第一話
創世の一ページ目を、どうぞお開き下さい。
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この世には、闇の世界しかなかった。その世界を、現代の人々はこう呼んでいる。『ドラディス』と。
ドラディスは闇と化した生き物、『悪魔』が生息し、悪魔が世界を統べ、悪魔によって支配されるしかない世界だった。
ところが、ドラディスで生まれた内の一匹である悪魔が次第に、闇という存在を恐れるようになったのである。彼の名は『アドス』。それは後の魔光界の神の名となる。
ドラディスで生きる自信を失ったアドスは、やがてドラディスから脱獄した。
行き場を失った彼は、光の世界の創造を思い付いた。それはドラディスとはまた別の次元の世界。
アドスは一つの大地に、水を、土を、緑を与え始める。そして作り上げた自然界を守らせる存在が必要だと考えたアドスは、『人類』と『獣』を創造させた。
光の世界の創造に成功したアドスはやがて、天使という、すなわち悪魔と対になる生き物へと転生した。だがそれでも彼の内には悪魔の力が残ったままだった。そこで彼は、体内に残る悪魔の力を浄化すべく、世界に自らの魔力を注ぎ込んだのだ。
こうして『魔光界』が誕生し、アドスは光の創造神となって天へと上った。
簡単なお伽噺を読んで聞かせるような口調で、陽亜は自らの膝に手を乗せている幼い我が子に、ティアナ教に則った魔光界の創造神話を語った。
「面白かった?」
「うん。スゴイ。スゴイわ!」
娘の波菜はその場で兎の様にピョンピョン跳んでみせた。彼女のピンク色の髪が上下に揺れる。
「『あどすさん』っていい人だね」
「フフ、そうね」
陽亜は満足気に波菜の頭を掴まえて、優しく撫でる。
陽亜が居るここは、信仰によって築いた教会だが、幾分小さいものだった。さすがに小屋と言う程狭くはない。それでも建築された当時は、数十人は入っても余裕な程だった筈だ。
大きな教会を保てなかったのは、陽亜が崇める神、アドスのティアナ教を信仰する修道士が少なくなってしまったからだ。
ある時、ティアナ教徒とは別の教徒が言った。
『光は光。闇は闇だ。この二つが共存する事などない』
それはアドスが元は悪魔だという事からだった。その言葉に、妙に納得してしまったティアナ教徒の多くが別の宗教に移ってしまったのだ。
お陰で修道士がめっきり減った教会の体裁は危うくなって、広々としていた礼拝堂も一気に小規模なものとなり、天に届くのではないかと言える程高かった天井も、今ではごく普通の、民間人の家庭の家と並列になる程の低さとなっていた。
今はその教会に残っている修道士は、陽亜と、夫の凪人だけだ。
「ねえ、おかあさん」
陽亜がふうと溜息をついた途端に波菜の声が聞こえて、ボーッとしていた意識を現実に引き戻す。
「何? 波菜」
「あくまさんって、わるい人なのかしら?」
おそらく今聞かせた神話の初めに、悪魔が闇の住人という所に疑問を持ったのだろう。
「そんな事ないわ。アドス様の元の姿だもの。『悪魔』という名だけで悪いと決めつけるものではないのよ?」
「うん!」
波菜は元気良く頷いて、了解してくれた。
すくなくとも、陽亜が未だにティアナ教を信じて止まないのは、この宗教が光と闇の架橋になると、強く感じているからだ。
アドス神が今では多くの人々に邪神と呼ばれても、陽亜がこの世に生まれてきてからずっとアドスに捧げ続けた祈りの心。彼女のその心が途中で緩む事などないのだ。
それを、娘の波菜に受け継いで欲しい。唯一の一人娘はまだ五歳だ。だがこの教会を後世へと継ぐ事が出来るのは波菜しか居ないだろう。だからこそ遅かれ早かれティアナ教の創造神話を知って貰わなければならなかった。
陽亜は腰掛けていた木の椅子から立ち上がり、両手の指を交差させてギュッと握る。横でその動作を見ていた波菜も、母に習ってお祈りの姿勢をとる。陽亜は波菜の方を片目で盗み見て、密かに笑いかけた。
――突如、居間のドアがバンッと音を出して開かれる。
音に驚いた波菜は跳びあがって、慌てて陽亜の背中に廻り込んで姿を隠した。
「凪、どうしたの?」
「あ、ああ。驚かして済まない」
「おとうさん」
波菜が父の下へと駆け寄る。
凪人は娘の両肩に手を置いて、視線を合わすべく屈んだ。
「波菜、今からシャドウ君の家に遊びに行きたくはないか?」
凪人がそう言うと、波菜は一瞬で満面の笑顔を作り出した。
「いく! いくわ!」
「よし」
凪人が頷いて立ち上がる。
「じゅんびしてくるわ!」
「行って来い」
波菜が騒々しく居間を出て勢い良く階段を駆け上がり、二階の自室へと直行する。居間の丁度真上が波菜の部屋の為、やたらドタバタと音が響くのが聞こえる。
「……で、どうしたの?」
陽亜がもう一度疑問を投げかけた。凪人は思い出したかの様にハッとなる。
「そうだった。外を見てみろ」
「外?」
白いレースのカーテンを引いて、窓から外の景色を窺う。
すると、目に飛び込んできたのは、今までで見た事もない程黒い、大きな雲が空を泳いでいるという奇妙過ぎる光景だった。