第六十三話 手負いの仔猫
蒸気機関車は規則的にかたかたと小気味よい金属音を上げながら疾走する。
鉄道の車窓から見える景色は石造りの高楼のひしめく重畳たる町並みから舗装された街道へと移り変わり、大型の乗合馬車や旅芸人の馬車が列をなして走る姿がよく見えた。
それらを率いる馬たちの足取りは揺るぎなく、落寞とした雰囲気は微塵もない。
エリシュカはロイと共に一等客室の座席に座り、まんじりともせずその光景を眺めていた。
──やっぱり、吸血鬼って朝が弱いのかしら。
ロイは先ほどから腕を組み目を閉じたままぴくりとも動かない。安眠を妨害してでもこの無愛想な男に話しかけようという勇気は、エリシュカには無かった。
──どうだろうねェ。案外、寝た振りをしてるンじゃねェか? お前みてェなじゃじゃ馬と話したくなくてよォ。
頭の中で、アレスの茶化すような声がする。度々アレスはエリシュカの頭の中に何事かを語りかけてくるが、その大部分が取るに足らない揶揄ばかりであった。
──失礼な。私を、短剣を振り回すようなじゃじゃ馬にしたのはアレス様でしょう。
エリシュカがつんと拗ねたような表情を浮かべながら心中で反論すると、アレスは違いねェと笑った。
──大体、最初にロイさんに無礼を働いたのはアレス様じゃありませんか。出会い頭に蹴ったこと、まだ謝罪されていませんよね?
──吸血鬼ごときに、何故私が頭を下げる必要が? 寧ろ、こうして生かしてやっているだけ有難いと思え。
もう、とエリシュカは元淑女らしからぬ顰めっ面を浮かべた。
──仲良くしてくださらないのなら、お砂糖たっぷりの珈琲は暫くお預けですよ。
──な! こ、小娘……貴様、まさか私のことを簡単に食べ物に釣られる痴れ者だと思っていやがるのか?!
──私はそこまでは申し上げておりませんが……違うのですか?
違う、とアレスの怒号がエリシュカの脳内を埋め尽くす。エリシュカの意識は一瞬、くわん、と世界が廻ったような感覚に溺れそうになる。
──あれは人間に対する理解を深めるためであって、他意はねェ!
エリシュカは眉間に皺を寄せながらアレスの申開きをはいはいと聞き流すが、自分が今酷い表情をしている自覚は持ち合わせていた。
──一等客室でよかった。こんな顔、誰にも見せられないわ。
しかし、エリシュカの願い虚しく、眠っていると思われていたロイは片目を薄く開けてエリシュカの百面相を観察していた。
尤も、ロイに他者を揶揄するほどの興味はない。また放っておいても任務に支障をきたすほどのものではないと判断し、口を噤んだ。
幸か不幸か、こうしてエリシュカの失態は永久に闇に葬り去られる事となったのである。
そんな中、エリシュカたちを乗せた蒸気機関車は二時間あまりの旅を終え、ついに港湾都市ファニュ=ブラムスへ乗り入れる──ベロニカの密命を受けてから三日後、菖蒲月十五日のことであった。
■□■
蒸気機関車を下車したエリシュカはロイと共に、ファニュ=ブラムスの根幹ともいうべき港湾へと急ぐ。
ファニュ=ブラムスは商港である。路地は荷馬車の荷重に耐えられるように薄灰色の花崗岩が敷き詰められており、赤煉瓦の倉庫がところ狭しと並んでいる。
船着場には木製帆船がひしめき合う中、遠目に黒い汽船が煤を吐き出しながら出港しようとしているのが一際目を引いた。
「すごい……汽船って、一度に何人位乗れるのかしら。兄様の大型輸送船《ガレオン船》よりもずっと大きいわ」
汽船は大型輸送船《ガレオン船》に比べて二回り以上大きいため、街《ミラ=パドゥーレ》周辺の狭い海峡を航行することが出来ない。今、煤と白の蒸気を噴霧している汽船も、外洋へ出る海路を行くのだろう。
「もう少し早くここに着いていたら、あの人たちからお話が聞けたかもしれないのに……」
エリシュカは持っていた旅行鞄を置いて波止場の縁に近寄り、巨大な船舶の行く末を目で追いかける。
おい、とロイが鋭い声を上げるが、エリシュカの耳がそれを拾うより一瞬早く、編上靴の厚い靴底がエリシュカの足運びを僅かに狂わせた。
「あ……?!」
エリシュカはふらつき、咄嗟に何かを掴もうと右手を彷徨わせる。その手をロイが掴んで力強く引き寄せ、波止場の縁からエリシュカを引き離した。
「……あまり浮かれるな。海に落ちても俺は助けないからな」
ロイの目は頑是ない悪童を見る大人そのもので、エリシュカは申し訳なさそうに縮こまった。
「……ご、ごめんなさい」
エリシュカ自身は浮かれていたつもりはないが、転落事故を引き起こしかけたということは──そういうことなのだろう。
ロイは手を離し、溜め息を吐く。
「……吸血鬼は水を渡れないし、泳げない。投げ込まれた石のように沈んでそれきりだ」
エリシュカは一瞬何を言われたのかが理解出来ず、目を瞬かせる。
つまり──ロイは助ける気がないのではなく、助けられないのだと申開きをしたかったらしい。
「おぉい」
時が止まったように立ち尽くすエリシュカたちの元に若い船員が駆け寄ってきた。そばかすの目立つ赤毛の男だ。どうやらすぐ近くで帆船を係船柱に係留していたため、その一部始終を見ていたらしい。
「あんた、海に落ちなくてよかったな!」
「ご、ご心配をおかけしました……」
「見ない顔だが、旅行者かい? あの汽船に乗りたかったのか?」
ロイが首から下げた認識票を見せる。吸血鬼狩りであるという身の証を立てるものだが、ロイのものだけは銀ではなく、白銅だということはエリシュカは事前に聞き及んでいる。
「ここ数ヶ月、この近辺では吸血鬼による被害が絶えないと聞いた。少し話を聞きたい」
船員は吸血鬼狩りと聞いて途端に破顔する。くしゃくしゃの笑顔が彼の幼そうな印象をより強くする。
「吸血鬼狩りが来てくれたなら心強いなぁ! ここは荷も人も昼夜問わずやってくるから、夜の仕事の時はおっかなくてさぁ……」
「吸血鬼に襲われたと思しき最後の被害者は三日前、この近くの第一倉庫前で死体が発見されたダズル・ボーデンで間違いはないか?」
「ん、ああ……確かにそんな名前だったかな。男が殺されたって大衆紙の記事は読んだけど、名前までは覚えてないかも」
異国風の名前は港湾都市では珍しくないため、それほど印象に残らなかったのだろうか。少なくとも、船員と被害者は知人ではなかったようだ。
「事件について何か知っていることは?」
「いやぁ……俺はその日非番だったし、直接死体を見たわけでもないんだよね。でも、仲間が男が棒鋼の束で串刺しにされてたって大騒ぎしてたよ」
エリシュカはその光景をつい想像してしまい、口の中に酸味が広がるのを何とか堪えた。
「その仲間に発見した当時の状況を聞くことは出来るか?」
船員は静かに首を振った。
「そいつらは昨日、別の商船に乗ってここを出ちまった。この港に戻ってくるのは二週間後かなあ」
ロイは顔色を変えなかったが、伏せられた目に掛かる影の濃さで、少なからず落胆しているらしいことをエリシュカは察した。
「彼ら以外に当時の様子を知っていそうな者は?」
船員は唸りながら記憶を辿るが、途方に暮れたように天を仰いだ。
「ここいらの夜の様子を詳しく知ってそうな奴っていえば野犬か野良猫か──」
「……野犬が出るのか?」
ロイは警戒心を露わにする。野犬は決して人に慣れず、時には集団で人間に襲い掛かるため、人間にとっては吸血鬼に次ぐ脅威となり得る。
ここは大層危険な場所だと、エリシュカは表情を引き締める。
「でも、最近は野犬の数がちょっと減った気がするよ。野犬狩りでもやってるのかね。まぁ、動物から話が聞けるわけじゃないし、こんな話はどうでもいいか」
「……いや、野犬は凶暴だ。警戒するに越したことはない。情報の提供に感謝する」
「そうかい? ええと、他にこの辺のこと知っていそうな奴と言えば──」
船員はエリシュカの顔色をちらっと窺い、ロイの肩をぽんと親しげに叩く。
「うん、そしたら夜……兄さん一人でこの辺をうろついてみたほうがいいかもなぁ」
「え?」
「……なるほど。参考になった。仕事中に時間を取らせてすまない」
船員は笑いながら自分の持ち場へと戻って行く。エリシュカだけが、何故その会話で互いに真意が通ずるのか理解出来なかった。
──まさか、あの人の言いなりになって、私を一人で留守番させる気じゃないでしょうね?
エリシュカが不安に駆られてロイの袖を引こうとした時、おい、とロイが驚いたように声を上げた。
「足元を見ろ」
「え?」
エリシュカは慌てて足元を見下ろす。そこにはいつの間に近付いてきたのか、潮風と砂埃に晒され薄汚れた黒と白の子猫が蹲っていた。
仔猫は小さく、非力なエリシュカでも軽々と抱き上げられそうだった。みすぼらしい毛玉は助けを求めるように一鳴きすると、力なくその場に蹲ったのである。




