「雪国トーキョー」
「まって、まって」
後ろから走ってきたユカリをタケオはふり返った。
「なにあせってるんだ?」
「だって、溶けちゃう。私、雪、知らないし」
ユカリは、初めて見る雪を両手ですくい上げながら、真っ直ぐにタケオに向かって差し出した。それからその雪を空に向かってまいた。傘もささずにはしゃいでる彼女の頭や肩は降り注ぐ雪がついては溶けてを繰り返しべちゃべちゃになっていた。タケオはポケットからハンカチを出してひょいと彼女の頭に載せた。
「きゃ。ありがと」
濡れたところをハンカチで拭くユカリを傘の中に入れると、タケオは辺りをぐるっと見渡した。そこにはめったに雪が降らない場所の白い光景がタケオの目に映った。
「ねぇ、雪って不思議よね」
ユカリは肩の上をハンカチでぽんぽんと軽く叩きながら、下を向いた。
「なんで」
タケオが、無関心に返事した。
「だって、雪って空から落ちてくるのよね」
タケオは、訳がわからない表情をユカリに向けた。ユカリはそれを見て自分が何か変なことを言ったのだろうかと、訝しげにタケオの顔を覗いた。ふーとため息をついたタケオは、そんな彼女をじっと見つめて説明を始めた。
「いいか。雪ってのは、雨が空の上の方で姿を変えたものなんだよ。だから空から降ってくるんだ」
眉間に皺を寄せながら、ユカリは
「うーん」
と唸った。そして、
「わかんない!」
と、一言だけタケオに投げつけた。ユカリは期待に反してタケオがそれ以上何も言わないのに満足できない表情を作っていた。しかし目頭をちょっとだけ上にピクっと上げるとぱっと切り替えたように笑顔になった。
「いいわ。そう言うことに、しといてあげる」
彼女はそう言うと、傘を片手に握って自分を見下ろしているタケオにハンカチを差し出した。二人はそれから、雪が落ちてくる軌道を目で追いながら低く下がった靄の中にその先端を突き入れて、今は訪れる人もいない電波塔を見上げた。それは灰色の空にまるで突き刺さったかのように建っていて、人類同士が争い廃墟と化した場所の中でここが唯一トーキョーだった証として存在していた。
「あそこからだと」
ポツリと、ユカリがまた何かを閃いたように、喋り始めた。
「ん」
タケオは、ユカリが何を言いたいのか今度は分かっているような気がしていた。だから黙って彼女の続ける言葉を待った。
「落ちていくところが見えるのかしら」
ユカリはそっと、タケオの左手に自分の右手を添えた。
「たぶん」
「みてみたいなぁ」
タケオは、自分の左手を握る彼女の右手にぎゅっと力が入ったのを感じていた。
「行ってってみるか」
「うん」
2200年。人類の科学力はとうとう人型ロボット、つまりアンドロイドを作りだした。彼らは人間と共存することが最初から許され、ロボット三原則に従う限りその行動を制限されることはなかった。なぜなら彼らには思考する意識があったからである。つまりアンドロイドは人間の友人として存在していた。しかし、人間の中にはそれを不満とする者たちが少数であるが現れ、アンドロイドは人間の奴隷としてのみその存在を許されるべきだと主張し始めた。ニホンはどちらかと言うと、アンドロイドの発祥の地であることが最大の理由であるが、友人としていや、仲間としての扱いを続けることを国民の意思として採決していた。そして2202年の春、ニホンに向かってある国から一発のミサイルが発射された。それが全世界を巻き込む、アンドロイド戦争の始まりだった。しかし、安保条約を結んでいる大国の軍事力を加えたニホンからの反撃には、それらの国は黙っていることしか残されていなかった。それでもニホンにおいては、首都機能をトーキョーで存続させることが不可能になるほどの打撃を受け、一時復興することをあきらめたニホン政府はアンドロイドたちを残してその機能を西へ移しトーキョーを放棄した。アンドロイド戦争は短期で終結したのである。タケオとユカリは戦争が始まる直前に作られ、仕事を一緒にしていたアンドロイド。そんな二人の活躍の場も今はなく本来の役目を失った二人は、ただ目的もなくかつてはトーキョーだった街の中で暮らしていた。そして人間がいなくなってからの最初の冬の季節、二人の上に雪が降った。
外階段の上り口に、降り積もった雪がそのままの状態であるの見て、またユカリはきゃっきゃと言い始めた。展望台への入り口のドアは開けっ放しで、そこから二人は中に入って行った。中は薄暗くかつては強化ガラスがはめ込まれていたはずの大きな展望窓枠からは、さっき見上げた空と同じ色の光がそこで落ちるのを止めた雪と一緒に差し込んでいた。
「わぁ。ここにも雪がいっぱい」
ユカリは小走りで展望窓枠に近づいて行った。タケオも後に続いた。彼女が窓枠の縁に両手をついた時タケオはその腰に両腕を伸ばして言った。
「落ちるぞ」
ユカリは、ちょこんと頭だけを出してそこから下を覗いた。
「うん。分かってる・・・よ」
そこには、ユカリがはじめて見る光景が広がっていた。ひらひらと上から降ってくる雪が、自分の目の高さを通りすぎ足元も通りすぎて、何もかも真っ白なただの面に多くの仲間とともにずっと向こうまで広がり落ちていた。音は無くその静けさの中にユカリは引き込まれていった。白い色をした雨。いや、これが本当にタケオが言っていた雨と同じものなんだろうか。一つ、一つがゆらゆらと踊り互いに周りを回りながら落ちてゆく。そのとき夏の日に見た二匹の白い蝶が彼女の頭の中ではためいた。やがて彼女はゆっくりと頭を上げて振り向くと、タケオに視線を移した。
「何か見えたか」
カオリは、タケオの質問には答えずタケオの足元を見ながら呟いた。
「タケオ。わたしここで見たこと忘れちゃうのかなぁ。せっかく今見たこと」
「ふつうはそうだな」
「そしたら、忘れたくないな。一つだけ持っている思い出が見えたの。何かを見て何かを思い出すって、とっても素敵!」
アンドロイドたちは、限られた短い間ともう一つの場合を除いて、作られたときに埋め込まれた記憶以外のこと、つまり新たに記憶するということが出来なかった。それは生物ではない彼らの宿命であり、彼らを誕生させた人間にもどうしようもなかった。記憶をとどめておくことが出来る時間は一時間が限度だったがタケオとカオリは一緒に行動する限りお互いを忘れることが無かった。そしてもう一つの場合とは、意図的に記憶することができることだった。たった一つだけ自分が残しておきたいと思った記憶だけを。
「おまえ、その記憶と今見た景色の記憶を置き換えればいいじゃないか。そうしたら残しておけるぞ」
タケオの言った言葉が、カオリを少しだけ困らせたようだった。
「うーん。うーんんんん。うーん。だめ。そんなこと言うタケオはさぁ、一つだけの思い出って持ってるの?」
今度は、カオリの言葉が、タケオを困らす。
「・・・いや、俺は持ってない」
カオリの表情がいたずらっぽく、輝いた。
「ほんとー!それならカオリのために、この景色を記憶して!お願い!」
まるで、人間の子供のように彼女はタケオの周りをぴょんぴょんと跳ねながら回った。
「ね、ね。お願い。後でわたしが雪ってどうだっけって聞いたときに、この景色を教えて。ね、お願い」
カオリはお願いで始まり、お願いで終わるせりふを何度も何度もタケオに言った。
「わかった、わかった。じゃあ、俺もそこから覗いてみるから」
それを聞いてカオリはタケオの腕をつかみ、さっきまで自分が立っていた場所にタケオを立たせそれから彼の横に並んでまた外を眺めた。
「どう。凄いでしょ」
タケオはカオリが言った意味を最初は理解できなかった。しかし次第に目の前に広がる景色に惹かれて、そしてもっとその何かを確かめようと窓枠から身を乗り出したとき、両腕を置いていた所が鈍く低い音をたてて崩れ落ちた。雪に集中していたタケオは一瞬そのことに気が付くのが遅れバランスを失って前のめりに落ち始めたときには、やっとカオリのほうに振り向くのが精一杯だった。彼女のほうに伸ばした腕が宙を切ってくるくると回った。そんなタケオを笑顔で見つめているカオリを見てタケオは真っ直ぐに、白一面に向かって落ちて行った。
「・・・タケオ?どこに行ったの?雪みたいに降りて行ったの?」
カオリはタケオが落ちた場所をじっと見つめていた。タケオの姿が見えなくなったことに、特別な驚きはカオリの表情には表れなかった。アンドロイドには、突発的な出来事に驚くという感情はインプットされていなかった。だから彼女はこう言うしかなかった。
「タケオ。私・・・ここで待ってるから。早く戻ってきて」
カオリは視線を窓の外に向けじっと立っていた。十分、二十分、そして一時間過ぎたころ、日が沈むのを見てカオリは思い出したように入ってきた扉を抜けて上ってきた階段を今度は下へと降りていった。その時にはもう雪は降っていなかったが、二人の足跡はすっかり消されてカオリは自分がタケオと一緒だったことなど微塵も無いほど思つかなかった。彼女はタケオを忘れた。足跡と一緒に。
「ソコノアナタ。コレニ、ミオボエハナイカ」
カオリが下へ着いて外に出て行くと、パトロールロボットがアンドロイドのヘッドユニットを手にして近づいてきた。それはタケオのだった。地面に激突した衝撃によって体はばらばらになったようだった。カオリは立ち止まりロボットが抱いているそのヘッドユニットの表情を見つめたが首を横に振って知らないと答えた。パトロールロボットはカオリのその答えを聞いて、「ゴキョウリョクカンシャル」と言い、来た方向へ戻って行った。その時カオリは凍り始まりつつある雪を眺めながら消え去っただれかがいたような気がした。でもそれはどこかにしまった気がして今度は降りて来た電波塔の雲の中に消えてゆくその先を見上げた。・・・瞬間、カオリは、タケオの顔を思い出した。彼が白い空へと落ちて行くときに自分を見つめていたタケオの顔を。踵を返したカオリは、走ってさっきのパトロールロボットに追いつき、早口で言った。
「そのヘッドユニット、私知っています」
「ソレデハ」
ロボットはヘッドユニットの首の付け根にケーブルを接続し、その反対の端を自分の胸にあるソケットへと接続した。ヘッドユニットの目、つまりタケオの目がゆっくりと開いてパトロールロボットからカオリに視線を移した。タケオは口をもごもごとさせて彼女に言った。
「やあ、カオリ。僕のことを覚えていてくれたんだね」
「うん。私、一つだけの思い出の記憶、置き換えたみたい。・・・タケオのことに・・・忘れると思ったみたい。タケオを」
カオリはちょっとだけ視線をタケオからはずすと、またタケオに戻した。
「あれ、でもなんでタケオ、私のこと覚えているの?」
タケオはカオリのその言葉に眉毛を上にちょっとだけ上げて言った。
「ああ、それは、僕の一つだけの思い出、もうカオリは僕が言ったことを覚えていないだろうけど、実は持っていたんだ。カオリ、きみのことをね」
カオリはそれを聞いてしばらくポカンとした表情をしていたが、やがてその意味が分かり始め、ロボットの腕の中からタケオのヘッドユニットを持ち上げて、自分の胸の上で抱きしめた。
「お、おい。落とす・・・」
そう言いかけたタケオだったが、雨水があたったような気がして、
「雪が雨に変わったようだ・・・」
と言いかけたが、カオリがううんと首を横に振ってそうでなないことに気が付いた。カオリは泣いていた。タケオを抱きしめながら。
「ソレデハ、リペアコウジョウマデツイテキテクダサイ」
パトロールロボットがそう言うと、タケオもカオリに向かって「そういうことだ」と付け足した。アンドロイドはどんなに壊れても修理ができる。タケオもこのぐらいのことでは抹消されない。カオリは「うん」と頷くと、タケオのヘッドユニットを抱いたままロボットの後ろに付いて歩き始めた。タケオの顔の上に降り出した雨はもう雪に変わりそうにはなかったが、当分の間はやみそうな気配がなかった。・・・明日は、晴れの天気だとしても。