第六十話 俺が殺した
エリシュカが着慣れない戎衣と格闘し始めて四半刻が経とうとしていた。
医務室の主であるキィは、とうに待つことに飽きてしまい、机に突っ伏して惰眠を貪っている。
医務室に負傷者が運び込まれてくるのは夜更けから明け方にかけてが圧倒的に多い。しかも、吸血鬼狩りは複数人で吸血鬼に挑むため、寝台はあっという間に満床となるのだ。
正直に言えば、病床も設備も十分とは言い難い。それでも、朝、負傷者を正規の病院へと移送出来る状態に留めておくのがキィの役目である。
野戦病院さながらの修羅場を乗り切るためには休むことも仕事の一つだった。
そんな折、帷幕がそっと引かれた。
真鍮の柱と帷幕の端に取り付けられた金属の輪が擦れる音にキィが慌てて顔を上げる。長年に渡り急患を診察してきた医師の、悲しくも誇らしい性であった。
「ご覧よ、キィ。なかなか凛々しいじゃないか?」
エリシュカがベロニカに背中を押されながら姿を現す。
黒いドレスを脱ぎ、戎衣に袖を通したエリシュカは、正直に言えば見栄えは良くはなかった。
白い襯衣と栗皮色の胴衣は彼女の細い身体には大きく、その割にたわわに育った胸だけが窮屈そうだった。この上に上着まで着用すると、本当に服に着られているという印象が強くなる。
上着と同色の脚衣にも余裕があり、すらりと長く伸びた膝下は脚絆を身に着けていてもベロニカの腕よりずっと細いくらいだった。婦人靴に慣れた足では無骨な編上靴は大層歩きにくかろう。
「ど、どうでしょうか……?」
エリシュカは、はにかみながらもその場でくるりと回って見せ、キィの口から出る言葉を待つ。
不安と期待で瞬きを繰り返すエリシュカの目を、キィは裏切ることは出来なかった。
「うん……格好いいね。まだ新人らしい初々しさはあるけど、“使徒”ならすぐに馴染むだろう」
キィがそう言うと、エリシュカは漸く安堵したのだろう。気の毒なほどに張り詰めていた緊張を漸く緩めた。
そんなエリシュカの肩をベロニカが容赦なく叩く。山賊もかくやという豪快さである。
「な、言っただろう? コイツは見てくれ通りの変人だし、絶対お世辞は言わないんだよ」
「……人のことを何だと思ってます?」
キィは口をへの字に曲げ、顔を背けて遺憾を示す。尤も、長年の付き合いからこの程度の抗議が聞き入れられるはずもないことは承知の上である。
元貴族の少女から見れば大人同士が年甲斐もなく拗ねたり笑ったりする光景は実に愚かしく、噴飯ものであるに違いない。
だが、それでもキィは自身の感情を隠そうと取り繕う真似はしない。願わくば、この利発な少女が過酷な運命を前に、自分の気持ちを殺してしまわないように──そう祈らずにはいられなかった。
「……おや?」
視界の端でちらりと何かが見えた気がして、キィは窓際に近寄り、外を覗き込む。
医務室の窓は協会の中庭に面しており、稀に吸血鬼狩りたちが雑談や散策に興じる姿を見ることが出来る。
男所帯では花を愛でる趣味を持ち合わせる者は少なく、短く刈り込まれた芝生と鋳鉄製の長椅子が申し訳程度に設えられているのみだ。
そんな寂しい憩いの場に二つの人影が立ち尽くしている。それは先程医務室で別れたはずのロイと安静を言い渡されていたはずののヴィタリーであった。
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「頼む、ロイ。エリシュカと組んで、守ってやってくれ。この通りだ」
ヴィタリーは未だに三角巾で腕を固定している状態であるにも関わらず、ロイに向かって深々と頭を下げる。
ロイは壁にもたれて腕を組み迷惑そうにヴィタリーの挙動を見ていたが、あまりの寒々しさと痛々しさについ舌打ちをして顔を背けた。
「しつこい。そう何度も頭を下げられても困る。いい加減、諦めてくれ」
「お前が引き受けてくれるまで俺は絶対に諦めないからな」
話し合いは平行線で、互いに譲歩も妥協もない。この応酬もこれで何度目か分からないほどだ。
ロイは危うく喉まで出かかった罵倒を飲み込み、普段は決して見ることのない巨大な男の頭頂部を睨む。
「何だってお前は“使徒”にそこまで肩入れするんだ。言い方は悪いが……任務先で出会っただけの他人だろう?」
違う、とヴィタリーは顔を上げ、ロイの疑問を遮るように言葉を被せる。
「他人なんかじゃねぇ! もうアイツは妹分──いや、俺の弟子みてぇなもんだ! 弟子の身を案じない師匠がどこにいる!」
「……本当にそれだけか?」
ロイの赫い目が医務室の窓を見る。
ヴィタリーとロイの密談に気付いているのはどうやらキィだけのようで、それとなく“使徒”とベロニカの視線を切るように背中を向けて立ちはだかっているのが見えた。
「違う。……俺はあの娘の……兄に対する執念を利用した自分に腹が立ってしょうがないんだ」
兄を取り戻したいから──そう言って吸血鬼狩りになりたいとエリシュカに相談された日のことをヴィタリーは今でも鮮明に覚えている。
エリシュカは庶民には一生手の届かないような高価なドレスを纏いながらも、夢も希望もないような、執念すら燃やし尽くした目でヴィタリーを見つめていた。
ヴィタリーはその静かな気迫と妄執に圧倒された。何もかも奪われ尽くした人間の末路をそこに見たのだ。
「兄?」
「……吸血鬼になっちまった兄が一人いる。どうしても、人間に戻してやりたいんだと」
流石に、他人の秘密を勝手に開示することには抵抗があるのか、珍しくヴィタリーは歯切れが悪い。
「吸血鬼を人間に戻す方法がないなら、自分が探すと言って聞かなくてよ」
それに、ヴィタリーとしても“御使い”という巨大な戦力は喉から手が出るほど欲しかった。それで一も二も無く頷き、電報でその旨を協会へと報せたのだ。
だが、ヴィタリーは見落としていたのだ。あの娘は「戦いたい」と言ったわけではない。少しでも兄を救う可能性があるならば、と割り切って吸血鬼狩りを志願しただけだ。
そればかりか身の丈に合わぬ戦い方をすれば、これから先の人生を全て灰燼に帰すかもしれないことを知らぬまま、ヴィタリーはエリシュカに刃を握らせてしまった。
ヴィタリーもエリシュカも、もう後戻りは出来ない。その上、エリシュカが万が一にも戦死したらと思うと、ヴィタリーは肚の底が冷える思いだった。
「……“使徒”が甘い考えだけで武器を取ったと思うのならば、今からでもお前がちゃんと説得して吸血鬼狩りを辞めさせろ」
ロイは冷たく言い放つ。厳しいが、正論であるだけに、ヴィタリーはぐうの音も出ない。
「……だが、少なくとも、あの娘は男たちに取り囲まれ、暴言や暴力を振るわれてもここを辞めるとはひと言も言わなかった」
ヴィタリーは驚愕した表情でロイに詰め寄る。エリシュカに降りかかった災難については寝耳に水である。
「な……! どういうことだ、そりゃ?!」
「言葉通りだ。詳しいことは本人から聞け。本人が答えてくれるかどうかは知らないが」
ヴィタリーはがっくりと肩を落とし、頭を抱えた。掻きむしりたい衝動を抑えきれずに唇を噛む。
「もしエリシュカに万が一のことがあれば……俺が殺したも同然だ……また──」
「……おい」
「あの日、化け物に殺された恋人のように……」
「ヴィタリー!」
ロイがヴィタリーの胸元を掴み、閉じ籠もった意識を無理やり外側へと引き摺り出す。
ヴィタリーの視線に生気が戻ったことを確認して、ロイは漸く拘束を解いた。
「……何度も言わせるな。お前の恋人は、お前を生かすために死んだんだ。その犠牲を侮辱するな」
三年前、妙な成り行き故にヴィタリーを救い出すこととなったロイは彼らの激戦を目撃している。
ヴィタリーを庇って頽れた女の姿も、悲しい程に人間の限界も、全て──
「ちっ……」
ロイは固く握った拳でヴィタリーの胸板を軽く叩く。それが肩の傷に鋭く響き、ヴィタリーは「うっ」と低く呻いた。
「それよりも、怪我人のくせにいつまで協会の中をうろつくつもりだ。……はっきり言うが目障りなんだよ、今のお前は」
ロイは冷徹に言い放ち、ヴィタリーに背を向ける。
ヴィタリーはロイの後ろ姿を追いかけることなく、四角く切り取られた透き通る空の青さを沈痛な表情で仰いでいた。




