第六十四話 還るべき場所
「春先に生まれたばかりの子かしら」
エリシュカは仔猫の傍に片膝を付き、そっと小さな身体を抱き上げる。
毛艶のない、痩せた身体だった。仔猫特有の膨らんだ腹ではなく、頼りない肋骨がエリシュカの掌や指に当たる。これは乳を飲ませ、身だしなみを整えてくれる母猫の不在を意味する。
大きさから言って既に目は開いているはずだが、乾いた目やにで片方の目は開ききらず、目周辺の粘膜が爛れていた。
長い間一匹で彷徨い歩いていたのだろう。その身体は冷えきっており、今にも命の灯が消えようとしていた。
「おい、不用意に触れるな。噛まれると命取りになるぞ」
ロイは慌ててエリシュカの手から仔猫の身体を奪う。決して優しいとは言えない手つきに、小さな命は抗議するように小さく唸った。
動物の口内は決して清浄とは言い難い。最も恐れるべきは人畜共通の感染症だ。その中には一度感染したが最後、治療の手立てさえないものもある。
「ロイさん……その子、首に怪我をしているみたい」
ロイは掌の上で仔猫を仰向けにする。仔猫は最早抵抗する体力すらないのか、されるがままだ。
「……これは……」
仔猫の首元の毛を掻き分けると、そこには二つの小さな傷が刻まれていた。犬歯で付けられた歯型に見えるが、大きさから言って猫や野犬ではない。ましてや吸血鬼では有り得ない。もっと顎の小さい生き物に噛まれてしまったように見えた。
「鼠……いや、蝙蝠にやられたのか?」
エリシュカは嫌な気配を感じて眉を寄せる。
鼠と蝙蝠は人間の生活圏で頻繁に見られる獣ではあるが、時に吸血鬼の支配下に加わり、人を襲うこともある害獣である。
特に、吸血鬼と特別な絆で結ばれた個体は使い魔とも呼ばれ、通常では考えられない高い知能と特殊な能力を秘めている──らしい。
だが、今回の任務を説明された時には、使い魔の存在は特に言及されていなかったはずだ。協会の調査に手落ちがあったとは考えにくい。
仔猫を襲ったのが厳しい野生の淘汰によるものか、新たに港湾に潜伏した吸血鬼による仕業か──それを判断するための材料が傷口だけというのは如何にも心許ない。
「栄養失調に加えて、重度の貧血……ここまで這って来られたとは言え、これでは……」
普段は冷徹なロイが、珍しく言葉を濁した。
既に傷口は乾いており、少なくともついさっき付いた様なものではない。ただ、長らく絶食状態の仔猫にとっては、例え少量でも出血は命取りだ。
寧ろ、今の状態で命があることすら、奇跡に近い。
「そんな……」
エリシュカは震える声でゆっくりと死にゆく仔猫から目を逸らした。肋骨が上下する動きが徐々に浅く、緩やかになっていくのが酷く悲しい。
──アレス様の力で何とか出来ませんか?
エリシュカは頭の中で“御使い”に語り掛けるが、最初から色好い返答は期待していない。
アレスは“鬼饌”を悪だと断ずる善性は持ち合わせているものの、使命遂行の障害と見なした人間を有象無象と言って切り捨てようとする苛烈な神性だ。
仔猫という無垢だが力なき存在に、慈悲を見せる姿がどうしても思い浮かばなかった。
──アレス様のお力は万象に及ぶのでしょう? それなら、病の根源を破壊して……。
──駄目だ。
やはり、とエリシュカは瞑目する。期待していなかったはずなのに、期待を裏切られたという失望がエリシュカの中に蟠った。
──何故です? アレス様は、凶王ザハリアーシュの遺詔は破壊して下さるおつもりがあったのでしょう?
死後、吸血鬼になることを恐れる人類にとっては救いであり、悲願である。壮大な奇跡を起こせる力と優しさを持ち合わせているというのに、“御使い”は何故一匹の猫を救っては下さらないのだろう。
──呪いによって歪められた命の形を正しい姿に戻すことと、命数を弄ぶことは全く違うことだからだ。
──……命数?
エリシュカの頭の中で響いたのは、どこか呆れたような溜め息だった。
──『苛烈な神性』が一つ、忠告しておいてやろう。命数を弄ぶことは死を与えることよりも難しく、またずっと罪深い、と。
アレスは普段の粗野な口調ではなくなっていて、エリシュカはまるで厳かな託宣を授けられているかのように気持ちが引き締まるのを自覚した。
──本人の意思に関わらず、天命を無理やり引き延ばす。それはあの女吸血鬼と……リュミドラとどこが違う? 何が違う?
エリシュカは、ひゅっと鋭く息を呑む。喉が搾られたようにひりひりして、上手く声が出ない。
──そして、あの女のしでかした行為がどういう結果を生んだか。兄の不幸を見たお前はもう知っているはずだぜ、エリシュカ。
エリシュカの兄──アルフレートは女吸血鬼の手に掛かり、怪物としての生を与えられた結果、エリシュカと共に望まぬ闘争に巻き込まれることとなった。
その因縁はアレス──そしてエリシュカの手で終わらせたものの、アルフレートは現在生死不明のまま、その行方すら未だ杳として知れない。
兄の不幸がその命数を捻じ曲げた報いだと言うのならば、エリシュカは同じ轍を踏むわけにはいかない。
だが、理性をエリシュカの心は裏切り続ける。胸に押し寄せるのはただこの仔猫を救いたいと願う欲望と、その力を持たぬ無力な自分に対する嫌悪感ばかりだ。
「目を逸らすな」
ロイの静かな声に、エリシュカはびくりと肩を震わせる。
「一度手を差し伸べたのなら、最期まで看取ってやれ。……見たところ、親兄弟の姿は近くにない。お前が看取らねば、この生き物は最期まで一匹のままで逝くことになる」
ロイは己を人として扱わず、数にも入れない。それは怪物であるという負い目があるから、だろうか。
「──それが嫌で、この生き物はお前の元へ来たんだろう」
その行為は、死に瀕した仔猫の体力を著しく損なっただろう。だが、それでも──仔猫は一秒生きながら得ることよりも、誰かの温もりと寄り添いを求めたのだ。
エリシュカはわなわなと唇を震わせながら一筋の涙を流し、ロイと共に小さな身体にそっと手を添える。
苦痛に耐えていた小さな身体が、思わぬ刺激にびくりと震える。冷えきった身体に、エリシュカの手の温度がじわじわと染み込んでいくのが分かった。
果たして、この仔猫は己の最期が孤独ではなかったことを、理解してくれただろうか。
「……目を逸らして、ごめん……助けられなくて、ごめんね……っ」
エリシュカの目から止めどなく零れ落ちる涙が、手の甲を伝って小さな身体をしっとりと濡らした。
「天の国では……元気で……めいっぱい幸せになって……っ」
エリシュカはその小さな身体を優しく撫でた。何度も、何度も。そうして、気付けば──その身体は、もうぴくりとも動かなくなっていた。




