第六話
Ⅱ
淡い色を帯びた光の玉と、黒い色に塗り潰された闇の玉。否、玉ではなく只の球体だ。
無意識にその二つの球体に手を伸ばす動作を、彼女はすぐに止めた。
どちらを掴めば良い?
善悪を問われれば、どちらが善なのかは明らかだ。だが、彼女は自らの姿を明るくしてくれる光の球体にでさえも、触れようとはしなかった。
(触れたと同時に、消えてしまいそうで)
何故そう思ったのかは解らない。それでもはっきりとそう感じた。
パリンッ
色だけを帯びていた筈の光の球体は、硝子の様に割れて、彼女の眼の前で砕け散った。
残るは、闇の球体のみ。
彼女は自分の姿を捉えられなくなった。たった一つの、ただでさえ儚い光が、触れてもいないのに突然失われてしまったからだ。
(厭……)
飲み込まれる。闇の深淵に。
剣呑の雰囲気を醸し出す闇は、確かに彼女の身体を包み込んでいく。
「厭……止めて。厭」
最早、手探りでも何も掴めない。自由を奪われ、彼女に為す術は何処にもない。
「あああああッ」
ガバッ!
呼吸がやけに苦しい。今まで自ら呼吸を止めていたかの様に。たった今、肺に溜め込まれていた息を一気に吐き出したらしい。吐いても吐いても、まだ喉の辺りが解放されていないようで、気持ち悪くなった。
「うっ」
慌てて両手を使って口を抑える。
外の空気を吸いたい。
彼女はベッドから床に足を下ろした。
「え、ベッド……?」
ようやっと、今自分が居る所を把握する。
「私、寝ていたの?」
自問しても自答が出来ない。彼女自身、こんな昼間からベッドで寝ている自分の状況を理解出来なかった。
「民家、だよね」
彼女は辺りを見渡す。見慣れないので、自宅ではないのだろう。
「じた、く」
思った言葉がさらに疑問を重ねた。自分の家という感覚はしないものの、自分が帰るべき場所も思い浮かばない。
「じゃあ、ここは何処?」
訳も分からない質問を一人ごちても仕方がない。とりあえずベッドから腰を浮かすと、身体が少しよろける。すぐ傍にあったカーテンに掴まって体勢を立て直した。
(外に行きたい)
彼女は玄関を探しに、覚束ない足取りで家の中を徘徊し始めた。
ベッドのある部屋から廊下に出ると、すぐ目の前に、斜め下に行き着く真っ直ぐな階段があった。彼女がその階段に足を着けた途端、ギシギシと音が鳴る。穴が空く気配はないので、梯子よりは安全だろうか。どうやら階段の板は木材のみを使っているようだ。手摺がないので壁に片手を付けながらゆっくりと階下に向かった。
階下に到着してから階段裏を覗くと、そこは物置になっていた。階段が続いていないと言う事は、ここが最下階で一階らしい。
左右に道が分かれていたが、右の方が明るい。玄関の扉の隙間から漏れる光が一階を微かに照らしているのだ。彼女は右に曲がって玄関に直行する。
扉のノブを回して、外に出た。
容赦なく彼女の目の前に飛び込んできた光は太陽だ。反射的に瞑った目を右目から開くと、鮮やかな青色の空が確かめられた。
風が気持ち良い。光と風、自然の空気に触れた途端に心も身体の調子もあっという間に良くなった気がした。
感嘆の声を飲み込み、呼吸が落ち着いているのが分かる。
「綺麗……」
今、大地と天空が彼女の足下と頭上に存在している。当たり前の事が彼女を安心させる。
さらに正面を向くと、森の中へと誘う入り口が見えた。
「森? 何でこんな所に」
とても不思議に思えた彼女は、吸い込まれる様に森の方へと足が行った。
進んだ先に、何があるのだろう。
「貴女、懲りないのね」
刹那、左方向から第三者の声が耳に響く。
彼女は声がする方向へゆっくりと首を曲げた。
すぐに目についたのはピンクの髪色だ。一つに束ねたその髪を三つ編みにして肩にかけ、上から下まで一つに繋がっている藍色の長袖の服が、大人の雰囲気を漂わせる。と思いきや、よく見ると顔立ちは幼い。十代後半という所だろうか。殆ど黒い服だとイマイチ色合いが少なく感じる筈が、ピンクの髪色と合わせた翠色の瞳が――目の前の少女を充分輝かしく魅せている。
少女の口が再びゆっくりと開かれた。
「熱はないようだけど、まだ寝ていた方が“身の為”よ?」
「…………」
さらりと恐ろしい忠告をされた気がした。自分が置かれている状況を大いに知りたくなってくる。
「あの」
「立ち話をする気はないわ。中へ入って」
今、彼女が出て来たドアに少女が逆戻りする。
とりあえず外の空気を吸ったお陰で身体の調子は良好したので、彼女は言われるがまま家の中に戻った。
二階に行くのではないようだ。ピンクの髪の少女は階段と物置のすぐ隣の部屋のドアノブを回して、中に滑り込む。彼女も続いて中に入ると、後ろ手でドアを閉めた。
起き上がりのせいか、さっきのベッドのある部屋を一望する余裕はなかったが、二階にあった部屋とは少し雰囲気が違う気がする。
ここには寝台はなく、小さな長方形の木の板を組み合わせて作ったテーブルに、同じ色の四人分の木の椅子が置かれている。さらに窓がドアと対面して設置され、あとは大きな棚が隅に一つあるだけの、何処か殺風景な部屋だった。一応、窓に取り付けられたアイスグリーンのカーテンから、家庭らしさは感じられた。
彼女は出て来たドアと、もう一枚、西にもドアがある事に気が付いた。だが、先にはどんな部屋があるかなどの興味より、今は緊張感の方が勝っていた。
既に少女は彼女の向かいの椅子に座って、頬杖をついている。
「どうぞ」
少女は彼女に、すぐ目の前の椅子を手の平をこちらに向けて勧めた。
はい、と返事をしようとしたが、緊張のあまりか細い声しか出ず、結局無言で椅子に座る。少女の方は特に返事しない事には構わず、彼女をじっと見つめるだけだった。見られて、すぐさまいたたまれなく感じてきて、彼女は身体を縮めて下を向く。
「私は波菜」
少女はおそらく、自分の名を名乗った。
「貴女の名前は?」
人の名を訊く時は自分から名乗るものだという教訓を、少女は正しく認識している。
彼女はゆっくりと顔を上げ、波菜を見つめ返した。
息を飲む。いや、今は自分の名を訊かれているのだ。収まらない激しい鼓動を抑える為、胸に手を当て声を出す。
「夏帆……です」
自分の名前を言うだけで精一杯で、夏帆は大袈裟に胸を撫で下ろした。
「『かほ』? 短いわね。発音からしてもヒュウガの名前って事かしら」
「はい?」
「?」
二人して思わず顔を見合わせた。心底、二人共お互いに、相手の応答が変に思えたようだ。
「……でしょ?」
「あの、『ヒュウガの名前』って何ですか?」
「え、貴女いくつよ」
夏帆は波菜に呆れた声を出されて、肩が少し飛び上がる。畏縮して再び俯いた。
波菜は夏帆が人見知りで怯えているのだと分かって、溜息をつき肩を竦めた。
「えーっと……じゃあ」
波菜は立ち上がり、棚を開けて何かを取り出す。テーブルに置かれたのは鳥の羽根がついた黒い軸のペンと、表面がザラザラとした触り心地の白い紙だ。
「ここに、自分の名を書いて」
波菜がペンを上に乗せた状態の紙を、夏帆の方に机上で滑らせて促す。夏帆はそっとペンを取り、少し留まってから紙の真ん中に縦で『夏』に『帆』と書いて『夏帆』という文字を書き上げた。
「これでいいです、か?」
未だに上手く喋れない。たった二文字を書いただけで息が上がる。
「文字は書けるのに。何故『ヒュウガ』という単語が理解出来ないの?」
訊かれてもどうしようもない。文字は無論書ける。だが『ヒュウガ』は夏帆にとって、まったく聞かれ慣れていない言葉だ。一体何の事なのだろう。
「――もしかして『読み』が出来なかったりして」
波菜がぼそりと呟く。波菜は夏帆が使った紙にそのまま、もう二文字白い紙に書き加えた。夏帆から見て逆さまの文字が正位置で見えるように、波菜は紙を反転させた。
「これ、読める?」
「……『はな』」
「これは私のヒュウガ字。『なみな』と読むわ」
「あ、成、程」
『波菜』と書いて『なみな』は分かったが、ヒュウガが分からない。だがその時、夏帆はやっと理解した。
「ヒュ、『ヒュウガ』って。国語の事ですか!?」
「――ど忘れなのかただの無知なのか知らないけど、まあそうよ。国語っていうか地上ではたった二つにしか分類されていないけれど」
今一番の疑問を解決して、夏帆はやっと落ち着く。――否、一番ではない。こんな細かい事が今知りたいのではなかった。と夏帆が色々考えていると、波菜は再びもう二文字書いていた。
「じゃあ、これは?」
夏帆は何故だかもう何にでも応えられる気がして、両手を拳にしながら口をへの字にし、波菜の第四問目に挑戦する。
「――『えみ』」
「呼ばれて遅れて、ただ今参上!」
――沈黙。夏帆と波菜は途端に口を閉ざす。明らかに二人ではない、明るい一声が飛び出してきた、気がするが。
「幻聴?」
「お好きに解釈して」
夏帆は吃驚し過ぎて固まっているが、波菜は全然気にする様子がない。だが台詞から、夏帆だけが聞こえた声ではないようだ。ところで『参上』と言いながら姿が見えないのはどういう事なのだろう。
ところが、不意打ちもいいところだ。
「ただいま帰りました――っ!」
「わあっ!」
夏帆は椅子ごと後方に身体が倒れ、背中を強く打ち付ける。今日一番の驚きだ。
「いたた……」
背中をさする。腫れてはいないだろうか。
「わわっごめんね。え――――っと?」
夏帆は声がする方向へ目を向けたが、大声の主の前に波菜が立ち塞がり、顔が見えない。夏帆はその時何かを感じ取った。波菜の背中から、黒いものが……。
「アンタ、私から一体何発喰らいたいの? 十発? 二十発? お望みなら百発、買い物してくれたご褒美に進呈進ぜよう」
語尾が、奇妙しい。恐ろしい。
「ちょちょっ待って待って! 波菜を驚かすつもりだったんだよ!?」
「言い訳になってない馬鹿野郎」
「あたし、野郎じゃないよ」
「いいから玄関から入って来なさあああい!!」
バシッバシッバシッ!
――窓から離れて夏帆の腕をとって椅子に座り直させ、ただ腕組をして立ち尽くす波菜。窓の外に居た筈の人物は何処へ消えたのか。先程の凄い音は一体何なのか。訊ける勇気までは夏帆にはなかった。
「いやー、何かね。呼ばれた気がして」
「誰も呼んでないわよ」
改めて玄関から入って来た絵美という少女は、全体的に黒い半袖の上着を身に纏い、白く丈が短いスカートを穿いていた。頭に被る同じく黒い帽子は、三角に尖がっていて思わず興味を惹く形状だ。
今までの閑散とした雰囲気とは裏腹に、こちらの波菜が本性なのだろうと夏帆は納得する。
「あの、絵美さん?」
「絵美でいいよ。で、どなた?」
訊くのが些か遅い気がする。絵美は高い位置で二つに縛った長い茶髪を揺らしながら尋ねる。だが夏帆が答える前に、絵美が予想した回答を言ってみせた。
「波菜の隠し子かな」
まったく的を射ていない。
「私がこんな大きい子供を持つような歳に見える訳?」
「だよね。こういうのを何? 隠し妹って言うんだっけ」
「血が繋がっていない妹だと? 言っとくけど、妹でもないわ」
「じゃあ姉だ」
「そろそろふざけるの、止めてくれるかしら」
絵美が来た所で一気に部屋の中の空気が変わり、会話がどんどん交わされる。二人の少女の漫才のような会話を、夏帆はただ呆然と眺めた。
「拾ったのよ」
「ふーん。波菜って、世捨て人とか拾っちゃうタイプなんだ」
「生憎、そこまで慈悲深くはないわね。悪魔に襲われかけてたから人として助けたまでよ」
「成程ね。どーする? 家の周りに結界、張っときましょうか?」
「その分食料、多めに要求するじゃない」
「いいじゃん。魔力には穀物なんだよ。護衛してあげるんだから安いモンでしょ」
「安くないわよ。相当食費が嵩むのよっ!」
語尾の方を強めで波菜が言い放つ。会話の中で、やはり夏帆が知らない単語が出て来た。
(悪魔? 魔力?)
数々の疑問が頭の中で回り、夏帆は目を瞬かせた。