第五十六話 潰える人類の希望
アレスの言葉は余りにも人間に都合のよい、耳触りの良いものであった。
年長者としてそれなりに経験を積んだヴィタリーとベロニカですら、現実と幻想の狭間に囚われたように継ぐべき言葉を失うほどである。
しかし、その刹那、遠くで鳴り響く汽笛が静寂を裂いた。物悲しくも力強い音響が、茫然自失となっていた二人を現実へと引き戻す。
ベロニカは跳ねる心音と胸を締め付ける感覚に胸を押さえる。その目はまるで少女のように潤み、大きく見開かれていた。
「破壊の力の及ぶ範囲はいかほどでしょう。吸血鬼などの魔の者のみに及ぶものでしょうか?」
ヴィタリーはおい、とベロニカの腕を咄嗟に押さえる。
ベロニカが口にしたのは、真理の最奥に隠された“御使い”の神秘を暴く禁忌の質問である。それこそ、不敬と謗られても仕方がないほどの無礼だ。
だが、ベロニカには後悔はない。むしろこの命と引き換えに情報を得られるのならば安いものである。
「万象だ。魔どころか、人間やそれらの持つ概念に至るまで、全てのものに影響を与えることが出来る」
二人の予想に反して、アレスは意外な程にあっさりと情報を明かす。知られた所で悪用されないという自信があるのか、悪用を企てれば殺すつもりなのか──
“御使い”との付き合いは短いものだが、恐らく後者だと二人とも確信する。それだけの負の信頼は既に積み上げられていた。
では、とベロニカは声を震わせながら言葉を継ぐ。
「凶王ザハリアーシュの遺詔……かの呪いを“御使い”様のお力で破壊することは叶いますでしょうか?」
「……アレか。一部の死んだ人間たちが吸血鬼として蘇るっていう。無論、可能だぜ」
ヴィタリーは思わず天井を仰ぎ、ベロニカは神への感謝を口にする。
クリステア王国をはじめ多くの国では謹厳実直が奨励されており、民のほとんどはその教えに忠実に従っている。しかし、それは死後、己が吸血鬼となることを恐れるがゆえの、まやかしの勤勉さではないと誰が言えようか。
それに、貧しい者たちは死後の裁きより、目前まで迫った死そのものを恐れる。飢えを凌ぐために犯罪に手を染め、人を傷付けるのだ。
そうやって罪を犯してもなお、彼らの大部分は貧困生活から浮上するには至らない。やがて世界の不条理を恨みながら道半ばで死んでいくのだ。
彼らを救おうにも、資金や人手は有限である。ベロニカもヴィタリーも、苦々しい思いで数を増やし続ける吸血鬼を手に掛けるしか無かったのだ。
それが、“御使い”の出現と共に終わりを告げる──そう思った瞬間。
「ただし!」
アレスの鋭い声が、夢見心地の二人の頭を殴り付けた。
「ザハリアーシュの呪いを破壊するには奴の亡骸が必要だ。四肢がもげていようが、頭が無かろうが一向に構わん。いっそ灰でもいいぜ。それを今すぐ持って来い」
ヴィタリーは難しい顔で首を振った。
「それは……出来かねます。ザハリアーシュの死骸は埋葬すら許されず野晒しの状態で、既に朽ち果てているので」
「そうかい。なら遺詔については諦めるこった。大体、純粋な吸血鬼は今この時も生まれてやがる。……多少数を減らした所で気休め程度にもならねェよ」
霧散した希望は痛みと共に手放すしかないのだ。ベロニカはそっと息を吐き出し、潔く思考を切り替える。
「遺詔を覆せないことは残念ですが、“御使い”様は智慧をお授け下さいました。今後もお慈悲とお力添えにお縋りすると存じますが──」
「許す。元よりそのつもりで降臨したんだからなァ」
ただ、とベロニカはある一つの懸念について口にする。
「あなた様は長時間戦えないとヴィタリーから報告を受けています」
アレスは気分を害した素振りもなく、鷹揚に頷いた。
「いくら小娘に素養があったとしても、人間の脳が高位の存在の思考力に耐えられるはずがねェだろう。会話程度の負荷ならば然程問題はねぇが、戦うとなれば……今のところは三時間が限度だろうな」
「今のところは……というと、制限時間は延ばすことは出来るのですか?」
出来る、とアレスは断言する。
「エリシュカの身体に私の精神を馴染ませて、繋がりを強固にすりゃァいい。平たく言やあ、私に意識の主導権を明け渡してくれりゃァいい」
「では、限度を超えて活動した場合──“使徒”への負担は如何ほどのものでしょうか?」
「さて……失神、衰弱……最悪、廃人だろうな」
「な……?!」
余りにも軽く呟かれたアレスの言葉に、ヴィタリーは口元を抑えて絶句する。
“使徒”に選ばれたからには、エリシュカが狩人になるのが当然のことだとヴィタリーは思っていた。だからこそ、エリシュカが吸血鬼狩りを志した時に二つ返事で受け入れてしまったのだ。
華奢な少女の身体に過大な負担が掛かることを知らなかったとは言え、ヴィタリーの責任は重い。吸血鬼狩りの先輩としても実質的な保護者としても、だ。
ヴィタリーは縋るようにアレスを見る。
「何とか……エリシュカの負担を減らす方法は無いのですか?」
「……私が小娘に力だけを貸してやるってェ方法もあるが。“使徒”には力もなけりゃァ、戦略も戦術もねェ。表に私が出なけりゃ戦場に立ったところで、殺されるだけだぜ」
エリシュカの身体を間借りしているアレスの言葉は流石に正鵠を射ている。ヴィタリーは何も言い返せない。
「……貴様らも、せっかく手に入れた“使徒”を失いたくねェだろォ?」
「そ、それはもちろん……」
「なら、全てを私に委ねろ。テメェもだ、小娘。聞こえてンだろォ? そうじゃなくてもお前は弱っちいんだからよ」
そう言ってアレスは目を閉じる。その瞬間、自我の主導権はエリシュカに戻った。
エリシュカはうっすらと目を開け、ぼんやりとする頭を軽く押さえた。自分の身体や頭が自分のものではなくなる感覚だけは、何度体験しても慣れるような気がしなかった。
「本当に嫌味な人ね……そんなこと、改めて言われなくても分かっているわよ」
ヴィタリーは慌てて席を立ち、エリシュカの傍に膝をついて顔を覗き込む。
「おい、大丈夫か? エリシュカ」
「ええ……すぐに収まると思うわ」
ヴィタリーは何かを言いかけたものの、口惜しそうに歯噛みするばかりだ。
それを見てベロニカが立ち上がり、書斎机の上に置かれた呼び鈴を鳴らした。
「珈琲も出さずに失礼したね。珈琲が“御使い”様のお口に合うかどうか分からなかったし、安物をお出しするわけにもいかないだろう?」
だから飲み物を出すのを控えていたと言い訳したが、エリシュカの目から見れば密室で交わされた会話や機密を余人に広めないための措置にしか見えなかった。
「……アレス様は気にしていません。あの方にはそもそも飲食の概念がないようですから──」
その瞬間、エリシュカの頭の中に自身のものではない、大きな声が反響した。
──小娘、お前の物差しで勝手に決めるな。食事という行為に対する興味くらいはある。
エリシュカはベロニカに向けた笑みを凍り付かせた。
意識の主導権を明け渡さずとも意思の疎通が出来るとは、エリシュカは今日まで知らなかった。これは、エリシュカの肉体にアレスの精神を馴染ませるという強化の一環なのだろうか。
「今部下に持ってこさせるから少し待っていておくれ。牛乳や砂糖はたっぷり入れたほうが好みかい?」
──全て最高級のものをたっぷりと、だ。
「……いえ。そのままで頂きます」
牛乳は兎も角、砂糖はまだまだ一般庶民には贅沢品である。教会の支援があると言ってもアレスの好奇心のために食い潰させるわけにもいかないだろう。
──小娘! 何を言っている?!
アレスはぎゃあぎゃあと頭の中で喚いていて、響くとか痛いどころの話ではない。だが、エリシュカは貴族社会で培った演技力を駆使し、笑みを絶やすことはなかった。
──なら、ご自分の口で伝えればよいのでは?
エリシュカを罵る言葉が一瞬途絶えたため、やはり、とエリシュカほくそ笑む。
何度か人格の交代を繰り返して分かったことだが、“御使い”の力を持ってしても頻繁に主導権を乗っ取ることは難しいようだ。アレスが今頭の中で喚いているだけなのが証左だろう。
エリシュカは謝らない。嫌味への意趣返しとしては可愛い部類だ。
──小娘ェ……なんと可愛げのない!
──嫌味には無視で返すのが一番だと思って。随分と堪えたようでよかったわ。
声無きその一言でエリシュカの頭の中に雷が落ちたのは言うまでもない──




