第六十一話 奇天烈共同戦線、成立
翌日──協会長室へと向かうエリシュカの足取りは、緊張と不安に取り憑かれたように固い。慣れぬ編上靴で一歩ずつ床の感触を確かめながら歩くせいか、却って勇ましいほどだ。
今のエリシュカに身だしなみや挙動に気を配る余裕はない。だが、そのお陰でエントランスに屯する同僚の下卑た冷やかしが耳に入らないのは幸いだった。
その声も中枢へと近付くにつれて一つ、また一つと減り、協会長室の扉の前に立つ頃にはエリシュカ以外の全てが死に絶えたように静まり返っていた。僅かに赤く染まったエリシュカの耳に、心臓の音と浅い呼吸音ばかりがうるさく木霊する。
エリシュカは扉を前に立ち尽くしていた。早く扉を叩いてベロニカに来訪を知らせねばならないのに、その勇気が今のエリシュカには足りない。
──だめ、うまくやらなきゃ。たとえ私一人きりでも。
エリシュカは早鐘を打つ心臓を宥めるように右手で軽く押さえる。
その時エリシュカの指先に戎衣の下に隠し持っていた兄の結婚指輪が触れた。護身用の首飾りとして身に着けていたものだが、エリシュカは一人ではないと囁いてくれているような気がした。
「──失礼します」
指輪のお陰で落ち着きを取り戻したエリシュカは、扉を叩いて入室の覚悟を決めた。
入っておいで、という優しい声に導かれ胡桃材の扉をくぐる。エリシュカは不安げな表情で新月の夜空のような黒髪の男の姿を探したものの、室内には椅子に掛けて寛ぐベロニカの姿しか見出すことが出来なかった。
「おはよう、エリシュカ。おや、随分と顔色が悪いね。昨夜は緊張で眠れなかったのかい?」
「……ええ、まあ」
言葉を濁すエリシュカにベロニカは首を傾げるが、それ以上深く追求する素振りを見せることはなかった。
「いつまでもそこで突っ立ってないで、こっちでお座りよ」
エリシュカは静かに扉を閉めて、促されるままに長椅子に腰を下ろした。
「あの……ロイさんは、やっぱり来ないつもりなんでしょうか」
「大丈夫だよ。奴は遅刻するほど責任感の無い奴じゃないが、三十分も前から来て待っているほど殊勝な奴でも無いってだけさ」
ロイを庇っているのか、それとも貶しているのか──咄嗟に判断出来なかったエリシュカは、迷った末にお義理のような乾いた笑みを浮かべた。
「そんなことより、昨日痛めた手首の調子はどうだい?」
「……もう、平気です」
エリシュカは左手を軽く掲げる。固定のために巻いていた包帯は既に取り去った後で、赤い痕はすっかり消えてしまった。
エリシュカの快癒を見届け、ベロニカはあからさまに胸をなで下ろした。
浮かべた表情はまるで良母のそれだ。だが、エリシュカを見つめる深い海松色の瞳だけは歴戦の戦士の厳しさを拭いきれない。
「エリシュカ、私があんたの任務着任を急ぐのは、“御使い”様を見くびる輩を早急に黙らせるためだ」
ベロニカはそう言って未だ衰えを知らぬ腕を組む。今回の騒ぎについて余程腹に据えかねているのか、人差し指が苛々と腕を叩いていた。
「本来なら、黒と銀が最低でも十人掛かりで受ける任務だ。解決すれば誰もがあんたを認めざるを得ない。必ず成果を上げて見返しておやり」
はい、と頷くエリシュカ。そして、不意にその瞳が興味に彩られた。
「……そういえば、ヴィタリーさんやロイさんも銀なんですか?」
ヴィタリーはそうだ、とベロニカは言う。
「だが、ロイは違う。敢えて序列をつけるとすりゃ──人に馴れぬ怪物ってところだよ」
その時、エリシュカの背後でこつこつと扉を叩く音がした。
ベロニカとエリシュカは顔を見合わせ、ベロニカが入室を許可する旨を来訪者に伝える。程なくして、姿を現したのはロイであった。
「遅かったじゃないか、ロイ。吸血鬼には早起きは酷だったかい?」
ロイはベロニカの軽口を無視し、勧められてもいない内からエリシュカの隣に腰を下ろした。
「遅れてはいないはずだ。文句を言われる筋合いはない」
ベロニカは胸元から懐中時計を取り出し、時刻を確認する。針は九時丁度を指しており、図らずもベロニカのロイに対する評定の正確さを証明した形となった。
「確かに。お前の気が変わらない内に今回の任務の内容を説明させてもらおう」
ベロニカは懐中時計を懐に戻すと、協会長の顔になった。
「今回お前たちを派遣するのはファニュ=ブラムスだ」
ファニュ=ブラムスは首都の西方にある中規模の港湾都市である。ファニュ=ブラムスは南北を縦断する内海に接しており、南下すればエリシュカが喪失した故郷の街──ミラ=パドゥーレを経由して南西に隣接する隣国に、北上すれば外洋へと繋がっている。
「そこでは数ヶ月前から不定期に住民や船員が殺害されている。遺体は腹や胸に風穴を開けられちまっているが、周囲に血痕がほとんどないことから、吸血鬼の関与が疑われている」
エリシュカは目を眇める。見つかった遺体の状況を具に説明されるのは、やはり気分のよいものではない。
「それから……見つかった遺体は全て串刺しの状態で見つかっている」
エリシュカは少し青褪めながらも考え込むように口元に指を添えた。
「……何だか、大昔の……戦時中の処刑法みたいですね」
エリシュカは武門の家系に生まれた女だ。そのため、戦争史の基本程度は頭にたたき込まれている。
その知識によれば、討ち取った敵兵は見せしめのために串刺しにし、敵軍の士気を下げるという手法が好まれたと記憶している。
吸血鬼の王ザハリアーシュの呪いにより、遺体が吸血鬼として蘇るようになってからというもの、三百年もの長きに渡って戦争は行われていない。
その間に、処刑法もより人道的とされる絞首刑のみを残してほとんどが廃止されたのである。
「確証はないが、あり得ない話ではない。何せファニュ=ブラムスは交通と交易の要所だ。他国から人が集まるし、そのまま定住した人間も多い」
そして、とベロニカは語気を強くする。
「これを放置すれば、最悪国際問題に発展する恐れがある。そうなれば治安の悪化は避けられない」
治安の悪化は殺人、私刑等後の災禍へと繋がりやすい。恨みは更なる吸血鬼による被害の呼び水となるだろう。
「出発は三日後だ。エリシュカには今日、明日の間に遠征時の経費申請の仕方や武器や消耗品なんかの物品購入の手順を覚えてもらう。……ここまでで何か質問はあるかい?」
エリシュカはおずおずと右手を上げた。
「……あの。任務と直接関係はないのですが、一つだけ宜しいですか?」
「ん? 構わないよ。何でも聞いとくれ」
エリシュカはちらりとロイを横目で見る。見られていることには気付いているはずだが、ロイはエリシュカを一顧だにしない。
「……ロイさんに私を鍛えてもらうことは出来ますか?」
「……へえ?!」
ベロニカは余りにも意外な申し出に素っ頓狂な声を上げる。対するロイは一切表情が変わらないのが対照的であった。
「駄目ですか……?」
「駄目……ではないが。しかし、昨日“御使い”様がエリシュカは戦うなと仰っていたじゃないか!」
エリシュカは軍事貴族の家の出とは言え、戦闘の訓練を受けたわけではない。戦場に出れば死亡する確率が極めて高いと“御使い”アレスに手痛い指摘を受け、戦闘からは手を引けと言われたばかりだった。
エリシュカは疲労の濃い顔に努めて笑みを浮かべる。
「……その点ならご安心ください。昨夜ご納得頂くまでご説明して差し上げたので。……少し時間はかかりましたが」
アレスは高慢と合理的判断力が同居する上位存在である。その言葉には人間に対する慈悲はなく、寧ろ人間の甘さに対する否定や非難の方が多い。
しかし、人間側の主張や行為が必ずしも神の意向を妨げるものではないと了解すれば、譲歩するという柔軟さも持ち合わせていることにエリシュカは気付いたのだ。
そこで、エリシュカは人間の倫理や法律について解説することを早々に諦めた。その代わり『アレスの戦闘能力をより向上させるため』という名目で自身の肉体を鍛えることを提案したのだ。
結果、アレスは渋々了承した。
勿論、エリシュカが吸血鬼との戦闘に餓えるアレスに取って代わることはしない。だが、エリシュカ自身が強くなれば、すぐに敵対的な人間を誅滅しようとするアレスに助けを求めずに済む。
「そ……そりゃ大変だったね。ロイが構わないってんなら、いくらでも相手をしてもらえばいいが──」
「……その程度なら付き合ってやってもいい」
溜め息と共に吐かれたロイの言葉に、ベロニカの下顎が面白いほどがくんと大きく落ちた。
「……くれぐれも“使徒”を頼むと頭まで下げたお節介な莫迦がいたからな。──やむを得ず、だ」
ロイの喉から発せられた低音は相変わらず無関心を貫いている。しかしそこにほんのりと刷かれた憐憫の色を、エリシュカは決して聞き逃さなかった。




