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「フィルナ。俺は婚約を破棄した」
王都の中心部、城のすぐ隣の聖堂の中。
ステンドグラスに照らし出された足元の影が、一歩ずつ近づく。
目を細めてフィルナを見つめるのは、ブロンドの髪に淡麗な顔立ちをした男性だった。
「そ、そうなのですか?それって、つまり……」
「ああ。俺には愛する人ができたんだ」
フィルナの顔は熱を帯び、握りしめる手に力が入る。
体が小さく震えだすその様子に、彼――ライツノール皇太子殿下は手を広げた。
「フィルナ。俺は、君を大事に思っている」
「……はい」
ライツノールは、彼女に一歩近づく。
もう顔が触れそうな距離に、フィルナは喜びを隠せなかった。
(やっと、この時が!)
――そう。
彼女の名は、フィルナ・レーンライト。
この国唯一の聖女にして、ゲームの主人公。
乙女ゲームのヒロインだ。
ただし。
ライツノールの腕が、ゆっくりとフィルナを包み込む。
その暖かさに触れた、一瞬のことだった。
「――っ!」
痛い。
電流が流れたかのような衝撃と頭痛が、容赦なくフィルナを襲う。
頭に流れ込んできたのは、ずっと前の記憶だった。
ずっと前。
フィルナが生まれてくる前の、前世での記憶だ。
ここではない別の世界、別の国で過ごした二十年の記憶。
他愛もない会話から最後の記憶まで、一気にフィルナに浴びせられる。
(乙女ゲーム?……思い出せない)
この世界にはありえないはずの言葉が、脳裏にちらつく。
でも。
(この話、フィルナの名前、見たことがある……!)
必死に記憶を辿るうち、とある記憶に行きついた。
(あった……!そう、この話)
前世のフィルナは読書が好きだった。
そんな中でもよく読んでいたのが、フィルナたちを登場人物にした小説だった。
(待って、これって――)
ここはきっと、小説の世界。
そして、私はヒロインでありヒロインではない。
「フィルナ!」
大きな声に呼び戻され、フィルナは瞼を開ける。
聖堂の天井が目に入り、次いでライツノールの顔がぼやけて見えた。
「……ライツノール様」
倒れていたのだろう、冷えた床の感触が心地いい。
覆いかぶさるような形で、ライツノールは心配そうにこちらを見ている。
「無理して立たなくていい、俺が運ぼう」
「いえ、その必要は!」
震える膝で立ち上がったフィルナは、扉の方へと一歩踏み出した。
嫌な予感がする、早く離れなければ。
「……お二人とも、やっぱりここに」
その扉が開き、向こうに立つ女性の影をあらわにする。
「違うわ、リーヴィン!」
「いえ、もう私は構いません。お好きなようになさってください」
リーヴィン・エルナーデ。
ライツノールの婚約者である彼女は、美しい黒髪に瞳をしている。
ライツノールの言うことが本当なら、彼女は婚約破棄を告げられたばかり。
元婚約者と聖女がこんな振る舞いをしているのに、冷静でいられるなんて。
しゃんとした声と振る舞いに、絶望の中フィルナは確信した。
(やっぱり、彼女こそがヒロインだ)
昔読んだことがある、悪役令嬢が主役の小説。
それがこの世界の舞台だ。
つまり――、フィルナは主人公の皮を被った立派な「悪役」だと。
悪役令嬢が主役の小説は、前世のフィルナが最も好きなジャンルの一つだった。
ウェブにあるものから書籍まで、とにかく手当たり次第に読んでいたものだ。
そんな中で、衝撃的だった一冊がある。
『婚約破棄されたはずの悪役令嬢は、いつの間にか復讐し溺愛される?』。
婚約破棄を告げられた主人公リーヴィンは、物語の最初で記憶を取り戻す。
婚約者であるライツノールはその凛とした態度に再び惹かれ、そして――自らを誑かした聖女に罰を下すのだ。
そしてこの話が人気を博した理由のは、その圧倒的な『復讐』にあった。
(確かライツノール様が、リーヴィンの知らないところで計画を進めていて)
――結果、聖女フィルナは謀反の罪で処刑となる。
考えただけでぞっとする。
フィルナはライツノールを振り返った。
裏では冷酷なキャラクターとして人気だった彼だが、敵となってしまうと話は別。
(でも話はもう始まってる、かあ……)
詰みのような状況に、何の声も出ない。
「君にはすまないと思っている、リーヴィン。俺が君との婚約を破棄したのは」
「聖女様のことでしょう?好きになさってください、と申しましたが」
毒気を抜かれたような顔をしているライツノールに、飄々と返すリーヴィン。
小説で読んだそのままの光景に、フィルナは必死で頭を働かせる。
(どうしよう、ここで何か言っても碌なことにはならないだろうし)
「フィルナ様。元婚約者のこと、よろしくお願いいたします」
「えっ」
この台詞が来ることを忘れていた。
「そんなつもりは」
さっき記憶が戻ったばかりの悪役聖女だ、誰にも信じてもらえないだろう。
慌てている様子が予想通りだったのだろうか。リーヴィンは聖堂から出ていってしまう。
「おい待て、リーヴィン!」
それを追いかけて扉の外に向かうライツノール。
(――全て、物語通りだ)
始まった物語、取り返しのつかない過去。
それでも、とフィルナは拳を握りしめる。
――私は約束したから、生きないといけないんだ。




