第五十八話 拒絶の洗礼、矮小たる冀望(きぼう)
ヴィタリーによる歓待を受けた翌日の正午、エリシュカは早朝に寮母から聞かされた言伝通りに協会を再び訪れていた。
曰く──戎衣の受け渡しと今後の方針について話があるため、午後一時に協会長室へ来るように──とのことである。
戎衣とは吸血鬼との戦闘用に作られた装束のことで、吸血鬼狩りの身分を証明するものの一つである。それは非番を除いて常時着用しなければならない規則であるらしい。
エリシュカは顔にかかる一筋の髪を耳に掛ける。結い上げてくれる使用人がいないため、焦茶色の長い髪は無造作に下ろしたままだ。
──オフェリア、ごめんなさい。その日まで義姉の喪に服したかったけれど。
エリシュカは身に纏う黒いドレスを見下ろす。不意に目頭が熱くなり、涙滴が浮かぶのを唇を噛んで堪えた。
──……でも、私は、自分が思うよりもずっと薄情なのかもしれないわ。
昨夜だって、新たな仲間と明るい食卓を囲み、声まで上げて笑ってしまったのだ。この上、喪服まで脱いでしまえば、形の上でもオフェリアの死を軽んじてしまうような気がする。
エリシュカの面持ちは徐々に闇に鎖されていく。自分がひどく恥を知らぬ生き物になった気分だった。
「“使徒”様じゃあないですかぁ。一体どちらへ?」
エリシュカは、はっとして面を上げる。いつの間にかエリシュカの正面には二人の男が立っていた。
私服のエリシュカを“使徒”と呼ぶからには、昨日アレスが起こした騒ぎの渦中にいたのか、たまたまその場に居合わせた好奇心旺盛な第三者のどちらかだろう。
エリシュカは警戒心を隠すことなく男を見る。
「……協会長にお会いするお約束が。あの、通して頂けますか?」
二人の男は顔を見合わせ、下卑た笑みを貼り付ける。
「聞いたか? 通して頂けますか? だってよ! お上品な“使徒”様は下賤の者にも気を使ってくださるらしいぜ」
エリシュカはすっと目を細め、無礼な男たちの横をすり抜けて協会長室へと向かう。だが、男の手がエリシュカの左手をしっかりと掴んだ。
その途端、微かな痛みが手首に走る。エリシュカはその刺激に不快そうに眉を寄せた。
「まぁ、そう慌てなさんなよ。協会長ならさっき資料室の方で見掛けたぜ。今はまだ部屋に戻ってないと思うがなぁ」
「待っている間、暇だろう? お話でもしようぜ。あのロイをどんな風に虜にしたのか、その可愛い口と手で教えてくれよ」
「へっ。お前がそれで満足するタマかよ」
男がエリシュカの手首を強引に引っ張り、肩を抱く。
背筋が冷えるほど悍ましいのに、エリシュカの非力な手ではどう足掻いても振り払えそうにない。
──アレス……この人たち、何とか出来る?
エリシュカは一縷の望みに縋り、この身に憑依する御使いに問う。
──お? 殺すか? 神がお選びになった“使徒”を愚弄した以上、楽には殺さねェぜ。
アレスが最も優先するのは神にまつわる全ての事象だ。神に心服する彼らしいとは言えども、そんな“御使い”の尺度は、人間のそれには相容れぬとまだ理解が追いつかないらしい。
短絡的とも取れるその思考を咎めようとするが、それよりも早く頭の中で異物が溶け出すような感覚がしてエリシュカは戦慄する。
アレスは、本気で人を殺そうとしている。
「……やめてっ!」
エリシュカは思わず叫んだ。
止めたかったのは、御使いの凶行か、男たちの蛮行か──そのどちらもエリシュカの力だけではどうしようもない。
だが──幸運にも、エリシュカの懇願は“救世主”の耳には届いたらしい。
二つの人影が現れ、エリシュカを囲む男たちを殴り飛ばした。彼らの身体は濁った悲鳴と共に床に投げ出され、エリシュカは引きずられるようにしてその場に倒れ込む。
「大丈夫? エリシュカさん」
倒れたエリシュカに、すぐさま右手が差し出される。
エリシュカが見上げると、フローリアンの気遣わしげな顔がそこにはあった。
「フローリアン……さん?」
「ごめんね、怖がらせたかな。立てる?」
エリシュカは頷き、フローリアンの助けを借りて立ち上がる。
その間にも再び派手な打音がして、男が悲鳴を上げる。
エリシュカがそちらを見ると、アイザックが逃げようとする男の胸倉を掴み、平手を食らわせているところであった。
──たす……かった……。
「……けっ! いいよな、女はよ! 泣いてりゃ男が寄ってきて、守ってもらえるもんなぁ?!」
床に倒れていた男が呻く。眉間に皺を寄せ、憎々しげに吐き捨てる。
「……お高く止まりやがって……こっちはお前程度の女をわざわざ相手にしてやってるのによぉ」
「な……っ」
アイザックに殴られ、唇から血を流す男が小馬鹿にするようにエリシュカを嗤う。
「どうせ協会には男漁りで来たんだろうが?! だったらもっと可愛げのある素振りで誘えよな!」
フローリアンが背後にエリシュカを庇う。しかし、それでも言葉という刃はフローリアンを通り越してエリシュカの心に深く刺さった。
「……口を慎めよ。彼女は“使徒”で、俺たちの仲間なんだぞ」
「ハァ?! お前、使徒なんて御伽噺を信じてんのか?! 俺らに抵抗も出来ないような女が吸血鬼に勝てるわけねェだろ!」
「大体仲間ってのは助け合ってこそだろうが。お前らに守られてるだけのその女が役に立つかよ」
アイザックがまた男に平手を食らわせた。派手な一撃は男の脳を容赦なく揺さぶったのか、彼は一瞬ぐったりと天井を仰いだ。
「……お前たち、階級は?」
「え、は、ええ?」
殴られた男は朦朧としながら、焦点の合わぬ目でアイザックを見る。
「答えろ」
アイザックが手を振り上げるとならずものたちは情けない悲鳴をあげた。
「……う、あ……紫……」
アイザックに胸倉を掴まれた男は、しゃくり上げながら答えた。
「お、俺は赤だ……!」
床に倒れた男の階級を聞き、アイザックは小馬鹿にするように口元を歪めた。
「駆け出しから抜けたばかりのヒナどもか。道理で──」
「な、なんだよ!」
「俺は銀だ。そこのフローリアンもな」
吸血鬼狩りの階級は六つに分かれており、最下位は青から始まり、赤、紫、白、黒、銀と続く。
階級が赤、紫の者は任務の難易度に制限があり、銀の者と同じ任務につくことすら許されない。総じて死亡率も高いため、協会によっては人員の補充が間に合わず、銀は空位であることも多い。
「俺は貴様らに助けてもらった覚えなどない。……お前はどうだ、フローリアン?」
「彼らの存在すら知らなかったよ。女の子なら覚えていたかもしれないけど」
アイザックはフローリアンのことも呆れたように見つめた後、再び男たちを睥睨する。
「貴様らの理論では、助け合いが期待出来ない相手は仲間として扱う必要はない。暴力に物を言わせても構わない──そうだよな?」
アイザックは拳を握り、指の骨を鳴らした。凶悪な笑みを浮かべながら、男に近寄って行く。
「ひっ!」
二人の男は悲鳴を上げてその場から逃げ出す。覚えていろ、と泣きそうな顔で捨て台詞を叫んだのは紫だと答えた男だったか。
男社会の強烈な制裁から解放されたエリシュカは、漸く安堵したように息を吐く。
──貴族社会も女性の扱いはよい方ではなかったけど……協会はもっと直截的に暴力的で、排他的だわ。
今更だと、頭の片隅でアレスが鼻で笑う気配がする。
──お前の存在を認めさせたかったのなら、私の力を知らしめ、畏怖を刻み付けるべきだった。敢えて禍根を残すなんざ正気の沙汰じゃねェ。
──そんなこと、私は望んでない。
神に近い存在であるが故に、アレスは人類に対して服従か蹂躙の選択しか持ちかけられないのだろう。その溝は一朝一夕に埋められるものではない。
不意に、エリシュカの肩に温もりが触れた。フローリアンだ。彼は男たちを殴ったその手で、エリシュカを慰める。
「あいつらの言うことなんて気にしなくていいよ。君は確かに女性で、力は俺たちに劣るかもしれない」
でも、とフローリアンは続ける。
「そんなことは女性である君たちが一番身に沁みているはずだ。それでも誰かを守るために傷付く決意をして、立ち上がった君のことを俺は尊敬するし歓迎するよ」
「そんな──」
そんな大層な決断ではない、とエリシュカは気まずそうに俯く。
エリシュカは兄を取り戻したくて──ひいては人間に戻す術を知りたくて吸血鬼狩りになっただけだ。
“使徒”として吸血鬼を根絶するという野望も、人民を救うなどという大それた使命感も、一欠片とて持ち合わせてはいない。
──私なんて仲間じゃないと言われたのも、仕方ないことなのかもしれないわ。
不純な動機で吸血鬼狩りを志したエリシュカが彼らの拒絶に寂寥を感じるのは筋違いだ。だが、身の置きどころのない悲しみは、重石のようにその細い肩に伸し掛かり続けた。




