第十八話 悖徳没倫の託宣
この国では、基本的に爵位を継承できるのは男性、それも嫡男のみである。女は例え長子であっても特例の免許状がなければ爵位の継承権は与えられない。
男と同等の教育を受ける機会も、『女は家門同士の繋がりを強め、跡継ぎを生みさえすればよい』という考え方のせいで、エリシュカにはついぞ訪れなかった。
そのため、エリシュカは領地経営については素人同然であり、兵士たちを指揮する才覚もない。
そして、辺境伯家にはアルフレートの代わりに陣頭指揮を取れる男子もいないのだ。これではアルフレートに休むように勧めたところで、休めるはずがない。
「……せめて私が男だったなら、兄様を支えてあげられたのに」
次男以下の男児は爵位の継承権こそなかったが、政界や法曹界、軍人などを目指すために高等教育を受ける機会が与えられている。
もし、エリシュカが男として生まれていれば、寄宿学校や大学で培った教養を活かしてアルフレートの仕事を補佐し、負担を分かち合うことだって出来たはずだ。
だが、現実は非情だ。エリシュカが出来ることと言えば、家内の細々としたことに口出しをすることだけ──この有様で、果たして支え合う家族と呼べるだろうか?
悶々と考え込むエリシュカにセザールは柔らかく微笑む。
「……やはり、お嬢様は物事を難しく考えすぎていらっしゃるようですね」
「そんなことは──いえ、貴方の目にはそう見えているのよね」
エリシュカは思わずついて出そうになった反論を慌てて飲み込む。
セザールは兄とは少し毛色の違う、余裕のある大人らしい表情のまま言葉を続けた。
「旦那様には旦那様のお役目がお有りで、お嬢様にはお嬢様のお役目がお有りだ、というだけです。本来、そこに優劣や尊卑はございません」
多寡があるとすれば、それは責任の重さだけだ、とセザールは断言する。
「お嬢様は既に与えられたお役目をご立派に果たしておいでです」
「…………そうかしら?」
「ええ。大奥様も奥様もおられないカタルジュ家において、家内の差配はお嬢様にしか出来ないことです。それを、立派にこなしていらっしゃる」
例えば、とセザールは少しだけ考えるような素振りを見せる。
「アルフレート様の婚儀の差配は細やかで気配りが行き届いておりました。主役のお二人はもちろん、招待客にも楽しんで頂けるよう心を砕いておられたでしょう」
ネリーは口を挟まずに何度も頷いていたが、エリシュカは思ってもいない声を掛けられ、気恥ずかしさから目元を赤く染めた。
「ここだけの話、旦那様は規律でがちがちに固めて兵を動かすのは得意ですが、客人の心を緩める気遣いなどは少々苦手のようです。エリシュカ様の辣腕には一歩及びません」
「そ、そんな……兄様は軍人だからそれは仕方のないことだわ」
セザールは、エリシュカの答えを聞いて、ふっと破顔してみせた。
「エリシュカ様は、旦那様が完璧でなくとも決して責めたりはなさらないのですね。それなのに、何故そのようにご自分のことを責めていらっしゃるのですか?」
エリシュカは、はっとしてセザールを見つめる。
「わ、私……は……」
エリシュカは、完璧でない自分を許せない──存在価値がないとすら思っていた。
しかし、過ぎた卑下はいっそ傲慢なのではないだろうか。
少なくとも、セザールはそんなエリシュカの心の有り様を優しく諭して、歪んだ自尊心を真っ直ぐにしてくれようとしている。
「……お嬢様は旦那様を支えようと努力なさっていると思いますよ。例えご家族という間柄であってもなかなか出来ることではございません。……女性だからよくない、男性であればよかったなどと、ご自分を恥じる必要がどこにお有りですか?」
エリシュカは変わらずともよいのだ──そう言ってもらえたのだと、エリシュカは数瞬の戸惑いの後に理解した。思いもかけなかった慰めに、エリシュカは感謝の言葉を述べようと口を開く。
だが──
「──っ!」
刹那、エリシュカのこめかみに鋭い激痛が走った。一過性のそれにしては過ぎた疼きに、エリシュカは堪らず頭を押さえる。
覚束ない足取りでよろけた華奢な身体は、セザールが慌てて支えて何とか事なきを得る。
「お嬢様?!」
「いかがなさいました?!」
何でもいいので返事をして二人を安心させたいのに、エリシュカの口から零れ出るのは意味のない苦痛の呻き声だけだ。
きつく瞼を閉じ、ひたすら痛みの波が引くのを待つが、願いとは裏腹に痛みは更に激しくなっていく。じわじわと嫌な汗も浮かび始めた。
もはや、時間の感覚さえ曖昧になりつつある。断続的な苦痛が永遠に続くのではないかという焦燥が、エリシュカの正気を埒外に追いやっていく。
もう耐えられない、とエリシュカが意識を手放しかけた瞬間、頭の中に厳かな声が響いた。
──望め。さすれば汝の運命は開かれる。
声は男のようにも、女のようにも聞こえた。同時に、嗄れているようでもあり、艶のある笑声のようでもある。
今、エリシュカが望むのは力などではなく、この苦痛からの解放しかありえない。だが、声の主はエリシュカの事情など黙殺して更に言葉を紡ぐ。
──斗え。命を賭せ。さすれば汝に力を与えよう。
「うぅっ……!」
そんなものは要らない、と叫ぶ事さえ出来ず、エリシュカは苦痛に身を捩る。セザールの手を無理矢理振り解くと、エリシュカは虚空を睨んだ。
声の主の姿は、どれだけ目を凝らしてもエリシュカには見えない。だが、甘言を弄し人を唆すのは古来より魔の仕業だと言われている。
エリシュカの何が魔のものに魅入られたのかは分からないが、決して頷いてはならないとエリシュカは最早確信していた。
「……負け……ない」
エリシュカは辛うじて自分を奮い立たせ、息も絶え絶えに答えた。
斗えというのならば、エリシュカは自分を唆す甘言に抗い、退けることに命を賭すことを選ぶ。
姿すら見せない卑怯者に迎合はしない。それがエリシュカの選択である。
エリシュカの怒りと決意を知ってか知らずか、声は楽しそうに告げる。
──全てを奪え。汝にはその資格がある。
対話ですらない一方的な宣言を最後に、エリシュカをあれほど苦しめていた頭痛は嘘のように引いていく。
その真意を問うだけの気力さえも尽きたエリシュカは、そのまま床に頽れたのだった。




