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「…あなたが、エミリオ様の婚約者様?」
「はい?」
まるで透明人間か邪魔な虫でも見るような空気の中。
始めて、ミシェルに声をかける人がいた。
凛とした高い声にミシェルが振りかえると、同い年くらいの女性だった。
胸元を大きく露出した赤いドレス。
編みあげた金髪には大振りな赤い花のコサージュ。
真珠を思わせるしっとりとした白い肌に、艶やかな赤の衣装は良く栄えていた。
彼女は上から下まで観察するかのような無遠慮な視線でミシェルを眇めて来る。
「ふーん。」
「あの…?」
どう反応して良いか分からず困惑するミシェルに、彼女は赤いルージュの引かれた唇を引き上げる。
上品で優雅な仕草だが、したたかな性格を想わせる高圧的な微笑みだ。
「あら、失礼。私はアンナ。フェルナント伯爵家の長女です。噂のエミリオ様の婚約者様にお目にかかれるなんて光栄ですわ。」
「噂?」
「ふふ。あの浮き名高いエミリオ様がぜひにと選ばれた御令嬢ですもの。さぞかし素晴らしいお方だろうと話題になっておりますもの。」
「……家同士の婚姻です。私自身を所望されたわけではございませんわ。」
「そのようですわね。これなら結婚された後もお相手して頂けそうで安心いたしました。」
「え…?」
アンナの言葉に、ミシェルは首をかしげる。
ミシェルの反応に満足したように、口元を扇で隠しながらもアンナは高圧的に笑む。
そうして一歩ミシェルに近づくと、わざと周囲に聞こえるように言ってるのだろうか…大きめな声で耳打ちをした。
「婚約されたからってエミリオ様を一人占め出来るなどと思わないことね。」
「っ…。」
「婚姻ごときであの方の女遊びが収まるはずございませんわ。私もつい最近、褥のお相手をして頂いたばかりですもの。」
「なっ…!」
この女性の台詞を信じるならば、彼女とエミリオとの間で男女の交流が行われていたのだ。
そしてそれは今後も続いてゆくのだと、宣言されたも同然だった。
「私だけではございませんわ。この場にいらっしゃる女性で彼の手が付いていない御令嬢の方が珍しいくらい。」
アンナは優越的にミシェルを見降ろした。
大人しそうな風貌のミシェルは、攻撃しやすいように見えるのだろう。
遂にはうつむいてしまったミシェルの反応に、満足そうに笑い声をあげながらアンナはその場を去って行った。
(………っ。)
そうして一人になったミシェルの耳に、周囲からの囁きが届く。
「さすがアンナ様。行動派でございますわね。」
「エミリオ様を手に入れようとするなんて、傲慢な考えと思い知ったかしら。」
とても小さな、雑踏にまぎれてしまう話声。
しかしミシェルの耳にはしっかりと届き、悪意の籠った視線と共に胸に突き刺さる。
「っ…!」
ミシェルはきゅっと唇を噛み占める。
深く息を吐いて、もう一度吸って、意を決して顔を上げた。
悪意のある視線を感じながらも、背筋を伸ばして静かに笑みを作る。
(しっかりしないと…。)
自分はカールソン家の人間になるのだ。
浮き名高いエミリオの妻と言うのは、そういう立場だとよくよく理解している。
一々気にして落ち込むような繊細な心は、持っていてはいけないのだと、自分自身に言い聞かせた。
そうして必死に立とうとするミシェルだった。
しかし熱い大きな手の平が背に添えられたことで、いつの間にか隣にいた男に気付く。
背の高い彼を、ミシェルは薄茶色の瞳で見上げた。
彼はいつも通りの無表情だ。
だけれどどこか気遣うような心配そうな色があった。
今は蜂蜜色の髪をしたアルベルトの腕が、ミシェルの腰を引き寄せる。
「っ…!」
同時に、ミシェルへ悪意を向けていた女性達が顔色を変える。
「どうして」と言う囁きが聞こえた。
どうしてそんな女をかばうのか、とアルベルトを攻める色合いの囁き。
ミシェルは慌ててアルベルトから離れようとしたが、しかし腰に回ったアルベルトの腕の力は更に強まり逃れられなくなる。
「あ、あの。」
「なぜ…一人で立とうとする。」
「え?」
「すぐ近くに居るのだから、呼べば良いだろう。一人で耐えて我慢して終わらせようとするな。」
「も、申し訳ありません。」
「…いや。」
アルベルトは思わず感情的な発言をしてしまった己を自覚したのか、気まずげに視線を泳がせた。
(調子が狂う…。)
側にいる自分に助けを求めるどころか、探すそぶりさえせず。
彼女はこの多勢の敵の中、ただ一人で耐えようとする。
大人しそうな深窓の令嬢と言った外見に反して、人に頼ろうとはしない強情さ。
まるで守るべき立場にいる自分の力が何の意味もなさないようだ。
「その…、兄上の素行が悪いのは否定出来ないが。奥方になるミシェルを蔑ろにするような方ではないから…。」
「いえ、それは構わないのです。」
「…構わない?」
「はい。」
はっきりと頷くミシェルに、アルベルトは困惑する。
普通、旦那が浮気性だと泣くか怒るかするものだろう。
なのにミシェルは本当に堪えた様子も無く、むしろ許容するような事を言っている。
「しかし、泣きそうな顔をしていた。アンナの話にショックを受けたのだろう?」
「それは、その…ああ言った話には免疫なかったもので…。」
エミリオの浮気癖を知らされショックを受けていたのではない。
ただ慣れない生々しい男女の情事を聞かされて戸惑った。
そしてエミリオに情を持っていないミシェルにとって、エミリオが誰と寝ようが困る事は無いのも事実。
泣きそうになるほどに怖かったのは内容ではなく、悪意のある視線。
逃げたかったのは、女性たち攻めるような言葉から。
そして今、そこから救ってくれたのは、アルベルトだった。
「ありがとう、ございました。」
ミシェルはアルベルトを見つめて柔らかく微笑む。
そのふわりとした自然な笑顔に、アルベルトは戸惑った。
彼はじっとミシェルの笑みを見続けることは出来ずに、ついには視線を背けてしまう。
アルベルトの耳元が赤くなっているように見えたが、ミシェルは何も言わなかった。
「普通は泣くか怒るかするものだと思うが…。まぁいい。それにしてもアンナはどう言うつもりなのだか。」
「…?アンナ様と、お知り合いなのですか?」
「あぁ、…少しな。」
アルベルトは気まずそうに言葉を濁す。
「ご友人ですか?」
「…似たようなものだ。」
これ以上に入り込むなと意味を含んだ、分かりやすくそっけない返事。
アンナとアルベルトの関係に何があるのか、教えてくれるつもりはないようだ。
エミリオと彼女が男女の仲だと知った時とは違う、ざわりと騒がしい感情がミシェルを襲う。
19年間生きていた中で初めて感じる落ち着かなさだった。
「どうした、疲れたか?」
ミシェルの表情がこわばったのを見逃さず、腰にまわした腕を解いたアルベルトはそっと身をかがめて来た。
心配そうな優しい響きの男の声に、ミシェル何故だか泣きたくなった。
出来ることなら彼の気鬱を晴らしたくて、少し無理して笑みを作る。
「…えぇ、少し。」
「それなら、もう帰るか。」
「よろしいのですか?」
「主催の公爵度に挨拶は済ましたからな。」
「エミリオ様と踊るの、楽しみにしてらっしゃる方がたくさんいらっしゃいますわ。」
「放っておけ。そもそもこういう場に出席するのはエミリオの役割だったから、慣れなくて居心地が悪いんだ。」
眉をひそめ、首元を飾るアスコットスカーフを触りながら言う。
普段よりきつく締められた首元が落ち着かないのだろう。
ミシェルはそんな子供の様な我儘と仕草に思わず笑いをこぼし、頷いた。
そしてアルベルトの腕に彼女は自ら手を添える。
始めてミシェルの方から近づいてきたことに、アルベルトは驚きつつも、平常を保っているふりをした。
指摘すれば照れて外されてしまうのが分かりきっていたからだ。




