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後ろ姿の少年に  作者: 折口学
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 母はこの村がホーケンテキだという。


 ホーケンテキ。


 耳に重苦しくひびき、飲み下そうとすればのどにつかえて息が詰まりそうなこの言葉を、何度、母の口から聞いたことだろう。


「まったくホーケンテキだったらありゃしない」


 だが、当時のわたしにその言葉は難しかった。母が村の何かに腹を立てていることは分かっても、それが何であるかは皆目見当がつかなかった。


 あるとき、母が怒りに青ざめて外から帰って来たことがあった。母は小声だが強い口調で祖母に何か話しかけている。祖母は困ったような顔つきで、ただ「うん、うん」と、苦しそうにうなずいている。二人の穏やかならぬ気配に、わたしは外へ遊びに出るに出られず、仕方なく仕切った襖のかげに身を潜めて二人の話に聞き耳を立てた。


 話はおおよそこういうことだった。


 今日は夕方から村の神社で祭礼がある。その準備に村は朝から大忙しだった。そのため村人も何かの役を受け持たなければならない。神社のまわりの草を刈ったり、落ち葉を掃いたり、道に燈籠を立てたり、近隣の村から祝いを持って来る客の接待をしたりしなければならなかった。そういう仕事が班ごとに割り当てられている。当然わが家にも割り当てがあった。ところがあいにく季節は農繁期である。普通の農家でも忙しいのに人手のないわが家は雑草取りや農作物の取入れが遅れに遅れて、畑から手が離せない。


 一日遅れれば、雑草は伸びほうけ、きゅうりやトマトは熟れ過ぎて市場いちばに出せなくなる。働き者だった父がいた頃にはそんな心配もいらなかったが、母と祖母の二人にとっては気の遠くなりそうな畑の広さである。もちろん父の妹もあれからよく手伝ってはくれている。だがどうにも手が足りない。そこで思い余って、何とか今日の役からはずしてもらえるよう、母は酒を二升持って班長のところへ頼みに出かけたのである。村では共同作業に出られないとき、酒を二升、班長のところへ持っていくのが暗黙の習慣になっていた。


 母の話を聞いたあと、班長をしている六十代の男はこう言ったそうである。


「あんたのうちが大変なのはおれもよく分かっている。こうやってわざわざ酒を持ってきてもらうのもありがてえにはありがてえんだが、なにしろこれで三度目だ。前の草刈のときもそうだったし、その前の稲刈りのときもそうだった。なあに、おれひとりならそれでもかまわねえんだが、まわりのものがよく言わねえ。あんたのとこだけ特別扱いしてるって言うものも出てきてる。父ちゃんがあんなになって、男手がなくて困ってるのは確かによく分かる。でもな、酒さえもってくりゃあいつもうまく収まるってわけにはいかねえ。今日の話は、しかたがねえから聞いたことにする。だが、次からは悪いが酒はもういい。酒はもういいから村のものと同じことをしてもらいてえ。そうすりゃあ、文句を言うものも自然といなくなるべ」


「そんなこと言われたって、どうしたらいいんですか。ただでさえ手が足りなくって困りきってるというのに」


「それはそっちで考えてもらうべ」


「そっちで考えてもらうって、考えようがないからこうやってお願いに来てるんです」


 だがそれ以上母が何を言ってもだめだった。


 悔しいことに村でやっていくには常に人の手を借りなければならない、というよりむしろ常に人に手を貸さなければならない。しかもそれが男手であることが決定的なのだ。


「まったく男手がないだけで、どうしてこれほど肩身の狭い思いをしなくちゃいけないんだろう。こっちだってなにも好き好んで頼んでるわけじゃないんだ。どうにも仕方がないから困って頼みに言ったんじゃないか。酒を持ってくるより、村の仕事に出てもらいたい、だってさ。ばあちゃん、これからいったいどうしたらいいんだろうね。」


 祖母は返事にこまっていた。母は話し続けた。


「父ちゃんさえいてくれれば、こんな思いはしなくてすむのに。いや、父ちゃんのことはもうよそう。だって、言っても仕方のないことだもの。とにかく男手がなきゃ、まともに村づきあいもできないんだからまったくホーケンテキだよ、この村は。ああ、やだ、やだ。ほんとにいやになっちまう」


 母のこの言葉を聞くたび、わたしは何度身の縮む思いをしたことだろう。なぜなら次に母のすることが分かりすぎるほどわかっていたからである。


「まなぶ!まなぶ!どこにいるの?すぐにここに来なさい」


 こういうときの母にはとうてい逆らえない。足がすくみそうになりながら、わたしは恐る恐る母の前に出てかしこまる。普段はやさしい母も、わたしが何をしていようと、また何を考えていようとそんなことにはおかまいなく、ただもう悔しさに駆られて、堰を切ったようにわたしに檄を飛ばすのであった。


「母さんは今、馬鹿にされて帰ってきたんだよ。それもこれもみんな父ちゃんが死んじゃったからなんだ。父ちゃんがいないから、力の要る村の仕事ができない。仕事ができなければ仲間はずれにされて軽く見られる。軽く見られれば冷たくされて馬鹿にされる。あーあ、男手さえありゃあこんなことにはならなかったんだ。お前は男だけどまだ小学生だし、頼りにはできやしない。一人前の男がいさえすれば、こんな惨めな思いはしないですむんだ。いいかい、おまえはこのことをしっかり覚えておくんだよ。そうして一刻も早く一人前の男になるんだ。それからどんなときも馬鹿にされるんじゃない。いいね、まなぶ、分かったね。」


 母は家族に一人前の男がいないことをあいかわらず嘆き続けた。「こんなとき男手があれば」とか「男がいればこんな苦労はしないんだ」とか「男ならこんなことは簡単に決めてくれるんだ」というのが口癖になっていた。そうして結局その言葉の向かう先には、わたしがいたのである。わたしはからだを硬くしてひたすら嵐が吹き過ぎるのを待った。母は一通り言い終えるとぐったりしてそのまま下の畑に草取りに行ってしまう。しばらく一人で草を取っている間に精神のバランスをおそらくは取り戻すようであった。


 ではその場に残されたわたしはいったい何を考えただろうか。正直なところわたしは母の怒りをよく理解できなかった。なぜ男がいなくてはいけないのか。男がいなくても自分で、あるいはほかの誰かがやればいいのではないか。これまでわが家は男手なしでもやってきているではないか。なぜ母はその覚悟が持てないのだろう。男がいなければだめだとはじめから決めてかかる母にわたしは反発を感じた。村がホーケンテキだといいながら、村のホーケンテキな考えに一番とらわれているのは、実は母の方ではないのか。わたしは言葉にこそ出さなかったが、また母の前で言葉に出せるはずもなかったが、いつもこの考えを胸に抱いていた。


 母はわたしに早く一人前の男になれという。わたしは自分が小学生でいることに負い目を感じた。よし、それならこちらにも考えがある。


 こうして小学生でのわたしの目標が決まった。


 早く大人になること。早く大人になって、男がいなければ何もできないなどと母にも村にも決して言わせないこと。


 そしてこの村から出て行くこと。



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