第四十三話 ノブレス・オブリージュ
「お待ちを。奏上をお許しください」
“御使い”の興味はオクタヴィアンからヴィタリーへと移る。“それ”はゆっくりと立ち上がり、傲然と、そして、はっきりと「許す」と宣言する。
「“使徒”はその様なことを望んでおりません。彼女は優しい。自分を殺そうとした兄の行く末ですら心配する程ですので」
「……前置きは良い。何が言いたい?」
“御使い”はあまり気の長い性質ではないようで、ヴィタリーを睥睨したまま足を小刻みに動かして床を鳴らした。
ヴィタリーは分の悪い賭けだと承知しつつも、ごくりと喉を鳴らして口を開く。
「“使徒”は、“御使い”の無慈悲な仕打ちから民たちを守れなかったという自責の念から、自裁する恐れがあります」
“御使い”の足の動きがぴたりと止まり、ひくりと口角が歪んだ。彼は理解に苦しむと言わんばかりに、眉間に刻まれた皺を指で解し始めた。
「私の聞き間違いか? ……今、この女が自裁する恐れがある、と言ったか……?」
「確かにそのように申し上げました」
“御使い”はふっと鼻で笑う。
「浅知恵だな。それはあり得ねェぜ。この女はニイサマとの約束でどんな状況になっても死ねねェんだからな!」
オクタヴィアンとネリーが息を呑む。確かに──アルフレートは最後にエリシュカに何があっても生き延びよと懇願し、エリシュカはそれを了承したのだ。
恐らく、その光景を“御使い”はどこからか見ていたのだろう。
その場に居合わせなかったヴィタリーが切った切り札は、あえなく弱いカードになってしまったと全員がそう確信した。だが──
「本当にそうでしょうか? 死者との約束と生者の命……何よりも守るべきはどちらであるか、恐らく彼女は理解しているでしょう」
エリシュカはただか弱いだけの少女ではない。兄のそばで、貴族の義務や意義について学び取って生きてきたはずだ。
そうでなければヴィタリーを助けるために奔走するはずがない。──平民に対して優しくあれるはずがない。
「神が選ばれたのでしょう、“使徒”を。彼女が亡くなれば、“御使い”は神より下された使命を果たすことなく天の座に還らねばならないのではありませんか?」
「…………」
「任務の失敗など、神が──いえ、あなた様の忠誠心が許さないのでは?」
「……貴様、私を脅迫するつもりか?」
びしり、と客間の空気が凍る。皆、薄氷のような氷の上を歩かされているような気分だった。割れれば命はないと確信するほどの殺気が人間の脆い首を撫でている。
しかし、不意に殺気は霧散し、“御使い”は不服そうに腕を組む。
「…………神は私にこの女の元で戦えと仰せになられた。神の思し召しに背くことは私の本意ではない。業腹だが、村人は出来る限り殺さぬよう配慮しよう。ただし──」
何かを言いかけた“御使い”であったが唐突に頭を押さえて苦しみだした。“御使い”が握っていた短剣が床に落ちて突き刺さる。
ネリーが慌てて腰を浮かすが、先程、不用意にエリシュカの身体に触れて“御使い”に不敬だと咎められたことを思い出したのか、駆け寄ることを躊躇っている様子だった。
「くそ、生意気な小娘めが……! よいか、狩人。私の力が必要になったら、必ず私の名を呼べ……我が名は……アレ……ス……」
その瞬間、エリシュカの体はまるで気絶したかのように脱力し、前のめりに倒れる。受け身のことなど到底考えていない姿勢に、ヴィタリーが慌てて立ち上がり、華奢な身体を受け止めた。
「ううっ……」
エリシュカはヴィタリーの腕の中で幽く呻く。その顔色はひどく悪く、元々赤みのない頬は白を通り越して青みが強い。
「大丈夫か、お嬢様。顔色が真っ青だぜ」
「……ええ、平気よ。意識の主導権を取り戻そうとしたのだけれど……随分と疲れるのね。頭がとても痛いわ」
その声を聞いてネリーとベアトリスがエリシュカに駆け寄り、エリシュカの手を取って長椅子に座らせた。
オクタヴィアンは侍医を呼びに行くと言って客間を後にする。
「農民たちの命はひとまず大丈夫だと思うぜ。出来る限り配慮してくださると確約してくださったから」
ヴィタリーはエリシュカを安心させるように言う。しかし、エリシュカは気怠そうに首を振った。
「……アレス……様が引いたのは貴方の言葉に納得したわけではないと思うわ」
「……え?」
「きっと、あの方はあまり長い時間、私の身体を自由に操れないのよ。少しでも長く戦う時間を確保するために、今は私に主導権を明け渡したんだわ」
それが憑依から時が経っていないことに由来するものか、エリシュカの器としての適性が低かったのかは定かではない。
だが、リュミドラと戦う時間を少しでも増やしたかったというエリシュカの予想が正しいことは、ここにいる全員が痛烈に実感していた。
特に、オクタヴィアンとネリーにはアルフレートに殺されかけた恐怖が未だに生々しく心身に刻まれていた。
吸血鬼となったばかりのアルフレートでさえ容易く命を刈り取る力を持っていたというのに、その主であるリュミドラの強さは最早想像の埒外である。
今にも不安で押し潰されそうな心を、主人への心配で何とか奮い立たせているだけにすぎないのだ。
「……俺は、お嬢様を戦わせるつもりなんてなかった。城から逃げて欲しいと本気で思ってたんだが……」
吸血鬼の危険性を誰よりも分かっていたヴィタリーは残念そうに呟くが、エリシュカはそっと首を振った。
「……ダメよ。私が逃げればアレス様は殺すと思うわ。神は無謬だったと示すために、殺すの。私も、あなた達のこともね」
絶句するヴィタリーをよそに、エリシュカは疲労の積み重なった身体に鞭を打ち、立ち上がる。
「でも、そんなことはさせない……生きると……守ると決めたから」
兄がリュミドラと共にエリシュカの死を願っていると分かった今、それでも生き延びようとするのは愚かもしれない。
だが、エリシュカの中でアルフレートとの約束はまだ無効になどなっていない。否──無効になど、してたまるものか。
エリシュカは確かに兄に愛されていたのだ。その事実だけは、エリシュカは一度たりとも疑ったことはない。
「──あの女は殺す。必ず、殺す」
憎悪に引き裂かれながら、エリシュカは床に突き刺さった短剣を引き抜く。
“御使い”の思考に引きずられているのか、この残虐な本心こそが自身の本性なのかは最早分からない。
ただ、荒みきった焦茶色の双眸は真っ直ぐに血濡れた未来を見据えていた。
「──早くいらっしゃい、リュミドラ。この城はお前の墓標にくれてやるから」
その呟きに応えるように、城の外では柔らかな花を蹴散らすように颶風が舞う。
徒と散る花弁が行き着いた空には未だ斜陽にはほど遠く、不吉なほどに鮮やかな日輪が輝いていた。




