泡沫姫
文政6年(1823年)。
信濃松代藩に一人の姫君が生まれた。
この日を境に、困窮していた筈の藩は徐々に回復の兆しを見せ始め、やがて藩主は外様大名でありながら、異例の大抜擢として老中に任ぜられるまでになった。
人々は語る。かの藩主は名君であると。
しかしその裏で何があったのか。
隠された真実を知るものは、今はわずか――
「姫ー! おい、姫ーっ!」
大切な友人の声を聞き、私は知らず、口元を緩ませた。
戸を開くと、庭の塀を軽々と飛び越え、屋敷に侵入してくる影が一つ。
それを少し呆れたように笑って、
「貴方にかかると、塀など意味がないわね」
と影に向かって言った。
するとその影――少年は、にっと笑って私を見る。
「人間と違うからな!」
「ふふ。今日はどうしたの? ご飯がまだなら、一緒に食べる?」
「おっ、そりゃいいな! っと……そうじゃなくて! 今日来たのは、お前にお土産をやろうと思ってな!」
と、少年は私の所まで駆けて来て、背負っていた荷を地に下ろす。楽しそうに荷解きを始めた彼を見つめながら、私は何となく彼を苛めたくなって、
「最近ここに来てくれなくて淋しかったわ」
と拗ねた調子でぷいっとそっぽを向く。
「わ、わりぃ。駿河の方まで足を伸ばしてたら予定より遅くなっちまったんだ」
困ったように頭を掻くと彼は顔を上げ、そっぽを向いたままの私を認めて一段とうろたえた。
「え、あの、姫、そんな怒んないでくれよ……」
おろおろとする彼を見ていると、「ぷっ」と思わず笑ってしまう。
「冗談よ、冗談。怒ってなんかいないわ」
「ほ、ほんとか? 俺のこと、嫌いじゃないか?」
「本当よ。嫌いになんかなるわけないじゃない。ね、それよりお土産を見せて」
私がそう言うと、少年は、ぱぁあっと表情を明るくした。そして急いで荷解きを再開する。
この少年の名は、焔。
少年、というのは外見だけだ。本当は何歳なのか、私も知らない。
彼は人間ではないから。
彼は妖怪である。そう、巷では人に害を成すとして成敗の対象になっているあの妖怪だ。あまりに人に害を与える妖怪には懸賞金までかけられているとも聞く。
けれど、私には妖怪がそんなに恐ろしいものだとは思えなかった。
私は外に出たことがない。いや、正確には物心ついてからは一度も屋敷から出たことがない、というべきだろうか。私は病気らしく、外に出てはいけないと父上や母上からはきつく外出を禁じられているのだ。
故に、私は焔以外の妖怪に逢ったことがない。
そして、肝心の焔は、これだ。
まったくもって恐ろしいとは思えない。
「ほらこれやる!」
ばっ、と焔が出してきたのは扇子だ。
受け取って開いてみると、
「東海道……?」
「東海道の道のりを描いた扇子だ! お前……その、外行けないだろ? だから何かこういうの、喜んでくれるかと思って。…………気に入らなかったか?」
焔はやや所在なさげに視線を彷徨わせた。
「ううん、嬉しい。ありがとう、焔」
私がそう言うと、焔の表情が輝く。
「ほ、本当かっ?」
「うん」
「あ、待て、まだ土産はあるんだ。えっとー……」
焔は楽しそうに荷を解いていく。
思えば焔と出会ったのもこの庭だった。
焔と出会ったのは、今からおよそ2年前のことになる。
寝付けず夜風にでも当たろうと庭へ出た時、庭の隅にうずくまっている影を見つけたのだ。
どうしたのですか、と訊ねても返答はなかった。危険だと思いつつ近づいた所、それが血まみれであることがわかった。
慌てて怪我を手当てし、食事を与えた所、それは息を吹き返した。
しかし様子がおかしい。妙に人に怯えている所があった。
そこでやや強引に色々と付き合わせたところ、徐々に心を開いてくれるようになった。
今では完全に回復し、外で色々と飛び回っているようだ。そして度々ここに立ち寄っては土産を持って来てくれるようになった。
「焔、もう昼時よ? 中に入りましょう」
「あ。あー……」
焔は私の提案に、微妙な顔をした。
いつもなら間髪いれずに肯定を返してくるのに、どうしたのだろう。
「どうしたの?」
「いや……なんか今日、この館、息苦しくないか?」
「え?」
息苦しい?
よくわからず辺りをきょろきょろと見回してみる。すると、焔が首を振った。
「わりぃ。多分、俺がアヤカシだからだ。お前には影響ないから、わかんないだろ」
「妖怪だから? どういうこと?」
「多分この館に変わった奴が紛れ込んでんじゃないかと思う」
「変わった……?」
焔の言っている意味がよく判らない。
彼が妖怪だから、ということはつまり……
「もしかして」
「あぁ。多分、妖怪避けの結界を張っている奴か、もしくは護符を持っている奴が館に来てるんじゃないかと思う」
妖怪避けの結界。
噂では聞いたことがある。
庶民では手の出るものではないらしいが、陰陽師を呼んで妖怪を拒む結界を張ることがあるらしい。
大方、そんなことができるのは武家か、或いは財力のある庶民たちか。いずれにせよそうそうあるものではない。武家でも貧乏であればなかなか難しい。何せ陰陽師自体が少ないのだから。
「でも、そんな……急に、陰陽師だなんて、来るかしら?」
「わかんねぇけど……でも……可能性は、無きにしも非ず、だろ」
焔はそう言ってから、ふっと空を見上げた。
「――雨が降るな」
「え?」
空を見上げてみる。が、雨どころか、雲ひとつ見当たらない。
「雨なんて、降りそうにないけれど……」
「勘だよ、勘。アヤカシのな。とりあえず、俺は帰る。どうも今日はここが息苦しいからな。じゃあな!」
そう言ったかと思うと、焔は手早く荷をまとめて制止する間もなく塀を飛び越えて去っていってしまった。
「……雨……?」
呟いてみるが、まるで降りそうにない。燦々と太陽の光が照りつけ、雨など無縁そうな青空である。
「まぁ、考えていても仕方ないわね」
そういうと、私は焔から貰った扇子を帯に差して部屋に戻った。
……と。
「姫さま!」
侍女のお夕が走ってきた。何ごとかと顔を上げれば、お夕は眼を伏せた。
「お夕、慌てすぎよ」
「一大事に御座います! 殿からの使者が!」
「父上からの?」
私はよく判らず首をひねった。
父、真田幸貫は今、国――信濃にいる筈で、使者をそうそう寄越すこともない。
江戸にきた時は顔を出してくれるが、国にいるのに使者を寄越す必要などない。
「なんです? 文ではないのですか」
「それが、その」
どう言えばいいのかおろおろとうろたえるお夕に重ねて問いを掛けようとした所、
「断りもなく訪れたご無礼、何卒お許し頂きたい」
と、聞き覚えのない男の声が響いた。目線を上げれば、見知らぬ男性が1人、障子の向こうから現れた。
「――どなたですか?」
齢は恐らく五十手前、と言ったところであろう。恰幅がよく、顎に蓄えた髭が印象的だった。
私は幼い頃からこの館にいるので、外の人間とは殆ど話したことがない。男性と言うのなら尚更だ。少年であれば話しやすいが――例えば焔のように――大人となるとまた勝手が違う。
「殿が家臣の一人、織部元景に御座います」
彼はそう名乗ると、一礼した後私の前に進み出て腰を下ろした。そして頭を下げる。
「火急の用件により私自らこちらへ参りました」
「父の使者――ですね?」
「はい。まずはその幸貫さまより、こちらの書状を」
そう言って、彼――元景は懐から文を取り出した。
「父から?」
訝しく思いつつもそれを受け取り、広げてみる。
「――? 意味がよく、わかりません」
読み終えてはみたが、いまいち文の中身が掴めない。
文にはざっと次のようなことが記されていた。
私は「泡沫の契り」の犠牲者であること。
私はそのせいで二十歳で死ぬということ。
父はその「泡沫の契り」を破りたいとのこと――
「泡沫の契りとはなんです?」
「は。泡沫の契りとは、今よりはるか昔、神と人との間で交わされた約定に御座います」
「約定?」
「はい。神は200年に1度、人の世に神の使者となる乙女を遣わすと。その娘は「泡沫姫」と呼ばれ、20年の幸せを人の世にもたらす。しかし20年経てば、再び神の下へ帰る、という約定で御座います」
よく、わからない。
「つまりは、私がその泡沫姫であると?」
「はい。そのように判りましたのが、今より約18年前。姫が御生まれになる、半年前のことです」
「――よく、わからないのですが。泡沫姫に生まれると、つまりはどうなるのですか?」
「泡沫姫は人の世に20年の幸せをもたらす。しかし二十歳となったとき、泡沫姫は天に召される。つまり、――亡くなるということです」
――私が、死ぬ?
「それは――私が病弱であることと、何か、関係が?」
「姫は病弱なのでは御座いません。泡沫姫である姫の存在を隠すため、殿がそのように言われ、姫をこの館に隠されているのです」
「では、私は病弱ではないのですか?」
「お体のほうは、我々と何ら変わりないかと」
どういうことだろう。
そもそも、なぜ私の存在を隠す必要が?
「私は、何故隠されているのです?」
「泡沫姫は、幸せをもたらす存在です。故にその存在が世に知れればかどわかされる可能性も御座います」
つまり、さらわれないようにするため?
「それで――すみません、よく判らないのですが、元景殿がここに来られた理由は――?」
「殿は、姫を失いたくないと考えておられます」
失いたくない、というのは二十歳で死んで欲しくない、ということか。
「それ故に、この18年間、泡沫の契りを破る方法を探されてきました」
「――泡沫の契りを破るということは、私が泡沫姫ではなくなると?」
「その通りに御座います」
「しかし、私が泡沫姫でなくなれば、国への幸せはどうなるのです?」
「神からの恩寵はなくなることでしょう」
「そんなこと――そんなこと、できません!」
私が思わず叫ぶと、元景は私を見上げて静かに言った。
「殿は神から与えられる仮初めの幸せなど、不必要だとおっしゃっておられました」
「不必要? けれど、それで確かに幸せは、神からの恩寵は与えられるのでしょう?」
「そうです。しかし、それもあと3年もない。貴方が二十歳を越えれば、貴方は亡くなり、国への恩寵はなくなる。ならば、貴方だけは留めておきたい。殿はそう仰せです」
元景の言葉に、私は言葉を失った。
「でも――でも、国はどうなるのです。わたし……」
「姫の存在なくして成り立たぬ幸せなど、意味が御座いません。殿は、神に頼って国を守られるほど弱くは御座いません」
元景の力強い台詞に、私は彼を見つめる。
彼の双眸には、強い色がある。それは恐らく、父・幸貫に対する信頼に違いなかった。
「……父を、信頼しているのですね」
「殿は御聡明であられる。その殿が、姫を救いたいと言われるのだ。ならば我々はそれを支えるまで」
「……具体的に教えていただけますか? 私が泡沫姫でなくなるには、どうすれば良いのでしょうか?」
私が問うと、元景は顔を上げた。
「姫には播磨へ行っていただきます」
「はり、ま?」
播磨といえば京よりさらにその先ではないか。一体何故そんなところへ行くというのか。
「播磨にいる、陰陽師。芦屋道叶。その男に、契約を破らせようと考えております」
「あしや、どうきょう? ……確か、それは……」
芦屋 道叶。その名には世間のことに疎い私でも聞き覚えがあった。
この国一の陰陽師としての力を持ちながら、人に頼られても滅多なことではその力を振るわない。
幕府の依頼であっても従おうとせず、しかしその強大な力ゆえに幕府もおいそれとは手が出せないでいる男。
噂では、かの蘆屋道満の子孫とも言われているが、詳細は不明。
妖怪を愛し、妖怪とともに生きていると言われている。
とかく不気味な存在であると巷で有名な男だった。
「芦屋道叶の名は、私も聞いたことがあります。けれど、依頼を受けないと、巷では有名なはずでは」
「はい。事実、以前に一度、断られております」
断られているのでは、頼んだところで仕方ないのではないか。
私がそう思った矢先、彼はこう告げた。
「しかし我々がもう一度頼んだところ、「考えても良い」との返事が来たのです。姫が播磨まで来られるのなら、と」
「私が、播磨まで行けるのなら……。ですが、私は大名の娘です。江戸から簡単に出ることはできません」
「それについては問題なきよう取り計らっております。――政景、永景」
元景は背後を振り返り、そう呼びかけた。すると障子の影から二人の青年が姿を現す。
二人は双子だろうか。顔立ちも、背格好も随分と似ていた。違いといえば、一人が眼に眼帯をしていることくらいだ。
「これなるは我が息子、織部政景とその弟、永景にございます」
そう言われた二人はその場に片膝をつき、私に向かって頭を垂れた。
「政景は剣の腕においては誰にも負けないかと自負しております。また永景には、僅かばかりですが呪術に精通するところがございます故、姫を関所にて足止めさせることはないかと。彼らが姫を播磨までお連れ致します」
一息に告げられた内容に、私は思わずぽかんと二人の青年を見てしまった。
「ええと、ご、護衛がつくのですか」
「当然です。姫は信濃の姫君なのですから」
元影は当然の如く告げるが、私は困惑した。
それはそうだろう、主人の娘の命のためとは言え、幕府の目を欺いて旅をするなどという重役を任せることになるのだ。あまりにも危険すぎないだろうか。
当惑し、やはり断ろうかとした時、
「是非この命、姫の為にお使いください」
と、青年の一人が告げてきた。それに私が何かいう間もなく、もう一人――眼帯をした方だ――が
「姫のことは全力でお守り致します故」
と続ける。
「ですが……やはり、危険すぎます」
私がそう言うと、青年たちは同時に顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめてきた。
「姫のためならば命など惜しくはございません」
「我々は今まで姫の恩寵に預かってきたのです。そのご恩をどうぞ、お返しさせてください」
強い決意の色を見せて、彼らは私にそう言う。
「……姫。これは、我々自身の望みでもあるのです」
元景は私を説得しようとそう告げてきた。
「……ですが……」
「どうぞ、殿のお気持ちを無碍になさらないでください」
その言葉に、私の言葉はかき消された。
父の、気持ち。
私を生かしたいという、願い。
それを考えると、確かにここで断るべきではないのかもしれない。
彼らには危険を承知でこの仕事を頼むことになってしまう。だが……
「――わかりました。……護衛をお願いしてもよろしいでしょうか」
私が二人に向かってそう尋ねると、彼らはふっと微笑んだ。
そして再び頭を垂れて、
「某、名を織部政景と申す。播磨までの道中、姫の御身を必ずやお守り致しましょう」
それに続き、眼帯をした青年が頭を垂れたまま名乗った。
「我が名は織部永景。この命に代えても御身をお守りいたします故、ご安心いただきますよう」
二人の名乗りを聞いて、私はどうしたものか困ったが、これから命を預ける相手に無礼はいけないと己を叱咤し、笑顔で言った。
「足手まといになってしまうかもしれませんが――道中、よろしくお願いいたします」
そうして私は、旅立つ。
遥か西に待つ、播磨の陰陽師の許へ。
今の身分も、暮らしも、そして過去も。
全てを捨て、只生きるために――