出会い 3 -イノシシと子連れの旅人- [修正版]
ボクの声に、街道を歩く2つの影が押し迫る脅威に気付いた。
今ならまだ間に合うはずだ。
荷物を放り出して、幼子を背負って森の木に登れば安全を確保できる。
ボクの登った防風林に外れた若木と違い、森の木々は堅く太い。
あの巨大なイノシシの体当たりで揺れることはあっても、折れることはないだろう。
熟練の狩人や身のこなしの軽いエルフであれば、枝を伝って逃げることも可能だ。
だから早く。
そう両手を組んで祈る。
しかし、その大小2つの影はボクの切なる願いに反して、それぞれ日常に戻るように行動を始めた。
一方は街道に留まり、もう一方は散歩にでも出掛けるような気軽さで大イノシシへ踏み出したのだ。
武器を抜いて構える様子はない。
大きな影は外套を脱いで草原へと落とした。
こげ茶色の短めの髪に、白を基調にしたローブと薄紫の装飾布をまとった男だった。
魔法詠唱者のような形をしているが、ローブの短い袖から覗く上腕と前腕は、戦士のように引き締まっていた。
だからと言って得物も無しになにをするというのか。
杖も構えず、剣や斧、鎚はおろかナイフさえ携えている様子がない。
丸腰だ。
どれほど鍛えた肉体であろうと、たとえ立派な全身鎧をまとっていようとも、あの大イノシシとの対比では脆弱にしか見えなかった。
大イノシシは敵と認めた彼に向って巨体を揺らしながら速度を上げてゆく。
徐々に体重が乗ってきている。
蹄が大地を掴んで蹴り上げ、深く抉っていた。
数百キロに及ぶであろう巨体が人間にぶつかりでもすれば、強靭な肉体も鎧も意味を成さない。
運が良ければ跳ね飛ばされて内臓破裂の即死。
運が悪ければ骨折と全身打撲で再起不能だ。
なぜ運が悪い方が生存なのかと問われれば、その後のことを想像すればいい。
弱者は強者の糧になる。
生きたまま身体を齧られるのだ。
この世界において、イノシシやオオカミに襲われる人間というのは珍しくない。
辺境の村の猟師や町を渡る商人などから言わせれば日常茶飯事だ。
その犠牲者のほとんどが生きたまま四肢をもがれ、腸を喰われる。
野生動物に慈悲の死は存在しない。
生き残ることばかりが幸運ではないのだ。
草原を耕す蹄の音が轟き、ローブの男に驀進する。
大イノシシが迫れば迫るほど、迎え立つ男がよりか細く映った。
魔法詠唱者であれば、距離のある内に魔法で仕留めるはずだが、その様子は見られない。
ただ、ローブの男には自信があるように感じられた。
それも並々ならない自信だ。
ボクは逃げるチャンスであることも忘れ、男と大イノシシに釘づけになっていた。
大イノシシの後ろ姿にローブの男が重なった。
跳ね飛ばされる。引き潰される。
そんなことが脳裏によぎった瞬間、蹄の刻むリズムが崩れた。
大イノシシは鳴き声も上げず縦に一回転し、大きな音を立てて腹とアゴを草地に叩きつけた。
街道沿いの森林から鳥の群れが飛び立って、うっすらと砂煙が舞う。
こちらからでは前足が絡まって勝手に転んだくらいにしか思えなかったが、ローブの男は大イノシシと交差しただろう位置で振り返っている。
まるで街中ですれ違った相手が転んだのを確認するように――。
なんでもない日常の出来事のように――。
間違いなくローブの男は何かをした。
それを疑う余地はなかった。
そして大イノシシは、それからピクリとも動かなくなった。
あの生命力の塊りが、あっさりと力尽きたのだ。
華麗な剣技によって斬られたわけでも、圧倒的な腕力に振り降ろされた斧や鉄槌によって頭蓋を砕かれたわけでもなく、唐突にそれは倒れた。
優れた拳闘士は、素手の一撃で対象を絶命させると聞く。
しかしそれらしい衝突音は聞こえなかった。
魔法なのだろうか?
確かに魔法詠唱者らしい格好をしてはいるが、詠唱をしていた様子も発動による魔法陣の展開もなく、命を奪うような強力な魔法があるのだろうか?
ボクの知る限り、そんなことが出来る者はいない。
ああ、違う。
そんなことはどうでもいい。
今ボクがやらなくちゃいけないことは、詮索ではない。
命の恩人へ、感謝の意を伝えることだ。
■□■□■□■□■□■□■□
「命の危機をお救い頂き、感謝いたします」
おそるおそる駆け寄ったボクの第一声に、彼は落ち着いた様子で微笑んだ。
「我々にとっても脅威となったものです。
危険を呼び掛けてもらいましたし、
感謝こそすれ恩に着せる理由にはなりません」
つい今しがた、あの巨大なイノシシを一撃で沈黙させたとは思えないようなおだやかさだった。
警戒心もなく、危険な野生動物を押しつけた迷惑な相手という感情は何一つ覚えない自然な振舞いだ。
ローブの男から視線を移すと、大イノシシは転んでから今まで一向に動く様子を見せない。
だからこそ第一声は感謝の言葉から入れたのだが、気絶の可能性は拭えなかった。
生命の息吹は感じられないし、死んでいるのだろうか?
突然起き上がって、あの大きな牙で噛みついては来ないだろうか?
そんな不安を煽る想像が浮かんでは消える。
「大丈夫ですよ。死んでいます」
こちらの視線と感情を読み取って、彼は微笑んだ。
もう一度彼の肩越しの不安の塊りに視線を向けると、外套のフードを引っ被った幼子がそれの牙を掴んだり、毛深い鼻を持ちあげたりして遊んでいた。
恐ろしくはないのだろうか?
そんな疑問は、目の前の彼が答えとなって霧散した。
日常なのだ。
旅の道中に大きな野生動物に遭遇して一撃で仕留めるという出来事が――。
状況の理解が深まり、大きな安堵の息を吐いてようやく、改めてローブの男に向き直った。
「大変失礼致しました。
私の名は、ウルール・サラーサ・エルフィン。
水の王国ヴァスティタの民です。
改めましてここに、感謝の意をお伝えします」
「これはご丁寧にどうも。
私の名は、トーガ・ヴェルフラト。
向こうに居るのはシューです」
そうするのが当然のように彼は胸に右手を当てて頭を下げ、イノシシの死体と戯れる幼子を紹介した。
美しい所作は、気品を感じさせるものだった。
騎士貴族や武道に生きる者の武骨さはなく、魔導師や商人のような形式ばった硬さもない。
トーガ・ヴェルフラト……聞き覚えのない名前だ。
一体何者なのだろうか?
身につけているローブは、よく見れば相当に高価なものだとわかる。
彼の動作によって滑らかに揺れる白い生地はほのかに煌めき、薄紫の装飾布には流水とスミレの紋様が浮き出ている。
水の王国においてそんな家紋はない。
自国や他国の家紋と家系、それぞれの家の繋がりに詳しい紋章官ほどではないにしろ、師や姉から多少なりとも教わっている。
少なくとも上級貴族以上の身分でないのは確実だが、手首や腰に巻かれた革の装飾品も希少金属が設えてある。
どれも見る者が良く見れば気付くという絶妙な品だ。
価値に気付くともっと見ていたいと望んでしまうそれは、彼が草原に脱ぎ置いていた外套によって隠れてしまう。
興味に身動きが取れずにいると、彼は無遠慮に視線を向けてきた。
下から上へと目は動き、今は髪から覗く尖った耳を見ているのだろう。
今年で14になるとはいえエルフらしい凹凸に乏しい身体つきだが、決して貧相というわけではない。
お小遣い稼ぎや夕食の一品を増やすための狩猟の影響で、所々おぼろげに浮き上がる筋肉の陰影はなかなかのものだと自負している。
血統も含まれるのだろうけれど顔立ちは整っているし、将来の伴侶候補は種族を問わず多い。
しかし彼の視線には好色さや品定めといった警戒心を灯らせるものはなかった。
むしろ不思議そうだった。
「エルフィンと仰られましたが、南の大森林の?」
「は、はい……」
彼の指摘した通り『エルフィン』は、水の王国ヴァスティタと協力関係にある南の大森林のエルフを表わす。
1000年程度の歴史しかない新興の森妖精一族で、『ボクら』や『ボクらの住む南の大森林』を指して『エルフィン』とも公称されている。
ちなみに一部の種族は、名前に種族を冠するのは辺境の村の子供ですら知っている常識だ。
南の大森林に住む森妖精は、エルフィン。
北の大森林に住む古森妖精は、リスアールヴ。
大渓谷地帯に住む渓谷妖精は、デグアールヴ。
山脈地帯に住む炭坑妖精は、ドヴェルグ。
地中海や外海に住む人魚は、シーレーン。
どれも母親が寝る前の我が子へ語る英雄譚に登場する。
わざわざ確認を取るようなことではないだろう。
「成人前のエルフィンが、一人でなにを?」
「……どうして、一人だと?」
「攻撃的なイノシシに関わって、知人を亡くした様子もない」
彼は言いながら、目でボクに、自身とイノシシへ視線を運ぶよう誘導した。
シューと紹介された幼子がなにやらゴソゴソとやっているが、イノシシにはケモノ臭さの他には泥や魚の生臭さはあっても、動物性の血生臭さはないことだろう。
どうやってイノシシを仕留めたのかはわからないが出血した様子もない。
さらにボクから切迫した空気を感じないのであれば、怪我人や犠牲者が出ていないと考えるのは自然だった。
「あなたは16にも見えないので、なぜ一人なのかと」
その言葉でようやく気付いた。
『未成年の長命種族の女』が、単独で行動していることについて尋ねているのだ。
そして言外の、大人が子供を叱る――という意味に思い至った。
「……お祭り前にお小遣いを稼ごうと、その、思いまして」
「家族や友人を大切に思うのなら、自らの身を案じて大人の力を借りなさい」
「……ごめんなさい」
ぺこりと頭を下げると、トーガさんは小さく笑った。