第十七話
Ⅶ
夜を一層、闇へと導く暗雲。降り頻る雨。
雨が窓に叩き付られるその音は重く、恐ろしい。轟音と呼んでも過言ではない程だ。次第に近付いてくる雷も、雨音に負けず劣らず世界に壮大なる音を響かせていた。
「紅茶、飲む?」
せっかくの絵美の気遣いも、夏帆は無言で首を横に振って断る。昼に波菜と会ってから一切食べ物も飲み物も口にしていないので、喉は渇いていた。だが心の奥に引っ掛かっていた事が今日の一件でさらに絡まり、何となく茶を飲む気にはならない。
結局波菜に、謝りたかったという気持ちを伝えるどころではなくなった。
夏帆は失言どころか、他人の古傷を抉ったような事をしてしまった。後味が悪い。否、本当に不快な思いをしたのは波菜の方だろう。
「仕方ないよ。夏帆は何も知らなかったんだから」
夏帆の暗い表情を見て察したのか、絵美はさり気なく横から彼女を慰める。
「知らなかったで済ませられるの、かな」
「でも責任の取り方も解らない。でしょ?」
間髪入れずに絵美がぴっと人差し指を立てて即答すると、夏帆は肩を窄めた。
「少しキツい言い方をすれば、『余計な事はするな』とでも警告しとくよ、夏帆」
まったくその通りである。そこまで言われる程の失態をしてしまったのだから、今の夏帆には良い言葉の薬かもしれない。
「もっと叱って」
「んえ?」
「もっと言って。何なら私を叩いてでも」
「いや、それは止めとく」
「そうでもされないと、ずっとモヤモヤが消えない気がして……」
奇妙しな発言をしている事は夏帆自身、承知している。だがまだ、心の何処かで自分は悪くないと言っている自分が居る。その事に腹が立つ。誰かに、お前が悪いと言われなければ、本当の罪悪感すら感じる事が出来ない。
「……ねえ、絵美」
「はいな」
「宗教って、何なのかな」
美恵花に世界の宗教を教えて貰い、エクスシアは神を語ってくれた。
「私、宗教って、とっても素敵なものだと思ってた。神様の存在を信じて、人の中にある不安を拭ってくれる、何処までも神秘的なもの。でも、実際は違うの? それだけじゃないの?」
同じ国に住み、同じ大地の上に居る。同じ人という生き物なのに、宗派が違うからといって迫害される。悪魔と同じ、『異端』と呼ばれる。――理解出来ない。
「どうして人が死ななくちゃいけないの?」
人々は共存が出来なかったのだろうか。ティアナ教徒は悪魔ではない。殺さなくてはいけない程の人間など居るのだろうか。同じ人類をこの世から抹消する事に何の意味があるというのだ。
夏帆の必死の問いに対し、絵美はテーブルの上を指先で撫でながら答えた。
「……壊れてたからね。皆」
絵美が正面に立つと、椅子に座る夏帆は首を上へと巡らせて彼女と視線を合わせる。
「波菜から聞いたでしょ。ティアナ教徒だった波菜の両親は、悪魔を呼び寄せた元凶として殺されたって」
「うん……」
「当時、すくなくとも、ティアナ教徒だったのは波菜の両親だけだった。たった二人だけを殺して、何があるって訳でもない事ぐらい、冷静になれば誰だって解る。けど、悪魔がこの地に降臨した事で、世界の被害は尋常じゃなかった。被害の例として、子供を殺された親。目の前で親に死なれた子供。悪魔の牙で血肉を抉られ、絶滅した魔物とかね」
夏帆は想像してゾッとした。未だに悪魔の姿をこの目で確かめた事はない彼女は、彼らに心というものが存在するのか疑問だった。
「そんな混乱状態に、マトモな思考を働けると思う? だから皆、ティアナ教徒を殺せば少しは鬱憤が晴れると思っちゃたんだろうね」
冷淡とまでは行かないが、絵美の語る様は何処か冷たい。皮肉なものだと、仕方なかったのだとでも言うような口調である。
「夏帆、実際に悲しみに満ち溢れているその多くは、悪魔の被害に遭った人やその家族の方だ。宗教によっての被害に遭ったのは、波菜ぐらいなんだよ」
絵美は正直だ。怒りを向けるべき対象はルビナス教ではなく悪魔だと、遠回しだが自分の意見を言っている。
――奇妙しい。
(あれ……?)
喉より奥深くに引っ掛かっていた黒い塊の正体が、夏帆は今の今まで解らずにいた。数々の感情が絡まっていたのが次第に解け、頭の中は空っぽになった。そこに、一つ一つ言葉を落としていく。
何が違うのだ。
どうして人は人を殺すのか。
何故悪魔は人を殺すのか。
違う所は何処だ。
「……から」
「え?」
「だから、何なの?」
突然の夏帆の返事に、絵美は戸惑う様子を見せる。
夏帆も、今の声が自分の声だったかどうか、正直判別がつかない。
(どうしてよく解らないんだろう)
どうしてそう思うのか。悩んでいる事自体が、何故だかとても馬鹿馬鹿しくなった。
「違う所なんてない」
声にして初めて自分の気持ちを確かめ、夏帆は椅子から立ち上がる。
怒りの矛先も恨みの対象も彼女は持たない。
だが、言える事ならある。
「同じだよ。悪魔が人を殺すのも、人が人を殺すのも……――違う所なんて何処にもない」
鋭く、力強い語気で言い放つ。夏帆の朗々とした響きのある声に、絵美は思わず瞬きを二回繰り返したが、すぐに口元に笑みを戻す。
「じゃああたしも言わせて貰うよ。『だから?』」
挑発的な物言いに、夏帆は口を噤んだ。
「そうだよ。実際は不幸の大きさなんて、天秤でかけられるようなものじゃない。夏帆の言う事はとても立派。
でもね、ここで君がとやかく言った所で何が変わる? 口先だけで何もしないから波菜が君を嫌ったままなんだっていう事が、まだ解らないかな」
「絵美が言いたいのは、『余計な事をするな』じゃなくて、『余計な事を言うな』だよね?」
「うん?」
夏帆が応えるのに、彼女を宥めるように言い聞かせた筈の絵美は首を傾げた。
「なら、行動で示す」
夏帆はトン、と拳を胸に当て、己の中に秘めた決意を思い出す。
「私は知るって決めた」
話すのも辛い筈だったのに、波菜は夏帆に悪魔の話を加え、魔光界の事を教えてくれた。これからの事は訊くだけじゃない――この目で、自分の目で確かめたい。
「この世界に来てから、周りには何が何だか解らない事ばかり。家族の顔も、自分の家も覚えてなくて、ここに自分が存在する意味はないんだって思った時は悲しかった。だから、私にとって『知る』事が唯一の存在意義で、この世界で生きる為の目標なんだ」
この思いが芽生えたのは、最初はただの自分への慰めに過ぎなかった。
ここに居る意味をでっち上げなければ、見知らぬ土地でやっていける自信がなかったのだ。
しかし今は、その思いこそ己の糧に出来ると信じたい。
その先に何があったとしても。
「私は悪魔の事。ティアナ教やルビナス教。それに、この世界の全貌を知りたい」
まだ夏帆は何処にも歩き出していなかった。成り行きに任せて知るのではなく、自分から踏み出さなければならない事を解っていたのに。
何かを思ったならば、行動したいままに動きたい。
この世界の何もかもに納得していないのなら。
絵美は彼女の確固たる意思を認識しても、驚く様子なく冷静に受け答えする。
「夏帆が知ろうとしてるそれは、普通の人間ならまず超えようとは思わなかった境界線だよ」
「超えちゃいけない境界線ではないでしょう?」
危険な事かもしれない。けれど夏帆には必要な事だ。
「やっと解ったの。私は目の前にないものを怖がって、安全な所へ逃げてただけだって」
「平穏を願うのは悪い事ではないと思うけど」
「でも実際、波菜はそんな私を見てイライラしてた。私は、もうこれ以上『知らなかった』から波菜を傷付けるのは嫌。ホントは、ずっと……」
先の言葉を続けず押し黙る。本当の願いは、もう叶うかどうか解らない。
顎の下に手の甲をあて、ふむ、と呟く絵美は依然口元に笑みを含ませたままだ。
「皆が怯えて探そうとしなかった闇の根源を、世界の常識を知ったばかりの夏帆が探すって言うの?」
「だって私はまだ何も見てないから、怖がる理由がない」
夏帆が怖いのは無知であって、未知ではない。行動力の問題なのだと彼女が胸を張ってきっぱりと答えた途端――
「あははっ! そうだねえ」
耐え兼ねたかの様に絵美が短く笑った。
「凄い理屈だ」
「え。そ、そうかな」
「でも良いと思う」
絵美が両手を腰に遣ると、高い位置で二つに結った片方の結び目が、肩を伝って背中から胸の前にするりと下りた。
「何から知りたい?」
まるで今までの遣り取りが何でもなかったかの様に平然と、絵美は夏帆に問い掛ける。
「そろそろ逸れ者になるのも悪くない」
用意していた様な意味深な科白は、絵美なりの意思なのだと知った。
しかし、彼女がこれ程までにあっさりと協力してくれると思わなかった夏帆は、思わず質問を質問で返す。
「良いの?」
「何が」
「私の勝手に絵美を巻き込むのが」
「あたしが巻き込まれたいんだから、何も問題ないよ」
「……そっちも、凄い理屈」
「うん。これでお互い様だ」
二人でくっくっと笑い始める。一見、不気味な声が家から漏れているかもしれないが、笑わずにはいられない。
翌々考えれば、もしかしたら絵美が夏帆を意図的に嗾けたのかもしれない。だが、
(それも良いかな)
と夏帆は思った。
一頻り笑った所で、二人は椅子に腰を落ち着ける。その直後、何かを思い出した様に絵美が手の平に拳をポンと置いた。
「そうだ、夏帆。『ホントはずっと』の後に、何て言おうとしたの?」
「えっ」
ついさっきの事なので、絵美が気になっていたのも無理はない。が、出来れば忘れて欲しかった。夏帆は仄かに頬を赤らめる。
「恋?」
「ち、違うよ」
「じゃ、友情かな」
「……それは、欲しい物」
「成程ね」
皆まで言わずとも解ってくれたようだ。しかしこの絵美は、夏帆が言い難い事を堂々と口にして確かめる。
「波菜と友達になりたいんだ?」
「うっ」
さすがにおこがましい望みだとは思うが、すくなくとも今はそれが一番の願いだから仕方ない。
「夏帆はホント変わってるねえ。普通、あそこまで邪険にされたら嫌うもんじゃない? あんなんだから波菜、あたしや美恵花ぐらいしか友達居ないのに」
「理由はよく解らないけど、惹かれた所があるから……かな」
「何処?」
「――内緒」
人差し指を口の前に当てて、夏帆は今日までに見付けられた波菜の良い所をはぐらかす。
テーブルの上で燭台に乗せられた蝋燭が、赤く強く燃え続けていた。