調香聖女は追放されたので、香りの記憶を持って去ります ~偽物が撒く合成花の匂いで、あなたの罪、全部暴かせていただきますね?~
「アイリス、お前を偽聖女として追放する」
王城の大聖堂。
居並ぶ貴族たちの視線が、一斉に私へと突き刺さる。
祭壇の前で高らかに宣言したのは、私の婚約者――第二王子ユリウス殿下だった。艶やかな金髪を煌めかせ、まるで正義を執行するかのような顔をしている。
「お前の祈りの香は地味で薬臭い。だがロゼッタの香りこそ、本物の聖香だ」
その隣で、義妹のロゼッタが勝ち誇ったように微笑んでいた。蜂蜜色の巻き髪を揺らし、水色の瞳をうるませて。
「ごめんなさい、お姉さま。でも……国のためですもの」
白々しい。
ロゼッタが両手をかざすと、彼女の結界からふわりと甘く華やかな花の香りが立ち上った。貴族たちが陶然と息を漏らす。「なんと芳しい」「これぞ聖女の香り」と。
だが――私は、その香りを一嗅ぎした瞬間、内心で凍りついた。
(……オゾン臭。薬品ベースの下地に、人工的な合成花香料を重ねてある)
間違いない。天然の花じゃない。前世で嗅ぎ飽きた、安物の芳香剤とまったく同じ構造だ。
(一流香料メーカーで過労死した私の鼻を、舐めてもらっては困るのだけれど)
過労死して転生した先が、まさか香りが魔力の媒介となる異世界だったとは。皮肉なものだ。
天然素材の一滴の違いすら嗅ぎ分ける『鑑定級の鼻』だけは、ちゃんと持ち越してきたらしい。
だから、わかってしまう。
この香りは、聖なる香りなんかじゃない。人を酔わせて騙すための、まがい物だと。
「何か申し開きはあるか、アイリス」
ユリウス殿下が冷たく問う。
「……いいえ。喚くつもりも、縋るつもりもございません」
私は静かに首を横に振った。
「この程度の見る目しか持たない方々に、本物の価値を説いても無駄ですから」
「……なんだと?」
殿下の眉がぴくりと動く。だが私は、もうその表情に興味がなかった。
首から下げた聖女の証を、そっと外す。
「――かしこまりました。愛も地位も、いりません」
証を祭壇に置き、踵を返す。
「私はただ、本物の香りが分かればいい。それだけです」
ざわめく大聖堂を背に、私は一度も振り返らずに城を出た。
――ただし、去り際に。
祭壇の縁に残っていたロゼッタの『聖香』の残り香を、小さな瓶にひと匙、密かに封じ込めておいた。
(偽物の香りは、いつか必ず自分の首を絞める。……せいぜい、その時まで楽しんでいなさい)
*
追放から三月。
私は辺境の町アルドで、小さな調香店を開いた。
「姉さーん! ギルドからまた依頼だよ! 魔物避けの香、大量発注!」
扉を勢いよく開けて飛び込んできたのは、助手のマレナだ。赤茶けた短髪にそばかす、元冒険者の気風のいい少女。彼女がいなければ、この店はここまで回っていない。
「今日の分はもう調合してあるわ。棚の右から三番目」
「さっすが姉さん、仕事が早い!」
前世の調香知識を活かした天然香水と治癒香は、瞬く間に評判を呼んだ。冒険者ギルドからは魔物避けの香、治癒薬の依頼が引きも切らない。
地味だと侮られた私の香りは、地に足のついた庶民や冒険者たちには、きちんと『本物』として届いていた。
(貴族社会より、よほど鼻が利くわね。この町の人たちは)
そんなことを思っていたら、店の扉に大きな影が差した。
「――ここが、噂の調香店か」
低く、抑えた声。
入ってきたのは、長身の偉丈夫だった。黒曜石のような黒髪、瞳孔の縦に細い深紅の瞳。こめかみからわずかに覗く硬質な鱗――竜人だ。
「ひっ……騎士団長ガイゼル様……」
マレナが小声で震え上がる。冷酷無比と噂される、王国騎士団長。
威圧的な気配を纏った彼は、店内をぐるりと見回し――そして、なぜか店先の花壇の前でしゃがみ込んだ。
「……」
一輪、また一輪と、真剣な顔で花の匂いを嗅いでいく。
「……えっと、団長様?」
私が声をかけると、彼はぽつりと呟いた。
「……この白い花。夜に香りが強くなる種類だな。……いい」
(あれ。この人……もしかして、花が好き?)
冷酷と噂された鋭い目が、花の前でだけ、まるで子どものように輝いている。
ギャップがすごい。
彼は立ち上がると、私をまっすぐに見据えた。
「お前の香りは、嘘をつかない」
「……?」
「王都の『聖女』の香り。あれはずっと不自然だった。オゾンの臭いが混じっている。竜人の鼻には、ごまかせない」
私は息を呑んだ。
「……あなた、気づいていたのですね。ずっと、たった一人で」
この人は――知っていたのだ。ロゼッタの香りが、偽物だと。
「団長様。あなた、いい鼻をお持ちですね」
初めて、私は心から微笑んだ。
ガイゼルは一瞬目を見開き、それからふいと視線を逸らした。耳がほんの少し、赤い。
「……ガイゼルでいい」
(あら。可愛いところがあるじゃないの)
*
王都から、その報せが届いたのは秋の入り口だった。
「姉さん、大変だよ! 王都で疫病が流行ってるって! ロゼッタの結界が、次々崩れてるらしい!」
マレナが青ざめて駆け込んでくる。
やはり、と私は思った。
「……やっぱりね。合成香料には、持続力も治癒力もない。それどころか、長期間吸えば人体に害をなす」
あのオゾン臭の薬品を、王都の民は毎日浴び続けていたのだ。
「結界が崩れれば、瘴気を防げない。疫病が広がるのは当然の帰結よ」
「あの偽聖女……! あの王子も、鼻ついてんのか!?」
マレナが本気で憤る。読者代弁もかくやという勢いだ。
「その怒り、まったく同感だわ」
その夜、店にひとりの使者が訪ねてきた。
王家の紋章。ユリウス殿下からの、直筆の書状だった。
「……ユリウス殿下から、直筆の書状。『どうか、王都を救ってほしい。頼む、アイリス』ですって」
私は書状を静かに畳んだ。
「私を偽聖女と罵り、追放しておいて。都合が悪くなれば頼み込んでくる。ずいぶんと勝手なものね」
マレナが心配そうに私を見た。
「姉さん、どうすんの……行くの?」
私は棚の奥にしまってあった小さな瓶を取り出す。あの日、大聖堂で密かに採取した、ロゼッタの『聖香』の残り香。
証拠だ。
「行くわ。でも――助けるためじゃない」
「え?」
「もう、我慢はしない。逃げるためじゃなく……暴くために戻るの」
静かに、けれど確かな決意を込めて言った。
「あの日、大聖堂で密かに採取しておいたロゼッタの『聖香』。この鼻と、この瓶が、私の武器よ」
マレナの顔が、ぱっと輝いた。
「――そうこなくっちゃ! 姉さんの本物、見せつけてやりな!」
扉が開き、夜風とともにガイゼルが入ってきた。
「話は聞いた。俺も行く」
「団長様……いえ、ガイゼル」
「お前の香りが正しいことを、俺が証言する。竜人の鼻は、嘘を暴く」
深紅の瞳が、まっすぐ私を見つめていた。
「……ひとりで、戦わせない」
無愛想な、けれど何より温かい言葉だった。
(ええ。一緒に、行きましょう)
私は証拠の瓶を握りしめ、王都へと顔を向けた。
*
王城の大聖堂。
三月前、私が追放されたその場所に、私は再び立っていた。
ただし、今度は裁かれる側ではない。
「アイリス……よく戻ってくれた」
やつれたユリウス殿下が、縋るように私を見る。かつての傲慢さは見る影もない。
その隣で、ロゼッタが引きつった笑みを浮かべていた。
「お、お姉さま……戻ってきてくださって嬉しいわ。一緒に、この疫病を……」
「ロゼッタ」
私は静かに彼女の言葉を遮った。
喚かない。声を荒らげない。ただ、淡々と。
「あなたの結界が、疫病の原因よ」
大聖堂がざわめいた。
「な……何を言うの! わたくしの聖香は本物――」
「では、実演しましょう」
私は懐から、ロゼッタの『聖香』の残り香を封じた瓶を取り出した。貴族たちの前で、その一滴を空気中に垂らす。
そして、目を閉じ、ゆっくりと嗅ぐ。
「まず、下地。……オゾン臭。薬品ベースの合成溶剤ね。天然の聖香には、絶対に含まれない成分」
静まり返る聖堂。
「その上に重ねられているのが――隣国ヴェルデ製の、合成花香料。安価な芳香剤に使われるものと、まったく同じ組成」
「で、でたらめよ! 証拠もないのに――」
「証拠は、あなたの鼻の代わりに、竜人の鼻が語ります」
私が視線を向けると、ガイゼルが一歩前に出た。
「王国騎士団長ガイゼルの名において証言する。この香りは、聖女ロゼッタの結界と同一のもの」
深紅の瞳が、ロゼッタを射抜く。
「そして俺は、半年前からこの合成香料の不自然さに気づいていた。竜人の嗅覚は、天然と人工を決して間違えない」
さらに、私は続けた。
「そして――これが、隣国からの香料密輸の記録です」
マレナが冒険者ギルドの伝手で入手した取引記録を、貴族たちの前に広げる。
「ロゼッタ宛。合成花香料、大量輸入。署名まで残っている」
「あなたは天然の聖香を調合する才能がなかった。だから他国と通じ、偽物で国を欺いた。――結界が持続せず、治癒力もなく、民に害をなすとも知らずに」
「ち、違う……違うのよ……!」
ロゼッタの化けの皮が、音を立てて剥がれていく。
貴族たちの陶然とした表情は、今や軽蔑と怒りに変わっていた。
「これは聖なる香りではありません。人を酔わせ、騙し、蝕むための――毒です」
静かな、けれど凄みのある一言が、大聖堂に響いた。
ユリウス殿下が、崩れ落ちるように膝をついた。
「私は……私は、なんという見る目のなさを……」
(ええ。あなたには、嗅ぐ鼻がなかったのよ)
私は心の中だけで、そっと呟いた。
*
断罪は、静かに幕を閉じた。
ロゼッタは隣国との内通と国家反逆の罪で連行された。最後まで「わたくしは悪くない」と喚いていたが、その声に耳を貸す者はもう、誰もいなかった。
ユリウス殿下が、私の前に深く頭を垂れた。
「アイリス。……いや、聖女アイリス。どうか、王家に戻ってほしい。婚約も、地位も、すべて――」
「お断りします」
即答だった。
「愛も地位も、いらないと申し上げたはずです。あの日から、私の望みは何ひとつ変わっていません」
「では、お前は……」
私は隣に立つガイゼルを見上げた。
彼は無言で、けれど確かに、私の傍らに立っていた。
「私の香りが分かる人の隣にいます」
それだけ言って、私は微笑んだ。
ユリウス殿下は、何も言い返せなかった。
(もう彼には、私とガイゼルの間に立ち入る資格すら、残されていない)
――すべてが終わった大聖堂。
人々が去り、静けさが戻った聖堂に、私はひとり残って空気を嗅いだ。
ロゼッタの去った後に漂う、消えかけた香り。
オゾンと、合成花の残り香。
安っぽく、空虚で、どこまでも薄っぺらい匂い。
「……ふふ」
思わず、笑みがこぼれた。
「偽物は、必ず残り香でバレるんですよ」
どれだけ華やかに取り繕っても。どれだけ大勢を陶然とさせても。
本物と偽物の違いは、最後には必ず、匂いに残る。
「アイリス」
背後から、ガイゼルの声。
振り返ると、大きな竜人の騎士が、両手いっぱいに白い花を抱えて立っていた。あの、夜に香りが強くなる花だ。
「まあ。その花……夜に香りが強くなる、あの白い花ね」
「……城の庭に、咲いていた。お前に、と思って」
無愛想な顔。でも、耳が赤い。
「まあ。ありがとう、ガイゼル」
花束を受け取ると、清らかな天然の芳香が、そっと鼻をくすぐった。
(ああ、これが本物だ。嘘のない、生きた香り)
「なあ、アイリス」
「なあに?」
「辺境に……ふたりで、新しい工房を開かないか」
ぶっきらぼうな、けれど精一杯の言葉。
花を愛で、香りを語り、私の隣で子どものように目を輝かせるこの人と。
私は迷わず頷いた。
「ええ。天然の花だけを扱う、本物の調香工房を」
ガイゼルが、初めて見せる柔らかな笑みを浮かべた。
偽物の残り香が消えたその場所に、これから私たちが紡ぐ、本物の香りが満ちていく。
――前世の記憶と、この鼻を持って。
私の第二の人生は、ここから、甘く香り始める。
(本物の香りが分かる人が、隣にいる。……それだけで、じゅうぶんだわ)




