第1話
勇くんの冒険譚のはじまりです。
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広くて白い病室、その中で俺は、ベッドに寝ている自分の姿を脇からじっと眺めていた。
血を注ぎ込む管を繋がれた手、頭に何重にも巻きつけられた包帯、首に取り付けられたギプス。そして何より、今まで見たことがないくらいに真っ白な自分の肌を見つめていた。
これから起こることは何となく分かる。すぐそばの機械が示す数字が少しずつ減っていき、最後にはゼロになって動かなくなるんだ。爺ちゃんがそうだったように、これから全く同じことが自分にも起こるんだと疑わなかった。
結月勇、15歳。高校入学という記念すべき日が、どうやら自分の命日になるらしい。
爺ちゃんが人間には魂というものがあると言っていたけれど、今の自分がそういうものなのだろう。肉体から抜け出してしまった魂が、これから動かなくなる自分の体を眺めているのだ。それは視覚的な物とは別に感じる、体と自分とを繋ぐ何か大切な線が時間と共に薄れていく感覚も教えてくれた。俺は後30分もせずに体との繋がりを失い、俺という魂を失った肉体は死を迎える。
俺は手を伸ばし自分の体に触れようとしてみる。だが伸ばした手は体を、どころかベッドも何もかもをすり抜けて空を切った。これで5度目の挑戦だったが、結果は変わらなかった。
「……ふぅー」
ため息を吐く。不思議なもので、魂になったらしい自分の体には五感のような物がある。目が見えるのはこれまでから当然として、音も聞こえるし何となくだが病院の匂いも分かる気がする。自分の手を合わせてみれば触れ合う感覚があるし、唾を飲み込めばねっとりとした感触と、あまりいい気分じゃないが微かに鉄の味がした。
「はぁー」
その場にしゃがみ込む。気分が落ち込むのに合わせてくるぶしくらいまで床に沈んでいた。
「参ったな、本当に」
現状を理解すればするほどに暗くなる。顔に手を当てて現実から逃避しようとしても、時折透き通ってしまう手の先に見える横たわった自分の体に、否応なく現実へと引き戻されてしまう。
「死ぬのかー」
やっちまった、なんて気持ちで胸がいっぱいだ。俺は少なくとも後60年は生きるつもりだった。高校生活をそれなりに満喫して卒業したら親父の家業であるイチゴ農家を継いで、どこかでかわいいお嫁さんを貰って子供を作り、立派に育て上げたら後は気の済むまで農場と向き合って生活し、孫の顔をほどほどに堪能してから天寿を全うする。そんなささやかな人生計画はもう叶えられないのだと思うと、悔恨の念にとらわれるのも仕方のないことだろう。
俺にはもう、未来なんてないのだ。
「衛には……迷惑かけるなぁ。いや、親父と母さんにもだが」
一番の気がかりは弟、衛のことだ。三歳違いの衛は今年から中学一年生、自分の将来に向けてあれこれ考え始める時期だ。音楽が好きだと言っていたあいつには、出来ることなら自由に人生を選択して欲しかったんだが、俺がここで死んでしまうとなると実家のイチゴ農家の継ぎ手になれと両親が言い始めるだろう。あいつは俺と違って大人しい子だから、自分の意見を言い切れないまま無理やりに継がされるかもしれない。変に捻じ曲がってぐれてしまうかもしれない。それは大変によろしくない。衛にとっても、イチゴ農場にとっても。衛には健やかに育って欲しい、お兄ちゃんとして心からそう思う。
「……」
ため息を吐くのにも飽きて、病室の隅っこに座り膝を抱えたまま黙り込む。
そもそもどうしてこうなったのか。朦朧とする頭は自然とそれについて思い出し始めていた。
※ ※ ※
4月8日、入学式。ぴっかぴかの高校一年生になった俺は、県内でそこそこの難しさの公立高校に入る予定だった。去年まで通っていた中学校のすぐ傍にあるこの高校は、学力的にも通いやすさ的にも自分にぴったりの所だった。自転車通学も慣れたもの、俺はその日も元気よくペダルを漕いで高校を目指していた。
割と広めの土地がある家から学校までの道のり、親父は衛とまとめて車で送ってくれると言ってくれたが断っての道中、俺は浮かれていた。春の陽気は暖かかったし、これから新しい環境に飛び込むという根拠のないわくわく感があった。その時は自分が何か特別な存在みたいな気がして、調子のいい鼻歌なんかもつい口ずさんでしまっていた。
住宅街に入り緩やかに下る坂道に差し掛かる。この長い長い坂道を降りればT字路で、県道と交差する。桜通りと呼ばれているそこは歴代の学生達が毎年植え続けた桜の木が並んでいて、この季節に綺麗に咲き誇り新入生を迎えてくれる。そんな桃色の祝福を早く感じ取りたくて、俺は車の通りがないことを言い訳に大きな歩道を外れ、狭い路側帯の中を進んでいた。
前方に一台、自転車が走っている。俺と同じ考えなんだろう、結構な速度を出しながら坂道を下っていく。運転手を見れば去年まで俺が着ていた中学校の制服で、その真新しさからするとどうやら弟と同じ中学一年生のようだった。不慣れな道でもついつい勢いに任せて漕ぎ出してしまう。その気持ちは良く分かる。俺は鼻歌を止め前を行く自転車後輩を温かく見守り始めた。
そんな時間は数分と経たずに終わりを迎える。遠くに坂の終着点、桜通りとのT字路が見えてきたのだ。俺は自転車に小刻みにブレーキを掛け減速を始める。人通りも増し賑やかになってきた周囲の、意識の外にあった雑音が余裕の出来た耳に入り始める。
前を見る。後輩君は思ったよりも先に行っていた。見た限りブレーキを掛けた様子もない。
「……」
テンションが上がり過ぎているのかそもそも知らないのか、T字路に向かって疾走している。
「……ふっ」
繰り返し刻んでいたブレーキはたまたま指から離れていて、足を掛けたペダルはたまたま踏みやすい所にあった。
「んっ」
ハンドルを握り直し、尻を上げて体重を前に掛ける。どうしてだか俺は、それを迷わずに実行していた。理由は本当に分からない。善意とか義務感とかそういったものがあったかもしれないが、少なくともその瞬間、俺は前を行く後輩を止めるべく全力で坂道を漕ぎ出していた。
「っとと、うわ!」
前から慌てる声がする。案の定、気づいた時にはもう遅い。前を行く後輩は坂の終わりを直前にして、歩行者の作る人の波に気を取られ運転を乱してしまった。自転車のブレーキは遅れ、慌てて逃げた歩行者達の間を縫うように進み、そのまま県道へと勢い良く躍り出た。
「ふんっぬ!」
そこに俺は突っ込んでいく。どうしてそこまで覚悟が決まっていたのかは分からない。本当にその瞬間は何も考えていなかった。
後輩の自転車を追って県道に出る。車道を横目に見れば、予想通り自動車がすぐ傍まで接近中だった。突然のことに減速し切れず、ただ甲高いタイヤとアスファルトが擦れる音がする。
「っく、おおおお!!」
俺は利き腕の右で後輩の背中を叩き、道路の向こう側へと押し出す。後輩は押し出されるままに滑り、道路向こうの歩道まで前進する。慌てていてブレーキから手が離れていたのが幸いだったようで、その動きは淀みなく真っ直ぐだった。
後輩を押し出し減速した俺は、ありったけの力を込めてペダルを漕いだ。
「……つぉ!」
火事場の馬鹿力というのは本当にあるんだと思う。俺だって車に轢かれたくはないと一心不乱に踏んだペダルは想像以上の速さで俺を車道から脱出させてくれた。直後、止まりきれずにいた車が真後ろを通過する。この時の俺は完全に事を成し遂げた気でいて、だからその次の瞬間、衝撃音と共に体の自由が奪われてしまった時には、もう全てが手遅れだった。
「えっ」
宙に浮いている。ハンドルを握っていたはずの左手は何も掴んでおらず、飛び上がるままに視界が下を向き、止められない体重移動は直後の落下を予想させた。
受身も取りようがない。投げ出された体は緊張に固まっているせいか何も反応を返さず、俺はただ目の前で移り変わっていく景色を見ることしか出来ない。微かに見えた桜の木の幹と、視界いっぱいに広がる石畳のタイル。そして、
「ッ!!」
何かに叩きつけられた感触と耳にこもる不快な音を聞いて、俺の意識はブツリと途切れたのだった。
※ ※ ※
「……推察は出来る」
後輩を助けて自分も車道から脱出した俺は、そのままの勢いでガードレールに直撃したのだ。加速しようと起こしていた上に片手運転だった不安定な体はその衝撃に耐えきれず、ふわりと浮かんで吹っ飛んでしまったのだ。
「そして歩道のタイルに頭をぶつけて……たぶん首もヤッた」
口の中にある鉄の味は、おそらくそれで喉かどっかを切ったんだろう。受身も取れずに激突したこの体は、後は死に向かってゆっくりと歩き始めたというわけである。
「……はぁー」
記憶を思い出したからかため息を吐くことも思い出した。
「たまたま、だよなぁ」
あの時の俺は何の覚悟を決めたわけでもなく、たまたまあの時自分が自転車を加速させることの出来る条件が揃っていただけだ。それで死ぬ。
「……」
本日二度目のやっちまった感到来である。
「えー」
自分のしでかしてしまったことにただただ呆けてしまう。悲しいとか嫌だとか以前に、あーあーというなんだか良く分からないまま諦観する感じになってしまっていた。
「ん?」
その瞬間、何かがプツンと切れたような感覚を覚えた。直後、機械から不快な音がけたたましく鳴り始める。
「!?」
驚いているのも束の間、部屋に複数のお医者さんと看護師さんが駆け込んでくる。
「患者の容態が急変した?」
「計器チェック! まずい、CPR!」
「控室のご家族を呼んで来て!」
皆一様に慌てた顔で、寝ている俺に一生懸命治療行為をしてくれている。だけど俺はもう、自分が助からないことを察していた。
「繋がりが、消えたもんな」
俺と体を繋ぐ不思議な線の感覚はもうない。いよいよ最期の時が来たんだ。
「ああ、そうだ」
あの機械の名前が心電図だということを思い出した。ビービーと鳴き声を上げ続けるそれは、左上の数字をみるみる減らし……
「頑張って! すぐにお父さん達が来るからね!」
「先生!」
「くっ」
数字が0になったのと同時に、ギザギザしていた線はただ真っ直ぐな横線になった。
「ぐっ、蘇生続けて!」
「はい!」
ああ、この音は聞きたくないな。なんて思ったら、音は自然と何も聞こえなくなっていった。もう見たくないなと思ったら自然と世界は暗い闇の中にいるように真っ暗になった。思う通りになったのか、それとも終わりが近づいてきているのかそれは分からないが、魂がこうして存在するのなら後は天国か地獄か、はたまた世界に溶けてなくなるのか、神様仏様閻魔様のお沙汰を待つしかない。
「イサム」
最初は聞き間違いかと思った。もう聞きたくないと遠ざけていたはずの音が耳に届いたことが信じられなかった。
「ユヅキイサム」
改めて、今度はフルネームで名前を呼ばれたことで、幻聴じゃないと分かった。直後、真っ暗だった世界が再び白に塗り替えられていく。
「誰だ?」
「私だ」
おそらく年上の、妙に色気のある男の声だった。
「まだ眩しいか? 焦らずしばし待て、じき目が慣れる」
思わぬ即答に対応できずにいる間に優しい口調で言われ、俺は言われるがままに従い気持ちを落ち着けて、目が慣れるのを待った。
「どうだ?」
「見え、ます」
真っ白な世界にスーツ姿のイケメンが立っていた。20代半ばくらいだろうか、ワックスできっちり固めた茶髪に縁の黒い眼鏡。いかにもエリートサラリーマン然とした佇まいの凛々しい男性がいる。
「耳を塞ぎ、目を閉じる。そして匂いと味覚、触感を捨てればお前の魂は世界に溶け、消滅していただろう」
やっぱりそうだったか。
「魂を縛り大地と鎖に繋ぐ兆候もなくはなかったが、お前はそうしなかった。死を受け入れていたな?」
「えっと」
「現世に未練はなかったのか?」
そこまで言われてようやくこの人が神様なんだと理解した。
「ユヅキイサム。君は将来父親の農業を継いで、いずれは祖父が色々な野菜を育てていた土地も使って大規模なハウス栽培をしようと考えていたのだろう?」
あ、神様すごい。
「その未来は残念ながら、もう来ることはないのだがな」
「……そう、ですね」
神様に言われてしまった。どうやらここから奇跡の大復活、というわけにはいかないらしい。
「申し訳ない」
「え?」
落ち込みかけたところに突然神様からの謝罪が入った。ご丁寧に90度頭を下げた綺麗な礼までなさっている。
「本来なら、君はその夢に挑戦する権利を有していた」
頭を下げたまま続いた神様の言葉に、俺は困惑していた思考が一気に覚めていくのを感じた。
「どういうことですか?」
「この世界にはある程度定められた運命というものが存在する」
神様は静かに体を起こし、俺と向き合う。
「それはこの世界に存在するあらゆる生命が持ち、その生涯を全うする上での道標となるものだ。生命は運命の導きを受けながら、その上で自らの意思を加味してその生を謳歌する」
「それが俺と何の関わりがあるんですか?」
「少なくとも君は今日死ぬ運命になかった」
予想通りの返事だがショックだった。
「そもそも、君はかの少年を助ける運命ですらなかった。君の前を走っていた自転車の少年はあの時あの場所で事故に遭い、命こそ取り留めるが深い傷を生涯に渡って負う運命だった」
「そうだ、あの子は」
「君の介入により擦り傷と軽い打ち身で済んだ。それによりかの少年は五体満足で残りの人生を過ごすことが可能となった。少なくとも傷を原因とした暗い学生時代を過ごさなくて済むようになった。君のおかげでな」
そう言う神様の声音は嬉しげで、吊られて俺も素直に少年が助かったことを喜べていた。
「そっか、良かった」
「うむ。君は見事に運命のレールから外れてしまったというわけだ」
そうだった。
「命に満ち溢れた世界では稀に起こるのだよ。想像もしないタイミングで、考えもしない動機で、思ってもみないことをする。それもまた生命と意思のなせる業なのかもしれないが、それによって命を落とすというのは例が殆どないパターンだと言えよう」
「そうなんですか?」
どうやらレアケースを引き当ててしまったらしい。その結果がこれなのだったら、間違いなく引いたのは貧乏くじだが。
「……」
「どうしたね?」
「ままならないなぁって」
人を救った。それはきっと世間では誇るべきことなのだろうが、そのために自分の命を代償に支払ってしまった。助けた後輩はより大きな幸せを手にするチャンスを得たかもしれないが、俺の弟、衛は俺が死んでしまったことでこれから余計な苦労をすることになる。
「本当、ままならないなぁって」
「心中察する。私とて君には同情を禁じえない」
言い方こそ淡々としたものだが、神様の言葉からは感情を読み取ることが出来る。今は本気で惜しんでくれているなと伝わってきて、少しだけ救われた気がした。
「そこで、一つ提案があるのだがどうだろう?」
「提案、ですか?」
「ああ」
頷き、神様は俺の目の前まで近づいてきて、眼鏡の向こうの金色の目から真っ直ぐな視線を向けてくる。
「君が本来得るはずだった残りの人生という名の可能性を、異世界で全うする気はないかね?」
「……はい?」
神様の提案は、呑み込むまでに少しだけ時間が必要だった。