#2「英雄との修行」
目覚めてから5分程経ったときの事。ゆっくりと扉が開く音が聞こえた。それと同時に誰かが入ってくる足音が近づき、スポーツドリンクの入ったペットボトルと濡れたタオルを両手に持つ謎の男性が視界に現れた。
「――ようやくお目覚めか、坊や」
「……!?」
見知らぬ空間。聞いたことのない声。背中から感じるベッドの確かな心地よさ。眼前に見えたのは、灰色のスーツに身を包むただの30代のサラリーマン。だが、明らかに普通のサラリーマンとは違う要素を持った、不思議な人だった。
「え、えっと……」
此処は何処か。自分はどれほど眠っていたのか。貴方は何者なのか。このシチュエーションにおいてはテンプレともいえる単純明快な質問よりも先に脳を過ったのは、目の前にいる男を目にした途端に感じた唯一つの本心。
――この人、只者ではない。
「初めまして、だな。俺は紅零。ただの営業で働いてるサラリーマンだから安心しろ。別にお前さんに何か危害を加える気はねぇよ」
そう言いながら僕にスポーツドリンクとタオルを差し出す。「ありがとうございます」と小さく呟きながら僕はそれらを受け取り、寝起きの頭をフル回転させて現状把握に勤しむ。
「えっと……零、さん。僕は一体……それにここは……」
「建物やら何やら燃え広がってるとこで道路のど真ん中に倒れてたらそりゃほっとけねぇだろ。だから俺の家まで拾ってやったんだ。運が良かったな。お前は助かったんだぜ? 恐らく唯一の生存者だぜ?」
「……そう、ですか」
僕は助かった。零さんが助けてくれた。心の底から感謝している。そのはずなのに、心を曇天が覆いつくす。素直に感謝が言えない。そういう時は大体、彩芽が攫われた日にこの心に何かを残してしまっている時だ。
「……浮かねぇ顔だな」
「実は、もう一人いたんです。生存者になるはずだった、僕の大事な人が。だけど、見知らぬ軍の人間に攫われてしまったんです。僕一人じゃ、止められなかったっ……僕のっ……力不足でっ……彩芽はぁっ……!!」
口にする度に目頭に熱がこもる。無意識に雫が頬を伝う。そんな僕のがら空きの背中を、強く叩く音と衝撃が響いた。
「……大馬鹿野郎っ! お前さんは精一杯出来る事をした! その大事な人を助けるために剣を握り、お前は限界まで戦ったんだぞ! そこまでして敵わなかったらもうしょうがねぇんだよ! あんまりそうやって自分を卑下すんじゃねぇぞ」
そう慰めながら零さんが右手から取り出したのは、あの時僕が使っていた刀身を失った剣の亡骸であった。
(あれは……後で返すって言って勝手に借りちゃった剣だ……もう、こんな状態じゃ返す方が失礼だよね……あぁ、ダメだな。僕は本当に……)
罪悪感と共にあの日の出来事が脳に帰ってくる。追い払おうと頭を左右に振る僕に、零さんは唐突に言い放つ。
「――しょうがねぇ、お前を強くしてやる。お前さんがその大事な人を今度こそ救えるように、な。それにこんなとこでせっかく見つけた『後継者』の英雄譚を終わらせるわけにはいかねぇしな」
「強く……? 僕が……?」
「お前さん以外に誰がいるんだよ。いいからとりあえず外行くぞ!」
「あ、ちょっ……零さんっ!」
颯爽と部屋を後にする零さんに声をかけながら、僕は袖で涙を拭ってすぐに部屋を後にした。
◇
「こ、ここは……」
何とか零さんの背に追い付き、家の扉が開かれた先に写るは破壊しつくされた街跡。家から出ただけなのに、無数のビルは倒壊し、地面はクレーターのため池で出来ていた。
「心配すんな、こいつぁ現実じゃねぇ。いつも俺が修行する時に使ってる幻想世界だ。簡単に言えば結界術のようなもんだ。この時のために急いで用意したから本来のやつほど脆いけどな。それでもお前さんがどんだけ暴れても壊れる事はねぇよ。お前さんを立派なヒーローにするにはうってつけの場所だろ?」
「で、でも……武器も無いのにどうやって……」
「んなの素手でやるに決まってんだろ。まずは武器や魔術に依存してるその臆病な肉体を根底から鍛え上げてやる! さぁかかってこい!」
「か、かかってこいって……言われても」
さっきまでのサラリーマンの雰囲気は、もう零さんからは消えていた。腰を落とし、左手は拳を作っては腕を後ろに引き、右手は正面に伸ばして構える。まるで武術を長く嗜んでいるかのようだ。いや、実際に嗜んでいるだろう。それが武術とは限らないだけで。
「っ……」
何にしろ、零さんは強い。少なくともあの兵士二人なんて簡単に蹴散らせちゃう程には。
「ふぅ……ビビるな。怖気づくな。お姉ちゃんを救うために……強く、なるんだろ」
震える足に両手で一発活を入れ、震えを止める。深呼吸を挟み、零さんに倣ってそれっぽい構えをとる。
「はぁあああああ!!!」
遅くも速くも無いスピードで迫り、渾身の一撃を零さんの顔面に放つ。避けると思っていたが、何と見事に命中してしまった。右拳が確かに零さんの左頬を殴っていた。
……が。
「びくりともしない……!?」
「ザ・一般人の殴りって感じだな。腕の力しか感じなかったぜ。いいか、本当のパンチってのは……」
「っ……!」
刹那、僕の顔面目掛けて零さんの左拳が迫る。しかし当たっていない。僕の目に当たるギリギリのところで止まっていた。
「……こうするんだぜ」
零さんが意味深に笑うと、突如顔面に痛烈な一撃が襲い掛かった。身体が激しく吹き飛び、勢いよく荒れ果てた地面に転がる。
「ぐっ……うっ……!」
(嘘でしょ。当たってないのに、一拍遅れたタイミングで攻撃をもろに喰らった……何だあのサラリーマン……!)
「どうした、もうダウンか?」
「っ……終わってたまるか!」
鼻血を出しながらも、僕は何とか立ち上がり、いつの間にか目の前にいる零さんを睨む。歯を食いしばりながらも再び殴りかかる。今度は蹴りも交えるも、その全てが難なく避けられる。
「くっ……このっ!」
「そんな怠けた攻撃じゃ誰でも避けれちまうぜ?」
「ちぃっ……!」
避けられるどころか、殴る腕を掴まれては引き寄せられ、反撃の左ストレートが顎に入る。一瞬で視界が上を向き、食いしばる歯が痛みでじんじんと歯茎に響く。
「おっと、感情のままに己を振るうんじゃねぇ。それは戦士にとっての……最大の命取りだぜ!」
いよいよ零さんが左手で僕の右手首を掴むと、勢いよく捻り、ゴキッという嫌な音が鳴り響く。同時に凄まじい痛みが僕を苦しめる。
「がっ……!」
駄目だ。太刀打ちできない。これじゃ修行にならない。何よりこの身体が限界を迎えて……いつしか僕も、死――
(――ごめん、彩芽……こんな弱い僕で、ほんとに……)
「俺の許可なく折れてんじゃねえええええっ!!!」
「ごふっ……!?」
全てを投げ捨てようとした僕の腹に痛烈な一撃が襲った。霞んでいく視界からでも分かる。零さんは今、本気で怒っている。
「耐えろ! 戦え! 腕一本使えなくなった程度で諦めるようじゃ誰かを守る資格はねぇ!!」
「ぐっ……!」
口から血を吐き出す。何本か骨が折れる感触がした。もう痛すぎて身体が言う事を聞かない。苦しい、痛いとしか言ってくれない。
「生きてる限り、全てを出し尽くせ! それが戦うと誓った者の運命だ! これきしの怪我で全部を放棄する程度の覚悟で大事な人を守る? 救うために戦う? 甘ったれんな! んな妄想はさっさと捨てやがれ! ヒーロー舐めてんじゃねぇぞクソガキっ!!」
「がはっ……!」
炎を纏った零さんの拳から繰り出すラッシュが僕の全身に繰り出される。これまで零さんが培ってきたヒーローに対する執念が、誇りがそのまま拳に籠められているかのように、僕の身もその炎に引火し、包まれていく。
「ヒーローに限らねぇ。警察や消防、医者も……何ならこの世界で真っ当に生きてる奴全員、何かしらの夢や目標、己の信念を持って血と汗流しながら毎日必死に生きてんだ!
皆生半可な思いでやってんじゃねぇんだよ! 就いてる職なんか関係ねぇ!! たとえ辛くても、この身が果てようと、誰かのために……今を生きる人々のために最後の最期まで命張って戦ってんだよ!
一度誰かを救うと誓ったんならっ! 大事な人を救いたいと思った以上は死ぬ気で戦え! たとえその敵が親友や恩人、家族や恋人であろうと! もう無理だと全人類が悟ろうと!」
殴られ続け、抵抗も出来ずに、ただ痛みと火傷に全身を預ける。心身ともにボロボロの僕に、零さんの喝が染みていく。痛い。凄まじく痛い。
……でも、僕の背中を押してくれる気がした。
「いいか! お前さんが抱えている辛い記憶を植えつけられた現実を捻じ曲げるのが、お前の生き様だっ!!
死にたくなきゃ、大事な人を殺されたくなきゃ、命懸けでその義務を全うしろ!! それがヒーローのっ……戦う男の宿命だっ!!」
「っ――!」
――これまでで一番痛い、零さんの殴打。その拳から僕の心に、確かな火が灯った気がした。そしてその灯火が、僕の身体に感覚を目覚めさせる。
「……」
右眼が熱い。視界が半分赤い。右頬に涙とは違う何かが伝う。同時に身体が僕を動かそうとする。目の前の相手を倒せと脳が命令する。
「はあああああああ!!」
叫びながら再度右拳で零さんの顔面に一撃をぶつける。瞬間、蒼白い閃光が激しく散る。さっきまで殴られてびくりともしなかった零さんが、今回は大きく吹き飛んでいく。
「はぁ……はぁ……死ぬ気で戦え、ですか。そんなの真っ平御免ですね。死んだらそれこそ運命は終わって元も子もないじゃないですか。だから僕は生きるために戦う。彩芽を救うその時まで……最後まで生き抜く気で戦うっ!」
「ぐっ……へっ、ようやく目覚めたか。こうなりゃ俺も少しは本気を出せるな! 見てろよ……ブラックホールが吹き荒れる瞬間をな!!」
零さんが右ポケットから謎のレンズを正面に翳した途端、突如蒼い光に包まれては赤と銀のヒーロースーツが露わとなる。
「とくと見やがれ、未来の後継者! 俺の名はアルティメット・ゼロヴィオン! お前さんを導く、英雄の真の姿だ!」