第七話
その言葉に対して良くない感覚がするのは、夏帆の思い過ごしだろうか。そうだと願いたい。
絵美が波菜の一方的な口論を手で制止する。トドメで波菜が絵美の踵を爪先で蹴った。夏帆は同情の視線を送るが、当の本人は痛みの余りで苦い顔をしながらも、すぐに笑顔を繕った。足だけが若干震えている様子を夏帆は見逃さなかった。
「名前は何ちゃん?」
「その子は――」
「波菜が答えちゃ駄目だよ。この子に訊いてるんだから」
絵美は直接本人から名前を聞き出さないと気が済まないらしい。夏帆は彼女の近過ぎる視線に驚き、自然と肩に力が入った。
絵美の黄色を帯びた茶色い瞳が光の反射で輝く。
「夏帆です」
「かほ」
絵美が名前を反芻して確かめる。彼女は夏帆の手前にあるテーブルの上にある紙を発見し、そこに書かれた『夏帆』の文字を確認して、納得したように首をうんうんと縦に動かした。
「良い名前。見た目からしても花が綻ぶ女の子ってカンジ」
名前に対しての感想に、夏帆は密かに頭の中で疑問符を浮かべた。さすがに飛躍し過ぎな褒め言葉に感じられる。嬉しいが、自分に似合った言葉と思えないので、お世辞として受け取る事にした。
夏帆は何か言おうか迷っている内に、再び絵美が先手を打って口を開いた。
「改めまして絵美です。住処は妖魔の森だけど、半分ここに住んでるようなモンかな。実はあたしは魔女の生き残りで、現在妖魔の森に住んでる魔法使いはあたしだけなんだよねー。若干一名だけ例外のお隣さんも居るけど、凄いでしょ?」
絵美は夏帆に同意を求めるが、残念ながらそれは無理だった。何故なら彼女の言い分がさっぱり理解出来ないからだ。何処でどう感心すれば良いか分からない。
「うー。そこは嘘でも『凄い』って言って欲しいなあ」
「凄い凄い。黙れ」
棒読みで波菜が褒めたかと思うと、たった一言で絵美を黙らせた。命令された本人は背筋から足首まで真っ直ぐにし、気を付けをする。
「コイツとは何年か前からの腐れ縁の仲。悪友と呼ぶべきか否かははっきりしないわね」
友人の自己紹介にしてはどこか棘があるが、そこは詮索しない方がいいのかもしれない。
「悪友って。ひっどいなあ。たった一人でこの貧相な森に住んでるシスターを、毎日慰めに来てあげてるんじゃないか」
「シスターとは呼ばないで、と何度言ったら分かるの」
今一番の波菜の鋭い視線が絵美を捕らえる。自分が睨み付けられている訳ではないのに、夏帆は反射的に身の危険を感じて肩を窄めた。とにかく口を滑らせて余計な事を言わないよう、大人しくしていようと心に誓う。
さすがに絵美も反省した様子で、両の掌を口の前で交差させて閉口を決める。
「夏帆、私はまだ貴女から名前しか訊いていない」
緊張の空気がぶり返す。毅然とした波菜の態度には勝てる気がしない。尤も、彼女に勝つ気は最初からないが。
「貴女、シリスの森で悪魔に襲われた事は覚えてる?」
「シリス……」
波菜は夏帆の態度を見て察し、肩眉を下げた。
「あそこがシリスの森だと知らないで入ったの?」
「波菜に言われたくないよねえ。夏帆ちゃん」
呆れたような声に、夏帆に対するフォロー。この二人の温度差には如何にも慣れそうにない。
「シリスの森はね、神様の領域なんだよ。アドス神のだっけ?」
「……ティアナ教に携わる神域だったら、私がここに住む事に周りがどうこう言う訳ないでしょ」
波菜の機嫌が斜めになる。触れてはならない話題だったのだろうか。
「済みません」
「謝るくらいなら最初から森に入らない方が良かったわね。森は神域云々に加えて、悪魔の住処になりつつある辺境の地だから誰も近付かない事ぐらい、耳にした事あるでしょう。だから好奇心で近付くのは……」
「いえ、違うんです。私、何も分からないんです」
「ああ、やっぱり無知の方ね」
またもや呆れた溜息を吐かれる。やはり、いたたまれない。
「忠告はしたわよ。とりあえず、貴女の家は何処? このまま普通にウチから追い出すのも義理人情に反するから送るわ」
「わあ波菜、おっとこ前!」
「五月蝿い。白芦から来たのかしら。それとも砂漠を越えて来たの?」
「……――」
(あれ……?)
頭の中で記憶を探る。だが、夏帆は何も見付けられない。記憶の欠片が全て闇の中に葬り去られ、何もかも失ってしまった感覚がする。
そんな事が、ある筈がない。
思い出せない。
何もない。
(空っぽだ)
自分が何処に行こうとしているのか、していたのか。心の中にある筈の思い出が、断片すら探り出せない。
「分かりません」
「え?」
静寂が訪れる。空気が淀む。視界と聴覚が停止してしまった様に、目の前に居る筈の波菜と絵美の表情が窺えなくなった。ここに居るのは、夏帆一人。
「わたし、は……」
目頭が熱くなり、終には夏帆は頭を抱え始めた。
頭が割れる様に痛い。脳が何かを思い出そうとする夏帆を拒んだ。
「うっ……あっ」
見えない。夏帆の中には光がない。
「ひっ……止めて。お願い」
最早自分は何に祈っているのか知らない。失いたくない。沈んでしまいたくない。
夏帆は、頭を抱えたままその場に座り込む。その時、何者にも拒絶される感覚を覚えた。
ガタンッ
座っていた椅子が真横に倒れる。夏帆はかろうじて膝を床に付き、片手をテーブルに置いて体勢を保とうとする。だが激しい頭痛が彼女を襲い、身体が言う事を聞きそうにない。
絵美が夏帆の背中を支え、何とか床に突っ伏さずに済んだが、未だに痛みは収まらず、脳髄から四肢までもが熱くなるのを感じる。心臓が大きく鳴り響く。
「大丈夫?」
絵美が優しい声音で夏帆に語り掛ける。彼女の声で夏帆はやっと長い夢から覚めた気がして、現実に意識を戻した。
「……ごめんなさい。有難う」
夏帆はいつの間にか目から零れ落ちていた涙を手の甲で拭い、首だけ動かしてお辞儀をした。
「無理しないで。……波菜、この子は」
「ええ」
波菜は皆まで言わないで了承する。彼女も夏帆の方に歩み寄り、夏帆を立ち上がらさせ、椅子に座らせる。波菜はその向かい側の席に戻り、テーブルの上で指を組んだ。
「言いたくないけれど」
虚ろな目をする夏帆に、波菜は現実を叩き付けた。
「記憶を喪失しているのね」
胸がチクリと痛む。身体が熱い。これ以上、何も聞きたくなかった。
「記憶喪失……」
「断言出来ないけど」
それが答えだと思いたくない。だが、それ以外の答えはきっとない。
「歳は幾つ?」
夏帆は首を横に振る。
「じゃあ、誕生日も覚えてないわよね。家族も?」
今度は夏帆は首を縦に振る。
「もしかしてとは思うけど――」
彼女の次の言葉は、夏帆の理解を遅らせた。
「この世界を、貴女は知っている?」
「……いいえ」
そう応えるしかなかった。波菜と絵美の会話の内容がまったく理解出来なかったのは、夏帆自身が見も知らぬ所に対する動揺、同時にここがどのような世界なのかを把握出来ていないからだ。
ヒュウガも悪魔も白芦もシリスも、彼女達はあるのが当然の様に口にするが、まるで何を指して話しているのか解らない。
だが自分の生命がここに存在する限り、『世界』を知らないのは奇妙しいのだ。不安を感じながら、すくなくとも懐かしさや嬉しさ、好奇心を覚えるのが普通だ。夏帆にはそれがない。探究心を感じさせない程知らない事が多過ぎて、解明出来ない世界が怖い。
「夏帆」
名前を呼ばれて、夏帆は顔を上げる。
(ん?)
瞬間、また一つ、今の今まで気付いていなかった疑問が生まれた。
「何故――」
(私、どうして)
『名前だけは言えるの?』
夏帆の心から漏れた声と、波菜のあからさまに疑わし気な声が重なった。
「ごめんなさいね。正直な感想を言ってしまうと、胡散臭くて」
「う、胡散臭い……?」
五秒程遅れて、夏帆は波菜の言わんとする事に思い至る。
「う、嘘なんてついてないです」
つい声が上擦った。火に油を注いだ気がする。しかし記憶喪失という事実にここまでショックを受けている夏帆の顔を目の当たりにしているにも関わらず、演技と考えるなどあんまりだ。夏帆にとっては言い掛かり以外の何物でもなかった。
夏帆の中で僅かな怒りがだんだんと込み上げてくる一方、波菜はさらに淡々と正直な感想を述べていく。
「名前だけ覚えてるってどう考えても不自然だわ。それともさらに嘘を重ねて偽名使ってる? 記憶を失くしたフリして私を油断させてから金目の物を盗む、私の中では貴女をそう解釈してるわ」
「なっ……」
緊張という感情が夏帆の頭からスポッと抜け出した。
「私、泥棒じゃありません!」
「じゃあ信頼に値する証拠はあるのかしら」
「私が嘘をついているっていう証拠だってないです」
「ほら、本性現してるし。何だか怪しいわね」
夏帆は思った。冷静どころか波菜は絵美とさほど性格が変わらない気がする。むしろ、似た者同士だからこそ成り立っている友情ではないだろうか。――それを言ったら絵美には失礼だが。
「本性もなにもないです。こんな酷い謂れ、誰だって怒ります」
さっきまで自分の中で募っていた恐怖は一体何処へ吹き飛んでしまったのだろう。
「勘違いしないで。嘘をついてないっていう証拠を本人から見せて貰うつもりはないわ」
「え?」
夏帆から聞き出す以外にどうやって嘘か真実かを見極めるというのだろう。
(そもそも私が証明する物を持ってないんだ……)
上手く乗せられてしまいそうで怖い。嘘などここに来てから、一切ついてないと言うのに。出鱈目を言って得する事など夏帆にはないのだから。
軽くこれからの自分の行く末に絶望し、肩をガックリ落とす夏帆を他所に、波菜はポケットの中から取り出した物を、静かな動作でテーブルの上にそっと置いた。
夏帆は目を凝らしてそれを見る。彼女の黒い瞳に映ったのは、細長く四角い紙の束。
「札?」
「ご名答」
「最終手段だね」
夏帆達の様子を暫く傍観していた絵美が、にっと笑って白い歯を見せた。
カードは夏帆の手よりは小さく、裏面を上にしたカードには真ん中に三角形と逆三角形が交わった図形が描かれ、色は薄い紫だ。夏帆はこれを知っている。
「タロット、占いに使うカードですよね」
「あら。タロットを知ってるなんて光栄ね」
おそらく波菜は最初に会った時から夏帆の事を疑っていて、不審を顔や声音には出さないようにしていたのだろう。本心をバラした途端、彼女は夏帆に向かって怪訝な視線を向けている。だが、不審人物だと思われるのは、よく考えてみれば当たり前だ。名前以外の記憶がないという事は、夏帆は自分が何者なのかをはっきりさせる事が出来ないという事だ。自分の素性すら解ってない、まるで人形から人間になりたてのような人物を怪しむなという方が無理かもしれない。
「さて、名無しさん」
「夏帆じゃ駄目なんですか」
さっきまで夏帆と呼んでくれていた筈だ。
「それが貴女の本名だとハッキリするまでそう呼ばせて貰うわ」
何となく悔しい。
波菜はタロットの束を手に取り、それを扇形に広げて口元を覆った。
「そもそも、どうして占いをする必要があるんですか」
正直タロットにはとても興味があるのだが、我慢を決めて好奇心を拳の中に閉じ込めた。
「解らない子ね。言ったでしょ。タロットで貴女の素性を明かそうという事よ」
「そ、それ、本当に当たるんですか」
「信じない?」
カード越しで波菜が微笑み、上目遣いで夏帆に問う。本人の態度から占いには自信はあるようだ。特技なのか、それとも只の趣味でやっているのか。
「……お願いします」
「宜しい。今からタロットが答えてくれる事は五つ」
波菜は自らの片方の掌を、夏帆の顔の手前まで押し付けるようにして見せた。
「貴女の『過去』、『現在』、『近い未来』、『来るべき未来』。そして貴女自身よ」
テーブルの上で、一枚、二枚とタロットが並べられ始めた。