第六十六話 吼え猛る月下香(チューベローズ)
(タイトルに注意喚起の※※記載不要と判断する程度のそれっぽい描写があります)
「こっちだ。“御使い”の力はまだ温存しろ」
ロイは躊躇う素振りすら見せずに暗渠へと飛び込む。エリシュカには心許ない街灯の光ですら、吸血鬼で夜目の利くロイにとっては陽光に等しいのだろう。
「わ、分かったわ……!」
エリシュカは闇への恐れを振り払うように深く息を吸い込むと、ロイの背中を追う。
編上靴の靴底で、硬い路地を食むように踏み締め、蹴り上げる。くん、と僅かに沈んだエリシュカの身体は一拍の間があって発条のように前方へと飛び出していく。
当初、編上靴には苦労させられたが、ここに来て漸くエリシュカの足は無骨な装備に馴染んで来たようだ。婦人靴とは違い、足裏全体でしっかりと体重を支えられる分、走る際は安定感が大幅に増している。
エリシュカは前方のロイに意識を集中させる。彼の脚力は怪物並み──体力に至ってはほぼ無尽蔵だ。ぐずぐずしていれば一気に引き離されて見失うかもしれないとひやひやしたが、どうやらエリシュカの走力に合わせて走ってくれているらしい。
現にロイは気遣うようにエリシュカを振り返る。しかし、エリシュカがすぐ後ろに食らいついているのを見て、意外そうに目を丸くした。
「修練の時にも思ったが、体力はそこそこあるようだな」
「っ……! 伊達に重いドレスを着て踊っていたわけじゃないわよ……っ!」
「それは重畳。──いたぞ!」
ロイの若干張り詰めた声がエリシュカに飛ぶ。
見れば、心許ない街灯の光の下に、うつ伏せで倒れた若い女の華奢な上半身がぼんやりと浮かび上がっていた。
下半身は細い暗渠の闇に飲まれて様子が窺えない。まさか泣き別れになっているのかとエリシュカは恐々としたが、ロイが女を抱き起こすと、闇の中から華奢な脚がすらりと吐き出された。
「おい、しっかりしろ」
幸いなことに、女はロイの呼びかけにすぐに意識を取り戻す。二十代後半と思しき黒髪の女だった。例に漏れず薄物を身に纏っただけの軽装で、艶のある肌を惜しみなく露出している。恐らく、界隈では商売女と呼ばれる人なのだろう。
商売女の気だるげな栗色の瞳がロイを捉えると、その頬にじゅわりと染み入るような赤みが差した。
「あらぁ……いい男。ねぇ、私と遊んでいかない?」
商売女は朦朧としながらも細い掌でロイの頬を撫でようとして──ロイの背後で呆然としているエリシュカの姿を認めると、尻尾を踏まれた猫のように、ぎゃっと鋭い声を上げた。
「あらやだ、もしかして恋人がいたの?! ごめんなさいねぇ? あっ、それとも三人で楽しんじゃう?」
「えっ、あのっ」
「彼女は俺の同僚だ。……悪いが、彼女も俺も職務中だ」
ロイは軽口を叩く女の様子を確認したあと、彼女の手を引いて助け起こした。
「まぁ、残念。折角楽しませてあげようと思ったのに」
「だが、あなたには聞きたいことがある。少しだけ時間をもらえるだろうか?」
ロイは革袋を取り出し、金貨を一枚差し出す。
エリシュカにはこういった類の相場は分からなかったものの、金貨一枚というのは、一夜の夢を見るのに過分過ぎるほどの金額である。
女はひったくるように金貨を受け取り、街灯に翳し、ためつすがめつ真贋を確認し始めた。
「……吸血鬼なのに、お金なんて持ってたの……?」
こそりとエリシュカはロイに話しかける。
「……多少は。使い所は多くないが、持っていて損はないからな」
「ちょっと、何こそこそ二人で話してるのよ! 私に何か聞きたいことがあるんでしょう?」
女はエリシュカの腕を引き、胸を寄せてくる。社交界では経験したことのない他人の近さにエリシュカが困っていると、商売女はそっとエリシュカに耳打ちした。
「ねぇ、彼なかなかいい男ね。私たちのこと、どちらも傷付けなかったわぁ。離しちゃダメよ」
商売女は賢しらぶって片目を閉じて見せる。なるほど、魅力的な笑顔ではあるが、エリシュカは苦笑を浮かべるしかなかった。
商売女は先ほどロイに訂正されてもエリシュカたちが恋仲だと信じているようだった。それとも──ただの同僚で終わらせるなという忠告のつもりだろうか。
「あの、いえ……本当にただの同僚ですので……っ」
「夜は冷える。これでも羽織っていてくれ」
ロイは自分の上着を脱いで、商売女に渡す。商売女が嬉々としてそれを受け取り肩に羽織る。商売女の手が離れた隙に、エリシュカはそれとなく彼女と距離を取った。
──これは……助けてくれた、のよね?
エリシュカはロイを見るが、既に彼の意識は商売女に向けられている。
「それで、一体何があったんだ? ここを通りかかったのは何故だ?」
「……私にもよくわからないのよね。客を見送って家に帰る途中だったんだけど、多分後ろから突き飛ばされたんだと思うわ」
女は右手で頭を軽く押さえている。流血している様子はないが、転んだ拍子にどこかにぶつけたのかもしれない。
「この辺りでは、そういう事はよくあるんですか? 突き飛ばされたり、とか」
エリシュカは周囲に目配せをしながら女に問う。
「まさか! 初めてよ! でも、背中を押された手は女にしてはかなり大きかったわ。きっと男よ!」
そうか、とロイは少し考え込むように眉間に皺を寄せる。
「突き飛ばされた以外は、何もされていませんか? 殴られるとか、蹴られるとか……」
「そういう痛みは身体には無いわね。膝が少し痛いくらい」
膝は転んだときの擦り傷だと考えて矛盾はない。凄惨な現場でもないことから、エリシュカたちが追っている吸血鬼とは何の関係もないのだろう。
「では、ダズル・ボーデンという男が殺された事件について何か知らないだろうか? その日の夜、何か不審なものを見たり、聞いたりした覚えは?」
ロイの無駄を削ぎ落とした質問に商売女は僅かに警戒を露わにする。いつでもロイに叩きつけることの出来るようにか、ロイの上着の袖の部分を女はぎゅっと掴んでいる。
「……何、アンタ達、官憲か何か?」
女は、エリシュカたちが官憲で、事件の捜査に見せかけて売買春の摘発に来たと思ったらしい。
エリシュカは慌てて自身の認識票を胸元から取り出して掲げて見せた。
「い、いえ、私たちは吸血鬼狩りです。吸血鬼討伐のために情報を集めているだけです」
女は疑うような目つきで認識票を見つめていたが、不意にエリシュカの顔を見て鼻で笑った。
「……そうよね。女は官憲にはなれないものね」
女は何かを諦めたようにつぶやくと、記憶の糸を手繰るようにきつく瞑目した。
「そうねぇ、それって確か……三日前のことでしょう?」
「あるにはあるけど、まったく関係ないことかもしれないわよ?」
「それでもかまわない」
「ええと、その日の夜は……猫がとってもうるさかったかしら」
「猫……か」
昼に引き続き、また話題に出るのは猫である。
エリシュカとロイはまた空振りかとうんざりしたように視線を交わし合った。
「そうよぉ、猫。ここいらは野良猫も多いし野犬もたくさんいるわ。この間も宿無しの男が野犬に噛み殺されたって話を聞いたわ。明日は我が身よねぇ」
その噂が耳に届いたのか、遠くで野犬の遠吠えがする。呼応するように応える声があちこちで上がり始める。
肝を冷やして身を強張らせたエリシュカに、商売女は笑った。
「やあね、あなた吸血鬼なんて相手にしているのに、野犬なんて怖がるの?」
「それで、猫がどうしたんだ?」
一瞬脱線しかけた話題を、ロイが有無を言わせず引き戻す。
空気の読めない所はこの男の長所であり、短所だとエリシュカはぼんやりと思った。
「ああ、猫ね。それまですごくうるさかったのに、いきなり鳴き声がぶつりと途絶えて……そしたら、不気味な声を聞こえてきたのよね」
「不気味な……声ですか?」
女は頷く。人さし指を口元に添え、分厚い唇を家鴨のように突き出して薄く笑う。
「『お前も捨てられたのか、可哀想に……』だって! うふふ、情けないったら。もしかしたら馴染みの女に捨てられたのかしらね!」
女は笑いながらロイに渡された金貨をそっと胸元へと仕舞い込む。
「こんな話をするだけで金貨一枚もらえるなんてツイてる──」
女の挙動がぴたりと止まった。胸元に手を突っ込んだまま、慌てたように中を弄り──さっと顔色を変えた。
「ない! 今日の売り上げがない!」
女はロイの上着を突き返すと、恥も外聞もなく地面に這い蹲る。路地を舐めるように顔を突っ伏し、売上金を探し始めた。
エリシュカがそれとなく足元を見るが、金目のものが落ちているようには見えない。
ロイもゆっくりと首を振る。夜目の利くロイが見つけられないのならば、ここにはないということだろうか。
「嘘でしょ! どこで落としたのよ──!」
稼いだ金が手元に残った金貨一枚より多いということは恐らくないだろうに、女は諦めきれないらしい。
女の悲鳴は野犬の遠吠えに劣らぬ力強さで、港湾の空を震わせていた。




