第6話 黒木悪業と真中中
「真中さん...」
もはや名前を呼ぶことしかできない。それほどまでに呆然としていた。誰にも会わずに帰りたい。そんな思いが一瞬にして霧散して瞬間だった。
悪業の気持ちを知っているクロはずっと笑っている。本当に人の不幸が好きなのだと悪業は腹立たしくてしょうがなくなった。だが、ここで怒るわけにもいかない。
「な、なんで...」
「いやあ...どうしても食べたいお菓子があって...」
バレバレな嘘である。そもそもその程度で外に出ているのなら引きこもりなんてしていない。
真中もかたまっていた。
おさげにしている髪は後ろで1つにまとめており、休日だからか私服を着ている。レギンスにホットパンツ、そして上はセーターのようなもの。暑くないのか、と聞きたくなる。
そしてその隣には真中の友人らしき女の子がにやにやしながらこちらを見ていた。
絶対に何かを勘違いしていることが分かる。
「あっくん...私...私...」
「あーごほん、あたり。私、ちょっと用事が出来てしまいまして」
「え、由愛ちゃん!?」
「そんじゃま、また来週~」
そう言ってそのまま悪業の方へと向かってくる。悪業の方向に出入り口があるので当たり前のことではあるのだが、それでもやはり人に近づかれると緊張してしまう。
「頑張んなよ、黒木くん」
通りすがりにそんな言葉を残してウインクをして去っていく。確実に何か勘違いをしていた。推測が確信に変わった瞬間である。それよりも悪業の苗字を知っていたということは確実に過去の知り合いであるということであり、それは悪業が最も避けていたかった相手だ。
でも...。
(あの感じ...少なくとも同情とか嫌悪とかそういうのはなかった...)
台風のように素早く去っていったからわかりにくかったが、それでも自分に嫌悪のような同情のような感情を向けてくることはなかったように思える。
悪業の恐れていたものの1つとして自分を知っている人が自分にどんな目を向けるのか、というものがあったのだが。いや、まだサンプルは1人しかいないから判断ができない。
「あっくん、ごめんね。由愛ちゃん...色々と思い込みが激しいから...」
謝ってはいるも真中は満更でもない。その様子を見てまたクロは笑うが、悪業は気付いていなかった。そう言われても「い、いや...大丈夫...」としか返せない。
しかしそのおかげで一瞬間が訪れた。今しかない。ここで「じゃあ、そういうことでまた...」と帰ろうとしたのだが、その行動はキャンセルされた。
具体的に言うと鞄を掴まれたのである。
「あ、あの...!せっかくだし...話していかない...?」
悪業は押しに弱かった。
クロは大賛成(恐らくカフェを見てみたかったのだろう)ということでちょうど近くにあったカフェに行くことにした。何やら真中の情報によるとここのポテトはおいしくないらしく、2人とも飲み物だけを頼んで席へと着く。
注文の時には不慣れな悪業に対して真中がまるで母親かのように色々と教えてくれたものだったが、こうして改めて向き合って座ると言葉が出てこない。
いつも悪業宅に行くとなんやかんや話が弾むことが多いのだが、その時は善行もいる。常に3人でいることが多かったためこうして2人の時に何を話すべきか迷ってしまうのだ。
もちろん悪業には話すようなことなど何もない。強いて言えばこの手元にある護符を父に渡してしまいたいという話をしたいのだが、父には相変わらず連絡が取れず、真中に話しても意味がないことだ。
(それにこいつが普通の護符のふりをしやがったら...とうとうおかしくなったと思われる)
一度速水に見せようとしたときに消えたように、見た目はただの護符、しゃべらず動かなければただの護符にしか見えないのだ。どうにも黒木の屋敷に帰りたくないクロは人目につくのを嫌う傾向があった。
どうしたもんかと気付けばクロのことで悩んでいた悪業。真中はそれに気付かず口を開いた。
「な、なんか改まってこうなると...照れるね...」
「う、うん...」
間が持たなかった。
そもそも会話下手な悪業。こんな状況と言うこともありさらに言葉が出てこなかった。今まで会話の最初をどれほど真中や善行に任していたのかが分かってしまう。
そしてそれが分かっていたとしてもそれを変えるために動くような男では、なくなっているのだ。
「と、とりあえず元気そうでよかった」
「あ、ありがとう...そういう真中さんも元気そうで何より...」
「ありがと...えっと......なんか雰囲気変わった?」
変わった、というか単に会話するようになった、護符と。
今までは部屋にいても1人で何もせず、訪れてくれた人と話すときもそれを引きずって話していた。しかし今は違う。本当に呆れるくらいどうしようもなくて、耳をふさぎたくなるほどうるさい同居人がいるのだ。今もそいつは鞄の中で騒いでいる。
「そう...かな...」
「うん、そうだよ。ほんと...ほんとに心配したんだから...」
「真中...さん...」
安堵した表情を見せる真中。それは本当に悪業のことを心配してくれていたことがわかった。鈍感な悪業でもそれはわかる。これは裏表のない言葉だということが。
だから悪業にできることは謝ることしかない。
「ごめん...」
そういうしかないのだ。
「謝らないで...そ、それに心配してたのは善くんもだし」
急に恥ずかしくなったのかそう付け加える真中。
善行。悪業と同じく母親を亡くし、そして父親を亡くした幼馴染。さらに悪業は善行の陽山師という道を諦めた経緯も知っている。単純に計算することはできないけど、きっと悪業より辛い境遇にある男。
悪業はそんな幼馴染の1人が自分にどのような目を向けているのかが気になっていた。侮蔑か呆れか。自分より恵まれた境遇でなぜここまで弱くなれる、と。
「善くんが......」
薄々はわかっていた。あんなに何度も悪業の家に訪れてくれる、あんなにやさしい幼馴染がそんなこと思っているはずがない、と。それはきっと善行の優しさに甘えた行為だ。それでもそう思わざるを得なくなる。善行に甘えるという行為は善行を信じることと繋がっている。
この甘えはきっと悪くないもの、そう考えてしまうのはいけないことだろうか。
『つーかよォ・・・なんでてめえらの親は死んだんだ?』
相変わらず言葉を選ばないセリフに思わず返事をしそうになるが、真中の前だ。それは我慢。
きっかけは1年と少し前にあった大災厄だ。この街に最も近い霊脈がある霊山を狙った強大な災厄が起こした大災厄。黒木と白木のエリートたちが集まっても勝つことは難しく、力は圧倒的に負けていた。
その災厄は狐のような狼のような姿をしており、爪はすべてを裂き、尾で殴られた者は粉砕され、吐く炎で燃やし尽くされる。
中でも恐ろしかったのが「絶炎」という炎だ。悪業の母を奪った攻撃でもある。圧倒的密度で放射される霊力の炎。普通霊力で出来たものは現実世界にあるものに影響を与えないため、見た目が炎でも熱さを感じることすらなくただの幻で終わる。
しかしその大災厄の炎は違った。どんなものだろうと燃やし尽くし、それを防げる手段などなく、回避することさえできない。
その時は悪性、悪業の父がいたため、なんとか防げていたが、それでもすべてを止めることはできず、その炎で亡くなった陽山師の人間はたくさんいた。悪性が最も得意とする回避の護符ですら完璧には防ぎきれない。ならばこの世で完璧に防げる人間などいない、そう言われていた。
さらには瘴気。その瘴気は人間を侵し、霊力を暴走させる。無理矢理瘴気によってその災厄の霊力を流し込み、強大な霊力に人間は耐えることができなくなるわけだ。普段人間の体には関係のない霊力ではあるが、その瘴気により暴走させられると体調を崩し、そのまま寝込んでしまい、やがて死に至るとさえされている。
結局は決死の覚悟で災厄の動きを止め、捕縛することに成功。黒木得意の捕縛術と封印術で大災厄を封印することができた。しかし、めでたしめでたしとはいかず、かなりの犠牲を出してしまったその戦いは戒めも込めて『禍津』と呼ばれていた。
(というわけなんだ...ってあれ...)
『あァ?どうしたよ』
(クロと会話できてる...?)
心の中で思ったことがクロまで伝わっていることに気付く悪業。少し気付くのが遅すぎたみたいだが、クロはこう答えた。
『俺の声をお前にしか聞こえなくできるんだ、お前の心で考えたことを霊力で感じ取り、会話するぐらい簡単だろ』
(いや、簡単なわけないでしょ...というか先に言ってよ...)
少なくともそんなことができるやつを見たことはない。
悪業にしか聞こえない声、というものもそうだ。災厄と話したことなんてなかったからわからないが、これが災厄の普通なのかもしれない。
(ていうか確か黒の禍津って言ってたよね...もしかしてなんだけど...とても嫌な予感がするんだ...)
『俺がその大災厄を起こした災厄ってことか?さァなァ・・・記憶がねえからわかんねえわ』
だとしたらそんなお茶目で許されるほどのことではないのだが、どうしてか分からないけれど、悪業はまあ、ならいいか、と思ってしまう。
今もそして前の時もそうだ。引きこもった理由を話してしまった時も必要以上に話してしまった気がする。なんだか分からないけれど話しやすく、そしてどこかこいつの言葉に安心してしまうのだ。
(ま、護符相手だからテキトーでもいいって思ってるのかもしれないが...)
そこまで考えたところでふと気付く。自分でも信じられないほどに長考してしまったことに。真中のことを失念していた。絶対に怒らせてしまった、そう思う。
真中はなんだか大人しい感じにみられることが多いが、小さいときは自分よりも強い相手に食い掛かるほどやんちゃな性格で怒らせたら手が付けられないのだ。
おそるおそる前見るとしかし、そこにあったのは笑顔だった。
「なんか今あっくん楽しそうだった」
「た、楽しそう...」
「うん、なんか話し相手が見つかって思わずたくさん話しちゃったみたいな、そんな感じがする」
めちゃくちゃ鋭かった。
感情が詳しく顔に出るタイプなのかと自分を疑ってしまうほどに。このまま勘付かれるとまずいので慌てて話題を変えようとするが、やはり咄嗟に話題が出せるほど会話慣れしていないのだ。
ちょうどその時、悪業と真中が座っている席の隣を三人の子供が通っていく。楽しいのか三人とも笑顔で何やら話しながらどこかへ去っていった。
悪業も真中も思わずそれに見入ってしまう。
失われたものがそこにはあった。
「なんか懐かしいね」
「うん」
「私たちが初めて会った日、覚えてる?」
何月の何日だったか、なんて覚えていない。だからこの間この2人が来たときもなんのお祝いか分からなかったのだ。しかし、出会った日、何があったかは覚えている。
「善くんは今と同じようにやさしくて、あっくんはすっごいかっこよかった」
「すっごいって...」
脚色しすぎだ。
善行は本当にあの頃から変わっていない。自分のことより他人のこと優先で、困っている人がいたら手を差し伸べる。今の悪業にも昔と変わらずに接してくれている。少しぐらい自分のことを考えてくれと言いたくなるような、そんな幼馴染。
対して悪業は変わり過ぎていた。というより変わり果てていた、というべきか。
「真中さんもあれからなんも変わってないよね」
「そう?」
「うん、怒ったら怖いとことか」
「そ、そんなに怖い...?」
悪業の言葉にショックを受けたのか、自分の顔をうにうにと触る。別に怖い顔をしていると言ったのではなく、怒ると全体的に怖い、怒りオーラみたいなものを発しているという意味で言ったのだが。
こういう少し抜けているところも変わっていない。そして、善行と同じく、優しいところも。
「あとは無謀なことにも挑戦するところとか」
「無謀...」
「あの時だって真中さん、自分より体の大きい上級生に挑みかかってたでしょ。ああいう危なっかしいとことか全然変わってないと思う」
悪業の家に遊びにきた2人はよくお互いのエピソードを教えてくれる。善行がめちゃくちゃモテてるとか、真中が納得のいかないことがあったら納得するまで挑みかかったりとか。
そんな話が悪業は好きだったのかもしれない。変わっていない2人を知ることができる話が。
「と・い・う・か」
真中が強調して悪業に言う。
「なんか善くんもあっくんも私によそよそしくない?昔はあたりちゃんって呼んでくれてたのに今だと真中さんだし...2人はあっくん善くんって呼び合ってるのに...」
「え...」
「善くんに理由を聞いても教えてくれないし、すごい疎外感を感じるの!」
「い、いやあ...」
言えない。
こうして成長した結果、なんか変に意識してしまい、異性である真中のことを名前で呼ぶのが恥ずかしくなったなんて口が裂けても言えない。それに言われた方だって恥ずかしいだろう。
どうしてもこのぐらいの年頃になるとそういうのが憚られる時期が来てしまうのだ。名前で呼ぶとからかわれるかもしれない。親しくしていると恥ずかしい。
よくよく考えてみれば学校に行っている善行ならまだしも常に1人の悪業に関しては特にまわりの目線を気にすることはないのだが、いつだったか急に善行が真中さんと呼びだしたときに悪業も変えた。
その時の真中の慌てってぷりは今思い出しても面白いと意地悪く思うのだった。
「別に真中さんを仲間はずれ~とかじゃなくて...こう...なんか高校とかでみんな苗字とかで呼ぶでしょ?その流れに便乗?みたいな」
「あっくん学校行ってないじゃん」
「はい...」
ぐうの音も出なかった。
「なんかやっぱり男の子にしか分からない世界なのかな~って」
「うーん...あながち間違ってはいないんだけど...」
男の世界なんて仰々しいものじゃなくてもっと簡単な思春期という言葉で片付くことではあるのだが、それを言うのもやはり恥ずかしい。
というか女の子は同じように恥ずかしくなったりしないんだろうか、悪業が気にしすぎなだけなのだろうか。これに関する悩みは尽きない。
ふとそこまで話していて結構な時間が経過していたことに気付く。
真中もちょうど飲み物を飲み終わったらしく、カフェを出ることにした。会計をすまして、外に出るとまだ気温は高く、お昼という時間帯はもう終わりそうなのにまだまだ下がる気がしない。
外に出るまでに「なにその恰好?」「服ないなら買ってきてあげようか?」などと真中に言われたが遠慮しておいた。本当に世話焼きで母親みたいなことを言う子だ。
「私はたぶん暇してる由愛...ってさっきの子、探さなきゃいけないからこれで」
「うん、僕も帰るよ」
「あの...また出かけようね。あ、えっと...3人とかで」
別に今日も真中とでかけたわけではないのだが、ここで「いいえ」と答えるほどさすがに空気が読めないわけではない。本当にそんな機会が来るのかどうかは分からないが、一応「うん」と頷いておいた。
それを見て満足そうに手を振りながら真中は友人を探しに出かけたのだった。
「ん?」
一瞬。本当に一瞬だ。なにやら真中の手に平に痣のようなものが見えた気がしたが、さすがに少し離れた距離だ。いくら目が悪くないと言っても見間違いの可能性が高い。それにもし痣だったとしてもそれはきっとどこかにぶつけただけなのだろう。本人がなんともなさそうだし、悪業が余計な心配をする必要はない。
姿が見えなくなって悪業は軽いため息をついた。久々にあんなに話したかもしれない、しかも外で。さすがに疲れた。悪業は鞄を開き、先ほどまでうるさかった護符に頭の中で話しかける。
(クロ)
『お前、ほんとクロって呼ぶのやめろっつーの!俺が何も言わないからってそれを肯定と受け取るんじゃねえ!面倒なんだよいちいち否定するのが!』
(なんかさっきまでやけに静かだったけどどうしたの...?)
『寝てたんだよ!!』
(災厄って寝るの...?)
『そりゃ寝るだろうよ、記憶がないからわかんねえけど。俺も知識でしか知らないが何やら災厄は動物の姿をしているんだろ?だったら動物と同じく寝るんじゃねえの?』
雑な理由だった。
ちなみに災厄が動物の姿をしているのは色々と解釈がある。一番有力なのは、今いる動物たちよりもはやくその姿をしていた説。つまり災厄が動物の姿をしているのではなく、動物が災厄の姿をしていると言った方がいいと考える説だ。
災厄は大昔から存在するもので黒木や白木の歴史もそこから始まる。もしかしたら今の動物の姿が完成する前からいたのではないだろうか、と考えることは突飛な思考ではないのだ。
帰り道は行くときよりも気楽だ。
気になるのは悪意が帰ってきているかどうかだが、さすがに夕方にもなっていない時間帯、帰ってきていることはないだろう。また暑い中、マスクをつけるのはとても億劫ではあるが。
『ま、なんにせよよかったんじゃねえの。あいつと話せてよ』
「真中さんと?」
すでに住宅街。ここらへんに来ると人は少ないため、普通に声で会話をする。まだ帰宅時間にしてははやすぎるからか道には人が1人もいなかった。
公園からはさすがに子供の騒ぎ声が聞こえるが、近くを通らなければいいだろう。
『お前と会ってまだ少ししか経ってねえけどよ、ほんとお前は気が付けばウジウジウジウジウジウジしやがってこっちも滅入るっつーの』
珍しく心配してくれたのかと思ったらそうではなかった。
悪業も別にそれを期待していたわけではないので「そっか」と呟いておいた。もう飽きてしまったのかクロは行く時ほどしゃべらない。
クロに言われなければ今日外出をすることもできず、先ほどのように幼馴染の気持ちを確かめることもできなかっただろう。また1人で悩んで終わり。それを崩したのは癪ではあるもののクロだった。
アクティブなクロが悪業の行動を変えた。
それはきっと悪いことばかりではない。悪業はもう外出したくないと思っているが、それでも今日という日が悪い日でなかったことにしたいとは思えない。
「ま、君の我が儘に付き合っただけだからね」
『あ?なんだ急に』
お礼は言わない。
でも、少しだけ、本当に少しだけこいつがいてよかったと思える何かが今日はあった。
「帰りは騒がないんだね」
そう思ってしまった照れ隠しかそれとも意地悪か、少し笑いながらクロに指摘する。『俺がいつも騒いでるみてえな言い方はやめろ!』と言われるだろうな、と考えながらのことではあったが、しかし返ってきた言葉は全く想像していないものだった。
『......なんつーか、見入ってた』
クロはぽつぽつと語りだす。
『俺にゃあ記憶がないからな。あるのはずっと暗い場所に閉じ込められていた記憶だけだ。記憶がねえから当たり前なんだが、この世はこんなに暗くて何もないもんなのかよ、って思ってたんだよ』
記憶がなく、気付けば暗闇。そして拘束。
それが世界のすべてでこんなに明るくて人が多い場所があるなんて思わなかったのだろう。きっと先ほどの真中の会話中に寝ていたというのも嘘だ。見入っていたのである、喧噪と光景に。
それは悪業も同情してしまう境遇だった。災厄なのだから当たり前。それで片づけていいものなのだろうか。そもそもクロは何をした災厄なのか。なぜ封印されていたのか。
そしてどうしてこんなに話しやすいのか。父親に電話が繋がらないなんて理由で後回しにしているクロの預かり先だが、連絡しようと思えば父以外にもできる人間がいる。
速水は信じてくれなかったが、例えば悪意。彼女は悪業にも優しく、悪業の言うことは全て信じるぐらいに家族を愛している人だ。
また知識があまり多くないため、自分の知らないことがある、と思ってくれているのが大きい。速水のように知識を詰め込んでしまえば、自分の知識に該当しないものはすべてないものと扱われるかもしれない。
そんな悪意にさえ相談しないのは悪業が実はクロと離れたくないからではないのか。そんなことはない、きっと話し相手が減ることが寂しいのだ。しかし、そう思っている段階で少なくとも好意的に思っているということではないだろうか、とも考える。
この感情の正体はよくわからない。
それでも。
「これからもっとたくさんの景色を見ることができるよ、きっと」
気が向いたら。
また一緒に出掛けよう。
少し歩くとすぐに家に着く。住宅街近くのスーパーの利点である。
家に入るとやはり誰もいない。安堵して2階へ上がる。着た服は悪意にバレないように選択しなくては、などと色々と考えながら自分の部屋のドアを開くと。
「よ」
飄々とした態度で速水がいた。
「な、なんで...鍵は閉めていったのに...」
自分の城でもある部屋に入られたことでショックを受ける悪業。ここは無敵の要塞のはずなのに...というかそもそも鍵が閉まっててなんで家の中に入れたのか。
「俺ぐらいになると窓を蹴破って侵入することも容易いのさ」
「犯罪ですよねそれ」
冗談冗談、と少しおどけてみせる。どうせ悪意から鍵を借りたのだろう。母が亡くなってからこの家の鍵は1つあまっており、こうして時々スペアみたいな使い方で使われる。
知っている顔とはいえ、簡単に鍵を渡した悪意に対して呆れながらも速水を見る。
「別になんもしてねーよ。お前に用事があるだけだ」
「ウォーミングアップなら今日はやりませんよ。というか普段から断ってるんですが...。今日はもう外出して疲れたので」
「外出ねえ...」
速水は少し考える。
考えるふりかもしれない。この人はそういうのが得意なのだ。
「用事は簡単。これが終わればすぐに帰る」
速水は立ち上がり、ゆっくりと用件を述べた。
「黒の禍津を回収しにきた」
そう悪業に伝えたのだった。
よろしくお願いします。