第五話
藁箒を右手に持ち、くるりと身体を反転させた絵美が玄関でブーツを履いて外に向かう。
家の周りはほぼ森で囲まれているせいで、本来は掃除を始めた所で落ち葉を掃いてもキリが無い。だが昨日波菜が念入りに落ち葉をかき集めたので、今回に限っての庭掃除はそれ程長く掛からないだろう。
案の定、絵美は波菜が一杯目の紅茶を飲み終えた途端に、少しだけスカートを煤だらけにさせた状態で居間に戻って来た。
「よしっ。これで昼食分は働いたよね?」
鼻高々に仁王立ち。
「んな訳ないでしょ。そうね。今のでスープ一杯分ってトコかしら」
「そんなんじゃ足らないよー」
絵美は頬を膨らませて項垂れた。
「次は買い物よ。早く行きなさい」
波菜が服の左ポケットの中を探る。その時、絵美の茶色い瞳がキラキラと光り始めた。
絵美は両の手のひらを波菜に向かってバッと差し出す。僭越な態度に呆れながらも、波菜は片方だけの手に銀貨一枚を握らせた。
「んじゃ、魔女っ子絵美ちゃん行って来ま~す」
「余計な物買って来たら、ただじゃ置かないからね」
「努力するよ」
必要以上に買う事は最早前提なのか。波菜は少しだけ眉を吊り上げたが、絵美の煮え切らない応答に対して返事はせずに、そのまま見送った。
野菜等の食材を買って来てくれれば何を作っても良い。買い物が済んでからもそれなりに絵美を扱き使う気は満々なので、その分彼女に献立は委ねるつもりだ。
波菜の家は丁度丘の上に位置している。だが丘自体はそれ程高くはなく、緩やかな坂を下れば半刻も経たずに平野部に辿り着く事が出来た。平野部では、市場が毎日朝早くから夕方まで開かれている村があり、波菜は食料を調達する際に度々その村に行くのである。
ところで、絵美がその村まで行くのに足を使っているとは波菜は思っていない。何故なら、彼女は〝人間には到底使えない手段〟で常に行動しているからである。
波菜は開け放された玄関の扉の外に足を踏み入れ、後ろ手で扉を閉めた。
まだ外の空気は涼しいままだ。これから暑い季節がやって来る。
(……丁度この季節だったわね)
遥かの昔の記憶が、微かに脳裏を横切る。――思い出したくないもないと頭では感じている筈なのに、少しでも頭の中で記憶が蘇れば、自己嫌悪に陥るまで止まない。記憶とは生き物としては大変便利で不可欠なものだが、時には厄介なものにもなり得る。
(消えないという事は、忘れられないという事だわ)
しかも厭な事程覚えているものだと言うのだから、頭の中で広がる回想は、メリットよりデメリットの方が大きいのではないだろうか、とつくづく考えてしまう。
波菜は首を振って、忌まわしい記憶を無理矢理頭から追い出した。
革のブーツの裏で深い青緑色の草を踏み潰す音がやけに大きく聞こえるのは、不気味に思えるくらいのこの静寂のせいだろう。波菜が知る限り、丘の上に住む者は彼女以外ただの一人も居ない。丘を下れば真っ先に村に着き、上に上れば山道に入るが、家が建てられる規模の土地はない。木々を倒せばそれなりに土地は出来上がる筈だが、今の所山の中で住もうと思う者は居ないのである。
ならば森の中なら、と考える者こそ居ない。波菜の家周辺の森は、『シリスの森』と呼ばれる。即ち神の領域と呼ばれる『神明の森』だ。
宗教でいう神の付き合い方は「近過ぎず、遠過ぎず」と言われ、神域である森の中で『人』の住宅を作る事は神域を穢す事に等しい。だから人がシリスの森に移り住む事は皆無だ。波菜を除いて。
波菜は十三の時に、シリスの森に一戸建ての小さい家を建てると決めた。だが勿論その時は、周りに拒まれた。終いには修道士まで呼ばれて、説教させられる羽目にもなった。が、波菜は堂々と修道士に言い返したのである。
「森の中には変わりないわね。けれど森の中は木々が囲まれていない土地が一ヶ所くらいあるでしょうよ」
「何が言いたいのですか」
修道士は容赦なく波菜を睨みつけた。だが波菜の方は、相手が修道士でもまるで意に介さない様子だった。
「要するに、〝神域の木々を倒さずに建築さえすれば穢す事にはならない〟んじゃないかしら?」
木々ならともかく『地面』ならば、神域の地と、神域でないごく普通に点在する住宅地の地は同一化しているので、緑を避けた場所なら文句はないだろうと波菜は考えたのだ。
十三の少女とは思えない口調に圧倒された修道士は、渋々言いながらも承諾した。
良く言えば巧みな話術で言い負かした。悪く言えばただの屁理屈だと誰も口に出さない。
それから波菜がこの孤立した空間に移り住んで三年経った。
絵美という友人が、毎日のように訪れる事に鬱陶しさがないと言ったら嘘になる。だがそれを除けばとても環境の良い場所だと思う。
木々の葉の隙間から漏れる太陽の光、いつでも涼しい空気を与えてくれる木陰、草むらを掻き分けて森を探検してみれば、奥の花畑にも辿り着く事が出来る。まさに緑に恵まれし大地。ここが神の領域と呼ばれるのも頷ける。
しかし、一つだけ波菜の気に入らない所があった。それは、シリスの森が『神域』という所である。
波菜が移り住む前から、シリスの森は当然、神の領域と呼ばれ続けていた。だから波菜は、人々が森を神域と呼ぶ事は否定など出来ない。分かっていても尚、彼女は『神』や『神を崇める行為』を嫌う。十年前、否、既に十一年前となるあの日から――。
――波菜が信仰を嫌いになったと同時に、魔光界も変わった。
森の奥を進む度に足取りが重くなるのは、十一年前までこの世界に『居る筈のなかった生き物』が森の中に居る事を確信しているからだ。波菜とて、その存在に不安を覚えずにはいられない。
「神の住処もあったもんじゃないわね」
波菜は草むらと幹を避けながら歩き、一人ごちる。周りには誰も居ない。寧ろ何も居て欲しくない。居た所で、それが『人』である可能性は低いだろう。
波菜はそこに何かが居るかもしれないという可能性を考えても、たまに森の中を一人で歩きたい時があった。今がその時だ。最初は絵美が庭掃除を適当に終わらせていないかを確認する為に外に出たのだが、目に飛び込んでくる森の方に視線が行ってしまい、急に散歩したい衝動感に駆られてしまった。ここまで来たら、後は何事もなく散歩を終える事を一心に祈る他ない。
ガサガサッ
急に草むらが揺れた。だが揺れたのは本当に一部分の草むらだけで、周りの木々はまったく以て揺れていない。つまり、風ではない。よって、波菜の願いはここで打ち砕かれたのだ。
「そんな……」
早朝の墓参りの時には遭遇しなかったのに、まさかここで出会う事になろうとは。稀ではなくこういう事はしょっちゅうだ。だから波菜は決して驚く事はないのだが、絶望に似た気持ちが込み上げてくるのである。
草むらの向こうに居るのが小動物に分類される魔物ならいい。しかし確率からして、波菜の予想は見事的を射てほしくない所で的中するだろう。
波菜はそれをすぐ目の前で確かめるのがどうしても拒まれて、とりあえず草むらから早歩きで後退り、針葉樹の幹の後ろに隠れ、遠くから草むらの向こうを窺った。
人の姿のようなものが波菜の翠色の目に映る。だが“それ”は人にはなり得ない、獣のように尖った耳に、コウモリの様な翼を持った、全体的に姿形が薄黒に染まっている生き物だった。
人々はこれらの存在を『悪魔』と呼ぶ。
波菜は幼い頃から一体何度、見るだけで寒気が起きる恐ろしき生き物に遭遇したのだろう。いつもその時は家に閉じ籠っていれば良かったと思い、自分を責め立てるのだ。
波菜は経験上、悪魔と目を合わせなければ、奴らの牙のような歯や蹄で襲われる事はないと知っていたので、そのままその場から離れる事に決める。
(気付かれない様にしなければ)
悪魔はどれも薄黒い身体という点で違いはないが、身長や体系は一匹一匹が多少異なる。羽根の色が黒ではなく紅い者、体毛が異常に毛深い者、体格が大きくて耳が小さい者など。今波菜が見ている悪魔は、体格は痩せ細って、耳は尖っているが大きさは普通の人とそう変わらない。反応が鈍く、聴覚に優れていない悪魔だと窺えた。
波菜はほんの少し胸を撫で下ろす。こちらの姿をなるべく悪魔の視界に映らないように警戒し、屈もうとしたその瞬間――、
「!?」
信じられないものを見た。思わず波菜はその場で固まる。
悪魔の視線の先に何かが居る。
人だ。波菜は微かに人の黒髪を見た。木の陰からでは悪魔の上半身しか殆ど見えないが、その悪魔の鋭い視線の先を追うと、人が木に凭れ掛かった状態で座っている。
よく目を凝らすと、その人は波菜とそう歳も変わらないであろう少女だと判断出来た。
(あの子、何をしているの)
早く逃げて、と波菜は大声を張り上げそうになったが、ここで悪魔に見付かると、今度は波菜の方が厄介な事になる。正面から襲い掛かられたら、恐怖で足が竦み、動けなくなるかもしれない。
だが何もしなければ、あんな下級な悪魔でも少女が殺されてしまう事も有り得た。
助ける他に手段はないと、頭の中で良心と正義心が訴えている。
(正面からではなく、横から……不意打ちなら)
波菜は脳内で単純な作戦を練ってから、服の右ポケットの中に手を突っ込んで、一枚のカードを取り出した。
そして取り出したカードを人差し指と中指の間で挟み、一つの言葉を唱える。
「――『ラエンジェル』!」
波菜が大きな声でそう言い放った瞬間、カードが彼女の手の中で白い光を放つ。光は悪魔と少女の方まで広がった。
「グッ……ギャアアアア!」
すると、光を浴びた悪魔が雄叫びのような悲鳴を上げる。悪魔は目を抑え、終いには顔全体を両手で覆い、その場から走って離れて行った。
悪魔が逃げた途端にカードの光が収まり、波菜は安堵で息を吐く。カードはポケットの中へとそっと戻した。
「やっぱり、光程度じゃ追い払えるだけか」
呟いて、波菜は悪魔が居なくなった事を確認し、少女の方へと駆け寄る。見た所、襲われた形跡はない。間一髪だ。
「もうっ、貴女どうして逃げ……っ」
なかったのかと訊こうとした瞬間、それが無理だった事に気が付いた。
(この子、目を開けていない……)
波菜は少し顔を蒼白させる。そんな訳がないと頭の中で全否定を試みながら、震えた指で少女の呼吸を確かめた。
「!」
――よかった。とりあえず死んでいる訳ではなさそうだ。
悪魔の姿を見たせいで、気を失ってしまったのだろうか。そんな風に精神が弱い者も居る。大人の中で居たとしても、何ら不思議ではない。
波菜はしゃがんで、暫くその少女を観察する。
肩に少しかかるくらいの長さの黒髪は、木に寄り掛かっているせいか乱れている。顔自体は幼さが残るが、お世辞にも可憐な少女と呼べるぐらいには顔立ちは整っていた。
着ている上半身の無地の白い服は、森の中で彷徨っていた割には汚れ一つなく、袖は肩より少し下までしかない――寒そうだ。下半身もまた、短い薄い青色の半ズボンで、波菜が見た事がない布生地が使われている。何の糸を使っているのだろう。
そんな事よりも何よりも、少女は裸足だった。素足のまま、靴を履かずに何故こんな森の中に入ったのだろうか。
多くの疑問ばかりが募る中、突風によって、波菜の横髪が視界を遮る。森全体が揺れるように、ザワザワと緑が音を鳴らした。
まだ昼にもならない筈なのに、急に辺りが暗くなったように感じられて、この場で留まっているのが怖くなる。
「……どうしましょうか」
波菜は膝を上げて立ち上がり、黒髪の少女の長いまつ毛を指で触れた。