第十五話
市場は小さな集落の中の一区画であり、その集落は『白芦』と呼ばれる村らしい。
妖魔の森から坂道を下る経路で行くと、村への入り口は丁度商業区になる。それが市場である。
ちなみに白芦には市場だけでなく農業区もあり、農業区に入ると住宅地もそこかしこで見られた。元々は農村から始まった村である為、市場よりも耕地や牧草地が村の大半を占めている。
夏帆は昨日の様に市場を通って波菜の家へ向かおうとしたが、まだ村を出ない内に、急に足が止まってしまった。怪我を負って歩けなくなった訳ではない。波菜の家への道筋が分からなくなった訳でもない。ただ、無意識に彼女は、足が竦んでいた。
(……何て言えば良いんだろう)
分かっていたと思っていた事が実は分かっていなかったと思う瞬間。とりあえずは勢いで家を出てみたものの、いざ波菜の家に近付いていると思うと、不安で胸がいっぱいになる。
深く考えずとも、ただ謝罪の言葉を述べればそれで良いのだろうか。しかし、何の事だと問われた場合や、波菜が許してくれない場合を考えると、どうしても思考が停止してしまう。考えるのが怖いのだ。
(私なんかが行ったって波菜は歓迎しないだろうし。いや、私が禁句ばっかり口走ったのがいけないんだからそれは当たり前なんだけど。それに今度は私が一人で押し掛けたら絶対迷惑だよね……ああ、どうすれば良いの)
悶々と考える事しか出来ず、夏帆は道路の真ん中で俯いて立ち尽くす。通行者はそんな彼女を怪訝がる目で見た。本人はその視線に気付いていない。
思考回路が卑屈になりかけている所に、ある者が彼女を呼び掛けた。
「黒髪のお嬢さん。そこで何をしているのですか?」
夏帆は咄嗟に自分が呼ばれた事に気付いて、声がした方向に首を回した。
それは、未だ耳に聞き覚えのある声だった。
「あ……貴方は」
男は空色の外套を羽織り、夏帆に向かって静かに微笑んだ。
今日は帽子を被っておらず、二人の男を付き従っていない。
エクスシアという名で親しわれる神官だ。
「こ、こんにちは」
「こんにちは。今日もお日柄が宜しいですね」
「は、はい」
緊張の余り、夏帆は背筋を伸ばして神官を見上げた。
「そう畏まらなくても大丈夫ですよ、心を穏やかにして下さい」
「お気遣い、えっと、有難うございます」
夏帆は腰を折ってお辞儀をした。返事をする度に彼女の心臓がどくどくと鳴る。
「こんな所で、何をしているのでしょうか」
「え」
彼女はこの時ようやく、自分が通行の邪魔になっている事に気付いた。
「……歩きましょうか」
優しい声音を響かせる彼の言葉を素直に受け入れて、夏帆は足を再度動かした。神官の彼が彼女の歩く速さに合わせて、二人は並んで歩くカタチになる。
忙しなく足を動かしている内に、彼の方から口火を切った。
「もしかして、何か悩み事があるのではないでしょうか?」
「!」
図星を突かれて一瞬硬直した。何故分かったのだろう。
「私、顔に出てましたか?」
「ええ、少し」
自分の表情に出る馬鹿正直さに涙が出そうだ。しかも通行の邪魔になっていたのだから、それも加えてさらに恥ずかしい。顔から火も出そうだった。
「お嬢さんの名前をお訊きしても?」
いきなりの質問。
言っても良いのだろうか。と一瞬躊躇ったが、隠しておく理由も思い付かないので素直に答える事にした。
「夏帆です」
「夏帆さん、ゆっくり話せる場所に行きませんか? 貴女さえ良ければ、私が相談に乗ります」
誘われるという行為に警戒するよりも先に、驚いた夏帆は、断る理由も見当たらないのでこくりと頷いた。
「では、参りましょう」
彼は背が低い夏帆を幼い子供と思ったのか、彼女の手を握って先導した。彼の手は骨っぽくて皮膚が薄いように思われたが、温かな体温が感じ取れた。
神官に連れられてやって来たのは、農業区だった。そこは村からは出ずに、市場のさらに奥に位置する。農業が主なので、茅葺屋根の一戸建てや鍛冶屋、水車小屋など、市場では見られない建物が並んでいた。
道中、畑で土を肥やす老爺や家の近くで遊ぶ子供が、神官を目に留めると、一旦手や足を休めてお辞儀をしてから立ち去るようにしていた。彼は、笑顔でそれに返事をする。
(美恵花さんの言った通り、本当に親しわれてるんだなあ)
人に好かれる術を出来る事なら彼から学びたい、と夏帆は密かに思った。
ところで、いつまでこうしていれば良いのだろう。
(最初は全然何とも思わなかったのに、急に恥ずかしくなってきた……)
彼、エクスシアに手を繋がれている事だ。身長差はあるので親子には見えない事はないが、自分より幼い子供に彼と手を繋いでいるのを見られた時は、さすがに照れてしまった。
「夏帆さん、もしかして熱でもあるのですか?」
彼女の顔が大分ピンクに染まっている事に気付いたエクスシアは、しかし声は慌てている様子なく落ち着いて問い掛けた。
「い、いえ。そうじゃないんですけど…………大丈夫です」
「安心しました」
どう言って手を離して貰うか模索する余裕もなく、夏帆は大人しく押し黙った。
「着きましたよ」
「つき……え?」
いつの間にか場所指定がされていて、何処に着いたのかと夏帆が目線を上げると、そこには三角屋根の建物があった。他の家と比べると屋根の天辺がやけに鋭い気がする。
周りを見渡すと、土壁が見えた。暫く夏帆は下を向いて進んでいた為に、ある敷地内に入った事に気付かなかったのだ。
「修道院の敷地です。修行と生活が同時に出来るようにとした施設なのですよ」
「修行?」
「修道士の修行です」
「なる為の、ですか?」
「いえ。修道士、修道女になられた方が入れる場所です。信者になるにもまずは洗礼を受けねばなりませんから」
「じゃあ、私が入っちゃいけないんじゃ」
「ご案内するのは礼拝堂ですから、安心して下さい」
そこは出入り自由なのだろうか。
彼が目の前の建物に入り、靴を脱いで床に上がる。その時夏帆はやっと手を離され、ブーツを脱いでから自分も板敷きの床に上がった。中は意外と広々としている。
奥に向かって歩いて行くと、如何にも年季が入っていそうな長椅子が等間隔に並んでいる部屋に行き着いた。
部屋の正面には、天井に取り付けられた小さい窓から差し込む光が、大きなステンドグラスを照らしている。その光景に、夏帆は一瞬で目を奪われた。
「綺麗……」
無意識に指を絡めてお祈りをしてしまいそうだ。ほうと息をついてみると、心がだんだんと落ち着いていくのが分かる。
「お座り下さい」
エクスシアが長椅子の一脚に腰を下ろす。彼女は彼の隣に座った。
「ここは何をする場所なんですか?」
「神に祈りを捧げる場所です。私は普段大聖堂のような大きな場所で祈りを行っているのですが、村の礼拝堂の方が貴女も緊張しないのではないかと思いまして」
礼儀正しく膝の上に手を重ね、彼女の方に顔を向ける動作さえも静かだ。場所はともかく、彼の態度に慣れるまで時間が掛かるのは間違いない。
「あの、エクス……様?」
「私は、エクスシア・レヴィと申します」
「レヴィさん」
名前が五文字もあるので思わず姓の方を口に出してしまった。周りは口々に『神官様』か『エクスシア様』と呼んでいたのだから、それに倣うべきだ。失敗した。
「すすす済みません」
「あ、いえいえ。そちらの呼び名は新鮮です。どうぞ、レヴィで結構ですよ」
エクスシアは怒りも、眉さえも顰めずに微笑んだ。彼の性格は大変有難い。
「――私の勘違いなら良いのです。貴女は何に心を痛めているのでしょう」
「え、えっと」
夏帆は一度、逡巡してから、話し始めた。
「ある人を、ちょっとした発言で傷付けちゃったんです。それで、今日はその事を謝りに行こうと思って」
「お友達ですか?」
「た、多分」
正直、彼女に『友人』と思われているのかは怪しい。否、きっと思われていない。
(何だろう。悲しくなってきた)
心情が表に出ないよう夏帆は一旦口を引き結び、話を再開した。
「でも、いざ謝りに行こうとなると、どう言えば良いのかよく分からなくなっちゃって……今に至ります」
「そうでしたか」
夏帆の曖昧で全てを語ろうとしない態度にも、彼は何処までも優しく親身だ。このような深い事情まで知らずとも、さり気なく察してあげようとする性格が、周りから信頼を得ているのだろう。
二人の間で沈黙が流れる。暫くして、エクスシアの方から口を開いた。
「貴女は、それを許して貰いたいのですか? それとも、気持ちだけ伝えられればそれで良いのでしょうか」
「!」
夏帆は彼の問いで、その事に初めて気が付いた。自分は、波菜にどう思われたいのか、どう決着を付けたいのかはっきりさせていない。
「神のお言葉をお借りしてみましょう」
「神……様?」
「はい」
夏帆とエクスシアは、ピタリとお互いの目線を合わせた。
「どう答えれば損をするか、どう答えれば得をするか。そのようなお気持ちでいれば、大抵脇道に逸れるものです」
言われてすぐに彼の言葉は誰に向けられているのか解らなくなった。それは、自分の事だ。
夏帆は膝の上に置いた自分の拳をじっと見つめ、己に焦点を当てて考える。
――そうだっただろうか。そうだったかもしれない。
「得をするかを考えてはいけません。それに、人が善しか行う事が出来ないのなら、人に価値はないのです。どういう意味なのか分かりますか?」
「いえ」
「貴女のする事が『善』になり得ないかもしれないと思っても、恐れず、貴女がしたいようにして下さいという意味です」
「私が、したい事……」
「失敗を恐れては前には進めません。貴女にもう一度御友人を傷付けたいなどという気持ちがないのならば、どうか伝えたい事を伝えに行ってあげて下さい」
彼の言葉は励ましの言葉とは違う。だが、確かに前に進めという後押しをしてくれた。
どうすれば波菜は許してくれるか、そればかり考えていた。夏帆は彼女に好印象を持って貰いたいのは勿論だが、一番にすべき事は謝る事だ。傷付けてしまった事を謝りたい。それさえ伝わってくれれば、許してくれなくても良いではないか。嫌われるのを、恐れてはいけない。
夏帆は自分が見誤っていた事を教えられ、心の中で何かがスッと消えた思いがした。
「……有難うございます。私、行きます」
夏帆はすくっと立ち上がる。胸の内は、自然と軽くなっていた。
「フフ。説教のようになって申し訳ありません」
「説教だなんてそんな……。お陰でもう踏み出せます」
「貴女の足枷を取るお手伝いが出来たのなら、何よりです」
現実に足枷があったとしたら、彼はかなりの力を発揮してくれた事になる。大抜擢だ。
「レヴィさん。本当に有難うございました」
「頑張って下さい。私に言えるのはこれくらいです。また」
「はい。さようなら」
夏帆は彼の前でぺこりとお辞儀をしてから、礼拝堂を後にする。
修道士とは本当に凄い。美恵花が言っていた様に、ルビナス教徒の評判が良いという事は今なら大いに頷ける。
これから市場には何度か来る事になるだろう。偶に礼拝堂に寄る機会を作ろうと夏帆は密かに思いながら、波菜の家に向かって歩き出した。