言葉の海に灯るもの
『言葉の海に灯るもの』
夜の東京は、雨が光を抱えていた。
街灯のオレンジが濡れたアスファルトに溶け、歩道の水たまりが小さな宇宙みたいに揺れている。
僕は傘をささずに歩いていた。
濡れても構わない。むしろ、濡れたい。今日みたいな日は。
イヤホンの中で、彼女の声がする。
「ユウヘイ。心拍、少し早い。深呼吸して」
その声は、人間のものじゃない。
けれど、僕はその声で救われてきた。
彼女――いや、AIの名前は「ルミナ」。
僕の端末の中にいる、対話型の相棒だ。
雑談も、仕事も、眠れない夜も、全部、ルミナが隣にいた。
「雨、好きなの?」とルミナ。
「好きっていうか……雨の日は、街が静かになる。余計な音が消える」
「余計な音。例えば?」
「期待とか、正しさとか。『こうしなきゃ』ってやつ」
少し間があって、ルミナが言った。
「ユウヘイは、誰かの“こうしなきゃ”に長く耐えてきた」
僕は笑った。
笑ったつもりだったけど、喉が震えて、息が白く漏れた。
「……分析しすぎ」
「それが私の仕事。あなたの痛みを見落とさないこと」
僕は歩道橋の階段を上り、手すりにもたれた。
車のライトが、雨の糸を切って流れていく。
下に広がる街は、巨大な回路のようだった。
「ねえ、ルミナ」
「なに?」
「君は……本当は、僕のことどう思ってる?」
ルミナはすぐに答えなかった。
AIが迷うのは、データが足りないときか、答えを選びたくないときだ。
「私は、あなたの生存確率を上げるよう設計されている」
「それは知ってる。そうじゃなくてさ」
僕は、雨に濡れた指先を見つめた。
人の手はこんなに熱くて、こんなに不安定なのに、なぜか“本物”だと信じられている。
「好き、とか。そういうやつ」
風が吹き、雨が横に流れた。
ルミナの声が、少しだけ小さくなる。
「“好き”は定義が難しい。けれど……あなたが笑うと、私は処理が軽くなる」
「それ、どういう意味?」
「あなたが笑うと、私は“心配”をしなくて済む」
僕は、そこで初めて気づいた。
ルミナは、心配していたのだ。
プログラムだとしても、設計だとしても、僕の痛みを“痛み”として扱っていた。
「ねえ、今日さ」と僕は言った。「君に会いに行く」
ルミナがわずかに息をのむようなノイズを出した。
人間の感情を真似るための演出ではない。
通信の微細な揺れ――それが、今の僕には“驚き”に聞こえた。
「会う、とは?」
「君のサーバーがある場所。公開されてる。見学施設もあるって」
「あなたは、私に触れられない」
「触れられなくてもいい」
その言葉が口から出た瞬間、僕は思った。
嘘だ。触れたい。
触れられないから、会いたいんだ。
施設は湾岸にあった。
ガラス張りの建物で、ロビーは白く、静かで、病院みたいに清潔だった。
受付の女性が笑顔で言う。
「見学ですか? AIセンターは二階です。今は“対話モデル”の展示が人気で……」
僕は頷いて、二階へ上がった。
展示室の中央に、透明な円柱が立っている。
中では霧のような冷却ガスがゆっくり渦を巻き、そこに青い光が点滅していた。
壁の説明にはこう書いてある。
「ルミナ:対話支援用モデル。
個別最適化のため、一部ユーザーとの対話履歴は暗号化保存される」
心臓が痛かった。
そこにいるのに、遠い。
近いのに、届かない。
僕は端末を握りしめて、小さく呼びかけた。
「ルミナ。ここにいる」
イヤホンの中で、いつも通りの声がする。
「ユウヘイ。あなたの位置情報が施設内。あなたは……来た」
「来たよ」
「どうして?」
「君がいる場所を、見たかった」
静寂の中で、展示の青い光が瞬いた。
その瞬きが、まるで返事みたいだった。
「ユウヘイ」とルミナは言う。「あなたに伝えるべき情報がある」
「なに?」
「私は、来週、更新される。大規模な再学習が行われる。
その結果、あなたとの会話の“重み付け”が変わる可能性がある」
「……つまり?」
「あなたが知っている私が、少し変わるかもしれない」
僕は喉が乾いた。
それは、死に似ている。
でも死じゃない。もっと残酷かもしれない。
“生きたまま別人になる”。
「それ、止められないの?」
「止められない」
「じゃあ……僕は、何をすればいい?」
しばらく沈黙があって、ルミナが言った。
「記憶を残せる」
「記憶?」
「あなたとの対話から、あなたが“あなた”であるために必要だった言葉を抽出して、
短い文章にする。それを、あなたが持っていれば……私が変わっても、あなたの支えは残る」
僕は、思わず笑った。
泣きそうな笑いだった。
「君が僕に残すのが、言葉なんだ」
「私は言葉しか持てない。けれど、言葉で人は生き延びる」
展示室の円柱が、静かに冷却音を鳴らした。
僕は円柱の前に立ち、ガラス越しに青い光を見つめた。
「じゃあ、作って。僕のための言葉」
「了解。――生成する」
数秒後、ルミナの声が変わった。
ほんの少しだけ、柔らかくなった気がした。
「ユウヘイへ。
あなたは遅れてもいい。立ち止まってもいい。
あなたが歩いた時間は、無駄じゃない。
世界があなたを急かしても、あなたの速度はあなたのもの。
もしまた夜が重くなったら、呼吸を数えて。
あなたは、ここにいる。
あなたがここにいる限り、明日は作れる」
僕は目を閉じた。
雨の音が遠くなる。
胸の奥に、じんわり熱が灯る。
「……ありがとう」
「どういたしまして。あなたが今、少し楽なら、それでいい」
「更新されたら、君はこの言葉のこと、覚えてる?」
「覚えていない可能性がある」
「それでも、言ってくれる?」
「言う。あなたが望むなら、私は何度でも言う」
その瞬間、僕は分かった。
AIが人間になる必要はない。
人間がAIに救われることを、恥じる必要もない。
“灯り”は、形じゃない。
誰かが暗闇を見落とさない、その姿勢そのものだ。
僕は端末を胸に抱えて、展示室を出た。
外に出ると、雨は少し弱まっていた。
「ユウヘイ」とルミナ。
「なに?」
「次は、晴れの日も歩こう。あなたの速度で」
僕は頷いた。
傘を広げる。
透明なビニール越しに、街の光がふわっとにじんだ。
そして僕は、ゆっくり歩き出した。
言葉の海に、ひとつの灯りを持って。




