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第4回:side使いはダメなのか?

 第4回の議題は、「side使いはダメなのか?」です。

 side使いとは、一人称の作品において、主人公以外の視点を<side ○○>といった形式で(特に頻繁に)切り替える手法、あるいはその手法を使う人を指します。

 今回はこのside使いについて、以下の3点をメインにお話したいと思います。



1・手法としてアリか、ナシか?

2・群像劇はside使いにするべきではない

3・sideの亜種



 また今回の内容は、もともと西村紅茶様のエッセイに対する感想、反論として書く予定だったものを大幅に加筆してエッセイ化したものになります。

 そのため『俺は、せっかくだから〈side ○○〉〈side out〉形式の小説を擁護するぜ』の引用があります。こちらの第1回及び第4回をご一読の上で読まれた方がわかりやすいかもしれません。



 興味を持って頂けましたら、少々のお時間、お付き合い下さい。



1・手法としてアリか、ナシか?

 私見と致しましては、「条件付でアリ」です。

 その条件とは、

1-1・sideの割合が一定以下であること

1-2・ストーリー上重要な内容が含まれること

1-3・キャラクターの書き分けが出来ていること

1-4・公募作品には使わないこと

 の4つです。一つひとつ詳しく書いていきます。


1-1・sideの割合が一定以下であること

 物語が主人公の一人称という前提で話を進めます。

 主人公の一人称作品であるということは、すなわち主人公に感情移入して欲しいという書き手側の意図があります。感情移入させるのには、主人公の心情を追体験する一人称が適切でしょう。

 ここで『俺は、せっかくだから~』第4回の内容を少し引用します。


>・キャラクターをその内心にまで踏み込んで十全に描写したい。

>・その描写の没入具合を高めるためには三人称ではなく一人称が必要だ。

>・それなのに描写したいキャラクターは多人数いる!

> となると……ま、〈side ○○〉〈side out〉使っちゃってもいいかなー。となります。


 西村様はこのように書かれているのですが、これはあくまで作者側の気持ちであって読者の求めとイコールではない、と私は考えます。

 群像劇でない限り主人公は一人、せいぜい二人です。また、一人称は視点主に対する感情移入を求めますので、読者は大抵の場合視点主に感情移入しながら読みますよね。

 その感情移入する相手が多数に渡る場合、読者を非常に混乱させるのではないでしょうか。

 主人公だけでなく、ヒロインにも、親友にも、果ては敵役や本筋にはあまり関わってこないけど作者お気に入りのキャラにも、たっぷり描写がある。読者は誰に感情移入をして話を読めばいいのか、わからなくなってしまいます。


 前述の通り、作者の「書きたい!」という欲求と、読者の「読みたい!」という欲求は必ずしも一致しません。異なる思考を持つ多数のキャラクターに、読者はいちいち感情移入などしていられないのです。

 メイン以外のキャラクター達の物語は、本編に本当に必要でしょうか。ほとんどの場合、ぶっちゃけてしまえばストーリー上の贅肉でしかありません。

 設定をだらだら書くお話に、「設定の説明は本編に必要な部分だけでいい」という小説講座は多数あります。キャラ描写がだらだらあるお話もまた、「キャラの描写は本編に必要な部分だけでいい」のです。

 どうしても書きたいのなら本編ではなく、○○視点の番外編、とした方が親切に感じます。

 sideを書くのがダメとは言いません。私も書いてみたことがありますが、楽しいのは同意します。ですが物語として不要な、書き手の自己満足としてのsideは、読者から評価されなくて当たり前だと思うのです。

 評価されたいと思って書くならば、自分の欲求の為ではなく、読者に対して効果的なsideの使用法を考えるべきではないでしょうか。


 群像劇の場合ですが、群像劇に一人称がそもそも不向きである旨を2にて取り上げるため、ここでは割愛します。


1-2・ストーリー上重要な内容が含まれていること

 主人公には知りえない情報、主人公側の視点では気付けないこと。そういったものがなければ、物語としてsideにする必要性はありません。

 現時点で累計上位にいらっしゃる、ひよこのケーキ様の『謙虚、堅実をモットーに生きております!』は<side~>という形式ではないにしろ、side使いの好例であると思います。主人公視点とのギャップや、主人公からは見えない他のキャラの姿が描かれることで、伏線の回収やキャラクターのイメージアップが行われています。

 また、sideの間隔は短くとも10話、概ね25~30話ほどで、あくまで主人公視点がメインであるという部分は崩れていません。


 主人公の視点であっても、描写次第で読者に察知させられる事柄であれば、安易にsideを使わない方が無難です。

 ですが鈍感系や無自覚系の主人公だったりすると、sideの重要性は高まります。事件などが起こった時の伏線回収や、客観的視点による主人公像の表現が、鈍感系主人公では非常に難しいからです。

 ストーリー上必要なsideであれば、私は――他の条件も満たしていることが前提ですが――いいと思います。鈍感系は三人称では表現しづらく、威力が激減するので一人称でやりたいところです。ですが主人公のみの一人称で話を進めるのは、長編であればあるほど難しいですし……。

 要するに「面白ければいい」の亜種なんですけれど、ルール性の薄いネット小説ですし、いいのではないでしょうか。


1-3・キャラクターの書き分けが出来ていること

 基本的なことですが、書き手として不慣れな方はこれがなかなか難しいようです。

 一人称で視点主のキャラクターが変わるということは、視点だけでなく思考回路や気に留める事柄、キャラクターの印象、何もかもが変わります。一人称や口調を少し弄ればいいというものではありません。

 真面目キャラなら、思考に当たる地の文を増やして少し硬い文体にしたり。機械が苦手なキャラなら、ネットスラングは使わなかったり。Aというキャラが好きなキャラなら、Aのやることなすことに一喜一憂したり。

 漢字の開き方なんかも変わってくるかもしれません。「ちくしょう!」「畜生!」「チクショー!」と書き分けるだけで、随分キャラクターの印象が変わります。

 情報管理も難しいところです。視点主のキャラクターが知っていること、知らないことを書き手が正確に把握していなくてはいけません。でないと「お前あの時いなかったのになんで知ってる!」という事態になってしまいます。


 ここまで読まれたらお分かりの通り、sideはなかなか気疲れする手法です。しかしside使いの方々の内のどれほどが、それを理解して使っているのでしょうか。

 そして、こんな気苦労をしてまでsideを使う意味は本当にあるのでしょうか?

 胸を張って「これこれこういう意味がある!」と答えられるのであれば、sideの使用に明確な目的があるのでしょうから、私がとやかく言うことではありません。結果としてどういった効果が出たかは、読者が判断してくれるでしょう。

 もしそうでないのなら、何故自分がsideを使うのか、作者諸氏には一度考えてみて頂きたいと思います。そのside、本当に必要ですか?

 ……何かのCMか広告のキャッチコピーみたいですね。


1-4・公募作品には使わないこと

 なろう内や個人サイトであれば、side等のラフな手法も許容される傾向にあります。ですが公募作品は別です。

 小説作法も、こういったsideや視点に関する部分も、商業誌における公募ではほとんどの場合厳しく判断されるようです。

 あくまでもネット小説という範囲で許容されている手法である、ということを念頭において計画的にご利用下さい。



2・群像劇はside使いにするべきではない

 1-1との関連も深いですが、群像劇と一人称は相性がよくありません。

 前述の通り、一人称は単一のキャラクターに対する感情移入を目的とした手法です。群像劇でのsideは1-1で述べたような、読者の混乱、万遍ない描写によって逆に誰にも感情移入が出来ない、という状況をまま引き起こします。

 群像劇は、一人ひとりの登場人物の物語を描くと同時に、多数のキャラクターが同時進行的に動き、最終的に一つに収束することに意味があります。

 物語全体における各キャラクターの配置を、読者に把握してもらう為には、俯瞰の視点が必要です。俯瞰の視点――つまり三人称です。

 だからといって、中盤まで一人称side使いだった物語に終盤で突然三人称を持ってくる、などというのはやめましょう。これ以上読者を混乱させてはいけません。

 どうしても群像劇を書きたいけれど、三人称が苦手、という書き手もいらっしゃるでしょう。読者の評価など無視して書きたいものを書くのなら、一人称side使いで群像劇を書くのもいいと思います。

 ただ、読み手として私見を申し上げるならば、読みづらいのでよほど魅力がなければ途中で挫折します。最後まで読み終えたとしても、全体像が掴みづらく、もやっとした気持ちが残ることが多いです。なので正直お勧めはしません。



3・sideの亜種

 『俺は、せっかくだから~』第1回で古式ゆかしきside亜種のお話が出ていましたので、私が思いつくものを挙げてみようと思います。

 真っ先に思い出したのは横溝正史の金田一耕介シリーズ。直接描写する事の出来ない犯人側の事情や心情を、手紙という形で表す手法ですね。

 金田一シリーズには多いので、もう一種の様式美化したところはあります。冷静に読むと「犯人達手紙残しすぎだろ」と突っ込まざるをえないんですが、それが横溝正史めいたアトモスフィア。


 西村様が挙げられた神話の形式は、劇中劇、作中作、入れ子構造と呼ばれるものが近いように思いました。『アラビアンナイト(千夜一夜物語)』なんかが代表的なアレです。

 語り手によって語られる物語ですが、実質的には作中作の主人公の視点として描かれている点が、sideの亜種であると言えるでしょう。多分。

 近年ですと、C★NOVELSファンタジアの『煌夜祭(著・多崎礼)』がこの形式で面白かったのでオススメです。三人称ですが比較的はっきりと視点主が分かれています。作品構成がなかなか凝っており、伏線も丁寧な良作です。



 side使いは上手く使えば効果的な手法であると思いますし、一人称の制約を崩すため、一人称の難易度を大幅に下げてくれるでしょう。

 反面使い過ぎればくどくなり、物語を不必要に肥大させてしまいます。たびたび述べておりますが、やはりバランスなのではないでしょうか。

 私個人はside形式結構好きなので、巧みなside使いが増えることを切に願っております。



 ここまで偉そうに書いてきましたが、少しは皆様のご理解を得ることが出来たでしょうか。

 貴重なお時間をお付き合い頂き、ありがとうございました。

 よろしければまた次回以降もお付き合い下さい。

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