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遠い世界にいる愛しの家族へ

 立見(たちみ) 麻衣(まい)は、高校卒業間近の十八のときこの世界――麻衣が生まれた地球とは異なる地へとやってきた。

 どうしていいか分からないままに国の庇護を受け、戻る方法を得るまではこの世界で生きることを決めた。巫女見習いとして神殿で働き、地球とも異なる世界から召喚された勇者たちのサポートをしながら時は流れ、いつしか共に旅をした騎士に恋をした。騎士も、麻衣を想ってくれていた。

 何度も何度も、心の中で地球にいる家族に詫びた。


(幸せになるから、どうか心配しないで)


 大丈夫だと疑いもしなかった。優しい夫と可愛い子どもに恵まれ、これ以上の幸せなどないと。地球の家族も、きっと幸せになっていてくれると。信じて疑わなかった。そう、彼女自身の娘が異世界に召喚されるまでは。






「離縁してください」


 深く腰を折り、一言だけ告げる。この世界ではお辞儀の文化はないが、目の前にいる美丈夫は意味を知っている。

 彼の前で、幾度となく見せてきたものだからだ。

 地球の文化をわざわざ消し去ることはないと。柔らかな笑みでそう言った彼の顔は、今は雪でも吹き荒れそうな冷たい瞳をしていた。

 伯爵位を賜りながら軍の上層部にその身を置く、建国きっての名家アプソロン当主ハヴェル。麻衣を保護してくれた当時の王太孫付き近衛を務め上げた後に、千騎長として戦場を駆け、現在は四十代の若さにして万騎長と軍師を兼ねている。貴族界の憧憬を一身に集める存在。


「どういうことだ、マイ」


 骨を揺るがすようなバリトンが、鼓膜を震わせる。父と似ているその声を聞いたとき、麻衣はこの世界で初めて涙を流すことができたのだ。


「私は、貴方を愛し愛されてこの世界で生きることを決めた。それから二十年……幸せだった、とても」

「マリエのことか」


僅かに熱を取り戻したハヴェルの言葉にそっと頷く。

 麻衣とハヴェルの長女のマリエ――麻衣にとっては麻理恵は、二年前に失踪した。

 なにか予兆があったわけでもない。周りが見ている内では大きな問題があったわけでもない。

 最悪の事態になっているのではないかと。生きているのか死んでいるのか。生きているとしたら、死んだほうがマシなめにあっているのではないかと。

 一番つらいのは麻理恵だとわかってはいても、麻衣の恐怖は治まらなかった。魔術師の素養が大きい息子たちが学生のうちから努力してくれたおかげで、つい先日に麻理恵の消息がわかった。

 麻理恵は、麻衣がよく知った世界にいた。地球の、日本に。

 麻衣がいた頃に比べ、緑が減り、人が減り。代わりとでもいうように人工物が増えていた。それでも、見間違えるはずがない。

 水晶越しに見る二十数年ぶりの世界に、茫然と言葉を失う。ズームのカメラのように、遠くから全体を眺めていた水晶が次に移したのは二年ぶりに見る、大人びて女性らしさが増した娘。そして、


「お父さん……お母さん……」


 皺が増え、白髪が増え、すっかり年老いた両親――立見 俊三(としみつ)麻紀(まき)だった。

 息子たちが驚きの声を上げる。麻理恵を挟むようにして生まれた二人の息子の疑問にも答えることはなく、麻衣はただその光景に言葉を無くしていた。

 麻衣が生まれ育った日本家屋の坪庭に面する縁側に、麻理恵が俊三と麻紀に挟まれて腰を下ろしていた。

 蹲が夏の日差しを受けて中の水を光らせる。小さくても竹垣に囲まれた坪庭は風通りがよく、麻理恵はその薄い色素の長髪を揺らした。


「緑が気持ちいい……私の故郷と全然違う景色なのに、感じる風は同じだわ」


 靨を浮かべて幼い笑顔を見せる麻理恵は、もうすぐ十八になるとは思えない。天真爛漫でまっすぐな笑顔は、幼い頃と変わりない。

 二年ぶりに聞く麻理恵の声に、言いようのない安堵が体を駆ける。麻理恵が大人びながらも変わらない幼さを見せてくれたこと。そしてその両隣で、老いた夫婦が見慣れた優しい笑みを浮かべていることに。


「麻理恵ちゃんは本当に愛されて育ったんだね」


 麻衣の父――麻理恵にとっての祖父たる俊三が口にした言葉に、どうしたらいいのかわからなくなった。

 父へと、母へと、心の中で呼びかける。麻理恵が愛された子どもに育った大きな理由は、麻衣もハヴェルも愛されたからだ。両親に愛されたから、なにも疑うことなく夫を、息子たちを娘を愛することができたのだ。

 そっと骨ばった手が麻衣の頬を撫でる。未だに精悍なその手は、愛しい夫のものだった。ハヴェルの手がしとしとと濡れることで、麻衣はようやく自分が泣いていることに気付いた。涙を流す麻衣の耳に、次々と想像だにしなかった言葉が入っていく。


「麻衣はそんな凄い男性のところに嫁いだのねぇ」

「えぇ。お父様は本当に素晴らしい男性よ! 私も結婚するならお父様のような男性がいいわ」

「ははっ。麻理恵ちゃんがそんな風に言って、麻衣が選んだ男だ。私も二、三発殴るくらいで済むんだろうな」

「あなた……ご自分の歳を考えてくださいな」

「お祖父様……」


 呆れを隠そうともしない母の声。それに重なる娘の声。言葉の意味。

 麻理恵は、なんの躊躇いもなく俊三を祖父と呼んだ。

 どうして。いつ。なぜ。誰が彼らの関係を示したのかと麻衣は混乱の渦に陥っていると、答えは麻理恵の胸元にあった。麻紀は、穏やかにそこにある金属を手にとる。

 長い年月の中でくすんでしまった、質も大してよくはない金属製のペンダント。上下をそれぞれ逆の方向に滑らせるとパキンっと割れるような音をして開くそれは、ロケットだった。中に映るのはそれぞれの母の肖像画で、代々立見の女性に受け継がれているものだ。

 麻紀の手元にあったときは、彼女の母が。麻衣のときは、麻紀の写真が。そして今、麻理恵の元にあるそこには麻衣の肖像画が入っている。

 娘が生まれるまでは、悩みに悩んだ。なんせ麻衣の手元に故郷を感じられるものは極わずかで、ましてや母の写真が入っているロケットはなににも代え難い宝物だったのだから。だが、娘の麻理恵が生まれたときには気づいたら絵師の前にいた。娘へと渡すロケットのために。


「残りの人生を、……両親に捧げようと思ったの」


ポツリと麻衣が口を開く。ハヴェルは黙って頷いた。


「お父さんもお母さんも、私がどうなったか知らないならば。戻ることができないのならば、せめて二人の幸せだけを祈って死にたかったの」


麻衣の肩を掴む骨ばった手に、グッと力が籠った。


「麻理恵の生死が分からなくなって、脳みそが働けば考えるのは悪いことばかりで。私はこんな思いを両親にずっとさせていたとわかったら、もうどうしようもなかった」


麻衣の切れ長の瞳から、ポロポロと大粒の涙が零れる。それでも、映るのは優しい黒だった。


「でも、麻里絵が伝えてくれた。私は幸せだと。魔術の発達で、麻里絵は幸せだと私も知ることができたわ」


深い緑を見ては寂しそうに微笑み、淡い青を見ては泣きそうになっている妻を支える。その細い体で、誰よりも多くを担ってきた彼女を。


「都合のいい考えだと思う。それでも私は、娘が両親の下で笑っているのなら此処にいたい。まだまだお子ちゃまな息子たちの成長を見届けたい。なによりも、ハヴェル――貴方の隣にいたい」

「マイ」


 震えるその体を抱き締める。麻衣が少し苦しいくらいに。だけど、ハヴェルにしてみればまるで足りない強さで。


「マイ、何度でも言おう」


 初めて想いを告げたとき。愛しい存在が、その想いに応えてくれたとき。


『私はお前に故郷を捨てさせた。それによってお前が背負う痛みも傷も、すべて私に分けろ』


 遠い世界にいる愛しの家族の代わりにはなれない。それでもハヴェルは、別の存在として麻衣の拠り所になると決めた。


「うん……」


 あぁ、もう。愛しくて仕方がない。


「愛してるわ、皆」


 だから今日も、あなたたちに愛を伝える。






*麻衣たちの世界と地球との通信が途切れた後*


「でもお父様も非道いのよ。お母様を帰す方法なんて最初から知っていたくせに、その権力を以てして緘口令を敷いたのだから」

「はっはっは。やっぱり碌でもない男だなぁ」


 麻理恵の言葉に、それでも俊三は笑った。それは、彼らが血縁だとわかってすぐに告げてあったことであった。麻紀は苦笑しながらも麻理恵の言葉に耳を傾けた。


「若くして王太孫付き近衛騎士を務めている名門伯爵家の嫡男。人望も政治も武術も美貌もなにも問題はなく、ただ奥方候補が溢れているにも関わらず誰にも心揺さぶられないまま男色の噂が誠ひそやかに語られている。――そんな殿方が異世界の美少女を屋敷に囲い、至極大切に守り、挙句の果てには近衛の役目を他の方に押し付けて異世界人と旅に出た。……もう笑うしかないわよね」


 一目惚れだったと、照れ隠しもせずにその静かな瞳に熱を携えて娘と息子に聞かせた父のことを、麻理恵は思い出して呆れた。

 あれは丁度、兄が軽い反抗期に入り麻衣に素っ気無く接し始めた頃だ。兄弟三人が父の書斎に呼ばれて、延々と母との惚気話が続いた。そして最後に、刃は下ろされた。


『お前たちは、可愛い子どもたちだ。私とマイの子だからな。だが、それ以上に私はマイを愛し護ると私自身に誓っている。マイを傷付ける者は誰であろうと、我が剣にかける』


 初めて見る父の激昂に、言葉を無くした。兄の首元でピタリと止まっている家宝の剣の切れ味は、その場にいる誰もが知っていた。

 当然、兄の可愛らしい反抗期はすぐさま消え、麻理恵と弟も反抗期などやってくる筈がなかった。


「あーあ、可哀想なお母様」


 眉を下げながら、でも口角は上げながら。

 唯一の救いは、母も父を愛していることだろう。

 遠い世界にいる愛しの母へ、娘から同情と少しの羨望を贈る。その美しい姿が納まったロケットを握りしめながら。

日本人以外の人名はチェコにしました。

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― 新着の感想 ―
[一言] 娘が居なくなり生死もわからず何年も暮らす地獄を平気で味あわせるとは最低。やってる事は朝鮮人と同じだなハヴェル 見知らぬ世界で家族も友人も居ない寂しさに付け込み洗脳に近い刷り込みをしといて、…
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