第六十二話 互助の本懐
エリシュカとロイの本気を肌で感じたベロニカは、早速エリシュカの修行の場として修練場の使用を提案した。
修練場は協会長室のある主棟ではなく、中庭に面して建てられた平屋の建物だ。
基礎的な修練だけでなく、模擬戦や重傷者の機能回復訓練にも利用されるという。その目的と部屋の広さによって三つの区画に分かれている。
ベロニカに宛行われたのは二人で使用するにはやや贅沢な、中程度の広さを持つ修練場だった。堅い板張りの部屋は、菖蒲月だというのに足から冷えが這い登ってくるようだった。
「それで? ……何で俺はここに呼ばれたんだ?」
ヴィタリーは修練場の隅に置いてあった丸椅子に無造作に足を組んで座っていたが、ついに途方に暮れたように呟いた。彼はエリシュカに有無を言わさず連れ去られて来た被害者である。
肝心のエリシュカは修練場の中央に立ち、ロイと向かい合って立っている。そのぎこちない距離感を見れば、二人がまだ打ち解けていないのは明らかであった。
「傍で動きを見てもらって、気付いたことなんかを教えてもらいたかったのだけど……迷惑だった?」
「あん? 迷惑なんて何言ってやがる。頼ってくれるのは素直に嬉しいぜ? ただよぉ……俺は今、本当に口出ししか出来ねえんだぞ?」
ヴィタリーは左肩を固定する白い布を憎々しげに見下ろし、大仰に溜め息を吐く。四十手前にして未だに旺盛な体力をやや持て余しているらしい。
どこかわざとらしいヴィタリーの所作に、ロイは冷笑を浮かべた。
「次に無理をすれば水平に肩が上がらなくなる、とキィに警告されているんだろう?」
「えっ……?!」
エリシュカは飛び上がらんばかりに驚いた。
ヴィタリーから全治一ヶ月の怪我が三ヶ月に伸びたことは聞いていたが、そこまで身体に重篤な損傷を残しているとは思ってもいなかったのだ。
もし、このまま肩の可動域が著しく損なわれてしまえば──下手をすればヴィタリーの吸血鬼狩り生命そのものが終わる。
「な、バラすなよ! いい年して医者に怒られたってエリシュカに莫迦にされるじゃねえか!」
「茶化すな。……“使徒”は自分を守るためにお前が払った犠牲の重さを知っておくべきだろう。……いつか“使徒”自身が払うかもしれないものだ」
エリシュカは俯く。ヴィタリーに対する罪悪感ばかりではない。だが、改めてヴィタリーが支払った犠牲を目の当たりにすると、この先に立ちはだかる困難を前に足が竦む思いだった。
傷付く覚悟がなかったわけではない。自分だけは死なないという傲慢も無かった──はずだ。
吸血鬼狩りの戎衣に袖を通した以上、エリシュカは自分の野望ばかりを見つめてはいられない。自分の身を擲ってでも、力なき人々を救わなければならない時が来る。それも、きっとそう遠くない未来のことだ。
それが出来なければ、きっとエリシュカはいつまで経っても一人前の吸血鬼狩りとして認めてはもらえない。
「その言い方じゃあ、エリシュカが気に病むだけだろうが! 俺は俺の考えで任務を続行しただけだ! 俺の怪我の責任は、全て俺にあるんだよ!」
「ヴィタリーさん」
エリシュカは普段よりもずっと強い口調でヴィタリーの言葉を遮る。
「いいの、本当のことだから。……それに、私自身が強くならないと、ヴィタリーさんや他の皆に迷惑が──」
エリシュカが言い終わるのを待つことなく、ロイは唐突に右手を振り被り、エリシュカの左頬を張る──その寸前で平手は止まり、風圧でふわりとエリシュカの前髪が揺れた。
エリシュカは目を見開いたまま、避ける事も頭部を庇うことも出来ずに立ち尽くすしかない。一拍遅れて心臓が早鐘を打ち、全身から冷や汗が噴き出す。
「……なるほど。目を閉じなかったことは褒めてやる」
ロイはエリシュカの挙動を具に観察した後、徐に振り上げた手を下ろした。
実際は、ロイの動きが速すぎて反応が出来なかっただけだ。しかし、恐怖で引きつる喉は、その事実を口にすることさえ許さなかった。
「だが、行動が拙い。静止したままでは敵の追撃を許す。最低限回避、もしくは攻撃を受け流せるように動け。防御や反撃は確実に身体が反応出来るようになってからでいい」
「……ど、どうして?」
「吸血鬼の膂力の前では人体は余りにも脆い。うまく防御出来たと思っても、力で押し切られた挙句、筋組織や骨が破壊される可能性が高いからだ」
そういえば、とエリシュカはアレスとアルフレートの戦いを思い出す。
アレスは一方的なアルフレートの打ち込みに対して、正面から短剣で受け切ることは絶対にしなかった。力の流れをずらして剣の軌道を変えたり、足さばきで避けることに終始していた。
「……ヴィタリーさんのように銃を使えるようになったほうがいい?」
ヴィタリーとロイは気まずそうに押し黙った。
「……それはやめた方がいい。恐らくこの筋肉馬鹿が難なく発砲するのを見たんだろうが──」
「おい、聞こえたぞ!」
室内にヴィタリーの怒鳴り声が反響するが、ロイは涼しい顔色のまま聞こえないふりをした。
「銃には反動がある。“使徒”の体格では──」
「……エリシュカ・ルプです」
話の腰を折られたロイは、は、と軽く息を呑む。
「“使徒”は役割です。……私にはちゃんと名前があります」
ロイはまじまじとエリシュカを見つめたあと、少し気まずそうに咳払いをする。
「……エリシュカの体格では、最も小さい口径のものを使ったとしても肩の骨が外れる恐れがある」
視界の端でヴィタリーが怪我の痛みに悶えながら笑っている。余程、十七の小娘に物申されたロイが面白かったのだろう。
でも、とエリシュカはもどかしそうに唇を噛んだ。
「回避したり受け流せるようになるだけで、本当に強くなれますか?」
「……何のために強くなりたいんだ?」
「それは、仲間同士助け合うために──」
それは違うぜ、と漸く笑いを収めたヴィタリーは厳しい声で断言する。
「悪い、エリシュカ。実は……今日ベロニカから聞いたんだ。お前が女は弱いって見下す莫迦な連中に絡まれたんだってな。でもよ、お前が気に病む必要は全くないんだぜ」
ロイはヴィタリーに同調するように頷く。
「そもそも、吸血鬼狩りになったばかりの子どもの助けを期待する奴らだ。先達なら持っているべき新人を守り、育てるという意識がない。そんな連中の言う助け合いが、果たしてまともなものだと思うか?」
「あ……」
そう言えば、エリシュカの生家では何百名もの兵士を抱えていたが、皆、新兵には厳しくも優しかった、とエリシュカは思う。
怪我や事故を防ぐためのやり方や考え方を徹底的に身体に覚えさせ、時には身を挺して失敗を庇った。新兵を役立たずと罵り、見捨てる者は一人もいなかった。
「強くなる理由なんぞ、生き残るためでいいんだぜ」
「……回避行動を取った後は、逃げるか周囲に助けを求める。今はこれが出来れば十分だ」
ヴィタリーはにこにこと笑うが、ロイは喋りすぎたとばかりに顔を背けた。
エリシュカは意外そうにロイの顔を見つめる。
確かにロイは愛想が欠片もないし物言いは辛辣だ。だが、彼はエリシュカの力量を見定めて課題を出す。決して完璧であることを要求せず、それどころか躊躇わずに周囲に頼れと言う。
そういえば、ロイとエリシュカが組むことをベロニカに打診された際も、ベロニカに対してエリシュカを死地に連れて行くつもりかと怒っていた気がする。
──でも、気を許してくれているとか、仲間として認めてくれたという感じでは無いのよね。
寧ろ、決してエリシュカと距離を縮めようとしない。そもそも、エリシュカに対しては興味など一片も無いのではなかろうか。
それなのに、ロイは──その口から発せられる言葉だけは誠実で、エリシュカを確実に生き残れる道へ誘導しようとしてくれている。
「──おい、聞いているのか?」
「え、あ……ごめんなさい。少し考え事をしてしまって……何かしら」
「随分と余裕だな。では、今から連続で攻撃を叩き込む。当てはしないが、攻撃を目で追い続け、回避行動を取り続けろ。時間は無制限──文字通り倒れるまで動き回れ」
「え……」
エリシュカは顔色を悪くしたが、ヴィタリーは満面の笑みを浮かべる。
「そいつはいい。基礎体力作りにもうってつけだ。見たところ、エリシュカは身体の重心が捻じれている。腰から下を重点的に鍛えれば化けるぞ」
「……まずは顔の左右を目掛けて打ち続ける。まずは顔を左右に振って避けてみろ。絶対に目を閉じるな。腰は少し落として、足は肩幅位に開け。左足は半歩後ろに下がらせろ」
始めるぞ、というロイの声は静かだが、エリシュカが待ったをかけるのを許さない。追い打ちをかけるようにヴィタリーの声援がエリシュカの背を押した。
結局、その日の修練はエリシュカの体力の限界を超え、影法師が長く伸びる黄昏時まで粛々と続いたという──




