第一話 嘆きの園、通い路に蛇
──これは好色の魔女と蔑まれ、愛に狂った女の物語である。
闇に鎖された歴史の涯に沈むとも知らず、無垢な欲望のままに愛を乞い続けた、哀れで愚かな女であった。
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黒い天鵞絨を敷き詰めた夜空に、真白い月が咲いていた。一分の欠けもない円の輪郭をなぞるように、月暈が皓々と輝いている。
その光輝に誘われたように、柔らかな風が吹き始めた。微風は森の木々の間を軽やかにすり抜け、肌地にぽつんと建つ古ぼけた小さな城館を優しく慰撫した。
その主塔の一角、瀟洒な調度品に囲まれた部屋に、女は幽鬼のように立ち尽くしている。
暗い室内には蝋燭の灯火一つ見当たらず、彼女以外の全てが闇の中で深く微睡んでいた。
女は淑女のように厳かな足取りで、静かに窓辺へと向かう。かそけく聞こえるのは張りのある衣擦れの音だ。
女は絹平織をふんだんに使った深紅のドレスを身に纏っており、胸から腰にかけてあしらわれた大柄な薔薇の刺繍が、月光を受けて特に美しく煌めいている。
女は己と夜を隔てる冷たい硝子に触れながら闇の彼方を見つめる。しかし、不意に彼女は肩を震わせる。両手で顔を覆い、さめざめとすすり泣き始めた。
「……何故、あなたともっと早く出会えなかったのかしら。私たちは結ばれるべき運命だったのに」
女は小さな唇を震わせる。美しい娘の独白は吐息の余韻すら残さず、虚空に飲み込まれていった。
「──何故、今私の隣にあなたがいないのかしら。あなたがそばにいてくれるなら全部、全部……何も要らないのに」
──そう。流行の先端を行く衣装も、華美を競うための装飾品も、媚び諂うしか能のない、くだらない男たちも。
その全てを掻き集めた所であの方には遠く及ばないだろう。あの方の隣に並び立ちたいと願えども、その手が彼に届くことはないのだ。
──この、私自身でさえも。
その事実が女の頬を更に濡らす。降る雫が床に小さな黒い染みを作った。
「──でも、辛いことばかりではなかったわ。あなたに出会って私は初めて恋を知れたの」
彼女はわずかに声を弾ませた。軽やかだが歪な明るさを皮切りに、女の雰囲気がゆるゆると変わり始める。
「あなたを想う痛みや苦しみが胎を焼くのよ。まるで終わりのない拷問のよう」
でも、と女は言葉は継ぐ。
「胸の奥の一番深い場所が、洋琴のようにあたたかい音色を何度も奏でるの。甘く、切なく──はしたなく」
女は、大きく襟ぐりの開いた胸に細くしなやかな手を添える。
彼女はもう、泣いてなどいなかった。頬が紅潮し、言葉の端々には興奮と恍惚が滲み始めている。
「──私、やっぱりあなたが欲しいわ」
女の紫色の瞳が、虚空のその先を見定めるように細まる。赤い舌が妖艶に歪む唇を舐め、しっとりとした艶と湿り気を帯びた。
不埒な願いを聞き届けたかのように、部屋の隅で闇が蠢いた。
それは鎌首を擡げるように大きく揺れた後、ぐずぐずと輪郭を溶かしながら、徐々に人の形を取り始めた。
「あぁ……堪らないな。こんなに月が輝く夜に、そんな風に濡れた声で囀るなんて」
若い男の声だった。闇の中で肩を震わせ、鬱々と笑う声には薄ら寒い悦びを確かに帯びている。
質の良い革靴が床を踏み締める音が規則正しく鳴り、やがて赤銅色の髪と目を持つ、美しい男が姿を現した。
男の外見は、若さにほんのりと貫禄が乗り始める年の頃に見えた。しかし、目の前の女を見つめる男の目にはどこかあどけない甘さがたっぷりと含まれている。
身に着けているものは全て上質だ。しかし年季の入った大きな襟の膝丈の上着だけが、この男にそぐわない。
「ままならぬお身体は、この私がお慰め致しましょう」
美丈夫は女を後ろから優しく抱き締める。その腕に女は優しく自身の手を重ねた。
男は自分を受け入れた女の耳元に唇を寄せ、甘く囁く。
「愛しいひと。貴女が欲しいと言うのなら、何であれその手にもぎ取っておしまいなさい。誰も貴女を咎め立ては致しません。神ですら貴女の美しさにひれ伏しましょう」
男からもたされたのは賢しい蛇を思わせる危うい甘言だったが、女はその答えに満足し、蠱惑的な笑みを浮かべた。
「貴女は誰よりも幸福であるべきなのです。たとえ何を犠牲にしたとしても──」
そう告げた男の口元には、毒牙のように鋭い歯がぎらついていた。




