第二十一話 血塗(けちず)の異客、春雷と共に来たりて
その日の夜も、ガラ=ルミナスの村の外れにある女子修道院では、日課である晩堂課が行われていた。
晩堂課は別名を就寝の祈りと言う。修道女たちは一日の終わりに聖堂に集い、今日という日を無事過ごせたことへの感謝を捧げ、全ての人々の眠りが死という呪いに脅かされぬよう祈りを捧げるのである。
聖堂は祈りを捧げるための場所であり、白薔薇や百合などの美しい生花で飾られた祭壇が置かれている。
今、その祭壇の前には五十がらみの女が立っていた。この女こそが修道女を纏める女傑であり、院長という肩書を持つ最も敬虔な信徒であった。
彼女は高位の修道女だけが着用を許された修道帽と黒衣を着用しており、聖書を片手に詩篇を諳んじている。
院長の背後の壁には生前数々の奇跡を起こし、殉教した聖人たちの肖像画が掲げられている。
修道女たちは院長と物言わぬ彼らに見守られる中で聖歌や祈祷文を口誦し、神に奉事するのだ。修道女にとっては最も重要な務めの一つである。
しかし、集まった修道女はみな一様に顔色が悪く、聖堂に響く声には誤魔化しようのない疲労の色が滲んでいた。村の支配者であるアルフレートの命令により、昼間は指輪の捜索に駆り出されていたためである。
奉仕と博愛を美徳とする彼女たちにとって、捜索自体は苦痛を伴うものではなかったものの、疲労は否応なしに肉体を苛む。長時間の労苦が徒労に終われば尚更のことであった。
「──神よ、我らをお守りください。神の御名によって」
修道院長が大きく十字を切る仕草をした後、応えるように修道女が小さく胸の前で同じ動作をする。一糸乱れぬ連帯感に満足したのか、院長は口角を少し上げたまま祭壇奥の扉から静かに退出した。
「修道女マリア、大丈夫ですか?」
最も年の若い修道女ベアトリスが、隣にいる年嵩の修道女にそっと声を掛ける。マリアは修道女の中でも一際老いた女で、曲がった背中が元に戻らなくなって久しい。
「大丈夫ですよ、修道女ベアトリス。……さぁ……お喋りをやめて、片付けをしてしまいましょうね」
晩堂課が恙無く終わった今、修道女同士の私語は固く禁じられている。その禁を破ってベアトリスがマリアに話しかけたのは、余りにも彼女の様子が哀れだったからだ。
「先にお休みください、修道女マリア。この場は私におまかせを。……皆様も、どうぞ明日に備えてくださいませ」
まぁ、と明るい声が聖堂に灯る。この時ばかりは誰も私語については警告せず、各々に就寝の挨拶をして部屋に戻っていく。その中には、マリアの献身に感謝と祝福を述べていく者も少なからずいた。
「お休みなさいませ、皆様がた」
ベアトリスはその全てに朗らかな笑顔で応え、送り出す。やがて一人になったベアトリスは、香炉や聖書を祭具室に戻し、蝋燭の灯りを一つ一つ消して回った。
最後の蝋燭の灯火を消そうとした瞬間、猛獣が吼え猛るような音が聖堂に轟き、ベアトリスは思わず肩を竦める。雷鳴だと気付いたのは、跳ねた心臓が少しばかり落ち着きを取り戻してからのことだ。
「いやだわ……また雨が降るのかしら」
昨日の雨の影響で地面はまだ少し泥濘んでおり、領主の命──指輪の捜索は相当難儀したというのに、雷雨はまた修道女たちに試練を与えるつもりらしい。困難も人助けと思えば立ち向かうのは吝かではないが、老いた修道女たちを思えば同情せずにはいられなかった。
ベアトリスが溜め息をついた途端、外から馬の嘶きが聞こえてきた。
馬は繊細な生き物だ。大方雷鳴に怯えて騒いでいるのだろうと思ったが、酷く興奮した嘶きは徐々に修道院へと近付いてきている。近くの厩舎から逃げ出してきたのか、それとも──
「訪問者かしら……?」
だが、今は辺境伯の命令で周辺では夜間の外出が禁止されていることをベアトリスは思い出す。
吸血鬼による拉致は各地で頻発していることから、例え異郷からの訪問者だとしても、他の街や村でも吸血鬼による被害が出ている以上、似たような状況のはずだ。
夜の危険を冒してでも外を徘徊しているとすれば、哨戒中の兵を除けば、夜盗や押し込みの類しかいない。
ベアトリスの顔から赤味が消え失せ、蒼白になる。その瞬間、聖堂に落雷と紛うような轟音が反響した。
「ひっ……!」
ベアトリスは思わず悲鳴をあげそうになり、慌てて口を塞ぐ。
ベアトリスの声が分厚い扉の向こうに聞こえたわけではないだろうが、続けて、二度、三度と扉が叩かれ、大扉は痛々しく軋んだ音を立てる。ノックというには余りにも乱暴で余裕がない。
ベアトリスはその場に立ち竦んでいたものの、しばらくしてある違和感に気付く。
無法者にしては扉を蹴破って中に押し入ってやろうという気配がない。寧ろ、扉を叩く音は回を経るごとに、まるで精根尽き果てたかのように小さく、弱くなっていったのだ。
──まさか……怪我人なの?
ベアトリスは急いで扉に駆け寄り、閂へと手を伸ばすが、逡巡したように指先を震わせた。
一連の行動は、もしかすると相手にとって全て計算尽くで、ベアトリスはまんまと誘い出されようとしているだけなのかもしれない。
もし、ならず者が雪崩込んだ時、ベアトリスだけで対処できるとは思えない。何も知らず、瑕疵も無い修道女たちを危険な目に巻き込むかもしれないのだ。
──いいえ……いいえ! 私たちは世俗を離れた時から正道に殉じる覚悟を決めたはず。
ベアトリスは覚悟を決めて閂を外し、ゆっくりと扉を開ける。
その刹那、空から眩い閃光が迸り、大地を貫きながら周囲を照らした。
冴えた光が照らし出したのは体長が六フィート──いや、それよりも頭一つ抜きん出た、巨大な男だった。年の頃はよく分からないが、がっちりと逞しい巨躯は夜盗というよりは鍛え抜かれた軍人に近い。
巨躯の男を前に、ベアトリスは一瞬たりとも警戒を解かなかった。何故なら、男はむせ返るほどの血のにおいを纏い、半身を赤黒く染めていたからだ。
男はベアトリスの姿を認めると、何も言わずに右手を伸ばす。
──殺される……!?
ベアトリスは身を硬くし、凶手から身を守るために咄嗟に腕を振り上げる。
しかし、無情にも男は闇と共にベアトリスに覆い被さってきた。




