

 ごめんなさい人違いだったわ、そう言えばいいだけなのに、言えない。


 男は慌てて、ついベラミナの誘いに頷いてしまった。


「わかった、わかったから、泣かないで……ごめん」

「……ありがとう。来て」


 中に入れば、男を連れてきたベラミナを、玄関にいた全員が驚いた目で見た。雑用をしていたシェリィが近寄ってくる。


「ベラ姉さん、そのひと、お客さんですか?」

「言い方が失礼よ、シェリィ。角のお菓子屋さんの、私が好きなの、買ってきてくれる?」

「ごめんなさい。すぐに買ってきますね」


 素直に謝ったシェリィは、パタパタと用意しに走っていった。

 娼婦たち御用達のその店は、娼館の営業時間に合わせてくれている。少し調子が戻ったベラミナは、男を部屋に入れ、もてなしの準備をする。


「お酒は好き?」

「いや、その……。そんなに」

「そう。じゃあ、お茶にしておいた方がいいわね。今日は少し冷えるわ」


 落ち着かない様子でソファに座る男を微笑ましく思いつつ、丁寧にお茶を淹れて、ミルクと砂糖を一緒に出す。

 ベラミナが隣に座れば、あからさまに男の体に力が入って、緊張している様子がわかる。


「お砂糖とミルクは」

「ああ、そのままで。いりません」

「そう。甘いの、得意じゃないの?」

「お茶に限っては」

「よかった。シェリィが――さっきの子なんだけど。あの子に私の好きなお菓子を持ってきてくれるわ。すぐ来ると思うんだけど。よかったら、食べて」


 言いながら、自分のお茶には砂糖もミルクもたっぷり入れた。こう見えてベラミナは極端な甘党だ。自覚はある。

 やがてシェリィがお菓子を持ってやってきた。上気した頬がとてもかわいらしかった。お駄賃を多めに渡してやって、また男と二人に戻る。


「名前、聞かせて」

「……テリジエ」

「テリジエ。私はベラミナよ。見ての通りの娼婦」

「知ってる。……あ、」

「私を知ってるの? たいして有名でもないのに」


 自分の娼館で一番だっただけで、街一番でもなければたいして有名でもなかった。

 そんなベラミナを知っているということは、実は知り合いだったのだろうか。過去を振り返ってみたものの、一致する人は見つからない。会ったことはないはずだ。

 テリジエが、ゴードヴェルニでないのなら。


 他愛もない話ばかりをした。主に喋っていたのはベラミナで、それはとても珍しいことだった。聞き手の方が得意だと思っていた。それなのに、テリジエの前では、ベラミナはとても饒舌になった。

 緊張の解けたテリジエはずっとベラミナの話を聞いてくれた。ただ穏やかに、静かに聞いてくれた。たまにお菓子を食べたり、お茶を飲んだりしながら、まるで古い友人のように、お互いを身近に感じた。


 気づかないうちに、ベラミナはテリジエの肩を借りて眠ってしまっていたようだ。

 ハッと気づくと空が白み始めていて、慌てて見送りの準備をした。テリジエは一睡もしていないようだったが、少しも眠たそうには見えない。


 玄関先で、初めて本心からテリジエを見送るのが嫌だと思った。客を見送るとき、さみしがる風は装うものの、それはサービスの一環でしかなかったのに。


「あなたが暇なときでいいわ、また会いに来て。私はずっと暇だから」

「……僕なんかが」

「あなただからよ。これは本心。心からそう思ってるわ」

「ありがとう。……夢みたいだ。きみとこうして話せていることが」

「ねえ、私たちどこかで」


 会ったことあるの、と訊きたかったのに、テリジエは曖昧に誤魔化して足早に帰ってしまった。追いたかったが、追えなかった。きっとまた来てくれる、そんな予感がした。


 それからテリジエは、毎晩のようにやってきた。

 ただ話をするだけの関係。娼婦と客ではなく、友人として二人は接していた。


 テリジエはベラミナのことを以前から知っているようだったし、それを認めもしたが、どこで出会ったのかは教えてくれなかった。

 交流が深まるにつれ、ゴードヴェルニとテリジエが同一人物だとはどうしても思えなくなっていった。だんだんと信じたくなくなっていった。


 テリジエは、ゴードヴェルニとは正反対で、とても穏やかで優しい男だ。

 体はとても大きいが、顔は整っているし、虫一匹殺さないようなやわらかな雰囲気を持っている。ベラミナの首に傷跡を残したゴードヴェルニの荒々しさ、邪悪さは感じられない。


 それでも、やはり同じなのだ。

 色はわずかに違う、性格は大きく違う、けれどベラミナの記憶の中のゴードヴェルニと、目の前のテリジエは、あまりに似ている。


 だからベラミナは、初めて娼館の集まるこのあたりを離れた。彼を救ってやるために。娼婦になって初めて、何かを学ぶという行為をした。


 ある夜、テリジエはかわいらしい小さな花を持って、ベラミナのもとへやってきた。

 白くてうすい花弁が、ベラミナの好みそのものだった。


「ありがとう。うれしいわ。でも……私にはかわいすぎるわね」


 少女をとっくに過ぎたベラミナには、ふわふわしたものは似合わない。

 そう言うと、テリジエは珍しくちょっと怒った風に言い返してきた。


「どうして? 僕はきみをかわいらしいと思うよ。甘いものが好きなところも、小さくてかわいらしいものが好きなところも、全部」

「似合わないわよ。私、もうずっと大人よ。年増よ」

「それはどうだっていいんだよ。きみはとてもかわいらしいものが似合う。きみが似合わないと思い込んでいるだけで」

「……ありがとう、テリジエ。あなたは私が望む言葉をくれるのね。私の方がずっと年上なのに」


 私には赤が似合うの、とベラミナはぽつりぽつりと語りだした。

 テリジエの言葉を素直に受け取れない理由を、話すべきだと思った。





 十二で娼婦になると決めたわ。親が死んで、身一つで生きていくにはそれしか方法がないと思ったの。だからここに来た。

 最初は、ある程度の貯金ができたら、さっさと出ていくつもりをしていたわ。だけど、気がついたらもう二十三年も、ここにいるの。


 どうしてかわかる? 私はここ以外での息の吸い方を忘れてしまったからよ。


 同世代の子たちより、私はずっと早く『女らしい女』になった。

 生まれつきそういう風に決まっていたのか、環境がそうさせたのかはわからない。きっと、どっちでもあるんでしょうね。


 とにかく私は『女らしい女』になったの。まだ外の同世代の子たちがキラキラした夢を抱いている時代に。

 私はそんなこと恥ずかしくって、できなかった。冷めた態度を取って、皮肉っぽくて、でも欲を掻き立てる、そんな女を演じた。

 赤が似合うのは好都合だったわ。とっても鮮やかな赤を纏うと、私、すっごく大人っぽくなったの。


 少女たちは私を嗤ったわ。生まれつきの娼婦だと。

 だけど私、あの子たちの眼の中に、私に憧れてる色を見逃せなかった。だからもっと『女』になっていったの。誰よりも早く、『おとなのおんな』になったの。


 どうしてだと思う? 悔しかったからよ。


 生きるために娼婦になると決めたの。身を売ると。

 後悔はひとつもないわ。だからといって、あの子たちがうらやましくなかったわけじゃない。とってもうらやましかった。妬ましかった。

 だから、あの子たちがなりたい魅力的な女を演じたの。バカみたいでしょ。


 気づけばもう私は本当におとなになっていて、少女になんか戻れなくて、でも、本当は、もっと少女だった時代を楽しみたかった。吐き気がするほど甘ったるい夢を見たかった。


 私の中の少女を殺したのは私自身なのに、ずっと後悔してる。

 年取ってからはもっとダメね。若くはなれない。戻れないのに。戻りたくてたまらない。


 娼婦として生きてきたわ。貯金もたんまり。

 でもね、外に出る勇気は、ここに居続けたせいでとっくになくなっちゃったの。貯金ができた頃には、もう。

 外に出たって、娼婦だった過去は消えない。隠しきれる自信もないわ。私こんなだもの、娼婦であることを誇りに思ってるんだもの、きっと「娼婦だった」なんてバカにされたら、相手を殺しちゃうかも。


 それに……外に出たって、今さら、外に出たって、何をして生きればいいの。

 やりたいことも特にないわ。ここは不自由しないもの。ここにいれば、お客が取れる限り、生活はできる。雨風しのげる家がある。

 周りもほとんど娼婦だから、好奇の目で見られることもない。


 でも、やっぱり、出たいとも思うの。


 ここにいる限り、私を知ってる人がいる限り、私はずっと男たちが望む女を演じ続けるわ。

 だから……ゴードヴェルニに惹かれたのは、ここから出してくれると思えたからでしょうね。

 あの荒々しさがあれば、私をここから攫ってくれる。あの眼の奥のさみしさが、私と共鳴したの。


 きっと……彼も私のように、無理やり張り付いた仮面を剥がしてくれる人を探してる。






「ねえ、テリジエ。あなた、ゴードヴェルニでしょう。あの日、私を襲った、あの男でしょう。だから私を知ってるんでしょう」


 私があの日、彼から感じたさみしさは、あなたのものでしょう。


 テリジエは答えなかった。部屋には無音だけが満ちている。

 そっとテリジエの胸にふれて、身をぴったりとくっつけた。テリジエの体は温かかった。けれど、芯は冷えている。

 この冷えはきっとどんなに温かいお茶を飲んでも消えてはくれなくて、孤独が彼を凍り付かせている証明だ。


 顔を見なくてもわかった。テリジエは今、泣いている。そっと抱きしめてやる。徐々に、彼の背負う空気が変わっていく。


 そして。


「――そんなに殺されたいか、女」


 低く、不気味な声が、ベラミナの頭の上から降ってきた。


「久しぶりね、ゴードヴェルニ。……待ちくたびれたわ」

「テリジエの努力を無駄にするなんてな。こいつは、おまえのために俺を抑え込んでたってのに。報われないやつだ」

「ほんと、かわいそうなことをしたわ。でも、いいのよ。あとでうんと甘えさせてあげるから」

「ハッ、これから死ぬやつが」

「あなたに私を殺せるの? うそでしょ」


 私、勉強したのよ、魔法使いに弟子入りしたの。


 ベラミナはばっと顔を上げて、右手で彼の顎をひっつかみ、そのまま自分の唇と彼のそれを重ねた。無理やりこじ開けた口の中に、自分の命を吹き込むつもりで、たくさんの魔法を送り込む。


 テリジエを、悪魔から解放するための魔法を。


 ゴードヴェルニの鋭い爪がベラミナの体のあらゆる部位に傷をつける。首を掴まれ、あの夜よりぐっと深く食い込んだそれは、確実にこちらを殺そうとしていた。


 それでもベラミナは彼を離さない。

 師たる魔法使いに教えられたすべての魔法を使って、テリジエを救おうとした。


 唇を離し、もう一度彼を強く抱きしめながら、とどめの一言を口にする。


「テリジエ、私あなたのこと、好きよ」








 物語は万事うまくいくものだという。

 しかし今も、ベラミナは娼婦を続けていた。ハッピーエンドと言うには少し物足りないかもしれない。


 娼婦を続けてはいるが、客はひとりだけだ。

 図体だけはでかい、中身は穏やかな男だけ。毎晩、道端の小さな花を摘んでやってくるその男は、かつて悪魔と恐れられた男。


 あの夜、ベラミナがテリジエを救った夜。


 結局ベラミナは死にかけたし、ゴードヴェルニにとどめを刺すにはいかなかった。

 今、こうしてベラミナが生きて、テリジエがゴードヴェルニに体をやらずに済んでいるのは、すべてベラミナの師たる魔法使いのおかげだ。


 あの夜の結末は、こうだ。


 ゴードヴェルニの爪がベラミナの喉を切り裂き、ベラミナが床に倒れたとき。

 闇の中から滲み出てくるように、そこにいないはずの、喪服に身を包んだ不気味な女が現れた。

 黒いヴェールで隠された顔はよく見えない。だが、さらされた口元の不敵な弧には、誰もが虜になる不思議な魅力があった。


「馬鹿ねえ、ゴードヴェルニ。あなた、そんなにこの子が気に入ったの?」

「……リーゼヴィット」


 ゴードヴェルニは女に対し、そう呼び掛けた。この黒い女こそ、大魔女リーゼヴィットだったのだ。

 リーゼヴィットは深く魅力的な声で、饒舌に語る。


「残念だけど、この子、私の弟子にしちゃったの。面白い子だから、返してくれる? それに……テリジエ。あなたの今度の体の男。この子があの子のこと好きみたい。だから、あなたはまたしばらく眠ってなさいな」


 そこで魔法を使うのが、魔法使いというものだろう。

 ゴードヴェルニも何かしらの魔法を使ってくるのだろうと警戒した。しかしリーゼヴィットは普通の魔法使いとは一味も二味も違った。


「というわけで、さよなら」


 ゴードヴェルニのみぞおちに一発。物理攻撃だった。


 もちろんただの攻撃ではない。魔法もちゃんと練り込まれている。ゴードヴェルニはその一発で、テリジエの体から追い出された。


 その後、リーゼヴィットはベラミナの傷のひとつひとつを撫で、丁寧に治してやった。完全に息がないわけではなかったのが救いだ。

 一命をとりとめたベラミナは、しばらく寝たきりだったけれど、今はこうして復帰できている。


 リーゼヴィットはベラミナを破門にした。死にかけた罰だ、と。そして師は、どこかに消えてしまった。


 穏やかな日々を暮らしている。何も解決せず、問題は山積みのまま。

 けれど、テリジエがゴードヴェルニとの精神の戦いをせずに済むようになったというのはとてもありがたいことだった。


 毎晩毎晩、話をしに来るテリジエを、ベラミナは呆れたように微笑んで出迎える。


「今日も来たの。……ばかね」



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