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夜桜お蝶 艶劇乱舞「怪」  作者: 秋月瑛
偽りの春
8/14

偽りの春 七之幕

 料亭から宿に戻ったお蝶は、冷静な顔をしながらも、辺りを隈無く見回していた。

 その瞳には、どこか緊張の色が滲んでいるように見える。


 昨晩、お蝶たちが助けた娘がいない。


 元々、荷物などはなかった娘だ。いくつかの品物が残っているはずもなく、痕跡一つ見当たらぬのは無理もない。


 だが、それにしても、どこか不安を感じる。


 ふとした胸騒ぎが沸き上がる。すぐにその直感を無視することはできなかった。冷静な振る舞いとは裏腹に、心の奥底では何かに引き寄せていた。


 すぐさま、お蝶は番頭を呼びつけ、問い詰めた。

 その表情には、ただならぬ威圧感が漂っていた。


「あの娘さん、どこへ行ったんだい?」


「ええと、昨夜のお嬢さん、急に姿を消しまして…」


 番頭は言葉を濁し、お蝶の冷徹な眼光に圧倒され、しばらく沈黙した。


「まさか、天狐組の連中にやられたのかい?」


 その一言に、番頭は急に顔を青ざめた。


「実は、その、天狐組が来て、勾引かされて――」


「勾引かされたって? 銭を握らせておいたというのに、裏切られるとは、ねぇ」


 お蝶の顔がわずかに歪んだ。だがその歪みは、あくまで冷徹で無慈悲なものだった。


「銭を返せとは申しませんが、あの娘さんに何かあったら、承知いたしやせんよ」


 低く、しかし確かな怒気を込めて、その言葉が番頭の耳を打った。


 お蝶は再び立ち上がり、番頭に一瞥をくれると、すぐに宿を出る準備を始めた。その背中は、無言で告げるように冷徹だった。


「天狐組……か」


 軽く呟くと、すぐさまその方向に足を向けた。

 他に行き先は見当たらない。

 あそこでなければ、娘の行方は分からぬだろう。


 ――天狐組。


 町人たちがその名を聞けば、恐ろしさが胸の奥に響く。


 だが、お蝶は怯むことなく、闇夜のように静かな決意を胸に抱きながら、駆け出した。


 その眼差しには、凛とした冷徹さが滲み、鋭い意志のようなものが湛えられている。


 彼女の背中を見送った番頭は、呆然としたまま立ち尽くしていた。


 お蝶の速さに、ただ一つの動揺も許されない。


 その先に待つのは、命を賭けた戦い。

 お蝶の心に、今はただ、その一念が強く燃えていた。



 ◇ ◇ ◇



 天の字が書かれた扉を、無言でお蝶が押し開けた。


 その先には煙が立ち込める薄暗い奥座敷が広がり、煙管をふかしながら悠然と座している者がひとり。


 乱れた着物が艶やかに風に揺れ、少し色気を帯びた足元がちらりと覗く。


 その姿は天狐組の真の支配者――お紺だった。


 肩膝を立てながら胡坐を掻き、無造作に煙を吹かしているその姿は、まるで自分の支配する世界に浸っているように見えた。


「おやおや、また来たのかい、あんた。まさか、うちの者が帰らないのは、みんなやられちまったって訳じゃないんだろうな?」


 お紺はあくまで冷静な口調で言ったが、その目はどこか楽しげだ。

 その言葉に、お蝶は黙って一歩踏み出した。


「さて、どこにお逝きなさったのでございましょうかねぇ? あたいも検討つきやせん」


 お蝶の瞳が鋭く光った。


「この期に及んで、惚ける気かい?」


「うふふ、いえいえ、本当ににあたいにもわかりゃしませんよ、どこへ逝くのか」


 お蝶はゆっくりと口を開いた。

 その言葉には、わずかながら皮肉と挑発が込められていた。


「あんたの言葉はさっぱりだよ」


「それは申し訳ありやせん」


 お蝶は微笑みながら軽く頭を下げ、その様子には不自然さはなかった。

 その笑顔の裏に潜む冷徹な意思に気づいたお紺は、微かに口元を歪め、目を細めた。


「ふふ、まったく。ほんとに惚けた奴だ……そろそろその本性、見せてくれるんだろう?」


「そちらさんは魅せてくれないんですかい?」


 お蝶は淡々と答え、わずかに唇を歪めた。

 その言葉には冷ややかな空気が漂い、誰もがその意味を察することができた。


「そうさね、ここじゃあんたもやり辛いだろう。裏庭にでも出ようかね」


 お紺はそう言いながら、腰をすっと伸ばして立ち上がると、そのまま音もなく歩き出した。


 まるで自らの支配する領域にいるような佇まいだが、背を向けて歩くその姿に、殺気を感じさせるものは一切ない。

 だが、お蝶はその歩みを見逃さず、鋭い眼光を投げかけながら、黒子と共に一歩ずつその後に続いた。


 不意に、背後から襲い掛かるような真似はしない。

 そのような野暮な真似をするつもりはなかった。


 この場での勝負は、物理的な戦闘を超えたところで繰り広げられることだろう。

 それが、今の二人の意識の中にある、そして、お紺との間での最後の対決の兆しであった。


 一歩一歩、裏庭に足を踏み入れたその瞬間から、何かが変わりはじめていた。

 その空気に微かな緊張が漂い、今にも血潮が流れそうな気配が満ちてきた。


 裏庭にて待ち受ける者は、どれほどの覚悟であろうとも、決して逃げられない。


 その先に待つのは、何か深い闇が絡みつくような戦いだと、誰もが感じ取っていた。


 裏庭は閑散としていた。


 風の音さえも微かに感じられるばかりだった。

 あたりには何の物音もなく、無人のように見えるその場所には、まるで時間が止まったかのような空気が漂っている。


 お紺はその静けさを破るように、背を向けて歩きながら、ふと足を止め、振り返った。


「うちの組はあらかた壊滅状態。そろそろ潮時かねぇ」


 その声には、あまりに冷静すぎて、どこかしらの達観したような響きがあった。

 お蝶はその言葉に少しも動じず、むしろじっとその目をお紺に向け、冷たく言い放つ。


「そんなことありやせんよ。あたいの見たところ、ここの組はお前さん一人の力で成り立っているように思えやしたが?」


 お紺の表情に微かな苦笑が浮かぶと、その身を反転させるようにして、歩き出した。


「〝かしら〟っていうのは〝頭〟と書くのを知ってるかい? 実際に躰を使って動くのは〝手足〟さ」


 お紺は軽い口調でそう言ったが、その目はお蝶の顔をじっと見つめていた。

 その視線には、相手を試すような挑戦的な色が強く見えた。


 お蝶はその挑戦に、じっと冷静に対抗する。


「つまり自分独りじゃなにもできないってことですかい?」


 お蝶の言葉には、少しの皮肉と共に、相手の弱点を見透かすような鋭さが感じられた。


 お紺はその言葉に、少し肩を揺らして笑みを浮かべた。


「あはは、なかなか言うじゃないか。試して見るかい?」


 その声には遊び心があり、挑発の意味が込められている。

 お蝶はその言葉に微動だにせず、ただ無表情のまま、軽く首を傾けて応じた。


「滅相もございやせん」


 その言葉には、どこかしらの謙遜が込められているように見えるが、表情に浮かぶのは不敵な微笑みであった。


 その不敵な笑みこそが、今の局面での彼女の全てを物語っていた。

 お蝶は、最も強い者に挑むことを恐れず、今もなお冷徹に計算している。


 どちらの顔も、今やそれぞれの意図を見せぬままに、静かな睨み合いが続いていた。


 裏庭の静寂の中で、二人の心の火花が散り、今まさにその火花が燃え上がる瞬間を迎えようとしているのが、空気に染み込んでいた。


 だが、まだ動きはない。

 一瞬の決断が、二人の命運を分けることになるのは、間違いないだろう。


 お蝶の背後では、黒子が静かに葛籠を地べたに下ろし、無言のまま正座をしている。その姿勢は、まるでこの先に待つ戦いを予感させるようであった。

 お蝶とお紺、二人の運命の対決が、今まさに幕を開けようとしていた。


 どちらも妖気を纏いし魔人。


 その存在はただならぬものだ。

 お紺の妖気は、目に見えぬ渦となり、ゆらめきながら周囲を取り巻いている。その不気味な気配に、お蝶は一切動じることなく、ただ静かにその場に立ち尽くしていた。


 お蝶の掌をすっと返すと、肩の力がふっと抜け、彼女はまるで戦う意志を持たぬかのような姿勢で言葉を紡ぐ。


「ここはひとつ穏便に済ますことはできやせんか?」


 その声はあくまで冷静で、まるで話し合いが可能であるかのように響いた。だが、その背後に潜む鋭い眼光は、決して甘くはない。


 お紺はその言葉に、微かな嘲笑を浮かべた。


「怖気づいたようには見えないが、どんな魂胆があるんだい?」


 お紺の目には、戦闘の気配が漠然と感じられる。その姿勢も、どこか余裕を持っている。だがその隙間に、ただならぬ殺気を隠しているのは明白だった。


 お蝶は一歩も引かずに微笑み、言葉を続ける。


「魂胆なんてありやせん。宿から連れ戻された娘を返していただければ、早々に退散いたしやす」


 その穏やかな口調の裏には、確かな覚悟が滲んでいる。


 お紺は鼻で笑った。


「返すもなにも、あれはうちの商売道具だよ」


 その一言に、暗い光が一瞬お蝶の目に宿る。


 もしあの娘を渡しても、本当にお蝶が引き下がるとは思えない。お蝶にとって、その娘はただの道具ではない。それがどんな意味を持っているのかを、今お紺は知る由もない。


 お紺の言葉が続く。


「大勢の組の者がどこかに逝っちまったんだ。あんたを生きて帰すわけにはいかないよ」


 その言葉が、お蝶はまるで聞こえぬように、無感情な表情を崩さず返す。


「さて、本当に何処にいきやしたんでしょうねぇ?」


 その言葉には、どこか他人事のような響きがあった。


 お紺の目が一瞬で鋭くなる。


「もういい加減にしな!」


 その声が庭に響くと同時に、目じりが大きく吊り上がり、ついに本性を見せる。


 だが、怒気も束の間、すぐにお紺は息をすぅと大きく吸い込み、冷静を取り戻す。そして、艶やかに微笑むその表情は、何とも不気味に美しい。


「まあいいさ。あんたがなんと言おうと、邪魔者には変わりない。始末するに越したことはないよ」


 その一言には、冷徹な決意が込められていた。お紺の瞳の奥に、今まさに戦いの火花が灯ったことを感じさせる。


 お蝶は微動だにせず、あくまで冷徹な目でお紺を見据えている。

 黒子もまた、何も言わず、ただ静かにその場に座している。


 庭の隅で、鳥が一羽、無意味に鳴き声を上げる。その音すら、二人には届いていない。

 時が止まり、戦いの一歩が踏み出されるその瞬間を、誰もが静かに待ち受けていた。



 ◇ ◇ ◇



 空はすでに黄昏に染まり、日が沈みつつある。


 辺りの景色は、まるで魔物が跋扈しはじめる時を告げるかのように不穏な気配を漂わせていた。


 今、戦いの時間が近づいてきている──それは、ただの戦闘ではない。

 妖魔のような者たちが交わす、運命を賭けた戦いである。


 お紺は無言のまま、静かに構えた。

 その姿勢からは、並外れた実力を持つ者の貫禄が漂っていた。


 だが、その瞬間、先に仕掛けたのは意外にもお蝶であった。


 彼女は一瞬の間に手を振り、指先から光るような輝線が疾風のように翔ける。

 その速さ、鋭さに、お紺は微動だにせず、ただ横へと軽やかに退いた。


 お蝶は腕を振りながら、そのまま動きを止めた。その動きはまるで決して反応を求めていないかのようで、どこか冷静さを感じさせる。


「避けなさるとは……視えやしたか?」


 お蝶の言葉は、まるで挑発するように響く。


 お紺は目を細め、しばしの沈黙を破った。


「視えたよ。氣を集束させた線だろう?」


 その言葉には、確かな洞察力が込められていた。


「そうでやすか……いえ、あたいには視えないもんで……やはりお前さんは人間じゃありやせんね?」


 お蝶はゆったりとした笑みを浮かべながら言う。


「そういうあんたは?」


 その問いかけには、さらなる深みが込められていた。


 お紺の口元がほんのりと歪んだ。彼女は答えを待つのではなく、ただその先にあるべき戦いを待ち構えているかのようだ。


「さて?」


 お蝶はまたしても惚けたふりをして見せる。

 その微笑みの中に隠された、鋭い眼光が次第に明らかになる。


 視えたとなると厄介だ。


 お蝶が放った技は、氣を練り、細く、柔らかな糸のように織りなされたもの。


 お紺が「線」と例えたが、それは実際には非常に柔軟で、撓る特性を持っている。


 その糸はただの攻撃ではない──罠を張り巡らせることも可能だ。しかし、目に見える者にはその力は通用しない。


 人間の目ではほぼ不可視の妖糸。しかしそれでも、物理法則に縛られた存在であるため、放たれる速度は術者の身体能力に比例し、手から遠くなればなるほど、その速さも減少していく。


 その性質を知る者にとっては、それは決して簡単に避けることができるものではない。

 だが、お紺はその速さ、そしてその特性を理解していた。だからこそ、最初から攻撃を避け、反応を見極めることを選んだのだ。


 しかし、お蝶の身体能力は、もはや常人の枠を遥かに超えていた。


 そのしなやかな肢体からは想像もできぬほどの瞬発力が迸り、まるで風のように駆け抜ける。

 その動きは神速で、見た者は人間とは思えぬ速さに息を呑むだろう。


 そして、すかさずお蝶は妖糸を放つ。

 その線は空を切り、しなやかに舞いながらお紺に迫るが、やはり、お紺はその攻撃を軽々と躱した。


 お紺の動きは、またしても尋常ではなかった。

 足元に履いた高い下駄が、まるで舞うように地を蹴り、その身を流れるように横へと退ける。

 普通の人間ではあり得ぬ動き──彼女もまた、ただの人間ではない。


 そしてついに、お紺が反撃に転じた。


 空気が一瞬、ざわめくように震え、周囲が重く沈黙したその瞬間、まるで火を吹くかのように、炎の玉が放たれた。


 その火の玉は速く、猛然とお蝶に迫ってきた。まるで火のあやかしが宿ったかのような迫力を持って。


 お蝶は一瞬の隙を見逃さず、すぐさま後ろへと跳ね退く。

 その動きの速さもまた、並大抵のものではなかったが、炎の前に身を隠すには微塵も足りない。


 四散した火の粉が、空中で一瞬煌めき、地面に落ちては焦げていった。

 その焦げ跡が、火を吹いた場所を証明していた。


 お蝶は息を吐きながら、その場を見渡し、やがてふっと微笑んだ。


「狐火ですかい?」


 その言葉には、どこか余裕を感じさせるものがあった。

 お紺の力を軽んじているようでもあり、しかしそれを見逃すわけにはいかないという、強い意志が感じられる。


 お紺はその問いに少し黙り、やがて薄く微笑み返した。


「さて、どうだろうね?」


 その微笑みの裏には、確信とともにやや皮肉が滲んでいた。

 惚けたのは、お蝶がこれまで見せていた余裕に対する小さな報復。

 お蝶の態度に対して、ほんの少しの反撃を試みたのだ。


 戦いの雰囲気は一気に激化し、二人の間に流れる氣はまるで雷鳴のように高まっていった。

 それぞれの技と力が、ただ一歩ずつ、その限界に迫ろうとしていた。


 お蝶は一瞬、視線を左右に走らせ、周囲の様子を探った。


 広大な裏庭ではあるが、四方を家々に囲まれた中庭のような場所。まるで閉じ込められたかのように感じるその空間、先には女郎屋の縁側が見え、そこから覗いている者もいるのではないかと思われた。だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。


 ここでの戦いは、ある意味、少しの幸運を頼みにしているところがあった。


 お紺もまた、ただの愚か者ではない。


 放たれた火の玉は、斜め下に撃たれた。まるで無駄に火を広げようとしているかのような攻撃ではない。お紺は計算している。無闇に撃ちまくり、辺りを火の海にしてしまっては、戦局を乱すことになる。


 彼女は冷静だ。狐火を自由に放つには、それなりの制約があることを理解している。


 だが、お蝶が有利かというと、そうではない。


 お蝶の妖糸は、すでにお紺の見抜かれている。

 妖糸の速さと性質を把握しており、離れれば離れるほどそれを躱すのが容易になることを知っている。


 故に一定の距離を保ちつつ、注意深くその動きを見極めている。


 一方のお蝶は、その距離を縮めようとした。

 妖糸を放ち、動きを封じるために。


 しかし、近づき過ぎることは、決して無防備を意味しない。お蝶はそのことをよく理解していた。


 だが、こうして距離を測り合う戦いでは、どちらが先に肉弾戦に持ち込むかに勝敗がかかっているのだ。

 お蝶は直感的に感じていた。お紺が肉弾戦にどれほど長けているか、それが今後の戦局を大きく左右するだろう。


 空気は張り詰め、二人の間に流れる緊張感が一層高まった。


 お蝶は視線をお紺に集中させ、少しずつ歩みを進める。

 お紺はそれを見逃さない。鋭い目でお蝶の一挙手一投足を見守りながら、瞬時に判断を下していた。


「この距離で、動けるのはあたしの方が早い……」


 お紺の心の中で静かに計算が進む。


 突如、お蝶が動いた。


 振り返る間もなく、妖糸が鋭く放たれ、瞬時にお紺の右足元に向かって伸びる。

 お紺はわずかな間合いをおいて、その場を踏みとどまると、足元を巧みに捌きながら妖糸をかわす。

 その動きはまさに舞うようで、火の玉が間をぬって空を切る中、お紺はその火の粉を背にしながら、後ろへ軽やかに跳び退く。


 だが、お蝶の攻撃は止まらない。


 瞬時に再び体勢を整えたお蝶は、今度は真横から二本の妖糸を放つ。

 まるで蛇のようにうねりながら、目標に向かって迫る。


 お紺はその動きに瞬時に気づき、いとも簡単にもう一度飛び退く。

 しかし、その後ろではまたしても、別の妖糸が背後から迫っていた。


 お蝶の攻撃は、まるで罠のように仕掛けられ、次々にお紺を追い詰める。


 だが、いまだにお紺は動じない。


 逆に、静かな笑みが彼女の口元に浮かぶ。

「なるほど、やっぱり簡単にはいかないか……」

 お紺はすぐに方向転換し、逆にお蝶の動きに合わせるように、隙間を突いて攻撃を仕掛けた。


 その瞬間、空気が揺れた。

 お紺が自らの力を解き放つように、目の前に現れるのは、鋭い一閃。


 お蝶はその突如として放たれた力に一瞬ひるむが、すぐにその反応を見せ、妖糸を弾き飛ばす。


 だが、お紺の攻撃は容赦ない。

 舞い込む一撃に、お蝶はついにその足を踏み外す。

 その刹那、力強い足音とともに、お紺の身体が一瞬にして接近する。


 この戦い、どちらが最後に立つのか──

 まだ誰にもわからぬ。


 黒子は依然として静かに正座をしている。


 その姿勢のまま、動くことはない。まるで、周囲のすべてを見越しているかのように。


 だが、無いはずの顔に一抹の焦燥が浮かんでいるようにも視える。


 切り札の葛籠はどうした?


 理由は“色々”とあるが、一番の問題は呑み込んではないモノがあることだ。

 女郎屋の縁側や民家の窓、言うことを聞かなかった〈闇〉が飛び出す気配がひしひしと感じられる。


 一方、お蝶は、目の前の戦いに心を集中させていた。


 お紺との距離を縮め、じわじわと圧力をかけながら渾身の氣を妖糸に込める。その糸は、空気を震わせて煌めき、まるで光の矢のように真っ直ぐに突き進んでいった。


 その瞬間、突然、誰かが漏らした声が響く。


「しまった」


 お紺の姿が、一瞬にして変化した。


 獣のように四つ足で地面に突っ伏し、鋭い爪のような手を地面に食い込ませ、跳躍の準備を整えた。

 妖糸がその頭上を抜けていくと、まるで動物が獲物を捕えるかのような敏捷さで、お紺は後ろ脚で強烈に地面を蹴り上げたのだ。


 その勢いで、肉食獣の如くお蝶の咽喉元へと飛びかかる。


 だが、お蝶はその動きを予期していた。

 すぐに無駄な力を抜いて背中から地面に倒れ込み、空中を駆け抜けるお紺の腹を両足で蹴り上げた。

 その蹴りは、まさに獣の反撃のような鋭さを持っていた。


 お紺は蹴り飛ばされるも、滞空することなくすぐに再び地面に足をつけて着地する。

 そのまま、目にも止まらぬ速さで次の動きに移ろうとするが――その瞬間、すでにお蝶は立ち上がり、無駄な動きもなく、華麗に体勢を整えながら翔けた。


 地面に四つ足をついて着地したお紺は、反転してお蝶に向かって迫る。

 だが、お蝶はその右横に素早く立ち、まるで一歩先を読んでいるかのように動いた。


 だが、お紺もまたその動きを予測していた。

 今度は素早く横に身を躱し、間髪入れずに反撃を試みるため四つ足で地面を蹴り、お蝶の背後に回り込もうとするのだが――。


 四肢に力が入らない。


 お紺の眼差しは鋭く、まるで猛獣のようにギラついていた。


「気安く触るんじゃねぇ!」


 その声が冷たい空気を裂く。


 お蝶の手が、金色に輝く尾を握っていた。


 その尾をお蝶が引こうとした瞬間――。

 何かが鋭い速度で手を引っぱたき、思わずお蝶はその尾を放して、咄嗟の判断で後ろに退く。


 お蝶は少しだけ顔をしかめた。


 立ち上がったお紺の後ろから伸びた金色の尾は、まるで生き物のように威厳を放っていた。

 その尾は、頭よりも高い位置まで立ち上がり、三本に分かれてそれぞれ違う方向に伸びている。


 そう、尾は三本あったのだ。


 まるで大蛇が三つに分かれたかのような迫力を持ち、その金色の輝きは、まるで太陽を反射しているかのように眩い。


 お蝶はその尾を見て、思わず感嘆の息を吐いた。


「神々しいまでに輝いておりやすね。尻尾が妖力の源だとか……」


「ふん、あたしは三本もある。少しはあたしの恐ろしさがわかったかい?」


 お紺の声には、怒りと誇りが入り混じっている。


 だが、お蝶は微笑んだまま、すかさず冷静に言葉を返す。


「水を差して悪いんですが、確か殺生石に封じられた狐は九尾だとか?)」


 その言葉に、お紺は一瞬顔を歪めた。


「……くッ」


 その口元は、抑えきれない怒りを滲ませながらも、歯軋りをした。

 その顔には、何かを隠しきれない苛立ちとともに、確かな殺意が宿っている。


 すまし顔のお蝶は、その表情を見逃さずに眼の奥の微笑みを深める。


「妖狐の実力とやらを魅せてもらいやしょう」


 その声には挑戦的な響きがあった。


「肝を喰らってやる。あたしの恐ろしさを思い知るがいいよ」


 お紺の口から吐き出された言葉は、冷たい殺気を伴っていた。その眼差しが、瞬時にお蝶を貫くように鋭くなる。


 二人の間に、静寂が流れる。だが、その空気は決して穏やかなものではない。

 まるで地獄の底から唸りを上げるような、迫力を持った空気が二人を包み込んでいる。


 そして、ついに真の戦いが始まる。


 何かが切り裂かれる音が響き、その場の空気すらも切り裂くような緊張感が広がる。


 果たして、この戦いの行方は――。

 その先に待つ運命は、どちらの手に握られることになるのだろうか。


 お紺の眼前から、狐火が三発、激しく放たれた。

 その炎は、まるで夜空を裂く流星のように煌めき、空気を焦がしながら迫ってきた。


 お蝶はその身を軽くひねり、鋭い動きで次々と炎を躱していく。

 ただその動きには、しなやかさと美しさが宿っていた。

 火花が目の前を散りばめ、空を赤く染める。だが、お蝶の姿は、まるで夢のようにその炎をすり抜けていく。


 お紺は狐火を放ちながら、一歩一歩お蝶との距離を縮めていた。

 その瞳は鋭く、冷徹な光を宿し、狂気を帯びた爪が鋭く光る。

 その爪は、まるで魔物の爪のように不気味に伸び、目の前のすべてを引き裂かんとする。


 お蝶は、ほんの一瞬の隙間を見逃さず、妖糸を放った。

 その妖糸は空気を切り裂くように、見る者の目を惹きつける美しい輝きを放ちながらお紺に迫る。


 だが、お紺はその妖糸を躱しながら、長い爪を一閃と振り下ろした。


 桜柄の着物の襟元に、音も無く一本の線が奔り、破けた。


 あと一刹那、お蝶が飛び退くのが遅ければ、線は三本、はたまた五本、胸を抉られていたかもしれない。

 それをお蝶は動じることなく、反射的に飛び退いてその危機を逃れたのだ。


 危機一髪を乗り越えても、お蝶は汗ひとつ掻いていなかった。

 その激しい運動量にしては、信じられぬほど冷静に、無駄のない動きで戦い続けている。


 その姿に、見る者は誰しもが思うだろう。


 ――やはり、お蝶は人間ではないのか?


 だが、それを証明するものは何もない。

 お蝶はただの花魁ではない。何か、もっと別の存在なのだろう。


 その一方で、お蝶に攻撃を躱されたお紺は、なおも攻撃の手を緩めず、怒りをその爪に乗せて駆け出した。


 そのまま地面を蹴り、一気に黒子に飛びかかる。


 黒子は焦りながらも素早く横へ跳び、地面に身を躱す。

 その時、肩と肘が地に打ちつけられたが、すぐに起き上がろうとした。


 だが、お紺の猛攻が再び迫った。


 爪の一閃が、黒子に迫ろうとしたその瞬間――。

 輝線が、一閃、まるで雷光のようにお紺の前を貫いた。

 お紺はその線を睨みつけ、足を止めざるを得なかった。


「あたいが相手だよ!」


 お蝶が叫び、紅蓮のようにその姿を現した。

 その声は、まるで戦いを楽しむかのような響きが込められていた。


 その隙に、黒子は地面から立ち上がり、荒い息を整えた。


 ひと言も発することなく、影のようにお蝶に寄り添う黒子。

 その姿はまるで亡霊のようであり、今にも消え去りそうなほどに静かであった。


 生きておるのか、死んでおるのか、それすらも判然としない。

 その瞳は何処を見つめているのか分からぬほど、無の境地にあった。


 闇に紛れたかのように、ただお蝶の後ろにひっそりと寄り添う、そんな黒子がまるで人間のように、荒々しく深い呼吸を一つ一つ整えていた。


 一方、お紺はその様子をじっと見守りながら、やや冷笑を浮かべてお蝶に向けて言葉を投げかけた。


「あんたの連れは、あんたほど俊敏じゃなさそうだねえ」


 その声には、嘲笑の響きが微かに混じっていた。


 お蝶は一切の無駄な言葉を交わさず、ただ冷静に睨み返しながら答える。


「相手はあたいだよ、連れに手を出さないで貰おうじゃないか」


 その言葉の裏には、揺るぎない決意と、戦いを楽しんでいるかのような冷徹さが滲んでいた。


 だが、お紺はそれに動じることなく、挑発の手を緩めない。


「生憎、正々堂々なんて言葉は持ち合わせてなくてね。黒子はあんたの足手まとい、弁慶の泣き所と言ったところかねえ」


 その言葉には、どこか皮肉がこもり、まるでお蝶の隙を突こうとするような暗い意図が感じられる。

 お紺はそのままにじっと黒子を見下ろし、冷ややかな目を向けた。


 黒子は打ちつけた肘をだらりと地面に垂らし、まるでその体が重たくて仕方がないかのように無力に見えた。

 そのもう片方の腕は、痛めた背中をかばうように後ろ手に回され、動かぬままの姿勢を保っている。


 だが、その姿の中に、一抹の不気味さを感じさせるものがあった。

 静かに、無表情のまま、黒子はその場に留まっている。

 それでも、その目の奥には計り知れない深淵が広がっているような気配が感じられる。


 お蝶は冷徹な眼差しで、三つのものをじっと見据えていた。

 その視線は、黒子、お紺、そしてその近くに置かれた柿渋色の葛籠に注がれている。


 問題は葛籠がお紺のすぐ傍にあることだ。


 やがて、お蝶の視線に気づいたお紺が、やや不審そうに葛籠を一瞥した。


「この葛籠がどうかしたかい?」


 と、鋭く問いかけた。


 その言葉には、警戒心と同時に、なにかを言い知れぬ不安が漂っていた。


 お蝶は軽やかな微笑みを浮かべて答える。


「いえ、ただの商売道具が入っておりやすだけで」


 お紺の鋭い眼光が、さらにお蝶を責め立てるように葛籠を見つめる。

 お蝶のその言葉を信じるはずもなく、疑いの念が膨らんでいった。


 ついにお紺が葛籠に手をかけようとした。


 間髪入れずにお蝶が声を上げる。


「ちょいとお待ちを!」


 その言葉が響いた刹那、葛籠がまるで生きているかのように急に開き、中から何かが飛び出した。

 人の膝丈ほどの影が舞い上がり、空気を切り裂くように飛び出す。


 輝線が一筋、まるで雷鳴のように空間を貫いた。


 一瞬の閃光の後、お紺が力強く振るった腕が裂け、朱が飛び散る。


 あまりの激痛にお紺は顔を歪め、悔しそうに歯を食い縛り、膝をつくように後退した。


 葛籠の前に立つ小柄な影。


 それは、何と人形であった。


 袴をまとい、しなやかにその姿を見せるその人形は、目にも留まらぬ速さで脇差よりも短い刀を抜き放ったのだ。


 すぐにお紺の背後にお蝶が襲い掛かる。


 お紺は振り返り、その金色の尾を使い、妖糸の進行を弾き飛ばす。

 その尾が見事に、宙を舞う妖糸を掴み、突き進むお蝶の手を退ける。


 お紺は目を見開き、顔を歪ませて怒声をあげた。


「切り刻んでやる!」


 と、まるで獣のようにその言葉を吐き出す。


 その隙に再び動き出した人形は、お紺の背後を狙って刃を衝こうとする。


 しかし、二度目の攻撃はもうなかった。


 金色の尾が人形を弾き飛ばし、宙に舞わせ、地面に叩きつけたのだ。


 その瞬間、お蝶の視線が鋭く光る。

 そして、その隙をついて黒子が素早く駆け出した。


 足音を忍ばせるように静かに、しかし確実に、葛籠に駆け寄ると、素早くその蓋を閉じて肩に掛けた。

 そして、すぐさま間合いを取るべく、手にした葛籠を背負い、まるで何事も無かったかのように冷静にその場から離れた。


 お紺はまだ気づかない。

 この場を征圧する異様な氣を黒子が放ちはじめたことに――。


 負傷したと思われた黒子の片腕は、実に驚くべきことに、自在に動き回り、まるで無傷であるかのように、その手を使って杖で地面に何かを描きはじめた。

 その動きは無駄がなく、まるで長年の修行を経た絵師のような手際の良さだ。


 黒子が杖で描いたのは、蛇のように曲がりくねった文字が、円を描きながら地面に広がっていく。

 その円形の魔法陣は、あまりに精緻で、力強さを感じさせる。


 お紺の鋭い眼差しが、その動きに注がれ、何かを感じ取ったようだ。


「まさか……」


 と、お紺は思わず呟く。


 お紺は自らの血が滲む袖を引き裂き、それを黒子に向けて投げつけた。


 妖狐の血の付いた袖が、火花を散らしながら空中で燃え上がった。

 まるで黒子の目の前で火柱が立ち上がったかのように、炎が激しく舞い上がる。


 だが、黒子はその火花が燃え盛る中でも、冷静に魔法陣を描き続けた。


「近づこうとすると、肌がむず痒くなるその感じ……魔を寄せ付けぬ結界かい?」


 苦虫を噛み潰したような表情でお紺は少し後退った。


 血の付いた袖が燃えたのはお紺の仕業ではなく、結界が妖魔の血に反応したからだったのだ。


 その魔法陣は、最初に描いたものから少しずつ広がり、外側に二重、三重と重なっていく。

 まるで結界が次々と強化されていくかのようだった。


 お紺の顔が次第に険しくなり、その視線は魔法陣に向けられている。


「今まであたしが見てきたものとはちょいと違うようだね」


 と、その唇から吐き出された言葉は、驚きと共に憤りを込めていた。


 それに対してお蝶は、軽やかな笑みを浮かべて答えた。


「わかりやすかい?」


 と、艶やかな口調で言葉を紡ぐと、その瞳は挑戦的にお紺を見つめた。


 お紺は一瞬、眉をひそめるが、すぐにお蝶の言葉に返答する。


伴天連バテレンかい?」

「いえ、欧羅巴ヨーロッパ魔術の類でやす」


 と、お蝶はさらにその秘密を明かす。


 お紺はその言葉に驚愕し、さらに黒子に対する疑念を深めていった。


 謎めいた葛籠、そして西洋魔術。

 これらがどのように繋がっているのか、お紺はますます不安を抱えていた。


 その時、黒子が再び杖を握り直し、描き終えた魔法陣にじっと目を凝らす。

 その魔法陣がさらに輝き、周囲の空気がピリッと張り詰めるのが感じ取れた。


 お蝶とお紺は、目と目を合わせ、互いに距離を縮めていく。

 静かな殺気が空気を満たし、二人の間に緊張が走る。

 その場に漂う静寂が、まるで刃物のように鋭く感じられた。


 やがて、お蝶の唇が再び動き、冷徹に言い放つ。


「さぁ、いよいよ決着の時でやすね」


 と、まるで不敵に笑って言うその声には、まるでどんな局面でも動じることのない強さが滲み出ていた。


 お紺はその笑みに、少しだけ引きつった表情を浮かべつつも、

 鋭く爪を研ぎながらその場に立ち尽くす。

 どちらも退くことなく、次なる一手を計算している。


 そして、黒子が杖を大きく振り上げ、魔法陣を叩こうとした――その手が不意に止まった。


 再び戦いがはじまるかと思われたその刹那、事態はまさに一変した。


 熾烈を極める戦闘の熱気が、突然、別の方向へと引き寄せられる。


 どこからともなく、悲鳴が響き渡った。

 その悲鳴は次第に響き合い、やがて喚き声が入り交じる。


 その声の元を辿れば、何もかもが異常であることに気づく。


 女郎屋の窓からは、黒煙が立ち上り、空を覆うように煙の柱が上がっていく。

 縁側の隙間からも、忌々しい煙が流れ出していた。

 まるで生き物が喘ぐかのように、女郎屋から休むことなく立ち昇る灰色の煙。

 それはまるで火に引き寄せられるように、空へと伸びていった。


 数人が縁側から駆け出してきた。

 急げる者、倒れそうになる者、そしてその中にあの男が混じっていた。


 ひょろひょろと歩くその男の姿は、まるで幽鬼のようにゆらゆらと揺れながら、歩みを進めていた。

 クツクツと肩を震わせ、口元を歪めて嗤うその姿を、誰もが一瞬、疑いの目で見つめる。


 ――それは、間違いなく弥吉だった。


 紅く染まった胸を抑えることもなく、弥吉は空ろな眼で前を見つめ、歩みを進めていた。


「クククッ……燃えちまえ、全て燃えちまえ!」


 空気を裂くような冷徹な声音。


 そう、弥吉は女郎屋に油を撒き、火をつけたのだ。


 その火はすぐに木造の建物を蝕み、見る間に炎の海へと変わり果てていく。

 炎の舌が屋根を舐め、壁を燃やし、建物の骨組みまでをも溶かし続けている。

 女郎屋は次第にその姿を消し、黒煙の中に溶け込んでいった。


 弥吉は最後にお紺をも裏切ったのだ。


 その現場を見たお紺の表情は、まるで鬼のように歪んだ。

 もはや怒りの感情が顔を支配し、冷徹な目で弥吉を見据えていた。


「人間てのは本当に醜い生き物だねッ!」


 その声は、怒りと憤りが混ざり合ったものだった。

 憎悪と怒りが深く交錯し、胸の奥から湧き上がる感情が、まるで火を吹くように膨れ上がっていく。


 弥吉の周りには狐火が舞い、炎が放たれた。


 燃え盛る炎の中、弥吉は両手を高く掲げ、広げた。

 それは、まるで狂気を象徴するような動作だった。


 血と炎の渦の中で、弥吉は奇声にも似た高笑いを発していた。


「全て燃えちまえ、全て……!」

 その声は、炎の中で反響し、空を覆い尽くす。


 裏切りを繰り返した弥吉は地獄の業火によって裁かれた。


 彼の内心のすべてが火に包まれ、焼き尽くされていく。

 その痛みも、苦しみも、すべてが燃え上がる火の中に呑み込まれていった。


 お紺はその情景を、冷酷に見つめていた。


 炎が激しく燃え上がり、周囲の家々にも次々と火が移りはじめた。

 密集した木造家屋が、まるで火種を放つように炎を抱えていく。

 火はどんどん広がり、次第にその勢いを増していく。


 まるで逃れることができぬ運命のように、よもや花街がその炎に包み込まれようとしていた。


「本当に潮時のようだね」


 と、お紺は静かに呟いた。

 その瞳に浮かぶのは、今までの戦いの終焉を感じさせる冷徹な光。


「もう手加減をする必要もないわ」


 お紺は冷然とそう言い、それを合図に、彼女は再び狐火を放った。

 その火は、まるで天に挑むかのように高く舞い上がり、あたり一面を火の海へと変えた。

 燃え盛る炎が、無慈悲に周囲を包み込む。


 放たれた狐火は、建物をも簡単に焼き尽くし、ひとたびその炎に触れた者たちがどうなるのか、誰にもわからない。


 炎の中、裏庭もまた火の壁に囲まれていく。

 もはや逃げ道などどこにもない。

 この火の海は、誰もが避けることのできぬ運命であろう。


 お紺は炎を背にし、冷ややかな笑みを浮かべた。


「尻尾を巻いて逃げさせてもらおうかね」


 三本の金色の尻尾が揺れ、炎と共に燃え盛る女郎屋にその姿が消えていくのを、誰もがただ見守るしかなかった。


 お蝶はその後を追うように歩みを進め、火の中へ飛び込もうとした。


 しかし、その瞬間、屋根が崩れ落ち、彼女の行く手を遮るように積もった瓦礫が立ちはだかった。


 お蝶は一瞬その足を止め、炎の中で不安げに目を細めた。


 だが、気づけば、女郎屋だけでなく、周囲の建物もまた火に包まれている。

 家々が軒並み燃え上がり、煙と炎が空に巻き上がる光景は、まるで終末のような厳かさを持っていた。


 熱風が吹いた。


「さて、どうしたもんかね」


 お蝶はその炎の中で立ちすくみ、まるで呟くように独り言を漏らす。


 だが、すぐにその視線は辺りを見渡し、何かを探しはじめた。

 そして、目が留まった。


 お蝶もまた、黒子も、二階の屋根を見上げていた。


 煌きが屋根に向かって放たれる。


 不可視の妖糸を屋根に固定し、葛籠を背負った黒子を、さらにお蝶が黒子を背負う。


「屋根が崩れないことを祈るのみだね」

 

 お蝶は軽やかに微笑み、見事な身のこなしで屋根を登りはじめた。


 静かに屋根へとたどり着いた。

 お蝶はひと呼吸おき、燃えさかる花街を見下ろした。


 紅蓮の炎が、楼閣のひとつひとつを呑み込んでゆく。

 軒は崩れ、格子は裂け、紅殻格子に閉じ込められていた哀しみが、煙となって空へ還っていく。

 嬌声も、泣き声も、怨嗟も、歓びすらも――

 すべてが一つの業火となり、夜空を焼いていた。


 あれほど多くの感情が渦巻いていた町が、いまやただの灰に還ろうとしている。


 お蝶は屋根の上で風に髪を揺らしながら、燃える町並みに目を細めた。


「まったく……地獄も、悪くない眺めじゃないかね」


 囁くようなその声は、炎にかき消されることもなく、夜風に溶けていった。

 黒子は何も言わず、その傍に佇んでいる。


 轟音と共に、女郎屋の大梁が崩れ落ちた。

 炎はさらに高く舞い上がり、まるで昇華するかのように、全てを抱きしめて燃やし尽くす。


 哀しみも、憎しみも、名もなき恋も、悔いも――

 すべて、火が呑んだ。


 夜空には、火の粉が星のように舞い、やがて静かに降りしきる灰となって、二人の肩に積もってゆく。


 お蝶はもう一度だけ、炎の向こうに何かを探すように目を凝らし、それから黒子を振り返った。

 微笑をひとつ残すと、身を翻し、屋根伝いに闇へと消えてゆく。


 ――燃え尽きた町の空に、仄かに希望の匂いが混じった。

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