第十話 つい、うっかり
「…………もう、やめて!」
エリシュカは叫ぶ。腹の底から声を出したのは子供の時以来だ。慣れぬことをしたせいか、少し頭がふらふらした。
アルフレートがはっとしたようにエリシュカを見る。この時ばかりは怒りを忘れたようで、妹を気に掛ける目には慈愛の色が僅かに戻っていた。
エドワードと夫人も、ようやくその存在を思い出したというようにエリシュカを見る。
「これ以上オフェリアを──オフェリアの葬儀を、汚さないでください。……私はラザレスク子爵様の妄言を聞きに来たわけではありません。親友の死を悼みに来たのです」
子爵は鼻白んだように眉間に皺を寄せた。微かに震えながら立ち向かうエリシュカを、侮蔑も露わに睥睨する。
「アレは私の娘だ。どう扱おうが私の勝手だ。小娘ごときが私に意見するなど──辺境伯は女に分別を教えていないと見える」
「分別──なるほど、分別か。無分別に他者に噛み付く狂犬に、分別の何たるかを説かれるとは思わなかったな」
狂犬に喩えられた子爵は、一瞬歯を剥き出しにする。しかし、ここで怒鳴ればアルフレートの思う壺だと気付いたのか、舌打ちするに留めた。
「無礼者に対しては相応の態度を示すというのが私の流儀なのですよ。放置してしまえば、恥をかくのは本人だ。どうやら辺境伯閣下は優しさと甘さを履き違えておいでのようで」
子爵は何かに気付いたようにせせら笑う。
「……はは、そうか。そんな体たらくだからこそ、女に逃げられたのでしたな! 失敬、失敬!」
「貴様……またオフェリアを侮辱するのか」
エリシュカは軽く腕を上げてアルフレートを制止し、ヴェール越しに子爵を睨み返した。
「私が分別のない小娘であることは否定いたしません」
小馬鹿にしたように鼻を鳴らした子爵が再び口を開くが、それよりも早くエリシュカは言葉の続きを紡ぐ。
「生憎と、礼儀や身の程を弁えていないものですから──つい、うっかりこの葬儀の参列者にラザレスク子爵様の暴言を全てお話ししてしまうかもしれませんね?」
その場にいた全員がぎょっとした目でエリシュカを見る。
特に子爵は怒りのあまりがちがちと歯を打ち鳴らした。その顔は毒でも煽ったかのように、みるみる赤黒く染まっていく。
「この小娘……私を脅迫するつもりか?! か、官憲の前でよくもそんな真似を……」
あら、とエリシュカはわざと可愛らしく言って、エドワードの顔色を窺うように覗き込む。
「そんな、脅迫だなんて。そのようなつもりはなかったのですけれど。……警部補さん、私の"うっかり"は何の罪になるのでしょうか?」
まるで無垢な少女のような問いに、数瞬遅れて返ってきたのは失笑混じりの咳払いである。
エドワードは咄嗟に口元を覆い、持ち前の切り替えの速さで表情を切り替えたものの、その両耳はほんのりと赤く染まっている。
「まさか、とんでもない! "子爵の地位から引きずり下ろしてやる"とでも仰ったならともかく、お嬢様はうっかりしただけですから。罪に問われることはありません。どうぞご安心ください」
「な……なに、何を……!」
子爵は若輩と侮っていたエリシュカとエドワードにやり込められて、最早罵倒の言葉すら空回っている様子だ。
「それとも……暴露されたら子爵の立場がなくなるようなことを"ついうっかり"言ってしまった自覚がお有りなのでしょうか?」
「な……何だその言い草は! こ、この小娘の粗忽が許されるのであれば、私の言ったことも咎められぬだろう!」
しかし、と言葉を継いだのはアルフレートである。
「うっかりでは済ませられないこともこの世にはあると、貴方は知るべきだ。ラザレスク卿は現場を保存するどころか指輪を探すために荒らし、挙句、指輪消失の情報を故意に握り潰した──その事実を、先ほど貴方は皆の前で認めたはずだな?」
アルフレートが子爵の前に進み出ると、子爵は明らかに青ざめ、視線が定まらなくなり始めた。
一度覆されてしまった優位性はどう足掻いても取り返せないと分かったのだろう。
「わっ、私はそんなことは知らん! 貴様らの聞き間違いだろうが!」
子爵は踵を返して祭具室の出入り口に向かおうとするが、エドワードはその前に慌てて立ち塞がった。
「どちらへ? 貴方には現在、証拠隠滅罪の容疑が掛かっています。官憲局にてお話を伺いたいのですが」
「知らん、知らん! 私は葬儀に戻る! どけ!」
子爵はエドワードを押し退けて逃走を図るが、エドワードはすかさずその腕を取る。そのまま背中に回し、固定したまま床に押し倒した。
倒れた際、顎を強打した子爵は、目をちかちかと瞬かせながら無様に藻掻く。
だが、エドワードが子爵に手心を加えることは無かった。
「……官憲を振り切ろうとしたため、逃走の意思ありとみなします。──公務執行妨害の現行犯で逮捕する」
「なっ……! お、おい、お前……! 黙って見ていないで何とかしろ……!」
子爵は助けを求めるように夫人を見上げる。そこには最早傲慢な主人の面影はない。
女は愚かだと語ったその口で女の助力を乞う、ただの見下げ果てた男でしかなかった。
夫人は既に夫のことなど見てはいなかった。瞑目し、大きな溜め息を捨て台詞と共に吐き出したのである。
「……これ以上醜態を晒さないでちょうだい。本当に見苦しい男」
この言葉に、子爵は抵抗の意志が挫けたようで、床に突っ伏す。ぶつぶつと何かを呟いているが、エリシュカにはおよそ意味のある言葉には聞こえなかった。
いかに厚顔無恥な子爵と言えど、この様子では立ち直るのに暫く掛かるだろう。
だが、エリシュカに胸がすくような爽快感はなく、哀切に身を切られるような痛みだけが残っている。
オフェリアへの手向けというにはあまりにも歪な、苦い終焉である。
しかし、それでもエリシュカは詰めていた息を、胸のつかえと共に漸く吐き出すことが出来たのだった。




