第二十話
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静寂を汚す轟音。酷く耳障りなそれは、彼女の鼓膜を嫌という程に振動させ、同時に憎悪の熱を強くした。
(一体何処から)
彼女は辺りを見渡す。だが近くとはいっても、動かなければ現場は見えない。そこに行けない悔しさに歯を食いしばりたくなる。
「気になるのか」
背後から聞こえる声に彼女は背筋を伸ばした。常に、彼の前で動じる様子を見せてはいけなかった。彼女は今更だが慌てるように首を振る。
「気になるのなら見て来ると良い。俺は止めはせん」
その言葉が意外だったのか、彼女の表情に一瞬、驚きの色が見て取れた。
今回は主の有難い言葉に甘んじ、彼女は停止させていた足を動かす。
「……すぐ戻ります」
空間の線を飛び越え、陽の当たる方へと身を投じた。
何事もなかったかのように再び足を動かす。そして当初森に入った時よりも静かに感じるのは、夏帆と絵美の間に会話が行き交っていないからだった。聞こえるのは葉擦れの音と土を踏みしめる音。悪魔と遭遇してから、二人は一言も言葉を発していなかった。
そして、この場の雰囲気に限界を感じたのは夏帆の方だった。
「あの……ごめんなさい」
歩きながら、前を歩く絵美の背中に向かって低く頭を下げる。
また謝らなくてはいけなかった。記憶を失くしてから、夏帆は誰かに謝ってばかりだ。それとも記憶を失くす前もこれ程までに人様に迷惑をかけていたのだろうか。
「私、何も出来なくて」
波菜相手には余計な事を口走って怒らせた。しかし今回は余計な事をするどころか、一歩を踏み出す事さえ叶わず、ただ立ち竦んでいただけだった。とんだ役立たずである。
何も出来ないかもしれない事は分かっていたが、それでも自分が出来るだけの事はやろうと活き込んでいたのに、結局は絵美の行動を傍観している事しか出来なかった。
夏帆の無力さはまた彼女自身を苦しめる。絵美がずっと黙っている事で、一層罪悪感が強くなる。やはり夏帆は森に来るべきではなかった。来るなら絵美一人の方が良かった。そんな悲観的な言葉だけが頭の中を回る。
ずっと夏帆が俯いた状態で歩を動かしていると、絵美が立ち止まり、肩越しに彼女を振り返った。
「足手まとい」
夏帆は唇を噛み締めて、泣きそうになるのを堪えた。
「そう思ってるの?」
何の感情も籠もってない問いはまるで夏帆を試しているかのようだ。それに彼女は答えられない。
絵美はふうと小さく息を吐いた。
「そう思うんだったら、あたしには今更ってカンジだけど」
いつもの優しさがないように思えるのは、やはり何も出来なかった夏帆を怒っているからだろうか。
「ちゃんとこっち向いて」
恐る恐る顔を上げると、絵美は無表情だった。
「ねえ。何か勘違いしてない?」絵美は腰に両手を当てて肩を落とす。「あたしが夏帆を連れて来たんじゃないでしょう」
「え?」
夏帆の中で矛盾が起こって、つい呆けた声が出る。
「あたしが、夏帆に付いて来たんだよ? 夏帆があたしに助けを請うのは想定内。迷惑とか足手まといになるとか、そんなの大いに結構。夏帆が不戦力なのはあたしだって分かってるし変な期待だってしてない。ただあたしはね――」へら、と力が抜ける笑いを夏帆に向ける。「夏帆に力を貸したいんだ。それだけ」
あまりの絵美の寛容さに夏帆の目が丸くなる。ぽかん、と口を開け放したまま彼女の科白を聞いている内に、夏帆は彼女をじーっと見つめていた。
「あ、えっと」
「ん?」
最後に微笑ましい表情を見せ付けられ、今度は歓喜で涙が出そうになった。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
意味もなくとんがり帽子の天辺に人差し指をあて、絵美が破顔する。
心が温まる感覚がする。木漏れ日が気持ち良い。彼女が一緒なら、きっと大丈夫だ。
けれど、守られてばかりではいけない事も分かっていた。
夏帆はせめてもの気持ちとして、絵美に笑い返す。
「そうだ。食べ損なったチーズ食べる?」
「あはは。今は遠慮しとく」
ずっと気を重くしていたせいで正直食欲はない。悪魔の姿を見た後だと余計にだ。
「よく考えたら、こんな所で弁当ひろげる訳にもいかなかったね」
言われてみればそうだ。だが絵美がくれたチーズは是非もう一度食べたい、と夏帆は暢気な事を考える。
今度、美恵花にチーズを使った料理を教えて貰おう。
二人は先に進む事を決心して頷き合うと、また歩を動かし始めた。
「お待ち下さい」
知らない声が夏帆達の足を止める。聞こえたのは、今まさに進もうと思っていた方向から。最初に見えたのは、深い草むらを強い力で押し避ける手だった。
草むらから現れたのは、黒い制服のようなものを着た長身の女性である。長い黒髪を背中まで伸ばし、短い白いスカートには襞がない。そこから伸びる形の良い足からスタイルの良さが窺えた。
夏帆に言わせて貰えば女性の中の女性だ。だが夏帆が一番目をひき付けられたのは、腰に下げている剣だった。
彼女は一体こんな所で何をしているのだろう。
「貴女達。こんな所で何をしているのですか」
先に言われた。
「それはこっちの科白でもある。アンタ誰?」
絵美は依然と落ち着いて問い返した。
女性は腰に手を当て、何処か挑戦的な構えで答える。
「私は、悪魔狩りの者です」
「!」
「へえ」
夏帆は口を噤む。絵美は決して愉快でなさそうな様子で片眉を下げた。
悪魔狩り――世界中で途絶える事なく出没する悪魔を狩る者。つまり、民の平穏を守る人々。夏帆はその程度の認識しか持ち合わせておらず、彼らが具体的にどのような退治をするのか知らないが、悪魔狩りはここ一帯には現れないという事なら美恵花から聞いている。どういう事だろう。
「上層ばっか守ってる筈の悪魔狩りが、こんな田舎まで来て何やってんの?」
絵美は皮肉めいた口調で女性に訊く。
「じょ――」
夏帆は慌てて自分の口を塞ぐ。今の絵美から漲る負のオーラを無視して、『上層って何』と世間知らずの質問をしてしまう所だった。
「……悪魔狩りの本拠地まで田舎の情報はなかなか回って来なかったのです。ですが数日前、シリスの森まで悪魔を狩るようにという指令を下され、遅ればせながらここまで足を運ばせて頂きました。――貴女方はここ近辺に住んでいる方々ですか?」
「うん」
「それは……さぞご苦労をされた事でしょう」
「まったくね」
女性の言葉を聞いて、何となく絵美が不機嫌になり始めた理由が解った。シリスの森が既に危険地帯になっているというのに、悪魔狩りは今までここに来て調査をしてくれなかったのだろう。まさに来るのが遅い、と絵美は静かに怒っているのだ。
「申し訳ありません」
女性が恭しく頭を下げる。
「どうせ悪魔狩り団体を作ったって吹聴するくらいなら、本当に危険なとこは何処かぐらい早急に把握して欲しいよ。街に下りても、ここが神の住処ってだけで、悪魔が多く出没する場所だって知らない人が居るんだから」
「ええ、聞き及んでおります。どちらにしても人が容易に近付かない所が危険地帯で幸いでした」
「命知らずが一人居ますけれども。うちの友人に」
「そういえば、一件民家が建っていましたね。後で注意を呼びかけないと……」
夏帆は波菜の事だと察する。そういえば、波菜は悪魔が出て来る事を知っている筈なのに、何故わざわざシリスの森に住み続けているのだろうか。悪魔を倒して鍛える目的でもあるのだろうか。――違うと思うが。
「ですがそのシリスの森に住み着いているという方の前に、貴女達です。こんな所で一般人と遭遇したからには、私は貴女方を保護する義務があります。どうぞ私と一緒に来て下さい」
「ど、何処にですか?」
「他に隊員が近くに居ます。私の仲間達の所までご同行をお願い出来ませんでしょうか」
「危険なのは百も承知。ねえ悪魔狩りさん。あたし達は魔女だから、心配しなくても良いよ」
「……魔女?」
(〝あたし達〟?)
女性と夏帆は互いに違う部分で首を傾げた。
夏帆は魔女ではない。何故絵美は一緒くたにしたのか。
「あたしら二人共、悪魔を対処出来る力は持ち合わせてるって事。だから保護は一切無用。森を調査するならどうぞご自由に」
絵美は夏帆の背中を押しながら、悪魔狩りの女性から離れようとする。だが女性は表情も変えずに立ち塞がった。
「貴女達が魔女だからというのは関係ありません。魔法使いであっても一般人は一般人です。どうかご同行を」
「必要ないってば」
「個人的な事情で申しているのではありません。民を守り、危険から遠ざける事が我々の責務なのです」
「遠ざけるより取り除いて欲しいね」
「では率直に申し上げましょう。貴女方が私達の知らない所で行動していると、何処かで調査の邪魔になるのです」
「そうならないように善処するよ」
「そういう問題ではありませんッ」
遂に女性は眉をつり上げて絵美を睨み付けた。絵美は目を眇めながら口角を上げる。この二人の間に挟まれている夏帆は何とも言えない気持ちになり、とにかく、今居る位置から一刻も早く離れたくなった。
(こ、こわい……)
夏帆の額から冷や汗が伝う。
「ご同行を」
女性は食い下がらない。
「……分かったよ」
意外にもすぐに折れたのは絵美の方だった。
寧ろ夏帆にしてみれば、悪魔狩りと一緒に行動する方が得策だろうと思う。ここまで絵美が同行を拒む理由が分からなかった。
絵美が肩を竦めるのを見ると、女性は口をきゅっと結んでから頷く。
「分かって頂けて助かります」
「善意っていうか、アンタの目が怖かったからだけど。綺麗な金眼なのに勿体無い」
「よく言われます」
今まで彼女は睨み付けるという技で数々の人々を打ちのめしてきたのだろうか。夏帆はちょっと想像すると、意外に彼女が格好良く見えてくる感じがした。
「でも見も知らぬ人と歩くのはやっぱ気が引けるなあ。まずは名前を教えてくれる?」
「これは失礼をば」
女性は胸に手をあてる。
「私はティア・アスナールと申します。お見知りおきを」
「ふーん。あたしは絵美」
「か、夏帆です。よろしくお願いします」
絵美がやっと笑って答え、夏帆が一生懸命という風にお辞儀をすると、ティアは静かに微笑んだ。