第十話
不穏な空気が漂い始める。暫し無言の時が流れる。悪魔という話の内容が余程のものなのだろうと、絵美の波菜へ向ける視線から読み取れるが、夏帆にとっては不可解としか言えない。それは今訊いた人種や生き物に宿る力についての話にも同じ事が言える筈なのに、悪魔という単語だけに強く反応し、ここまで動揺している自分が解らなかった。
(こういうの、感化されるって言うんだっけ)
一先ずは、そう結論付ける事にする。
波菜の口が、意を決するかのように動くのを見た。
「……今この世界に起こっている事態。の前にお伽話から始めさせて貰うわね」
(お伽話?)
お伽話とは古来から言い伝えられる伝承説話である。夏帆のイメージとしてはそれは人が作る創作話の筈だ。本当にあったか真偽がはっきりしないものを意味もなく怖いと思う者は少なくはないだろうが、波菜と絵美がそのようなものに簡単に触発されるような者には見えない。
釈然としない夏帆には構わず、波菜がゆっくりと語り始めた。
「――私達の周りにある植物や石、川に宿る生命には『霊』と呼ばれる精力が眠っている……そういう概念から始まって生まれたのが悪魔の話。人から見た穢れを持ち、人が生きる安らかな世界を知らない事から、悪魔は人を悪事に誘いたがる生き物なのだと伝えられていったわ。
といっても悪魔は人が作った物語の中に出てくる『敵』として登場する『魔物』に過ぎない。それこそ創作。だから悪魔に理由もなく批判を言うのは、強いて言うなら修道士や修道女くらいね。あ、『修道士』は解る?」
「修道士。うん、なんとなく解るよ」
夏帆は思い当たる節があるのでうんと頷いて応えた。
「人の中に宿る闇が具現化した姿なんていう説もあったわ。けれど――」
「十一年前、お伽話の中の悪魔は実はこの世に存在するものである事が解ったの」
横から出てきた絵美が波菜の説明を引き継いだ。そして彼女の言葉に夏帆は驚きを隠せなかった。
夏帆は悪魔という生き物が創作から生まれたと信じそうになっていた所、その考えは打ち砕かれる。しかし同時に得心がいった。存在しないと解っているもの相手に、波菜達が深刻な面立ちになる訳がないのだ。
本題はここからだった。
「お伽話から沢山の人に知られるようになったのが悪魔だから、実際のはお伽話の中に出てくるのとちょっと違ってたんだ」
「ね、ねえ。どうして悪魔が実在する事が解ったの? 誰が突き止めたの?」
「実際に皆がこの目で見たからだよ。この世界に、この地に、悪魔が空から降り立ってきたんだ」
「え……!?」
この世には存在しない筈の生き物が目の前に現れ、全世界に混乱が生じたであろう事は容易に想像がつく。悪魔は一体何をしたのか、話の続きを聞かずにはいられなかった。
「奴らは鋭い爪で、人も魔物も残虐非道に容赦なく傷つけていったの。悪魔の身体は凶器になり得た。何よりも予想外だったのは、悪魔にも魔力があったっていう事。しかもその魔力の量は通常の人間の倍あったから、敵わないっていう意味でも人は簡単に悪魔に命を奪われてしまった。
ただ、悪魔の数は確かに多かったけど、この世界の人口に匹敵する程でなかったのが唯一の救いかな。それが解って絶滅を試みた修道士が悪魔の祓いを率先して行い始めて、悪魔狩りになって、多くの悪魔の絶命に成功した。結果的に絶滅はしなかったけど」
「今でも生き残りの悪魔がうろついている? それが問題になってるの?」
「その通り。今言った通り、悪魔は人を襲う者。危険な生き物。魔物も普通に殺してしまうから、魔物にすら分類されない。呼ぶ人も居るけどね。だから結論から言って、ある意味夏帆の想像も当たりだよ? 悪魔は『異端者』だ」
「何故いきなりそんな事が起こったのか、原因は明らかになっていないわ」
話は終わった。夏帆にとっては想像を遥かに超えた深刻な事態を知って動揺する。この世界に暮らし、十一年前の記憶がはっきりと残る者にとっては驚天動地の出来事が舞い降りて絶望した。何処から来たか知れない生き物に平穏を奪われ、命を奪われ、どれ程の人が一連の事件に関与したのだろう。本当に全世界の人々が被害に遭ったのなら、果たしてこの世界に希望は残っているのだろうか。
「波菜、絵美」
彼女達も、苦しい思いをしたのだろうか。
「私……」
「私が言った事、忘れてないわよね?」
何を言って良いのか解らなくなってしまった夏帆に、波菜が拍子抜けする程の堂々とした声で質問を投げ掛ける。いきなり、今度は何だ。
「平和ボケしてらんない事がこの世界で起こってるって事を知って貰いたかったから、悪魔の話をしただけ。私が貴女に話すのは全て常識であって悩みを暴露する気は毛頭ないわ。ましてや初対面の子に」
「悩みではあるよ、波菜? まあ悪魔の存在は悩みの種っていうより悩みの花ってカンジだけど」
「そんな花は要らない。とりあえず、忘れたならもう一度言わせて貰うわ。ここは絶望の危機に陥る程、地獄の谷のような世界じゃない」
「! うん」
口には出さないが少し忘れていた。希望はある。それは波菜と絵美を見れば解った事だ。夏帆は他に頼る者が居ないから、波菜達を疑う事は出来ない。だからこそ彼女達の笑う顔に嘘はないのだと言える。
一連の事件は終わっていなくても、こうして笑う者が居るのだ。きっと悪魔に被害を受けた人々は忌まわしい記憶を振り切って、立ち直っていったのだろう。
安心して息を吐く。
「あとは解らない事があったら、その辺の気前良さそうな人に訊く事ね」
「えっ?」
安堵した途端に夏帆は目を見開いた。波菜は椅子を引いて立ち上がり、そのまま部屋から出ようとする。
「え、え、あの……」
「波菜ー、何処行くの?」
「紅茶でも飲もうと思ってね。あ、夏帆。常識もきっちりしっかり教えたし、後は私に用なんかある筈ないでしょう? 一人で地道に働き口探して住処見付けた方が、この世界に慣れるのに手っ取り早いと思うのよね。身寄りがないんじゃあ送りようもないし。ここでさよなら。私がお茶持って戻って来るまでに出てってね。ばいばい」
くどくどと小言のような言葉を並べて波菜は出て行く。夏帆は椅子に座ったまま、彼女が消えた方向を見ながら呆然とする。
「えーっと……」
さすがの絵美も彼女の態度には予想外だったようで苦笑いをした。頬を人差し指でポリポリ掻いている。
こういうのを何て言うのだったか。そう、薄情だ。――しかし本人にそんな文句を言える筈がない。何処に向かえば良いか解らない夏帆を引き止める理由は波菜にはないからだ。
そしてある事を思い出した。
「絵美、私はどうやってここに来たんだっけ?」
「あー夏帆が悪魔に襲われかけてた所を波菜が見付けて助けて、おんぶしてベッドまで運んだらしいよ」
それだけでも相当お世話になっている。しかもこの世界のルールまで教わった。これ以上波菜に何かを求めるのは、おこがましい、迷惑にしかなり得ない。波菜が厚意で夏帆を家に住まわせるなりする気がない以上、いつまでもここに居座っている場合ではないのだ。
行き場を失くしたなら戻れば良いが、夏帆には戻る場所が思い出せない。まずは泊めて貰う所を探すのが、今の夏帆の目標である。次から次へと来る試練に頭を抱える他ないが、落ち込んでいても仕方がない。
波菜の言う通り未知の世界で生きる為には、一人で立たねばならないのかもしれない。
両の拳をぎゅっと握り締めて活き込んでみるが、やはり不安要素が夏帆の周りの宙に浮く。これから一体どうすれば良いのか、といきなり弱気な発言が口から零れてしまいそうだ。泣きたい。
そんな時、救いの手が差し伸べられた。
「夏帆、あたしの家に住む?」
「ふえ?」
素っ頓狂な返事を返す夏帆に絵美が少し笑う。彼女は夏帆の両手を自分の両手でぎゅっと握った。
「行くトコないんだよね。だったら友達になった好に、ね」
「で、でも。波菜や絵美には頼めないよ。いっぱい迷惑かけちゃったんだし」
「波菜は半分うんざりしてきてるだけだよ。ホントは人の世話上手なのに、すぐ面倒なの顔に出すんだ。そういう態度に夏帆が耐えられるなら、無理にでも頼み込んでみても良いと思うけどね」
「うっ」
多分申し訳なく思う日々が続くだろう。波菜の家に居候している間、息苦しい生活を送っていくのが目に見えるようだ。
「大体、世捨て人を放って置くのって他人に関心ない人がする事でしょ。あたしは夏帆に確りと興味あるもん」
「いや、私、人生捨てた訳じゃ……」
「あ、そっか。忘れてるんだよね。まあとにかくウチ来ても良いよ。夏帆がそれで良いなら」
良いも何も、これ以上ないくらい有難い事だ。絵美には感謝こそする。
「……本当に良いの?」
「いいのいいの。あたし自分の家あるのに、寝る時ぐらいしか使わないしさ。家族が居れば少しは掃除もちゃんとやるかなーって。夏帆はご飯作れる?」
「料理? わかんない……」
夏帆は自分の手のひらを見てみるが、何かを作る作業を過去に行っていた手だろうか。
「ん?」
絵美が手のひらを覗き込んだかと思うと、いきなり夏帆の手首を掴んで僅かに首を傾けた。
「ど、どうしたの?」
「――いや、何でもない」
何でもないと言いながら、絵美は掴んだ夏帆の手首を離さずにそのまま引いた。そして窓枠に足をかける。
「わっ、絵美!?」
「急いで。波菜が戻って来ちゃう。とりあえず今日の昼食と夕食分は明日に回して貰おうっと」
「きゃあっ!」
夏帆は引っ張られるがままに窓から波菜の家を出た。緑が茂る地面の上に踵が着地する。外に出るのに最短距離であるのは解るが何故玄関を使おうと思わないのだろう。
絵美は夏帆の手を一旦放し、外の芝生の上に放置されていたらしい一本の箒を手に取った。
「そ、掃除でもするの?」
「これ、掃除用の箒じゃないんだ。あたしの交通手段」
「?」
夏帆は頭の中で疑問符を浮かべた。交通は解る。だがこの一本の箒が何に使うのかがまったく解らない。
絵美が箒を持ち上げると、近くでまじまじと見てみると箒の棒は思っていたより長い。棒の先端についているのは藁ではなく毛のようで、触り心地が良さそうだ。
「うん、久し振りに二人乗りだ」
そう言って、絵美は箒に跨る。その奇妙しな行動をとる彼女を見て、夏帆は呆けた顔をして立ち尽くした。
「夏帆も後ろに跨って」
「わ、私も?」
頷く絵美の云い付けどおりに夏帆も棒に跨ってみる。
「こ、こう?」
「飛ぶ時危ないから、あたしの腰に手ェ回してしっかり掴まってね」
「飛ぶ?」
分かってはいたが棒に跨るだけのお遊びではないようだ。飛ぶと聞けばまず翼を持つ鳥を想像出来るが、生憎鳥ではない夏帆達に翼はないし、そもそも箒は生き物ですらない。ではどうやって飛ぶのか。
夏帆が色んな思考を巡らせている内に、いつの間にか彼女の足は既に地に着いていなかった。
「え?」
理屈も何もなかったらしい。鳥でもない。翼でもない。ただ、箒ごと箒に乗っている夏帆達が浮いているのだ。
「な、何で浮いて……っ」
「およ? そんなに不思議? 確かに箒を使って飛ぶのは魔女特有能力だけど、空飛ぶ人間や魔人はそう少なくないよ」
「わわっ」
絵美が説明している間にどんどん夏帆達の身体は上へ上へと上がっていく。人が空中に浮く。こんな事が有り得るのか。
「あ、そっか。これも『魔力』なんだね」
「そりゃそうだよー。魔力がなきゃ箒だって動かない」
箒を用いている上での魔力なので、物理的根拠なのかは定かではないが、科学的ではないのは間違いない。
夏帆は絵美の胴の辺りにしっかりと掴まる。
(何だろう……わくわくする)
心臓は相変わらず煩く鳴り響いている。しかしもう苦しくはなかった。清々しく、風の匂いが鼻を擽る。
そういえば、夏帆はここで初めてこの世界の外を見たのだった。
「夏帆はさあ、この世界が何て呼ばれてるのかは知ってる?」
「え、世界にも名前があるの?」
「あるよ」
絵美は黒い三角帽子を片手で押さえながら、背後に居る夏帆に向かってにかっと笑った。
「あたし達は『魔光界』、って呼んでる」
「魔光界……」
どのような経緯でそう呼ばれるようになったのだろうか。しかし、暗い感じは自然としない。とても暖かな響きに聞こえるのは気のせいだろうか。
青い空で白い雲が泳ぎ、地面には多くの緑が生命を宿す。この世界がどれ程大きいかは、今はまだ計り知れない。けれどいつか――。
これから先の己の人生がより良い方向に向くようにと、夏帆は心の中で強く願った。