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第十六話

      ***


 静かだ。いつもの事だと感じながらも、波菜は静穏な家の中で、椅子の背凭れに全体重を預けて座っていた。ギシリと音の鳴る椅子は、両親が生きていた十一年前から使用している。家にある大半の家具が椅子同様、何年も前から愛用しているものだ。 

 ふと、暇潰しに読書でもしようと彼女は椅子から腰を上げ、リビングから書斎へ向かう。 

 父母から受け継いだ物や、個人的に仕入れた本は全て書斎に置くようにしている。でないと、何処にでも本を投げておくクセが波菜にはあるからだ。ちなみにそのクセを指摘したのは絵美である。

 だが実際、絵美の家はもっと酷い。

 あちらがこちらに度々来る様に、波菜も何度か絵美の家にお邪魔して判明した事だ。

 人が出入りしやすい客間やリビングはある程度、片付いていた。が、寝室に入るとベッドは本来の役目を失い、見事に読みかけの本置き場になっている。その上、床にまで本や紙が散らばっている為、はっきり言って絵美の寝室は足場が無い。

 その有様を目にした時、絶句したが、呆れた溜息は出なかった。波菜も当時は家の中をそれ程整理していなかったからだ。

 絵美のようにはならない、と言うより、なりたくない一心で、波菜はめでたく日頃から家の中を綺麗にする習慣がつくようになったのだった。

 書斎のドアを開けてすぐに、大きな本棚が目の前に現れる。最早天井に張り付いているのではないかというぐらいの高さの本棚は、縦に三つ並んでいた。両脇の壁に密着している棚も合わせれば五つ鎮座している。

 村から丘に引っ越してくる時に、気になる書物は全部持って来たので、これだけの棚を持ち入らなければならなくなったのだ。

 だがいざ持って来てみると、本を仕舞う作業が面倒だった。波菜は、古過ぎて文字が読めなくなっている文献の方は片っ端から捨てる事にした。そして、後から本を増やす事も考えて大きめにした本棚の中は、かなりの空きが出来た。

 お陰で部屋の丁度中央に位置する本棚は、ほぼスカスカである。

 基本、記録や物語などキチンと分別はしていない。彼女の場合、端から読んでいくより何の気なしに本を手に取って読む事が多いのだ。

 今日は右から二番目の棚を探索する。

 日に当たって本の表紙が色落ちする事がない様に、窓は設置されていない。歩いてみると古い文献もあるせいか、誇り臭さが鼻に突いた。

 一人暮らしを始めて三年は経っている訳だが、それでもここにある本全部は未だ読み尽くせずにいる。常識として知っておかなければならない事は熟知していても、特に知らなくても良いような内容の本は、最後まで読み尽す事はあまりなかった。

 目についた本の中で一番薄い本を取る。表紙も見ずに、波菜は中身をぺらぺらと捲り、口元に手を当てた。

(この本はまだ読んだ事もなかったわね)

 読んだ所、お伽噺のようだ。父の本だろう。父は他人が書いた空想の物語が好きだった。

 本日読む本が決定し、さっそくソファのある応接間へ向かうべく、本を片手に書斎から出ようとした時だ。――玄関のドアが開く音がした。

「…………」

 波菜は廊下に出て、ハアと息を吐いてから一旦瞼を伏せる。目を開け、正面を一直線に捉える。そこには、黒い髪に黒い瞳の少女の姿があった。



      Ⅵ


「こ、こんにちは……」

 ドアの隙間から漏れる朝陽を背で浴びて、夏帆は玄関に立ち尽くした。

「何故来たの」

 夏帆の怯えるような態度に、波菜は冷ややかな態度で応じてくれた。あからさまに眉を下げて嫌がる様を露にした顔に対し、怯えるなという方が無理がある。

 しかし、ここで怯んでは何の為に来たのか解らない。

 夏帆は弱気になる己の精神を心の中で叱咤して、俯きがちになる顔を上げた。

「昨日の事を謝りにっ――ってあれ?」

 引き締めた筈の表情が一瞬で緩む。波菜は廊下をスタスタと歩いて行き、夏帆に背中を見せている。

「ま、待って……下さい」

「今から私は読書。邪魔しないで」

「お、お願い。少しで良いの。すぐ用件は済むからっ」

 謝って済ます、といった科白はやや失礼かもしれないが、波菜にとっては早急に終わらせるという事を伝えた方が話を聞いて貰えるかもしれない。夏帆は家に上がりこんで波菜を追う。

 波菜は玄関から一番近い、この家の大きさからしておそらく一番広い部屋に入った。ローテーブルを回り込んで、向かいの若葉色のソファに横たわる。本来、肘置きとなる部分に足を投げ出し、本を腹の上で広げた。

 完全に寝るか本を読み始める態勢だ。夏帆は部屋の中を一望する余裕なく、一方的に話を切り出した。

「――……数々の非礼を詫びに来ました。どうか、どうか宜しくお願いします」

「何、その下手な謝罪」

 一閃。

 夏帆は顔を真っ赤に染めた。

(『宜しくお願いします』じゃなくて『お許し下さい』でしょ。ああ何かそれもちょっと違う気が……も、もう頭の中で纏めてきた事、全部忘れちゃった)

 緊張と混乱により目が回る。呆れる波菜の顔を見ていられない。明らかに彼女の言葉には棘があった。

(めげちゃ駄目)

 再挑戦。

「私、失礼な言動を深く反省して……ッ」

 今度は深く頭を下げる。

 一方、波菜はソファの上で軽く身じろぎしてから、本を読む片手間に答えた。

「謝られたい事なんてないわ」

「へ?」

「貴女の謝罪の言葉を聞く事自体が私にとっての非礼なの。解った? 解ったなら早く出てって」

 彼女は夏帆の方に顔さえ向けようとしない。そしてなかなか手強い。否、予想内だ。


『どうすれば得をするか、損をするか。そのようなお気持ちでいれば、大抵脇道に逸れるものです』


 エクスシアの言葉を思い出す。波菜にどう思われるかよりも、夏帆が本当に伝えたい気持ちを優先しなければ駄目だ。

 落ち着いて、伝えたかった言葉を頭の中で整理する。

「波菜にとって聞きたくもない言葉。知らなかったとはいえ、私は何度も波菜を傷付けたって思ってる」

「だから何。罪悪感を消したいから来たの?」

「……それもある」

「あるのね」

「でも、罪悪感がどうとかより、私の気持ちを波菜にきちんとしたカタチで伝えたかった」

 夏帆は己に勢いづけるかの様に胸に拳を当てる。向こうが視線を合わせてくれなくても、真っ直ぐ波菜の方を見据える。

 彼女の視線を感じて、波菜はようやく目線を本から上へとずらした。

「それに」

 大きく息を吸う。夏帆は小声にならない様、はっきりとした声を腹の底から出す。

「私の行動が善にならなくても良い。それでも、私はちゃんと謝らないと気が済まない。改めて……色々失礼な事を言って、本当にごめんなさい!」

 これ以上、夏帆に言える事はない。本当は、他にも伝えたい事があったが、それはこの場では不謹慎過ぎるので止めておこう。

 声を出した途端に目を瞑った夏帆は、そろりと片目を開く。

 波菜は本を閉じていて、上体を起こし、ソファに足を揃えて座る姿勢になっている。

 翠の瞳がこちらを見る。――その瞳は、大きく見開いていた。

「?」

 夏帆は彼女が愕然がくぜんとしているような表情をしている事が理解出来ず、思わず首を傾げてしまう。

 間もなく波菜が、大きな音を立てて目の前のテーブルに本を叩き付けた。

「きゃっ」

 小さく悲鳴を上げて怯える夏帆を、波菜は今度、強く睨み付ける。

「その腐った科白を、私の前で出さないで……虫唾が走る」

「な、波菜?」

 波菜は湧き上がる憤りを拳に留めている。かの様に思われたが、わざとらしく口元で笑みの形を作った。

「『善にならなくても良い』、ね。フフ。昔、貴女と同じ様な事を言った奴が居たわ。尤も、貴女よりずっと歳のいってるオジサンだけど」

 声が震えている。不気味な笑みが広がる。だが夏帆には、彼女が何かを堪えている様に見えた。怒りともつかない、何かを――

「エクスシア・レヴィ……そいつでしょ、貴女に宗教じみた事吹き込んだのは」

 先日、宗教の話題は波菜には避けた方が良いと絵美に言われた。波菜は、『神官』という単語を聞いただけで硬直していた。しかし今は、神官本人の名を堂々と口に出している。

「レヴィさんは……」

「よく意味も解ってない受け売りを使うのは止めなさい。貴女が反省してる気持ちだけでも受け取ろうとしたけど、気が変わったわ」

 波菜はソファから立ち上がり、夏帆に顔を近付ける。眉間に、深く皺を刻んだ。

「私はね、彼奴あいつが大っ嫌いなの」

 彼女の言っている意味が、夏帆には解らなかった。

「ど、どうして? エクスシアさんは、あんなに人々に親しわれてるのに……」

「私が、理由もなく他者を嫌うような人間に見える? 皆、彼奴の外面しか知らないから善人だの聖人だの言ってるだけよ」

 静かな、温度を持った声音が響く。突然、目に見えない黒い闇が、床一面に広がった感覚がした。

「私の両親が……どうやって死んだか知ってる――?」

「え……」

「私の父も母も、信仰によって殺されたのよ」 

 夏帆は生唾を飲み込んだ。頭の中で情報処理が追い付かず、響く言葉を耳で聞く事しか出来ない。

(殺された?)

 拾い出した言葉は何を意味するのか。

「どういう……事?」

「ふふっ。あはははははっ」

 波菜が低い声で笑い始める。腹を抑えて、絞り出す様な声を出して笑う。

「父母が信じ、崇めていたのは、この世界では既に邪教として闇に葬れたティアナ教の神――アドスよ」

 夏帆は、波菜と初めて会った時の事を思い出した。


『シリスの森は神域なんだよ。アドス神のだっけ?』

 と言った、絵美の言葉。

『ティアナ教の神域だったら、周りがどうこう言う訳ないでしょ』

 波菜は寂し気に呟いた。

 その時はさらりと受け流した。そして、美恵花から聞いた〝邪教〟の神。


「アドス・ティアナ……」

 それが大きな意味を持つものだと、考えにも及ばなかった。アドス神を知った時、悪しき者としか思わなかった。

「そう。母はその邪神の存在を信じた。たったそれだけで、異教徒から『悪魔と通ずる異端者』と呼ばれて、処刑というカタチで殺されたの」

「!?」

 ティアナ教の主神であるアドスは悪魔だと美恵花が言っていた。ティアナ教徒はすなわち、『悪魔の血を持つ神』を崇める者なのである。

(異教徒って……まさか)

 考えたくない。だが、力を持っている宗教と言ったら、夏帆は一つしか知らない。

「……ルビナス教徒が、悪魔がこの地に舞い降りたのは悪魔を信じるティアナ教徒のせいだと訴え始めたの。当時ルビナス教徒を先導していたのは、エクスシア・レヴィ。ティアナ教徒が悪魔を呼び寄せたってほざいたのは、あの男よ」

「そ、そんなの」

「ええ、そうよ。唯一のティアナ教徒であった父母は、本来謂れのない罪を“押し付けられた”。私は二人の子だったけれど、まだ聖職者ではなかったから、何とか生き長らえてるって訳」

 波菜の声が、だんだんと力をなくして弱々しくなっているのが分かる。残酷な仕打ちを、過去に彼女は真の当たりにした。

 優しく接してくれたエクスシア。その裏側に隠された彼の素顔。

 両親を殺され、一人暗闇に残された波菜。今も必死に涙を堪えている。

「そんな……事って」

 冒涜され、挙げ句に迫害された聖職者。波菜の両親は、神を信じていただけなのに。

 こんなに近くに、今も悲しみを胸の内に秘めていた少女が居た事を、何故知る事が出来なかったのだろう。

「――解ったでしょ。私が宗教を嫌う理由が。私にとっては、ルビナス教もティアナ教も一緒なの。宗教なんて無意味なもの。神なんて、この世には居ないわ」

「波菜……」

「お父さんも、お母さんも……信じる事で救われたりなんかしなかったもの……」

 波菜は声を押し殺して、しかし最後まで涙は見せずに部屋から去って行く。

 そんな少女の後ろ姿を、夏帆はじっと見送る事しか出来なかった。



「夏帆」

 暗闇の中、草原の上で膝を折り曲げて座る夏帆の背後から、草を踏みしめる音と彼女を呼ぶ声がする。

「絵美……」

「暫く帰って来ないから探しちゃったよ。波菜の家の近くに居たんだね――こんな所でどうしたの?」

 夏帆は下を向いてから、躊躇ためらいがちに答えた。

「今日、波菜から、波菜の両親の事を聞いた」

「あ……」

 絵美の様子から察するに、彼女も知っていたようだ。冷静に考えれば、知っていたからこそ宗教の話を波菜に持ち出すないようにと夏帆に忠告したのだ。絵美は居心地が悪そうに、黒い帽子の鍔の部分をつまんで顔を隠した。

「……私、そんな境遇も知らないで、神官の人から聞いた言葉を堂々と吹聴するみたいな事して、それが、波菜を傷付けるって思わなくて――」

 全ては言い訳だ。何の意味も持たない。

「どうすれば良いのか、解らなかった。私じゃ、慰めも出来ない」

「夏帆……」

「可哀相だとしか思えなかったの……私は、ずるい」

 声が震える。涙が溜まる。両手で服の袖を握り締め、己の無力さを痛感する。

 彼女の右隣に立った絵美が、そっとささやくように告げる。

「暫くは、波菜には会わない方が良いと思う」

「うん」

「あたしには波菜も大事だし、夏帆も大事。だから、波菜を傷付けたからって、夏帆を見放したりしないよ。あたしがちゃんと傍に居るから。安心して」

 今は、絵美のその温かい言葉が救いだった。心の中のざわめきが一度、鎮まる。 


 闇夜の中、空で煌々と輝き続ける月が、今夜だけとても眩しく見えた。





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