「王女への口説きは外交だ」と婚約者に黙らされましたので、一語違えず両国へ通訳しました ~凍りつく重鎮たち。取り繕ってももう遅い~
「王女への口説きは外交だ。君は黙って、聞こえのいいように訳していればいい」
唇まで出かかった「それは」を、ゲレオンはわたくしの顔も見ず、平らな声でそう封じた。
式典の朝の控えの間には、張りつめた静けさがある。高い窓から差す淡い光が、卓の上の進行次第を冷たく白く照らしている。磨かれた床には蜜蝋の甘い匂いが薄く立ち、扉の向こうで、設営の椅子を引く乾いた音が続いている。
わたくしはイルメラ。王宮の首席通訳官。北と南、二つの言葉の裏まで受け取り、運んで九年になる。この男の婚約者になって、二年。
彼の声は、嘘をつくとき半音だけ上がる。人の言葉を聴き分けて生きてきた耳は、息の揺れも、その前のわずかな間も拾ってしまう。
二年のあいだ、わたくしは膝の上で指を重ね、聞かなかったふりをしてきた。聞き分けてしまう耳を枕へ押しつけ、朝を待った夜もある。今朝はもう、拾った声を知らぬふりの底へ沈めてはいない。
「殿下のお耳に入れる訳なら、多少、色をつけて構わないよ」
「私が殿下へ申し上げる言葉は、こちらの記録には、儀礼の挨拶とだけ移してくれ」
色をつけて構わない、も何も。殿下へ口説きを囁くとき、彼はいつも、わたくしを見もせず、自分の南の言葉だけで足りている。この言いつけはただ、わたくしの口を、望む言葉だけを吐く道具と数えている――その数え方は、指先にまで染みついている。
彼は進行次第を指でなぞりながらそう命じ、折り畳んだ紙を、頁のあいだから滑らせて寄越す。開けば、細い筆跡で、わたくしの声になるはずの文句が並んでいる。北向けの、儀礼の挨拶の下書き。つまり、わたくしの喉まで書き込んだ訳の台本である。
紙は薄いのに、指に載せた途端、冷たい重みが手首へ沈む。九年――この男はいつも、訳のせいにできる席を選び、そこから話してきたのである。
「君は二年も、黙っていてくれたじゃないか?」
「この場に君を推したのは私だ。君は、私に恥をかかせない」
「――頼んだよ」
控えの間へ落とされた言葉は、公の言葉ではない。通訳官は、職分の外の言葉を、公の場へ運ばない。だからわたくしは、この命令を誰かへ告げるために、唇を開くこともしない。
襟もとの衣を押し返すように、息をひとつ、深く吸う。冷えた空気が喉を通り、九年分の言葉が、その奥で静かに列を作るのが分かる。
その代わり。
「承知しました。では式典では、わたくしの言葉は一言も差し挟みませんわ」
「あなたの二枚舌、両方とも正確に訳します」
二枚舌を、両方とも。彼は進行次第から顔さえ上げない。
「そうしてくれ」
返った声に、半音の上がりは無い――だからこの言いようを、頼んだ二枚の訳のことだと聞いたのだ。紙を押さえる指が、満足げにゆるやかに止まる。
甘く重い香りと、遠ざかる靴音だけを残して、彼は先に控えの間を出て行く。扉が閉じ、冷えた静けさが肩へ降りる中で、わたくしは自分の指先が氷のように冷たいのに、進行次第の縁へ置いたまま、少しも震えていないことを知る。
訳のせいにできる席で話してきた男の耳は、わたくしの声が告げる宣誓と、彼が待つ服従の違いを、まだ聞き分けない。
◇
昼の鐘の余韻が高い梁へ吸われると、大広間じゅうの息が一度に浅くなる。南の使節がまとう絹は窓明かりに孔雀の色を咲かせ、蜜蝋の甘い匂いのなか、燭台の金と調印の卓の黒檀だけが、冷たい水底のように底光りしている。
開式の直前、わたくしは進行次第を検める体で彼の席へ寄り、挟まれたままの紙を、冷えた指で進行次第ごと無言で返した。彼はわたくしを見ず、素知らぬ顔のまま、わずかに急ぐ指で紙だけを懐へ仕舞うしかない。
両国の記録係が、椅子の脚の音をそろえ、左右の卓に着く。北からひとり、南からひとり、互いの顔色を見て筆を構える。式典の言葉はすべて両つの言葉で記され、湿る墨の匂いごと、写しを両国が持つ。
「両国の誼のもと、これより調印の式を始める。まことに喜ばしい日である」
外務卿の開式の辞。その〈喜ばしい〉の語で、南の席の、王女の若い手にあった扇が、わたくしの南訳より半拍早く、ふつりと音を残して止まった。
壇の脇へ立つと、背後の窓明かりが肩を熱し、わたくしは喉の乾きを隠して通訳室の宣誓を諳んじる。九年、幾百の場で唱えてきた文句が、今日はじめて、抜けば誰かを傷つける武器の重さで舌に載る。
「聞いたままを、足さず、引かず、両国へお渡しいたします」
ソラーナの王女アマリア。解いた黒髪は燭火を呑み、琥珀の目はまっすぐ前を射る。南の列の顔が彼女へ向くなか、十九の名代は、衣擦れもなく扇を開き直して挨拶を述べた。
「父王に代わり、本日の調印をうれしく思います」
「父王に代わり、本日の調印をうれしく思います。……との仰せでございます」
「……見事なものだ」
北の席の、感嘆とも吐息ともつかぬ小声がひとつ落ちる。続いて、南の臣たちの目が、次は、と宰相レオネルへ集まる。彼は薄い微笑を崩さず、扇を軽く立てたまま、言葉を短く切る。
「実り多き十年となれば、さぞ喜ばしいことでしょう」
北の列の眉が意味を待って寄るなか、わたくしは声を揺らさず、同じ作法で短い辞を北へ渡す。
この宰相は、さっきから扇の骨を、白い指で数えるように折っては開き、かすかな風だけを卓へ送っている。数え終わるまで誰も信じない、という顔のまま、その目だけが人から人へ静かに移る。
「一つ、大河の橋の通行。一つ、塩の関税。向こう十年」
北の記録係が条約の骨子を読み上げ、式は滞りなく進んだ。ゲレオンは微笑のまま、卓の下で婚約の指輪を回している。誰も見ていないと思うときにだけ出る、あの癖で。やがて筆の音が並んで止み、進行役の声が立つ。
「――南方掛、前へ」
呼び声は、南へも渡してある。南の顔々が次の言葉を待ってこちらへ向くなか、彼は席で短く応じ、椅子を鳴らさずに立つ。
「両国の、永き誼に」
立礼の一句。けれど彼はそこで終えず、息を継ぐと、体ごと南の使節の側へ向き直る。その肩の線は迷いなく伸び、わたくしの指先から熱が引くほど、舞台へ出て行く役者のものに見える。
まだ、何も言っていない。ただ、口を開く向きが南だっただけで、使節たちのまなざしが硬くそろい、わたくしの内側で、昼の鐘より重い音が鈍く落ちた。
◇
広間の息遣いが細く止まり、間がひとつ、置かれる。
「ソラーナの空より、殿下の瞳の青のほうが深い。条約より先に、私の心は殿下のお手元にあります」
南の言葉で織った、絹のような甘言である。蜜を含んだ語尾が薄く甘く溶ける、歌うような節回し。意味の分からぬ広間の北側へ、彼の柔らかな声だけが、高窓の淡い光の中をぬるい風のように流れていく。
彼はわたくしを見ず、手の甲をわずかに返してこちらを促す。儀礼の挨拶とだけ移せ、の合図である。舌の重さをこらえ、返した台本の文句どおりに口を動かせば、この場は丸く収まる。そして丸く収まった場を、彼は明日からも、何事もなかったように使い続けるのだろう。わたくしの口を、二枚目の舌として。
息が喉につかえる、半拍。
「ソラーナの空より、殿下の瞳の青のほうが深い。条約より先に、私の心は殿下のお手元にあります。……との仰せでございます」
黙らされた女は、自分の言葉をひとつも足していない。自分の声が、他人のもののように広間へ落ちて、沈んでいく。
その声が落ちながらも、九年の耳は、たった一語だけ拾っていた。殿下の瞳の、青。――王女の目は、白い光を静かに返す琥珀である。安物の口上は、口説く相手の顔も見ず、目の色さえ、間違える。
北の席では、息がいっせいに浅くなり、冷えが肩から肩へ走る。外務卿は口元を固くし、咳払いでそれを隠す。袖のかげで、目配せだけが交わされる。北の記録係の筆が紙の上で一度止まり、それから、こするような音を立てて走る。
「……いまの言葉、そのままか?」
「……本国の考えなのか?」
北の廷臣たちの小声は低く、卓の下にたまる冷気を這う。南の随員の席からは逆に、絹の衣擦れが冷たいさざ波のように広がり、それきり息まで潜めたように静まった。
北の記録係が、目を伏せ、筆先を紙の上に浮かせたまま言い添える。
「……そのまま、記します」
彼の頬の笑みは、薄く貼りついたまま崩れない。ただ、続きを出す声だけが、磨かれた壁へ響くとき、半音、上がる。耳の奥に細く刺さる、嘘の音だ。聞き分けられるのは、この広間でわたくしひとりである。
「この橋が結ぶのは、国と国だけではありません」
それも一語違えず、舌に残る苦さごと北へ運ぶ。静けさが、息をのむ音まで聞こえるほど、もう一段深く凍える。橋の話をしているのに、誰の頭にも、もう川も岸もなく、橋は架かっていない。
「どうぞ、続きを」
南の言葉で、宰相。語尾がわずかに弾み、細めた目尻がほどける。促しの一句は、北へも渡す。それに重なって、外務卿の、喉の底から響く低い北の一言。
「南方掛。」
「……は。続きを、申し上げます」
「南の向きをあずかる官どの、との仰せでございます」
わたくしは喉の乾きをのみ込み、低い一言も南へ渡す。役目の名だけは、聞く者へ同じ形で届くよう、南の言い方に開く。それが両国の訳の作法で、袖の内で指を握っても、あとは一語も動かさない。
王女の目は、彼の応じる声より前に、もう、琥珀の奥へ鋭い光を宿し、その言葉へまっすぐ動いていた。
◇
王女の手で、閉じられないままの扇が、燭台の光を細く震わせて止まる。続きを、と息を吸った彼よりも、その扇のほうが早く沈黙を告げる。広間では、居並ぶ者の目が伏せられ、誰もが息を潜め、空気は氷の薄皮を踏むように張りつめている。
「いまのお言葉、貴国からのお言葉として、受け取ってよろしいのですね」
問いを受けた彼の笑みが、口の端だけを残して止まる。王女が差し出した問いはひとつだけ、飾りのない、まっすぐな南の言葉だった。逃げ道という逃げ道が、たった一つの問いで音もなく塞がれる。答えではなく、個人の言葉か国の言葉かを確かめる、検分の問いである。扇の要を握る指は白くこわばり、爪の際まで色を失っている。
「いまのお言葉、貴国からのお言葉として、受け取ってよろしいのですね。……とのお尋ねでございます」
北の席から漏れた小声が、冷えた卓の下を縫い、靴先から靴先へまた這っていく。
「……問われておるぞ」
「……どちらに答える気だ?」
南の随員たちはもう囁きもせず、並んだ顔には固いこわばりだけが残る。外務卿の目が、逃がさぬ重さでゆっくりと南方掛へ向く。
「答えなさい」
その短い一句も、舌の上に冷たい重みを感じながら、わたくしは南へ移す。彼は一度だけ唇を湿し、襟元をかすかに上下させてから、自国の側へ体を向けた。
「ご懸念には及びません。いまのは、外交の儀礼でございます」
それを聞いた自国の随員の口元だけがわずかにほどけ、その声は自国の側だけを宥めるように低く流れる。卓の下では、指輪が小刻みにまた回りはじめ、金属の鈍い光が指の間で明滅している。北の記録係は筆を上げ、外務卿の目配せに短く顎を引く。
「……そのまま、記します」
「殿下――」
と、王女へ呼びかけた声が、喉の奥で細く途切れる。かわりに彼は、椅子の脚がかすかに軋むほど壇の脇へ身を寄せ、息をこぼすように囁く。
「訳すな」
私語である。触れそうなほど近い囁きに、彼の香がぬるく匂う。二年、隣で嗅いできた香は、記憶の底ではやわらかいはずなのに、いまは喉にまとわりつくほど甘く、重い。わたくしは袖の内で指先をそろえ、その囁きを訳さない。唇にのせるのは、公の言葉だけである。だから、いまのは外交の儀礼でございます、を一語違えず、舌先の震えまで押し込み、南の言葉で王女へ渡す。
訳し終えるまで、王女はまばたきも身じろぎもしない。聞き終えても面はほどけず、ひと呼吸だけ胸元の宝石が上下する。それから、扇が掌の内で音を立てて閉じられる。パチン、という小さく乾いた音が、高い天井に跳ね返り、広間の隅々まで届く。その音を最後に、南の席は衣擦れさえ失い、完全に静まった。伏せられた目と固く結ばれた口が、返事そのものである。
「……殿下」
王女付きの女官が、重ねた手をほどけぬまま、南の小さい声だけをかすかに震わせる。
会場の温度が、また一段、下がる。
誰にも訳されなかった囁きが、消え残る香のように壇の上にまだ浮かび、わたくしの喉の奥に甘く重く貼りついている。
◇
満座の目が彼へ集まるなか、静けさを最初に破ったのは、彼のほうだった。
「違う。……通訳が、違えたのです」
満座へ向けた、公の言葉である。だからわたくしは、喉の奥へ刺さった響きごと、それも南へ移す。自分への告発を、一語も違えず。運ぶあいだ、不思議なほど手は冷えず、舌も震えない。九年の宣誓が、背骨の代わりにまっすぐ立ち、わたくしを支えている。
北の席では椅子が軋み、南の席では扇の陰で目が細くなって、広間がざわめいた。北の席も、南の席も、衣擦れを鳴らす。訳が悪いか、言が悪いか。ざわめきの割れ目は、まだどちらへも倒れていない。
「通訳官。申し開きがあるなら、この場で述べなさい」
わたくしを裁くかもしれないその言葉も、わたくしの声で南へ渡してから、答える。
「申し開きは、記録がいたします。読み上げを、お許しくださいまし」
「許す」
返答は、それだけである。その短さごと、南へ移す。両国の記録係が、唇を結び、椅子を鳴らして代わる代わる立つ。
「南方掛どのの言、南の記しより。――条約より先に、私の心は殿下のお手元にあります」
「その北の訳、北の記しより。――条約より先に、私の心は殿下のお手元にあります」
一字、重なって、ずれない。――それを一字まで検められるのは、この広間で、わたくしと、いまごろ自分の言葉を数え直しているはずの、あの人だけである。
「南方掛どのの言、北の記しより。――いまのは、外交の儀礼でございます」
「その南の訳、南の記しより。――いまのは、外交の儀礼でございます」
原語と訳語が、一対ずつ、記録の上に並んでいく。
北の言と、その南の訳。南の言と、その北の訳。対はどれも、寸分たがわず続いていく。北の席はただ、両国の記録係が一度も詰まらないのを、引き結んだ唇のまま見守っている。読み上げの声は高い天井へ吸われ、広間には咳ひとつなく、新しい墨と乾いた紙の匂いだけが漂う。
読み終わりが近づくころ、南の席で伏せられていた目が上がり、宰相が立ち上がる。扇は、もう畳まれ、指の中でぴたりと止まっている。数え終わった、ということである。
「一語も違ってはおりませんな。小職、両方の言葉で、十七の文を数えながら伺っておりました」
北の席で目を見開く者がいる。宰相の口から流れた北の言葉には、よどみが、ない。
引き結ばれていた北の唇が、そこでようやくほどける。広間じゅうで、ゲレオンから視線を外す顔が増え、皆がようやく悟る。数えられていたのは、わたくしの訳ではなく、彼の言葉のほうである。南の席には、彼の言い分を信じる顔などなく、固く閉じた扇が並ぶ。
「下がりなさい。……南方掛の任は、この場で解く」
外務卿の沙汰は短い。わたくしはそれも一語違えず南へ渡し、剝がれる音が、北と南、両方の言葉で満座に立つ。広間の空気が重く沈む。ゲレオンが、口を半ば開いてわたくしを見た。その顔が、二年で、いちばん正直だと思う。
「君なら分かってくれると思った」
名指しで向けられた言葉に、背筋を伸ばし、彼から目をそらさず答える。それは、差し挟みではなく、わたくし自身の返答である。
「ええ、よく分かりましたわ。ですから、皆さまにも分かるように致しました」
わたくしは左手を皆の目にさらし、指輪を外す。二年、そこに嵌まっていた輪は、白い跡だけを残し、思っていたよりも軽い。彼の手のひらへ、指先が触れぬよう、音もなく返す。彼が卓の下で回し続けていた輪と、対の輪である。対の片割れが、指の熱を失い、贈り主の手へ戻った。手のひらの上のそれを、彼は指を閉じぬまま、長いこと見下ろしている。
王女の目が、わたくしと、彼と、返された指輪のあいだを一度だけ往復し、膝の上で重ねた手にそっと力が入る。
「その、ことば……もう、いりません」
王女は扇を膝へ置き、まっすぐに顔を上げた――覚えたての、北の言葉だった。切れ切れの、けれどまっすぐな。習い覚えた音を、一つずつ、静まった広間へ置くように。誰の訳も要らず、彼へ届く声である。
彼を沈めたのは、最初から最後まで、彼自身の言葉である。
列席者がまだ青い顔で見守るなか、調印は滞りなく済み、王女は指が白くなるほど筆を握りながら、筆先を最後まで震わせなかった。墨の匂いが残る広間で、両国の仕事は、大人が済ませるのである。
席へ戻る前に、王女は袖をかすかに鳴らして向き直り、わたくしへまっすぐな一礼を残していった。その目が、一瞬だけ、わたくしの目と合い、指輪の跡へ空気の冷たさが触れる。同じ男に欺かれた二人のあいだに、通訳の要る言葉は、ひとつも無い。
◇
三日後の朝、通訳室の取次に、ゲレオンが肩をすぼめて立っている。開けた窓から冷たい朝の光が差し、部屋には湿った墨の匂いと、紙をこする若い者たちの筆の音が絶え間なく満ちている。
南方掛の任を解かれた男の頬は、三日でさらに薄くなり、ゆるんだ襟元には朝の冷気が入り込んでいる。
「頼む。ソラーナへの詫び状を、君の言葉で調えてくれ」
詫び状。それさえ、自分の声と息で運ぼうとしない。訳のせいにできる席を失った男は、色の失せた唇を結んだまま、それでもまだ、言葉を誰かの手に預けようとする。
「公のお言葉でしたら、いつでも承りますわ」
「君しか……いないんだ」
意地悪で言うのではない。九年、他人の声をこの身に通して運び続け、ようやく分かったことを、そのまま口にしただけである。公の言葉は、誰の口から出ても届く。胸の奥からこぼれた私語だけは、自分の息と体温で渡すしかない。
彼の私語を運ぶ役は、この世のどこを捜しても、もういない。
そのとき、取次の外の廊下で、衣擦れと足音が波を引くように遠のき、人の列が静かに割れる。
「ソラーナの御使者がお見えにございます」
同輩の声が消えるより先に、当人が朝の光を背負って敷居をまたいだ。宰相レオネル。供は二人きり、飾りのない外套の裾には、長い道の白い埃が残っている。通訳室じゅうの手が一斉に止まり、筆の音が遅れて消えた。ゲレオンは壁へ肩を寄せるように、戸口の脇へ退くしかない。
「――お勤めの邪魔を、いたしますよ」
北の言葉である。もう、隠しもしない。
差し出されたのは、厚い紙に王女と宰相の連名を記した招聘状である。九年、人の言葉を運んできた腕に、国がひとつ、名を付け、その名を正面から呼んで迎えに来たのである。文の末尾には、王女の自筆とわかる、覚えたての北の文字がひと行、薄い墨の線を懸命に揺らしながら添えてある。
「王女殿下付きの通訳官として、あなたをお招きしたい。小職の数え違いでなければ、この国は、あなたを遊ばせておくおつもりのようですので」
揺れた線の一文字ずつを、わたくしは息を浅くして、指の先でそっとなぞる。紙のかすかなざらつきごと、書いた人の稽古の時間まで撫でるように。書き損じて、それでも書き直した跡が、線の途中に残る小さな膨らみで分かる。この文字を習い始めたころの王女は、まだ、あの男の言葉を、疑わずに両手で受け取っていたのだろう。その同じ手が、いまは、まっすぐにわたくしの名を記し、わたくしを招いている。
「――まずは拝見し、そのうえでお返事をいたしますわ」
宰相はわたくしの指先を見て、目元をわずかにゆるめて頷き、外套の裾をひるがえして踵を返した。それから思い出したように戸口で振り向き、筆を止めた者たちの顔を見てから、こちらへだけ届く低い声で、南の言葉の短いひと言を置いていく。
早口でもなく、聞こえよく飾った声でもない。何もかも数える男が、返るものを数えずに置いていった言葉だと、その響きのやわらかな重みを聞けば分かる。
条約にも、記録にも載らず、誰の机にも写されない言葉だった。聞き手は、広い通訳室のただ中で、わたくしひとり。
運ばなくていい言葉を、わたくしは生まれて初めて、こぼさぬように指をそっと重ね、自分の手の中に受け取った。
「いまのは……なんと?」
戸口の脇から、ゲレオンがかすれた声で訊く。自分に向けられない言葉が世界にあることを初めて思い知ったらしく、上げかけた手を宙で止め、唇をわずかに開いたままの顔で。わたくしは指の跡を隠すように招聘状を胸へ抱え直し、紙の角が衣をかすかに鳴らすのを聞いてから、答える。
「訳しません。これは、わたくしがいただいた言葉ですので」




