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後ろ姿の少年に  作者: 折口学
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わたしは一歳半のときに、父をなくした。だから父についてはほとんど何も知らない。それが、わたしの人生にいったいどういう意味を持つことになるのか、わたしにはわからなかった。


 とはいえ、日々の暮らしの中で父のいないことを意識することはなかった。一緒に暮らした思い出でもあればべつだが、そしてもちろん、一歳半まで一緒に暮らしたことに間違いはないが、わたしにその記憶はない。ただ、ときどき遊びに行く友だちの家に、たまに父親の姿を見かけるとき、わたしはひどく不思議な気持ちにおそわれた。なぜ友だちの家には父親などという生き物がいるのか。彼らはどこからやって来て、どうしてここにいて、いったい何をしているのか。


 そのなぞを解く鍵は見つからなかった。わたしは彼らの存在をどうしても理解できず、しまいには遠くの星からいつの間にかやってきて住み着いている、うさん臭い異星人だと考えるようになった。だから、遠くからでも彼らの姿が目に入るや、わたしは必要以上に警戒し、いつでも彼らの手から逃れられるように、わき道にさけたり、物陰に隠れたりして、やりすごしたものである。今にして思えば、彼らの目には、わたしのほうこそ、陰気で、かわいげのない異星人と映っていたに違いない。


 わたしが父について知っているのは、わずか二つのことに過ぎない。もっともそのひとつは祖母や母が繰り返し話しているうちに聞き覚えたことである。父がどのようにして亡くなったか、それがいかに無念であったか、そのことを考えれば、おまえ(わたしのこと)がいかにしっかりしなければいけないか、ということだ。だが今は父の死のことだけを話そう。

 

 父は、妹の引越し荷物を車で実家に運ぶ途中、交通事故に遭った。車が大通りで大きなカーブに差し掛かり、スピードを緩めたときのことである。突然、バチッと電気がショートするような音がして車の給油口から炎が上がった。父が乗っていたのはその頃農家がよく使っていたオート三輪という車で、車輪が三つしかなく、安定が悪い。しかも今のオートバイと同じに、またがって乗る。そのまたいだすぐ近くに給油口はあった。そこから炎が上がった。父はあわてたに違いない。だがもっとあわてたのは助手席に乗っていた妹であった。


 妹は火が出るのを見ると恐怖でまっさおになり「あんちゃん、逃げろ」と言うが早いか後先も考えず外に飛び降りた。いくら速度を落としているとはいえ動いている車である。したたかに体を路面に打ち付けごろごろと転がった。しかし、この一瞬が明暗を分けた。妹は軽傷で命拾いをしたのである。父は、火のついた車を止めようと急ブレーキを踏んだらしい。だがハンドルの切り方が悪かった。


 自分が飛び出したほうに車が倒れ、倒れた車から火のついたガソリンが流れ出し、それが服に移って父は火だるまになって路面を転げた。それから誰がどう助けてくれたのかは分からない。全身に大やけどを負った父は病院に運び込まれ七日間苦しんで亡くなった。


 まだ父が病室で苦しんでいた頃、その同じ病院の廊下を、誰も面倒を見ていることのできなくなった一歳半のわたしが、父の苦しみも知らず、だらしなくゆるんだ着物の帯を引きずりながら、よたよたと歩いていたのだという。


 もうひとつの話をしよう。それは、わたしが一度だけ、この目で父を見たということのできる光景である。


 ある雨の日の夕方、わたしは土間の上がり口に腰をかけて、玄関の方を眺めていた。どうも外で遊んで来てここに座ったらしく、足もとに、泥足を洗うためのぬるま湯が、洗面器に用意して置いてある。そのうちにゆっくりと玄関の戸が開く。パナマ帽にレインコート姿の男が入って来る。土間は天井から白熱電球が一つつるしてあるだけで思いのほか暗い。そのうえ男は帽子までかぶっているからそれが誰なのかはまったく分からない。男は音も立てずにわたしのほうに進んでくる。だが、怖いという感じはない。どういうわけか、わたしにはそれが父だとちゃんと分かっているのだ。わたしは好奇の目で男の動きを追う。男はわたしの前まで来ると、静かにしゃがんで、わたしの足を洗い始める。わたしはもう一度男の顔をのぞきたいと思って首を伸ばす。しかし見えるのはいつも雨にぬれた帽子のてっぺんだ。ここでわたしの光景が終わる。


 父という言葉を聞くと、わたしはこの光景を思い出す。くりかえし繰り返し思い出す。人生の始まりに父を失くしたわたしにとって、この光景は父とわたしをつなぐおそらく唯一のものである。だが、だからといって父を必要だとするどんな感情もわたしには湧いて来ない。わたしの心はひどく冷淡だ。父なしで今までやってきたのだからこれからもやっていけるはずだ。だいいち父がいる生活をわたしは想像することすらできないではないか。父などいなくてけっこう。それがわたしの結論だ。


 だがその一方で、少年の頃のわたしは、男は大人になればみんな父親になるものだと思いこんでいた。いずれは自分も父親にならなければならない。わたしは子供から必要とされない無用の大人になって行く自分を、心の中で秘かに恐れた。



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