第十八話
何処かで音がしました――。
未だ見ぬ者がそろそろ現れるようです。
***
歩き慣れた森の道といえど、昨晩の豪雨でぬかるんだ土の上はやはり気持ち悪い。その足に伝わる感触に半ばうんざりしてきた絵美は、土と僅かに水滴が残る草むらから離れた道を選ぶ事にした。
少し遠回りして歩くと、川辺に行き着ついた。
川の水面に木々が映り、透明な筈の水の色に緑色が帯びる。葉が小さく揺れる様は、穏やかな風の動きを知らせた。吹き止まぬ風は、いつまでも川を揺らしている。
彼女が何となく小川を覗き込むと、空の青さと新緑が交わって、水の中に一つの風景画が出来上がっていた。
水の中のもう一つの世界。あったら面白い。
自然の美しさと幻想に密かに微笑むと、絵美は小川から離れ、元の道に戻るのに踵を返した。
ずしりと重い網籠を受け取って絵美がにこっと笑う。薄布が被せられたその下から、仄かに野菜の匂いが漂っている。
「ありがとー。みーえかっ」
「いきなり夏帆とピクニックだなんてねえ。でもどうせ出掛けるなら、村の安いパンでも買って行きなさいよ。わざわざ私に作らせないで」
そういう美恵花が、嫌々ながらもご飯を作ってくれる事を絵美は知っている。因みに、この時決まって言う『これっきり』は、絵美は守った事などないし、美恵花もいちいち肝に銘じたりしない。
「もうこれっきりよ。後は貴女達で自炊出来るようになりなさい」
「はいはーいっと」
絵美は返事をしながら右手を勢い良く上に上げた。
「それで、何処へ行くつもりなの。波菜の所?」
「うーん。波菜ん家は、今行くと修羅場になるかもだしなあ」
「修羅場? アンタ、また波菜の家の家具かなんか壊したの?」
「またって何よー」
「否認出来る所、何処にもないと思うけど」
絵美が口を軽く尖らせるが、美恵花は柳の如く受け流して呆れの溜息をつく。
「今回はあたしが修羅場作った訳じゃないもん。あと、行き先は森の方」
「え、森って――」
妖魔の森ならここだ。しかしこの森の事を言っているのだとしたら、出掛けるなどという言葉はわざわざ使わない。
ここ以外で近場の森といえば――シリスの森しかない。
「でも、あそこは……」
「だから、だよ」
何処か意味あり気な物言いで絵美が答える。
シリスの森は、昼夜構わず悪魔が出没する事で有名なのを美恵花は知っていた。波菜が数年前に件の場所に引っ越す時も、美恵花は彼女に危険だから住むのは止めた方が良いと説得を試みたが、『大丈夫』の一言で片付けられしまった。実際、波菜は悪魔と遭遇しない様に気を付けて、今ものんびり暮らしている訳だが。
しかし絵美は、悪魔が出て来る事を見越し、逆にその驚異的な生き物をさも目的とでも言うかの様な態度だ。美恵花は、彼女の意図を曖昧にだが読み取った。
「絵美」
名を呼んで、目で正気かと訴える。だが呼ばれた彼女はただ笑うだけだ。
「貴女、まさか……」
先を続けられずに美恵花は唇を噛み締める。一方絵美はけろっとしている。
「大丈夫だよ! あたしが無事に帰って来なかった時なんてあった?」
絵美は一度背を向けてから振り返り、指を二本立ててウインクした。
短絡的としか言えない。
実の所、実恵花は悪魔を相手に出来る絵美でなく、夏帆の安否が気がかりだった。それでも本気で心配している訳ではない。夏帆に対してどうとも思わないのではなく、絵美の強さを知っているが故なのだ。
だから彼女が本当に不安なのは――
「……せいぜいちゃんとして来なさいよ、バカ絵美」
「おうともさ」
掲げた拳は心配しないでという意思表示だろうか。絵美が籠を持って走り去って行く。
結局、今回も見送りの言葉には棘が出てしまった。美恵花はいつだって本心を押し隠し、深く詮索せずに友人を見送る。それが美恵花なりの絵美との付き合い方なのだ。
二人の少女に対するものが、杞憂になればそれで良い。
Ⅷ
人は不安になると、ありもしない悪しき存在を現実的なものとして受け入れる。
天界の存在よりも地獄の存在が決定付けられた瞬間、人々の天使への希望は失われ、悪魔という存在を恨むようになった。実在するかも分からない神への憎悪の心など、まだどれも小さいものだ。
誰もが、すくなくともどの教徒も悪魔に語りかける前に、悪魔という悪しき者と戦う道を選ぶ。
あらゆる宗教では、悪しき者と良き者が共通に現れるが、ティアナ教は崇める神が元は〝悪しき霊〟であった為、世界では異端――孤立していた。異教徒から見れば『良き者』、正義である者が居ない宗教として見られていたのである。
別の話では天上の神が天使と悪魔を作りだし、その二つの存在が繋がった存在が『人』と呼ばれ、天使の力を少なくして持った者が『魔物』と呼ばれた。
元は人々の間で一般的だったティアナ教の創世記と違う記載の存在も相まって、人々の多くはアドスは邪悪な創造神と解釈するようになった。
では、真の至高神とは誰か――。
玄関の扉が開いた音がした。
夏帆は静寂の時間が途切れた途端に意識が目を覚ましてハッとなった。長い茶髪を揺らす少女が居間に入って来る。
「絵美」
文献から顔を上げ、夏帆は本の世界から現実の世界に戻って来た。同時に家主も戻って来たようだ。
「夏帆。文献、何処まで読めた?」
夏帆が開いた本を載せるテーブルに、絵美は腕を伸ばした状態で右手を置いた。
「まだ全然……書いてある事、理解するので精一杯」
絵美が期待するような目でこちらを見るので、夏帆は自分の理解力が足らない事に情けなさを感じた。
「ま、焦らず行こ」
そんな弱気な彼女と絵美はいつだって対照だ。優しい。言われて、夏帆は気持ちが逸っている事に気が付きゆっくり深呼吸をした。
「丁度ね、宗教関連の本を読んでたの」
「ほうほう。どんな?」
興味津々で絵美が開いてある本を覗き込む。
今読んでいた文献はこの家にあった物、つまりは絵美の私物なのだが、書物自体がいっぱいあるせいで彼女もどれがどんな内容なのか把握し切れていないのだろう。把握していても、宗教に関する本は数え切れない程あるから、単にどの本の事なのか分からないとも言える。
絵美は目線を素早く左右に動かして、文章を視認する。
「至高神、ね」
「至高神って、私、よく解らないんだけど」
「神界の王様ってとこかな。世間的にはそれがルビナス神って言われてるけど」
「神様も住む世界があるの?」
「知らない。想像上の話」
「魔光界に居ると、本物の神様に会っても不思議じゃない気がして……」
そんな事を思うのは世界でただ一人、自分だけだと思うと少しゾッとする。だが、絵美が妙に真剣味を帯びた口調で「とんでもない」と否定する。
「認識出来るのが神じゃないよ。神を彫刻とか絵で具現化するのだって、本来は許されない冒涜になるくらいなのに」
「そうなんだ」
「決して限定されない。何処までも『無』の存在。それが神だもの」
その理屈にイマイチ納得出来ない部分もあるが、きっと神に関する事で、完全に理屈の通る持論など一つもないのだろう。
『無』と聞いて、夏帆は前に波菜が見せてくれたタロットの一枚、『愚者』を思い起こした。
「……皆、やっぱりアドス神を批判してるよね」
目の前にある文章を目で辿った時に感じた事をそのまま口に出す。
美恵花からティアナ教について教えて貰った時、あまり良い気分はしなかった。世間一般論を文字にしたものを見てみても、やはり誰もが否定している事実しかない。これだけ認められていない状態で、悪魔が大地に降り立たれたら、ティアナ教徒が責任転嫁の良い標的にされたのも頷けてしまう――それが途轍もなく悔しい。夏帆も結局、不条理な事相手に皮肉な感想しか持てないなど。
夏帆の呟きと表情が曇る様子で絵美は察する。
「なになに? ティアナ教徒に肩入れ?」
「そ、そういう訳じゃ」
「冗談。波菜の両親を信じたいんでしょ」
まだ、信じたいとまではいかない。
だがティアナ教徒であった波菜の両親が、アドス神を邪神と解っていて信仰し、そのせいで悪魔を呼び出した根源とされたのだと思いたくないのは確かだ。
「――ティアナ教について知りたいなら原典を読んでみると良いよ」
「でもきっと、誰も持ってないと思う」
「え、あるよ?」
「だよね……」
「うん」
「……え!?」
危うく聞き流す所だった。あまりにも絵美が何事もないような言い方をするので、衝撃的な返事に対応が遅れる。
「ウソ。あるの?」
「あーりまーすよっと」
間延びした調子で言ってから、絵美が居間の隅っこにある大きな本棚の上の段を探り始めた。
確か、美恵花はティアナ教典を持っていたら迫害されると言っていなかったか。そうすると絵美は――
「は、迫害されない? 絵美、大丈夫?」
「んー、大丈夫だよ。昔は公開処刑で首抉り取られらたモンだけど、今は悪魔狩りも始まってて世界が平和に向かってるから、ティアナ教も昔ほど邪険にはされない」
事もなげな科白の中に若干残酷な動詞が出て来た気がしたが、今以上に何かに恐れ戦いていたら先に進めないので、夏帆は聞かなかった事にしておいた。
それにしても、夏帆が想像していたよりティアナ教典は危険なもの――正確には危険を及ぼすもの――ではなさそうだ。
「美恵花さんは、原典を持ってたらまずいみたいな事言ってたけど」
「今の時代の迫害っていったら説法くらいだよ――お、あったあった」
ひょいっと絵美の手で取り出された本は、さっきまで夏帆が読み漁っていた本よりも一層古く、埃こそ被っていないが繊維紙の本来の白色は変色していた。絵美が中をパラパラ捲って見せると、中身の文字のインクは無事でいて、何とか原型を留めているのが分かる。
「これが、ティアナ教典……」
「まあ力抜いて読みなよ。バレなきゃ誰がティアナ教に興味持とうが自由だから」
それは『自由』と言えるのだろうか。夏帆は苦笑を返して、渡された書物の水色の表紙をじっと見つめた。
(説法か。でも、波菜のお父さんとお母さんは)
急に胸が苦しくなる。
(――沢山の人に恨まれながら死んでいったんだよね……)
心に痛みが伴うのを自覚して、夏帆はページを捲った。
字は読める。そこは問題ない。あとは本を通してティアナ教と向き合い、自分はどう思うのか――。
本の内容は、創世記だった。
この世界が魔光界と呼ばれる前、この世界に生命が宿っていなかった遥か昔。〝ドラディス〟と呼ばれる地獄の世界が既に存在していた。
そこには穢れた翼と邪悪なる魔力を持つ悪魔という生き物が住み着いていた。
彼らは安らかなる平穏を知らない。それ故か、闇から自然物として生まれてくる悪魔は、苦痛を与えたり、幻影を見せたりする事を喜びとした。対象は同じ仲間である、目の前には悪魔しか居ない。そもそも、悪魔は悪魔を仲間とは思わない。
――それが当然だった。秩序はない。そもそも善悪すら存在しないのである。彼らにとっては『何が当たり前か』が生きる道標だった。
ずっとそうやって変わらず、これからも悪魔は光とは無縁である筈だった――心を手に入れた悪魔が、そこに現れるまでは。
彼の名をアドスと言った。彼は姿形は何の変哲もない悪魔だった。だが彼が地獄の地に降り立った時、彼は漠然としたのだ。
――異端だった。彼は、今まで生まれて来た悪魔が気にも留めなかった事を気にして、頭を抱えた。
恐ろしい。このような望みもしない大地に降り立ち、ただ仲間に喰われ、死んで、生まれ変わる。生まれて、食べられ、死んで、生まれ変わる。永遠にその繰り返し。考えただけで彼はゾッとした。
最早自分達は生きる為に地に生まれ落ちた存在ではないのだ、と悟った事で、この思いを絶望というのだと彼は知る。
厭だ。
ドラディスで、初めて『厭という感情』が生まれた。
死にたくない。
ドラディスで、初めて『死を望まない心』が生まれた。
我は何の為に居る。
世界で初めて、生きる意味を問う者が現れた瞬間だった。
――探せば、ここではない何処かへ行けるのではないか?
彼は、すぐ足をとられる程脆い地の上を這い蹲り、それでも足を懸命に動かして走り出した。その間、四方八方から伸びる悪魔の手を必死で払い除け、ひたすら前へと進む。僅かな希望を信じて、あるかも分からない大地を目指して彼は走った。
そして彼は最終的に、闇ではない、無ではない別世界へと辿り着く。
彼が初めて踏みしめたその大地は真っ白だった。固く凍り、立ち続けているだけで足が痛くなる。だがここは決して闇だけの世界ではない。もう視界は暗くはない。
それでも地獄と同じで、何も無いのには変わらなかったのに、彼は未知の新たな大地に辿り着いただけで幸福に満たされていた。
やがて、彼の足は地から離れていく。彼の全身が黒い身体は天上に上って行き、そこに留まる、ただ白いだけの地をじっと見下ろした。
――光よ。水よ。緑よ。今ここに、生命を宿しなさい。
彼がそう祈って口にした途端、白い地は草木で生い茂り、透明だが見た目は青い水が海や川となって流れ、咲き誇る花々が風でそよいだ。そこに、命が生まれた瞬間だった。
上を見上げると、見る間に吸い込まれそうな程瑞々しい蒼空さえも広がっている。
同時に、この世界を守らせる存在を造らせよう。彼は、そう考えた。
――人よ。獣よ。この地に降臨なさい。そして人はこの世界を支配する者になり、守りなさい。
こうして、彼は腕を広げても抱えきれない程に大きな世界を創り出した。
ここは光の世界だ。
彼は彼が恐れた世界と違う世界を造り出したのを見て、良しとすると、天に上ろうとした。
いや、まだだ。我の邪悪なる力も置いて行く。でなければ、我は悪しき者のままだ。
そして、彼は未だ体内に残る悪魔の力を天に、大地に捧げた。これは後に人によって『魔力』と呼ばれる力となる。
彼は最早悪魔ではなく、慈愛に満ちた光に溢れた天使、且つ、創造神となった。
さらに、彼は世界に名を付けた。
――『魔光界』である。
これが、魔光界と魔光神が誕生した経緯であった。
「…………」
「どでした?」
手を後ろに組んだ状態で、絵美が夏帆の顔を覗き込む。夏帆は思わず口を片手で塞いで、驚きの表情を隠せずにいた。
「想像してたのと……違う」夏帆は顔を上げて絵美を見る。「悪魔が世界を造ったんじゃなくて、力を恐れて結果的に悪魔から神に転生したアドスが魔光界を造ったんだ」
絵美は口の両端をを引き上げてにこっと笑った。
「ね? 〝実際〟を見てみないと分かんないでしょ? それに宗教に関しては、イメージで決めちゃいけない事の方が多い――ところでどんなの想像してたの?」
「え、あっと…………『悪魔の世界征服』みたいな?」
「ははっ。そりゃ傑作だね」
遠慮なく吹き出して、絵美がこれ以上の笑いを堪える代わりにテーブルをばしばしと叩く。
ティアナ教徒だったという波菜の両親に謝りたい気分だ。申し訳ない。そもそもティアナ教徒ではない人達の意見で、本来あるべきティアナ教の方針が見えてくる確率も低かったのだ。爪が甘かった。
目に涙を浮かばせるくらい笑い切った絵美が、突然咳払いで場の空気を変える。
「ティアナ教徒の処刑に誰も口を出せなかったのも、『アドス神』を悪魔のイメージとしか捉えていなかった人が大半な証拠かもね」
「う、うん」
元々、夏帆は美恵花一人にしかティアナ教について聞かされていない。もっと沢山の人に訊いていれば、もしかしたらティアナ教に反感を持たずにいる者を見付けられたかもしれなかった。
「でも普通、今の夏帆みたいに原典を読めばアドス神もそんな言われるもんじゃないんだよなあ。原典自体、そこまで数が無かったのか、あるいは……」
絵美は言葉の先を濁して、夏帆の方をちらと見る。
――気を使っているのだろう。ルビナス教徒であるエクスシア・レヴィと仲良くなった夏帆に。
だが夏帆は、自分から話の先を引き継いだ。
「やっぱり、レヴィさんが?」
「うん。多分、そう」
ふうと溜息をついてから絵美は再度話し始める。
「エクスシアがティアナ教徒、つまり波菜の両親の処刑に絡んでたのは事実だ。でも、多くの人から見ればアイツの行いも『正義』。残酷だと思わなかった人が居ないとは言わないけど」
ではやはり、彼がティアナ教典を意図的に燃やすなりして処分したと考えて間違いないだろう。処刑を先導していたという波菜の話も、嘘ではなさそうだ。
(レヴィさん――)
思い直しても、夏帆は未だに彼を信じたい気持ちを捨て切れずにいる。この世界を知るようになって、初めて悩みを打ち解けられた相手。一度二度接しただけとはいえ、悪い人とは到底思えなかった。
(調べれば、レヴィさんが本当はどういう人なのか、分かってくるかな……)
吉と出るか凶と出るか。それは、夏帆がこれから見付ける真実がどういうものなのか次第である。
「それで、宗教と悪魔の事は解った?」
絵美が髪をかき上げながら訊いて来る。
「う、うん。有難う、絵美」
「あー、文献の片付けは後でで良いよ――んじゃ」
壁のフックに引っ掛けてあった黒い三角帽子を手に取って、絵美がくるりとスカートを揺らしながら反転する。
「シリスの森で、実物を見に行くとしますか」
声音が妙に活き活きとしている。それに比べて夏帆はごくんと生唾を飲み込んで、今更ながら心の準備を整える。
「悪魔の住処を暴きに行くぞー、夏帆!」
「わ、ちょ、早いってば」
玄関を出て颯爽と走って行く絵美を、夏帆は袖を正して慌てて追い駆けた。