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夜桜お蝶 艶劇乱舞「怪」  作者: 秋月瑛
偽りの春
9/14

偽りの春 八之幕

 夜も更け、人々が夢のうつつを彷徨う丑三つ時――。

 しんと静まり返った代官屋敷、その奥まった一間に、ぬらりぬらりと不穏な空気が漂いはじめた。


 障子越しに揺れる燈籠の影が、まるで蛇のように襖を這い、寝所をなぶる。

 ふと、代官は眠りを妨げられたように身を起こし、渇いた喉を押さえながら襖へと手を伸ばした。


「……なんじゃ、妙に肌寒いのう……」


 襖を滑らせる音が、異様に響いた。


 敷かれた布団の傍らに、女がひとり、背を向けて座している。

 髪は黒々と長く、白無垢のような衣に包まれた女の肩が、小さく震えているのが見えた。


「……何者じゃ? 夜更けに無断で忍び込むとは……」


 声を荒げた代官に、女はその場でじっと背を向けたまま、声を落として応じた。


「……わたくしのことを……お忘れでございますか」


 女の声はどこかくぐもり、まるで地の底から這い出るような響きがあった。


 ぞくり、と背筋に走る寒気。


 次の瞬間、女はゆらりと立ち上がり、白衣の裾を揺らして、勢いよく振り返った――。


 現れたその顔は、明らかに異形。


 ひと目でわかる、それはヒトではない。


 女の顔にあったのは、朱と墨で塗られた《般若》の面。

 その両の角は天を突き、目は爛々と憤怒に燃え、口元は裂けるようにして嗤っていた。


「う、うぬッ……誰の悪戯じゃあっ!」


 恐怖に声を震わせつつも、代官は己が権威を奮うかのように女に飛びかかり、がしりと手でその面を引き剥がした。


 面の下から現れた顔――それを見た瞬間、代官はカッ開いた眼を剥いた。


 数日も前に抱いた女ならば忘れていたかもしれない。

 けれど、この顔は忘れるはずもない。


 ――お千代だった。


 そんな筈はない。


 あの夜、血を吸い尽くし、事切れた躰を桜の根元に埋めた。

 あの娘が今ここに、生きたまま……いや、亡者となって立っている。


「お……おかしい……確かに、儂が殺した……!」


「では、今ここに立つわたくしは、何者でございましょう」


 にぃ……とお千代は嗤い、首を傾ける。


「幻じゃ……幻影に違いないッ……ッ!」


「なぜ、そう思うのです? ……桜の根元に、深く深く埋めたあの夜……」


「う、うるさいッ! 黙れェッ!」


「――わたくしは、見ておりましたよ。血に吸われ、命を弄ばれ、声も上げられずに消えた女たちの、魂の声を……」


 お千代だけではない。

 これまで多くの女たちが、暗い地面の底に葬られたのだ。


 お千代は嗤った。


 その声が、ひとつ、またひとつと重なりはじめた。


 どこからともなく女の呻き、すすり泣き、怨嗟の声が、闇の中から這い寄ってくる。


 嗤う影は代官から般若面を奪い取り、くるりと踵を返し、畳の上を滑るように走り出していた。


「あ、あれは幻だ、夢だ、悪い夢に違いないッ!」


 半狂乱になった代官は、部屋の隅にあった太刀を手に取り、襖を乱暴に開けた。


 お千代は何処へ消えた?


「待てェッ、化け物ッ!」


 縁側へ出た代官の目に映ったのは、月明かりの下、庭にぽつりと立つ女の影。


 影は静かに口を開いた。


「わたしを殺した怨み……そして、あなたに命を奪われた、数多の女たちの恨み……いまこそ、その身に刻みなされ……」


「――黙れ黙れ黙れぇいッ!!」


 狂気を孕んだ女たちの嗤い声が、嵐となって吹き荒む。


 代官は風となって見えない怨念を振り払うように、何度も何度も腕を大きく振った。


「皆の者ッ、出合えい、曲者じゃッ! 者共、すぐに参れッ!」


 その声に応じて、奥の部屋や廊下から、武士らしき者たちがどやどやと現れる。

 ひとり、またひとり……叫びながら武士が駆けつけ、灯りが次々と点けられていく。


 だが――その灯りのひとつが、お千代の影を照らし出した瞬間。


 その場の空気は、突如として氷のように冷えた。


 月下に立つ“それ”は、果たして人か、鬼か。


「やれるものなら、やってみなせぇ」


 しんと静まり返る夜の庭先、月光を背に立つ女の影が、堂々たる気配で声を発した。


 その声音は、凛と澄みわたるも、どこか底冷えのするような響きを孕んでおり、聞く者の背筋にひやりと一筋の冷気を這わせた。


 女は、ゆらりと手を上げると、顔にかけた《般若》の面にすっと指をかけた。


 次の瞬間、面は空へと高く放られ、夜空に放たれた彗星のようにくるりと旋回して落ちていく。


 その下に――お千代の姿は、もはや無かった。


「魅せやす、殺りやす、咲かせやす。この世には、悪の蔓延る処なし。今宵も華を咲かせやしょう」


 その声は花の香にまみれるがごとく、艶やかにして凄烈。


 見事な桜柄の振袖に身を包み、紅を引いた妖艶な口元に、魔を誘うような笑みを浮かべる、ひとりの花魁。


「夜桜お蝶――毒を持って毒を制しに、参上つかまつりやした」


 夜桜お蝶。

 ――艶劇乱舞。


 その威勢は夜の静寂を破り、武士たちはどよめいた。



「曲者じゃ、斬り捨てい!」


 代官の怒声が響くと、十人余りの武士たちが一斉に抜刀し、お蝶を取り囲んだ。


 鋼の煌めきが月を裂き、火花のように光を放つ。


 だが、その光に怯む様子など、お蝶の面には微塵もなかった。


「咲かせやしょう、血の華を……今宵限りの地獄の宴にて」


 にんまりと笑ったその瞬間、夜の闇を裂いて、細き光が奔った。

 糸――否、鋼のように研ぎ澄まされた妖糸が、宙を駆ける。


 闇の中で細い細い輝線が宙を翔ける。


 呻き声があがったのが早いのか、それとも刎ねられたのが早いのか。生首が次々と宙を舞った。


 黒土に鮮血が染み入る。


 流された女郎たちの血に比べれば、穢れ、対価にもならない。

 復讐を晴らすには、まだ血が足らない。

 なによりも、代官が血に沈まなければ、女たちは浮かばれぬ。


 お蝶の技が冴える。


 呻き声や悶え声が闇の中で次々と木霊する。


「ぐ、ああっ……!」


 呻きとともに、ひとつ、またひとつ、生首が宙を舞った。

 頚椎ごと断たれた首は、桜の木の下へ転がり落ち、黒土を濡らす。


 武士たちは怯んだ。


「あ、あれは――何者じゃ……!」


「見えぬ……見えぬ……化け物かッ!」


 次々と倒れる仲間たちに、武士たちは戦慄した。


 その技は速く、しかも見えぬ。

 誰一人として、お蝶の手の動きを捉えられぬまま、命を落としてゆく。


「毒には毒……外道には地獄で報いを……それがわたしの矜持にござんす」


 お蝶の声音はなおも艶やか。

 されど、その瞳の奥には、百鬼夜行の底を覗いたような深い怨みが燃えていた。


 逃げ惑う者も現れた。


 しかし、お蝶が逃がすわけもない。


 背を見せたが最後、お蝶の糸は容赦なく追い縋り、首を跳ね、腹を裂き、四肢を引き裂いた。

 肉は裂け、骨は砕け、黒土に溜まった血潮は、どろどろと沼と化し、死骸を呑んでいく。


「殺されてゆく女たちの声を、あたいは聞いてきた……苦しみ、呻き、命を散らされた娘たちの、最期の叫びをねッ!」


 羅刹のごとく笑いながら、しかし涙一滴も流さず、お蝶は斬り続けた。


 まるで、すべての業を背負い、仇を討たねば地獄に堕ちることすら叶わぬと云わんばかりに。


 容赦ないお蝶の攻撃は続き、黒土は血で泥濘をつくり、地獄の沼を形成した。


 美貌を湛え、艶やかに笑いながら人を斬るお蝶は、まさに羅刹女そのものだった。

 人である武士たちが敵う相手ではない。

 武士たちは生きて地獄を見た。


「……ぐ、うぅ……あ……」


 地面では虫の息をした武士たちが苦しそうに呻いている。


 地に伏し、虫の息で呻く者が数名。

 その目は、恐怖に見開かれたまま、もはや人としての理性すら薄れかけていた。


 お蝶は一歩、また一歩と血濡れた庭を踏みしめ、最後に立つ代官へと近づいていく――。


「お代官様、残っていらっしゃるのは、もはや貴方様おひとりだけでございやすよ」


 艶やかなる声音。

 どこか小馬鹿にしたような笑みを含みながら、お蝶が血濡れた庭の中央に立つ。

 その手には血塗られた糸巻き、艶姿とは裏腹に、地獄の鬼さえたじろぐ殺気をまとう。


 だが、その挑発にも、代官は微動だにせぬ。


「ふん……虫けらどもを叩き斬ったくらいで、粋がるなよ、小娘が」


 声は低く、まるで土中の蛇がのたうつような濁声。


「貴様如き、儂ひとりで十二分じゃ。相手に不足はない……!」


 眼前に広がるは、武士たちの無残な骸。


 首を飛ばされ、腹を裂かれ、黒土に沈んだ者たちの呻きが、未だ夜の底に残響している。


 地獄絵図を目の前にしながら、代官は臆することなく抜刀した。

 この男の眼には一片の恐れもない。

 否、それどころか、笑みを浮かべてすらいた。

 さすがは人の血を啜る怪物だけのことはある。


「その眼……尋常ではござんせんな。もはや人の道理にて語れぬお方とお見受けいたしやす」


 お蝶の声に、哀れみと憎しみが混じる。


 代官は音もなく歩を進める。

 鍔鳴り一つせず抜かれたその刃は、まるで闇夜の月光そのもの――冷たく、鋭く、容赦がない。


「さあ来い……お蝶とやら。女郎の恨みなど、この儂が全て引き受けてくれようぞ」


 間合いは、五間。


 今の二人の距離ならば、刀よりも妖糸の方が有利か?


 互いに一瞬の隙をも許さぬ構え。


 お蝶の眼が細められた刹那――代官が動いた!


 枯れ木のごとき身体からは想像もできぬ爆発的な跳躍。

 縁側を蹴り、まるで餓えた鷹のごとく宙を裂いて迫る!


 お蝶はすかさず妖糸を放つ!

 細き輝線が閃き、代官の喉元を狙う――!


 ――が。


 キィンッ!


 鋼と鋼がぶつかる音が宙に鳴った。

 刃が妖糸を打ち払う!

 火花が飛び散り、妖糸は断たれ、氣を失い瞬く間に消滅する。


 お蝶が一歩退く間もなく、刃が頭上より振り下ろされる!


 ぎり、と足を捻り、跳ねるように身を引いたお蝶。

 が、続けざまの突きが腹を狙って来る!

 それすら躱した次の瞬間――刃は再び横薙ぎに転じた!


「――くっ!」


 衣の袖が裂け、風圧が頬を掠めた。

 見事な三段斬り。

 しかも――代官は息ひとつ乱れていない。


 老いさらばえたような皮膚の下には、鬼が棲んでいるのか。


 いや、これは――元より人にあらず。


 お蝶の胸に、ぞくりと戦慄が走った。


「これは……ただの外道ではありんせんね。人の皮を被った魔……」


 代官は、にたりと口元を吊り上げた。

 その歯は、まるで獣の牙のように黄ばみ、鋭く、血の臭いを漂わせていた。


「この町に蔓延る悪など、所詮は儂の掌の中じゃ。お前も、そのうちのひとつにすぎん……」


 刀を構え直し、再び距離を詰める代官。

 それを迎え撃つべく、お蝶は静かに足を摺り出した。

 瞳の奥には、怒りでも、哀しみでもない――ただ、一点の“決意”が宿っていた。


 いよいよ始まる、地獄の最終幕。

 羅刹の花魁と、妖の代官――いずれが地に伏し、いずれが血に染まるか。


 乱れ咲くは死の舞。

 振るわれる刃は疾風のごとく、切っ先は雷の如し。

 だが、お蝶の身はそれすらも嘲るかのように、ひらり、ひらりと空を舞った。


「ふふ……よう斬れますなぁ。されど、あいにくこちらも――舞い慣れておりやして」


 斬撃を避けながら、花魁然とした笑みを浮かべる。

 足元は既に返り血と泥でぬかるみ、まるで地獄の淵のごとし。


 その泥沼に、ずぶりと代官の片足が沈んだ――!


 ほんの刹那の隙を、お蝶は見逃さなかった。


「今こそ好機――参らせていただきやす」


 袖口を払えば、空気が震える。

 放たれたは妖糸。

 細く光る死の糸が、蛇のごとくうねり、代官の首を狙って走った――が。


 キィンッ――!


 閃く刃が、またしても妖糸を一太刀にて断ち切った。

 糸は宙に散り、光の粒となって掻き消えた。


「やはり、糸が見えやすか……」


 お蝶の声が、悔しげにも、どこか楽しげでもあった。


「面白き手足れよの。だが――」


 代官が片足を泥より引き抜き、鋭く吐き捨てる。


「所詮は戯れ。この儂には、届かぬわ!」


 言葉の終わるより早く、刀が風を裂く。

 横一文字に放たれたその一撃は、空を断ち、大気を唸らせた。


 疾風のように刀が薙いだ。


 お蝶は、身を翻して躱すも、ほんの紙一重。


「……っ!」


 着物の腹がわずかに裂け、白い肌が覗いた。

 あと寸の違いがあれば、真っ二つに斬り伏せられていたであろう。


「ほう……ほれ、踊れ踊れ、小娘が」


 代官の顔に、冷笑が浮かぶ。


 飛び跳ねながら刀を躱すお蝶を代官は嘲笑う。


「兎のように跳ねおって、逃げるしか能がないのか?」


 されど、お蝶は笑んだまま、胸に手をあてて一礼するように言う。


「逃げるも、勝ちのうちでござんすよ。……なにせ、殺し合いには“機”がつきものでして」


 そう言いざま、再び妖糸を放つ。

 だがまたも、あっさりと断ち落とされる。

「ふん、姑息な真似を」


「外道には外道。殺し合いは、是が非でも勝たねばなりやせん。……負けは死、それだけの話でござんしょ?」


「ならば――」


 代官が一歩、踏み込んだ。


「お主に待ち受けるは死あるのみ!」


「さて……それはどうでござんしょうなぁ……」


 ふいに、お蝶の唇が歪んだ。

 艶やかなる顔に、ぞくりとするような微笑。


 ――その瞬間だった。


 お蝶は網を引いた。


 ぎぃぃ、と妖しい音とともに、お蝶が掌をひと振りする。

 足元に仕込まれていた妖糸が一斉にせり上がった。


 ぬかるんだ地面に隠されていた網状の妖糸を一気に上げたのだ。


 黒糸の網が、地より跳ね上がり、蜘蛛の巣の如く代官を包まんと迫る!


「……ちぃっ、罠か!」


 代官は咄嗟に跳躍した。

 空へと舞い上がり、反転しながら刀を横薙ぎに振るう!


 ギギィィ――ッ!


 刃が妖糸を切り裂いた。

 が、焦りからか、一筋を逃した。


 次の瞬間――


 ピシャッ!


「ぐっ……!」


 代官の左腕――刀を持たぬ方が、肘より撥ね飛んだ!


 宙を舞う腕、噴き出す血潮。

 着地した代官が苦悶の声を洩らすが、すぐさま姿勢を立て直す。


「……ほう。やりおるな、小娘……!」


「さよう、あっしは“夜桜お蝶”。――悪の華、咲かせるために生きておりやす」


 血に濡れ、月に照らされる二人。

 再び、静かなる間合いが生まれる。


 妖しき者と、妖を狩る者。

 その決着は、いまだ見えず。


 ぼとり――と落ちた左腕。


 泥に沈むかと思いきや、なおも痙攣しつつ指を蠢かせていた。

 指先が、何かを掴もうとするかのように、泥の中を這いまわる様は、まるで別の命が宿っているかのよう。


「おのれぇッ!」


 咆哮。


 断ち口より血が噴き、鮮紅の飛沫が宙を裂く。


 代官はなおも刀を手にしていた右手を振り払い、刀を地へと叩きつけると、ずぶりと肘を押さえて呻いた。


 その顔は、もはや人の面影を留めぬほどに歪み、頬は裂け、瞳は爛れ、妖鬼のごとき醜悪さであった。


「貴様ァ……化け物めがァァ……!」


 呻きながら、代官はお蝶に背を向けた。

 逃げるか――そう見えた、刹那。


「……?」


 お蝶の目に、違和感が走る。


 代官が駆け寄ったのは、屋敷の裏手、夏でも氷が張るという霊池。

 冷気を漂わせる池のほとりへと至ったかと思うや否や――


 ――ザバァァンッ!!


 代官、自ら池へと飛び込んだ!


 なんと凍えるような池の水に自ら飛び込んだのだ。


「――なッ!?」


 水飛沫が闇夜に舞い、波紋が広がる。

 氷を砕いて突入した水面が荒れ狂い、数度うねった後――静まりかえった。


 ――ぽちゃん……

 ――ぽちゃん……


 時折、水音が小さく響くも、代官の姿は一向に浮かんでこない。


「消えやした……?」


 お蝶は目を細め、池の水面をじっと見つめた。

 風は止み、空には雲が垂れこめ、月光も射さぬ。

 辺りは不気味な静寂に包まれていた。


「まさか……あの池の底に、抜け道でも?」


 この屋敷がかつて拷問所として使われていたことを思い出す。

 人目に触れぬよう囚人を始末するための水牢――あるいは裏道があっても、おかしくはない。


「ふん……逃げ足だけは見事なもので……けれども、そんな汚れた命、生かしてはおけやせんよ……」


 お蝶の指が、するりと空を舞う。

 再び、妖糸の気配が滲み出す――


 だがそのとき、池の底から、ボコッ……と泡が立ち――


 ――ギギ……ギィ……


 不気味な音と共に、池の水が黒ずみ始めた。


「……?」


 次の瞬間、水面に無数の黒い手が浮かび上がった。

 泥より這い出るように、腐れた指、朽ちた掌。

 まるで“何か”が、池の底から呼び起こされたかのように――


 そして、お蝶の背に寒気が走った。


「こりゃ……まだ終わっていやせんね……」


 ――その時であった。


 水面が地鳴りのごとき音を立て、瞬間、火山の噴き上げるが如く凄まじい水柱が立った。

 飛沫は月を裂き、星を隠し、闇を銀の鱗で包み込んだかのよう。

 お蝶の背丈の二倍はあろうかという、常人には到底あり得ぬ巨大な影が、水柱の中より現れた。


 それは、夜目にも眩いほどに水飛沫をまとい、煌めいていた。

 月光に照らされたその姿――


 筋骨隆々たる体躯はまるで鋳鉄のごとく堅牢にして滑らか。

 しかし、よく見れば皮膚はぬらぬらと濡れ、緑青を帯びている。

 両手両足の指には、くっきりと水掻きが張られ、背には藻のようなものが垂れていた。


 そして――


 頭頂に載せられた皿。


 そこに湛えられた水が、怪異なる力の源とでも言うように、青白く光を放っていた。


 ――河童。


 だが、並の河童ではない。

 片腕を失いし、異形にして妖力を極めし、呪いを喰らいて生きながらえた物ノ怪であった。


 片腕のない河童がギラリと眼を輝かせ、眼下のお蝶を睨みつけていた。


 お蝶は一歩も引かず、妖怪を見上げ、唇を歪めて笑った。

 その眼には、恐れのかけらもない。


「おやまぁ……とうとう正体をお出しでござんすねぇ」


「儂の正体を見たからには決して生かして帰さぬぞ」


「へっ。生かして返さぬ? 生きて返すつもりがないのは、こっちとて同じことでさぁ」


 お蝶が裾を払えば、妖糸が幾筋も、空気を裂いて飛び出す。


「お前さんが喰らった女たちの怨念――どれもこれもが、極上の味わいを秘めておりやす。残さず召し上がれ!」


 速い。

 お蝶の動きは疾風のように速かった。


 繰り出される妖糸の雨。


 妖糸が乱れ咲く。

 鋼のような糸が、雨の如く、風の如く、河童の胴と顔面に襲いかかる。


 だが、河童もまた咆哮一閃――


「グゥォォオオオオ――ッ!!」


 片腕となった身でありながら、鋭利なる鉤爪を備えた右手が唸りを上げて糸を断つ。


 巨体を揺らし、池を蹴っては宙を舞い、地を裂き、空を裂き、お蝶へと飛びかかる!


 どっしん――!


 地鳴りのような着地音。

 瓦礫が跳ね、血と泥と水飛沫が飛ぶ。

 だが、お蝶はその頭上をするりと飛び、塀の上へと舞い上がっていた。


 圧し掛かるように迫る河童をお蝶は嘲笑った。


「まったくもってお前さんという化け物は――」


 お蝶の細腰がひるがえり、黒い着物が風に躍る。


「その図体と皿の割には、頭の回りが悪うござんすねぇ……おつむが干上がってやしませんかい?」


 挑発の笑みに、河童の顔がひきつる。


「なにぃ……!?」


 その一言が、怒りの皿の水を激しく揺らした。


「その皿の水……抜ければ力が尽きるってぇ話、ほんとうでござんしょう?」


「さあ――魅せてごらんあそばせ。傀儡士の奥義、召喚の儀。これぞ地の底より招く地獄絵図、篤とご覧くだされ」


 お蝶がゆるりと右手を掲げるや、河童が立っていた地面に不気味な燐光が走った。

 ぼうと浮かぶ光の輪は、まるで地獄の蓋をあける符のよう。

 それは緻密なる魔法陣にして、命を吸う罠――いつの間にか、お蝶が描き置いた「術式」であった。


「な、なに……?」


 河童がひとたび足を引こうとしたその刹那――


 河童が立ってた地面が不気味な輝きを放った。

 その光は地に描かれた魔法陣であった。

 いつの間にか、またしても地面に罠が仕掛けてあったのだ。


 ずおおおおおん――――!!


 地の底から身も凍る、巨獣にも似た〈それ〉の咆哮が聴こえた。


 ただの吼え声ではない。

 この世ならぬ〈あちら側〉から響いてくる、禍々しき脈動。


 河童の双眸が見開かれ、膝が震え出す。


 自分の真下に何かがいるとわかっていながらも、恐怖で身がすくんで足が動かない。


「う……うごか、ぬ……?」


 逃げようにも、もう遅かった。

 河童の両足は術式に絡め取られ、地に根を張るが如く動かぬ。

 それどころか、大地そのものがぬるり、と蠢き始めておった。

 黒土が波打ち、ぶよぶよと膨れ、腐臭を放つ。


 否、それは“蠢く”のではない。


 まさにそれは生き物だった。


 ずぶ、ずぶ、ずぶ――


 土の下より、数千数万の黒き影が現れた。


 〈それ〉の咆哮は大地を腐らせ、この世に大量の蛭を呼び出した。


 それは、毒にも似た瘴気を纏い、這いずる闇蛭。

 かすかに月の光を反射してぬらぬらと蠢くその群れは、妖しき飢えを宿していた。


「ぎ、ぎゃぁぁ……なんだこれは……やめろッ、く、来るなぁッ!」


 河童の絶叫をよそに、蛭の群れは濁流のように押し寄せる。

 瞬く間にその巨体に取りつき、ぬらぬらと、ずるずると、躰を這い回り始めた。


「ひっ、ひぃぃっ……ぐぎゃぁぁぁ!!」


 闇蛭たちは、河童の皮膚を食い破り、古傷の肘口からずぶずぶと内部へと潜り込む。

 やがて皮膚の下が波打ち、動き回る黒い影が蠢き始めた。


「ぎゃぁぁ……な、なんだこれは……ぐげげぇ……」


「ふふ……〈あちら側〉に棲まう蟲の一種でござんすよ」


 お蝶は踊るように一歩前へ出て、ゆるりと紅を引いた唇を歪めた。


「闇蛭と申しやす。妖の血がなによりの好物でしてな、腹を空かせた子らが……お前さんの中身を楽しみにしとりやす」


「ぐぉぉ……ぬ、ぬけ、ぬけぇぇえええ!!」


 河童は耐えきれず、片腕でのたうちまわる。

 そのたびに地が揺れ、石が飛び、蛭が飛び跳ねる。


 されど止まらぬ。


 耳の穴から入り込んだ蛭が鼓膜を破り、鼻腔から喉へと食い破り、骨の髄まで蝕む。


「ひぎぃいぃ……!! く、ぐぶ……ぶぶぅう……!!」


 やがて、絶叫も声にならず。

 眼球が内側より蠢き、口の中から闇蛭が這い出した。


 闇蛭は河童の躰を這い回り、肘の傷から体内へと潜り込んだ。

 皮の下を波打って這い回る闇蛭に耐えかね、河童は巨体を振り回し暴れ狂った。

 そのたびに、地面が激しく揺れ、闇蛭の海が躍る。


「……ふふ。てめぇに殺された女たちの怨み、存分に味わってもらいやしたかい」


 お蝶の瞳に宿った炎は、冷たい復讐の色。

 その声は、ついに意識を手放しつつある河童の耳にはもう届かぬ。


 耳の穴から侵入した闇蛭に鼓膜を破られ、超絶的な苦痛に悶えるばかり。


 しゅう……しゅう……と、術式の光が沈む。

 河童の巨躯は、ぼとりと土の上に倒れ伏し、もはや二度と動かなかった


 お蝶は唇の端を吊り上げ、傘を広げて静かにその場を背にした。


「……悪党も妖も、行き着く先は皆おなじ。腐って土に還るだけのこと」


 闇蛭たちが彼女には一切手を出さず、粛々と土へと還ってゆく光景は、まるで主に従う眷属のようであった。


 これにて悪代官も一巻の終わり。


 残るは残骸が腐る前に大掃除をするのみ。



 やがて、凪いだ。

 喧騒も、咆哮も、血の臭いも――まるで最初からなかったかのように。

 闇の静けさが戻ったあとの森の中、しん……と風の音すら遠くに感じる刻。


 鬢を乱さず、そっと物陰から黒子が姿を現した。

 夜目にも鮮やかな黒装束、その手には一つの葛籠。

 そっと地に据え、蓋に手をかけると、恭しくも躊躇いなく開け放った。


 中から吹き出したのは、黒よりもなお深き、原初の闇――


 それを見届けたお蝶は、扇子を軽く頬に当て、艶やかに微笑む。

 そして、囁くように――甘く、優しく、されど逃れ難い声で言うた。


「おゆきなさい……」


 その声が風に溶けた刹那、葛籠より立ち昇った〈闇〉は、突如、悲鳴と嗚咽と呻き声とを伴って溢れ出した。


 葛籠に潜む闇から、


 甲高い悲鳴が聴こえる。


 号泣する声が聴こえる。


 轟々と呻く声が聴こえる。


 どれも惨苦に満ち溢れている。


「ひいいいぃい……」

「やだ、戻りたくなぁい……」

「くぅっ、まだ……終わって……ない……!」


 哀しみ、悔恨、怨嗟――あらゆる感情を孕んだ無数の声が闇の中から響き渡る。

 それは声なき声、存在を喰われた者たちの、魂の記憶であった。


 〈闇〉は風と化し、屋敷を翔け抜けた。

 散り散りとなっていた肉片を舐め、流れ出した血潮を吸い込み、屍の断末魔を肥やしとし――

 最期に、残された河童の屍にまとわりつく。


 河童は、もはや動かぬ……いや、そう見えただけだった。


 ずるり。


 河童の片腕が、お蝶へと伸びた。

 残る力のすべてを込めて、おのれを地獄に叩き込んだ女へ、せめて一矢報いんと。


 ――が、


 お蝶は少しも動じぬ。

 その腕を河童の掌が捉えた時でさえ、なおも妖しく微笑んでいた。


「そんな物でええんなら――冥土の土産に、くれてやんよ」


 くるり、と身をひねるようにして、腕を自ら河童の手に委ねた。


 ぶち、と音を立てて引きちぎられる。


 しかし、血は出ぬ。


 お蝶の肩口からは、糸のようなものがきらきらと風に舞っている。


 河童が勝ち誇る間もなく、ふいに耳へ届く声。


「……さぁ、今度こそ、お眠りなさいな」


 お蝶の声とともに、〈闇〉が唸った。


 ぐわあああぁ――!


 憎しみを抱いた絶叫が木霊した。


 河童の絶叫を呑み込むように、〈闇〉は最後の大口を開いた。

 蛭でも火でもない、もっと根源的な“喰らうもの”が、河童の躰と魂をまるごと呑み下す。


 その姿は、風とともに消え――何も、何一つ残らなかった。


 全てが、静まり返った。


「さって……自分の世界へ、お帰んな……」


 お蝶の囁きに応じ、〈闇〉は葛籠の中へと還ってゆく。

 嗚咽しながら、後ろ髪を引かれながら、それでも逆らわず――


 そして、黒子は無言で葛籠の蓋を固く閉じた。

 ぴたり、と音がして、すべてが終わった。


 月明かりの下、女傀儡師とその黒子だけが、夜の代官屋敷に佇んでいた。

 血もなく、炎もなく、ただ深い夜風が、静かに柳を揺らしていた――。

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