第二話 婚礼前夜のふたりごと
月は善も悪も分け隔てなく、そして、ただあるがままに照らし出す。
クリステア王国の国境付近に鎮座する城は、名をヴィスコル城という。
白い煉瓦と赤い屋根の対比が美しい城だ。しかし、周囲にうず高く聳える城郭とそこに刻まれた古傷が、かつてこの地を襲った戦の烈しさを物語っている。
ここを居城としているのが王国有数の名門、カタルジュ辺境伯家である。武門の家系らしく剣術に秀でた者を多数輩出しており、歴代当主のみならず次男以下の庶子についても軍略に長けた戦略家が多い。
彼らは今まさに、春の嵐のような狂騒の中にあった。
■□■
『──花残月二十一日。晴れ。兄とオフェリアは朝からミラ=パドゥーレの街へお出かけになられた。大聖堂で明日の結婚式の最終確認と司教様へのご挨拶を兼ねる。オフェリアは見事な深紅のドレス。彼女には青が似合うと思っていたが、赤もよく似合っている』
エリシュカ・カタルジュはヴィスコル城の自室で、分厚い日記帳に今日の出来事を書き付けていた。
軽快に万年筆を走らせていたエリシュカであったが、不意に動きを止めて自分の纏うドレスをじっと見下ろした。
厚手の絹のドレスは、肩口が大きく膨らんだ流行のものだ。型が少々派手な分、色は薄茶色と茶色の縞模様で抑えめにして、上品さを引き立てる。
レースやリボンのような飾りは最低限まで削ぎ落とされており、その代わり縞模様に沿って小粒の金のビーズが贅沢に刺繍されている。
もちろん、ドレスに見劣りしないよう、エリシュカ自身の磨き上げも欠かしてはいない。焦茶色の髪は美しく結い上げられ、薔薇の髪飾りが大輪を咲かせている。その毛先は侍女たちが丁寧に一筋ずつ巻き髪にしてくれた。
しかし、そこまで着飾ってもエリシュカにはオフェリアほどの華やかさはない。結局のところ、見栄えとは着ている人間の美醜が物を言うのだ。
「……これでは宝の持ち腐れね」
エリシュカの場合は服ばかりではなく、自室にも華やかな雰囲気は乏しい。
日記や手紙を認める文机と椅子、衣装収納や寝台に至るまで、全て男性が好むような深い色合いの楢材で作られたものだ。
エリシュカは溜息を吐いたものの、気を取り直して万年筆を再び動かし始める。
『──午前中、披露宴会場の装飾に追われる。概ね問題なし。だが、飾り付けの白薔薇の量が少し物足りない気がした。庭師に相談済み。明日の早朝には白薔薇が新たに追加される見込み』
その後も、披露宴で出される食事の食材や食器の確認やら、使用人たちの特別手当についての文言やらがつらつらと並んだ。これらの擦り合わせが終わったのはつい先程のことである。
『明日は二時間ほど起床時間を早めることとする。……眠れるだろうか』
そこまで書き終えた時、控えめなノックの音がエリシュカの耳に届いた。
エリシュカが返事をすると、「お休みの所恐れ入ります。少々よろしいでしょうか」と、少し恐縮したような返事が返ってきた。
「大丈夫よ。入ってちょうだい」
「失礼致します」
部屋に入ってきたのはエリシュカの侍女を務めるネリーという女性だった。エリシュカよりも一回り近く年上だが、年齢差を感じさせない若々しさと凛々しさを兼ね備えている。
ネリーもエリシュカと共に朝からあちこちに駆けずり回ったはずだが、黒のお仕着せと白のエプロンには微かな乱れの一つもない。
「どうかしたの、ネリー?」
「旦那様が、少しお嬢様とお話がしたいとお見えになっておられます。お部屋にお通ししてもよろしいでしょうか?」
ネリーの言う旦那様というのはエリシュカの兄、アルフレート・カタルジュのことだ。
一年前、アルフレートは父の急死により大学を中退し、弱冠二十歳にして辺境伯の地位と唸るほどの財力、そして統べる者の責任を受け継ぎ、カタルジュ家の当主となった。
領地経営を学ぶ一方で軍人としても研鑽を積んだ兄を、エリシュカは心のそこから敬愛している。
エリシュカはネリーの言葉に目を輝かせ、立ち上がる。
アルフレートは明日の結婚式の準備に追われて休む間もないほど忙しいはずだ。兄妹水入らずで話す機会など失われたと思っていた矢先、思わぬ僥倖にエリシュカは珍しく少しはしゃいでいた。
「お通しして。私も兄様とお話ししたいと思っていたの」
ネリーはエリシュカの返答に微笑む。そして、既に部屋の外に控えていたアルフレートのために、恭しく扉を開けた。
入ってきたのは、よくも悪くも目立つ男だった。この国ではかなり珍しい白金色の長い髪と薄暮の湖面を思わせる碧眼を持つ美丈夫である。
本人の気質がそうさせるのか、アルフレートは夜も遅い時間だと言うのにきっちりと三つ揃いのスーツを着込んでいた。ジャケットだけはシルクの部屋着だったが、軍事貴族らしい冷徹そうな雰囲気は健在である。
だが、その見目のよさから未婚の令嬢の人気はアルフレートに集中していたそうで、此度の結婚を嘆く声も多いという噂だった。
「兄様! お忙しいのにわざわざ来て下さって、とても嬉しいわ」
エリシュカはアルフレートを抱き締め、アルフレートもそれに応えた。
家族の抱擁はごく短い時間だったが、その間に侍女は気を利かせてそっと部屋を出ていったようだった。
その気遣いにエリシュカは心の中でネリーに感謝を告げる。そして、アルフレートに椅子に座るように勧め、自身は寝台に腰を下ろした。
「今日は結婚式の最終確認で、オフェリアと一緒に街の大聖堂に向かわれたのよね? どうだった?」
「あぁ、何とかつつがなく終わった。だが、まだ明日が結婚式だという実感がわかない。何だか、自分に都合の良い夢を見ている気分だ。それなら永遠に覚めないでほしいものだが」
アルフレートが真実困ったように言うので、エリシュカは思わずくすりと笑った。
「オフェリアのウェディングドレスは? もうご覧になった?」
「刺繍もレースもとても美しかった。可憐なオフェリアによく似合う」
「まぁ。明日、オフェリアが着ているのを見るのが楽しみね」
そう言うと、エリシュカは改めて居住まいを正し、アルフレートをじっと見つめる。
「兄様……ご結婚、おめでとうございます。心からお慶び申し上げます」
アルフレートの頬にじんわりと血の気が差す。それから、幸せを噛みしめるように微笑んだ。
「……ありがとう。エリシュカにそう言って貰えて嬉しいよ」
「父様にも兄様のご立派な姿を見て頂きたかったわ……病でお倒れにならなければ、今頃──」
「早いものだ……父上の喪に服してもう一年が経つのか。……こんなにも早くオフェリアとの結婚に至るとは思わなかったが」
エリシュカは呆れたように片眉を上げた。
「何を仰るかと思えば。寧ろ父様がご健在だったなら、喪に服して一年間挙式を遠慮なさることもなかったのだし、お二人はもっと早くにご夫婦になられていたと思うけれど?」
アルフレートは照れながら、参ったな、と声を絞り出した。
「……いつから気付いていたんだ? 私がオフェリアに惹かれていたことを」
九年前からよ、とエリシュカは微かな痛みと共にその年月の重さを口にする。
「……九年前、母様とサシャが亡くなった頃から──」




