第十四話
Ⅴ
村市場から波菜の家へ行き、絵美の箒で飛んで帰って来た夏帆は、夕日が地平に沈んだ時刻にまた家を出た。
暗い森の中を一人きりで歩く。
高い木ばかりが立ち並んでいる割には人が通る道は出来ている。人を襲う悪魔が生息する森。少しも怖くないと言ったら嘘になるが、知りたいという好奇心が夏帆の中で勝っていた。――この場合、好奇心ではなく罪悪感かもしれない。
夏帆は絵美がくれた地図を頼りに目標場所を探した。古い繊維を使ったと分かる紙の地図は、薄いというより固まったというような触り心地だ。所々、僅かに茶色い染みが付着している。
貰った地図が正しければ、そろそろ家の明かりが見えて来る筈だ。この森に住んでいるのが現在二人だけだといっても、それなりに目印はあった。木を組んで作られた立て看板である。矢印が書いてある訳でもないが、そこに立てられているというだけで、充分地図に使える目印だった。
夏帆は三つの立て看板の前を横切り、何とか無事に辿り着く事が出来た。
「ここだ」
内心ビクビクしながら歩いて来た為、安堵の溜息が心の底から漏れる。
二階建ての小さな家だ。細板を斜めに並べた造りの三角屋根には四角い煙突が設えられ、丸太で出来た一軒家らしい。仄かに出てきた月明かりからでも、外観はとても綺麗な事が分かった。
(可愛いお家……)
感嘆の声を飲み込む。
窓から黄色い明かりが出ている。家には居るようだ。
夏帆は家のすぐ手前まで来て、地面より一段高い玄関のドアを控えめに叩いた。
「はーい」
若い女性の声が中から聞こえる。カチャ、と音と共に開かれたドアが、夏帆を招き入れる。
「いらっしゃい」
どうしてこんな時間に、という訝しげな反応さえ見せずに、彼女は快く夏帆に笑いかける。
「美恵花さん、こんばんは。ごめんなさい。夜にお邪魔して……」
「いつもお構いなしの絵美を相手にしているから、謝られるのも調子が狂うわね。気にしないで入りなさい」
「はい」
夏帆はおずおずとした態度のまま、暖かい暖炉のある部屋へと案内された。
木の香りがする。心がほっと落ち着く。
「そこの椅子に座ってて」
美恵花に促され、夏帆は切り株の丸い椅子に座った。
暫く待っていると、目の前のテーブルに湯吞みが二つ置かれる。夏帆は差し出された湯吞みを両手で持ち、「頂きます」と言ってからお茶を口にした。苦いが、とても美味しい。
「それで、何?」
落ち着いて話せる場が出来上がった所で、ようやっと美恵花が問い掛ける。彼女は肘をテーブルの上に乗せ、両手で顎を支えた。
「美恵花さんに、訊きたい事が……」
「私に? 絵美じゃなくて?」
「ちょっと波菜の家に行って色々あって……絵美にも訊き辛い事なんです」
「ふうん」
夏帆の事情を興味なさ気に受け止める態度が、今は有難い。
「絵美にならちょっとやそっとの事を訊いても、特に何とも思わないと思うけど。私が貴女に話せる事はあるのかな」
「はい。私、宗教の事を訊きたいんです」
「宗教……何でまた?」
そんな事かと、特に重要でないと言わんばかりに、美恵花は首を傾げた。
「宗教の話を波菜の前でしちゃ駄目って、絵美に言われたんです。それで、宗教が何か悪いものなのかなと思って」
「……そういえば、私も絵美にそう言われた事があったわね。でも、何で波菜に宗教の話をしちゃいけないのかは、私は知らないわよ?」
「それでもいいです……この世界で、宗教はどういうものなのかだけを訊かせて欲しいんです」
夏帆は宗教が波菜にどう影響を及ぼすのかを知りたかった。知らなければ、また何処かで口を滑らして、彼女を傷付けてしまいかねないと思った。
絵美から訊いても良かったが、何となく気まずい思いがして訊けなかった。夏帆が今の所頼れるのは美恵花だけだ。
「…………」
美恵花は目線を夏帆から真上に向けて、考える素振りを見せる。
「あ、あの。無理に訊こうとは思っていません。だけど、あの」
「いや、別に嫌って訳じゃないわ。貴女が期待出来る様な回答を返せるか分からないだけ」
「大丈夫です。難しい説明でも頑張って理解します!」
正直全部把握出来るかと言われれば自信はないが、断片だけでも知っておきたい。
拳をぎゅっと握って気合いを見せる夏帆に、美恵花は軽く吹き出した。
「ふふ……そう、分かったわ。引き受けます」
承諾してくれた。
「あ、有難うございます」
「本当に世間一般知識程度のものしか話せないけどね? 教典は持ってても私は聖職者じゃないから」
夏帆は了解して頷く。
美恵花は茶を少し飲み、腕を組んでから話し始めた。
「――魔光界は、何と言っても広いからね。一つではなく複数の宗教が存在するわ。地方、国ごとに分かれてる場合が多いわね。ここら辺では『ルビナス教』の神様が主に信じられているわ」
「『ルビナス教』……」
昼に波菜や絵美に訊こうと思っていた宗教の名だ。
「ルビナス教は知ってる?」
「いえ」
ルビナス教徒である神官には会ったが、彼やパン屋の口からその名前が出ても、夏帆はピンと来なかった。
「国教ではないのよ。ここ一帯は昔から水の国と呼ばれているのだけど、ルビナス教の神は他国でも信じられているからね」
『水の国』と呼ばれている由来も気になったが、宗教の話から脱線しては本末転倒なので、夏帆はそちらの質問の方は伏せておくことにした。
「世界にはルビナス教徒が多いんですか?」
「ええ、そうね。言ってしまえばルビナス教の神はルビナス教徒でない人さえも救ってくれると言われているわ。だから聖職者でない私も、貴女も、ルビナス神から無条件に慈愛を受けている事になる」
「信じる事で救われる……」
夏帆は神官に聞いた言葉を、思わず口に出した。
「そう。ルビナス教徒の格言ね。信仰心さえあれば、れっきとした聖職者に就いてる人も就いてない人も関係ないわ」
「でも……」
ルビナス教の神に尊敬の思いを抱くと同時に、夏帆の中では別な考えも及んでいた。
「ルビナス教の他にも宗教はあるんですよね」
「ええ」
「じゃあ、ルビナス教に属していないと言う……異教徒の人はどうなるんですか?」
「なかなか痛い所を突くわね」
美恵花は片眉を下げて苦笑した。
「? どういう事ですか」
「私はルビナス神が如何に人々に慕われているっていう所だけを説明するつもりだったけれど、そこを訊かれるとルビナス教も色々あったのよねっていう話に行かなきゃならない」
何やら不穏な空気が漂い始めた。
「聞く?」
わざわざ聞き返すという事は、余程の話なのだろう。しかし躊躇いもなく、夏帆は静かに頷いた。生唾をごくんと飲み込む。
「……無条件に人を愛す神。けれどそれだけでなく、魔光界の誰もが恐れる悪魔と敵対する神様っていう所でも、人はルビナス神に救いを求めるようになった」
「ルビナス神に救いを求めれば、悪魔にとり憑かれる事がないから……?」
「そうね、そう言われているわ。そんな宗教だからこそ、必然的にルビナス教徒は増えて行き……時代を超え、力を持ったルビナス教は次第に異教を侵蝕していくようになったの」
「侵蝕!?」
夏帆は目を丸くする。驚きの余り少し大きな声を出してしまった。
頬杖をつく美恵花はまた茶を一口飲む。
「要はルビナス教に入れっていう宣告。最初はルビナスの教えを諭す程度のものだったんだけど、そのやり方もだんだんと荒くなってね。冒涜された異教徒は居たたまれなかったと思うわ」
詳細は分からないが、ルビナス教徒ではない異教徒は相当な仕打ちを受けたのだろうと予想出来る。
「まあ、そういう事もあったって話」
「……え! 今ので終わりですか?」
先にまだ話の続きがあると思っていた夏帆は、一瞬で肩の力が抜けてしまった。
「そんな横暴な真似するルビナス教に批判を言うっていう人の話も聞いたわ。でも、元々この国がルビナス教の発祥地だし、実際はとやかく言えない。それにね、ルビナス教徒の人柄は評判良いのよ。何だかんだ言っても、私にとってルビナス教は好印象だったりするわ」
「そう、なんですか……」
「比べる対象があると、やはりルビナス教が何かしら悪いとは思えないのよね」
「え? 比べる対象?」
やや奇妙な言葉に夏帆は反応する。美恵花は言って反応されてから、困ったような顔をしてみせた。
「邪教の事」
「邪教?」
「異端で、人に害を与えるような宗教を指すわ」
宗教と言う存在自体なら知っていたが、その中でも人に認められない宗教もあったのかと、耳を疑う。正直信じられない。
「どういう宗教なんですか?」
「一言で表せば、その宗教の神様が悪魔なの」
それは、あまりにも衝撃的だった。
「悪魔……って、普通は神と敵対するものなんじゃ……」
「だから『邪教』なのよ」
納得がいった。夏帆は悪魔はまだ見た事がないが、人を襲う生き物が人を救う神など辻褄が合う筈もない。信仰されない宗教であるのは当然である。
しかし、
「一応その邪教って、宗教としては見られているんですか?」
「まあね。ルビナス教は最古の宗教ではないから、ルビナス神が信じられる前はその邪教が信じられていた時代もあったみたいだし。おっと、邪教といってもちゃんと名前があったわね」
美恵花は一旦椅子を引いて立ち上がり、入り口のドアのすぐ傍に置かれている本棚から、一冊の本を取り出した。堅い板紙の表紙の色は紅色で、彼女は重量がありそうなその本の最初のページの方を開く。ページを捲る手が止まると、暫くそれをじっと見つめて、用が済んだと言うように本をパタンと閉じた。
「名前は『ティアナ教』。ちなみに、ティアナ教の神をアドス・ティアナと言うわ」
「アドス?」
「本にはそう書いてあるわね」
「えっ。ティアナ教の本なんですか、それ」
「あはは。違う違う。これはただの文書。それにティアナ教典なんて持ってたら、迫害されかねないし」
迫害、と聞いて夏帆は何となく気持ちが及び腰になる。
夏帆は出された茶の存在をハッと思い出し、目線を下にずらした。淹れられた時は湯気が立ち上っていたのに、話を聞くのに夢中で放って置いてしまったお茶は、すっかり冷めてしまった。だが喉は潤したかったので、冷たいのにも拘らずに湯吞みを持ってぐいっと飲み干す。
「えっと、ご馳走様でした!」
「そんな急いで帰ろうとしなくても良いのに。どうせ今日はウチに泊まっていって貰う予定だしね」
「い、いえ! 長居するのも悪いですし」
「見なさい。外はもう真っ暗。とっくに悪魔が徘徊する時間帯よ」
言って、美恵花は西側の窓硝子を軽く握った拳でコンコンと叩いた。示された窓の向こうを見ると、微かに青かった空はやがて暗闇に染まり、今では黒一色しか見えなくなっていた。
「悪魔って、夜に出るんですか?」
「すくなくとも、ここの場合は夜にしか出ないわね。シリスの森では早朝までうろついてるらしいけど」
「じゃあ出て来ない時は、悪魔は何処に居るものなんでしょう……」
「さあ」
興味もないと言うように、美恵花は答えるのを放棄した。
「悪魔狩りをしてる地域では悪魔の住処を突き止めてたりはするんだろうけど、ここら辺でわざわざ奴等の巣を暴こうとしてる人は居ないわ。そういう場所へ行く事自体、自殺行為だもの」
夏帆は悪魔と遭遇しやすいと言われる森に自分から住み着いている女性三人はどうなのか、と思ったが口には出さないでおいた。
「まあそういう訳だから。絵美もこんな暗い中、貴女が帰って来るとは思ってないだろうし。今日はここで寝泊りしなさい」
「す、済みません。お世話になりっぱなしで」
「言ったでしょ。そういうのは絵美で慣れてる」
彼女の他人に対する優しさは、日頃の苦労によるものなのだと納得させられた。
夕飯、入浴、朝食まで美恵花にお世話になり、夏帆は丁度朝陽が出た頃に彼女の家を出た。
絵美の家まで戻って来ると、玄関の鍵は開いている。しかし家の中に家主の姿は何処にもなかった。彼女は毎日朝食を美恵花の所でご馳走になっているという話を聞いたから、もしかしたら行き違いになってしまったのかもしれない。
無人の家の中はしんと静まり返り、眩しい日の光が窓から差し込んで、瞼を刺激する。
夏帆は絵美の帰りを大人しく待っていようと思った。が、彼女は他にやりたい事があった。
昨日からずっと心の中で靄が晴れない。やはり、我慢出来ないのだ。
(波菜の所に謝りに行きたい……)
無意識とはいえ、不快にさせる言葉で傷付けてしまった事を、せめて謝罪しておきたい。そうすれば、少しは心苦しい思いが消えるかもしれない。
(大丈夫。大丈夫)
彼女は怖いが、本音を言ってしまえば――仲良くなりたい。
(本当は、それだけなんだ)
小さな決意を胸に秘め、夏帆は再び外に出た。