石の記憶 外伝 トムくん奮闘記 閑話
リンゴってなあに?
ある日の午後。
厨房で仕事をしながら、アドリアンがふと呟いた。
「リンゴって、なんでこの名前にしたんだ?」
少し考えてから、父親に尋ねる。
「ビートルズのリンゴ・スターから取ったとか? 親父、ビートルズ好きだったっけ?」
ヒロは思わず手を止めた。
「……お前なあ」
「じゃあ、素直に Apple にすればよかったじゃん」
「馬鹿言え。スティーブ・ジョブズに祟られた挙げ句、名前を使ったって訴訟沙汰になったらどうするんだ」
「……そこまで考える?」
アドリアンは不思議そうに首を傾げた。
「そもそも、なんで Apple の名前を使わなかったんだ?」
ヒロは、少し遠い目をした。
「Apple の名を、日本語にしたんだよ」
「え?」
「俺が修行した青森の名産なんだ」
ヒロは、懐かしむように語り始めた。
「あの雪の凍える日、俺はあまり持ち合わせがなくてな。たまたま見つけた店に入ったんだ。あれが、俺の命をつないだようなもんだった」
「命を?」
「ああ。手持ちの金じゃ、とても足りないような料理を出してくれた。しかも、デザートだと言って、りんごまで出してくれたんだ」
ヒロの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「あのりんごの甘酸っぱさは、今でも忘れられねえ」
若かったヒロは、その味に心を動かされた。
そして、思わず頼み込んだのだった。
――俺を弟子にしてください。
師匠は、すぐにはいい顔をしなかった。
見ず知らずの外国人を弟子にするなど、簡単に決められることではなかったのだろう。
けれど、店のおかみさんが違った。
彼女はヒロに笑顔を向け、手招きしてくれた。
「おいで」
言葉は十分に通じなかった。
それでも、彼女の仕草が何を意味しているのか、ヒロには分かった。
ヒロは店の畳に上がり、もう一度、深々と頭を下げた。
お互い、片言の英語と日本語。
それでも、心は通じ合えた。
「あのりんごの味が、俺をここまで育ててくれたと言っても過言じゃない」
ヒロは息子を見た。
「だから、アドリアン。初心を忘れるな」
その声は、いつもの厨房での厳しい声とは少し違っていた。
「お前は俺と違って、言葉が通じる贅沢な環境にいるんだ。相手の言葉が分かる。自分の気持ちだって伝えられる。それがどれだけ恵まれたことか、分かるな?」
アドリアンは、はっとした。
自分は父親の料理を見て育ち、日本語も英語も使える。分からないことがあれば聞けるし、伝えたいことがあれば言葉にできる。
だが、父親が修行していた頃は違ったのだ。
言葉も通じない異国で、見知らぬ人の厚意に救われ、頭を下げて教えを乞うた。
その経験が、今の父親をつくった。
店の名前に込められていたのは、ただ果物の名前だけではなかった。
自分を受け入れてくれた人たちへの感謝。
料理人としての原点。
そして、あの日の自分を忘れないための、小さな誓いだった。
アドリアンは、父親をまっすぐに見た。
「……わかりました、師匠」
気がつけば、いつもの「親父」ではなく、自然にそう呼んでいた。
ヒロは何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ口元を緩め、再び厨房の仕事に戻った。




