偽りの春 五之幕
先日のお蝶の唄と黒子の人形劇が代官の耳に届いたことから、どうやら気に入られたらしい。
そのため、代官の御付きに推挙され、今日は日の高いうちに料亭へと呼び出されていた。
まるで誘いの声が空の高みから降り注いだかのように、この機会を有意義に活かさねばならない。
秋の風がやや冷たく感じられる今日この頃、しかし、ふと気がつけば、夏の名残がまだこの街にこびりついている。
まるで季節が二つに引き裂かれているような不安定な日々の中で、道を行き交う町人たちの顔には汗の珠が浮かび、額を拭う者も少なくない。
まだ、暑さがどこかしら残り、熱気が体にまとわりつくような一日であった。
だが、そんな日差しの中にあっても、黒子はいつもの如く真っ黒な装束を身にまとい、長い裾を引きずりながら歩いていた。
その装束は、まるで昼間の太陽を拒むかのように、黒々とした色が街の風景に対して一際目立つ。
背中に負った葛籠も、見た目には重そうであり、その姿からはひとしきりの覚悟が感じられる。
黒子の歩みは、無駄なく、そして、どこか緊張感を漂わせていた。
周囲の賑わいを背にしながら、ただ前方を見据えて足を進める。
料亭の場所をしっかりと頭に刻み込んでいるのだろう、その目的地へ向けての歩みは、何もかもが予定調和のように見えるが、どこか冷徹な印象すら与える。
この街の喧噪の中にあっても、黒子の姿はまるで異物のように周囲の景色に溶け込んでいる。
まるで黒子自身が、今日の舞台を意識しながらその場に立つ準備をしているかのようだ。
そして、その姿が道を行く人々の目に留まると、何人かはちらりと視線を向けるが、すぐにその目線を外す。
黒子の存在は、普通の町人たちにとっては、どうにも手が出しづらいものであった。
それはまるで、穢れた者が引き寄せる闇のように、何かしらの不安を呼び起こす。
町の中心を過ぎ、料亭へと近づくにつれて、黒子は自然と周囲の喧騒を背にし、空気の流れも微妙に変わるように感じ取る。
だが、その足は止めない。
今日の客人は、決して手を抜けぬ相手であることを黒子は十分に理解していた。
黒子はちらりとお蝶に顔を向けた。
お蝶は顔を向けない。
黒頭巾で顔を隠す黒子からは表情を読み取ることはできなかった。
◇ ◇ ◇
お蝶たちを呼び寄せたのは、町の外れにひっそりと佇む、情緒に溢れた料亭であった。
周囲の喧騒とは裏腹に、そこはまるで時の流れが止まったかのような、静寂が広がっている場所だった。
代官の命を受け、今日はその地で芸を披露することになったが、いったいどんな意図があって呼び寄せられたのか。
店の玄関をくぐると、出迎えたのは無愛想な女将であった。
手際よく、彼女の案内で二人は店内の奥へと導かれ、やがて中庭に面した座敷へと案内される。
床の間に飾られた花が、まるでこの部屋の静けさを象徴しているかのようだ。
「こちらでしばしお待ちください」
と、女将は一礼してすぐに姿を消した。
その言葉に従い、お蝶と黒子は静かに畳に腰を下ろした。
お蝶はゆったりとした動作で背を伸ばし、安堵の息をつく。
しかし、黒子は背中に葛籠を背負ったままだ。
その姿勢は変わらず、どこか緊張感を漂わせている。
しばらくの静寂が流れた後、お蝶が口を開いた。
あまりにも呑気な口調でわざとらしく。
「なァ、あたいら、この町で何か怨まれるようなことをしたかねぇ?」
言葉に合わせてお蝶の目が細められ、周囲に目を配る。
だが、黒子はその問いにすぐに答えず、ただ周囲を警戒し続けていた。
部屋の隅々から微かな気配がする。
お蝶は周囲の状況を把握した上で、堂々と畳に腰を落ち着けくつろぐ姿勢を見せる。
黒子はその動きに合わせるように、さらに周囲の気配に神経を尖らせていた。
突然、襖が荒々しく蹴破られる音が響き渡った。
振り返る間もなく、複数の男たちが一斉に部屋に飛び込んできた。
その荒波に乗るように、男たちは一気に座敷を占拠する。
押し寄せる者たちの眼には、いまや獲物を囲い込むような狂気の色が浮かんでいる。
しかし、お蝶と黒子は一切動じることなく、障子ごと敵を押し飛ばした。
狭い間隙を突き、男たちの手が及ぶ前に二人はすでに縁側に飛び出していた。
軽やかな足並みで、庭へと降り立つ。
まるで舞台で舞うような、その動きには無駄がない。
お蝶の桜柄の着物が舞い揺れ、描かれた花弁がゆらりと映る。
その美しさは、まるで一瞬の夢のように儚く感じられる。
しかし、その美しさも束の間。
お蝶と黒子は、息を呑む暇もなく、周囲の動きを読み取る。
二人を取り囲んだ男たちは、ひとり、ふたりと増え、まるで漁師たちが獲物を取り囲むように、無言の圧力をかけてくる。
その空気は、次第に重く、息が詰まりそうだ。
男たちは脛に傷を持つ者ばかり。
料亭には似つかわしくない物騒な輩しかいなかった。
どこぞの差し金かは明らかだ。
逃げる道はないわけではない。
しかし、この状況でどう動くべきか――
若い衆がざわつき、次第に間を開けて道を作る。
その先に姿を現したのは、天狐組の親分――狐吉であった。
その姿に、周囲の空気がひときわ重くなった。
腰に帯びた短刀とともに、手に握られたのは一挺の短銃。
手慣れたようにその銃身を弄りながら、狐吉は無造作に歩を進めてきた。
目立つ銃器を持つこと自体が異例であったが、どうやらただの脅しではないらしい。
密貿易かなにかで大枚をはたいて手に入れた品だろう。
狐吉は視線を鋭くし、口元に笑みを浮かべたが、その目には冷徹な光が宿っていた。
「お紺の奴が、お前さんたちのことを臭うと言うもんだからな。うちの若い衆が行方をくらましてるんだが、知らねえかい?」
その声は、ただの尋ね人のそれではない。
凍りつくような威圧感がその一言に込められており、言葉の端々に隠された脅しが如実に感じられる。
狐吉の姿勢、物言いからして、単なる問いかけではないことは明らかだった。
狐吉が立つその周囲には、数十人の若い衆がぎっしりと取り囲んでおり、彼らの眼差しには一切の情けが見受けられない。
空気が張り詰め、重く沈黙を孕んでいる。彼らの姿勢からは、言葉だけではなく、どんな行動にも即座に対応できる準備がされていることが感じ取れる。
まるで狼が獲物を囲い込むかのように、周囲はすでに包囲されている。狐吉が指示を出すその手のひらのひとつで、全てが決まる――。
彼の周りにいる者たちの目には、なにかしらの血の気を感じる。
だが、それもまた、今この瞬間には全ての支配権が狐吉にある証しに過ぎないのだ。
お蝶と黒子がどれだけ冷静であろうと、この威圧的な雰囲気の中では、もはや抵抗など愚かしい選択肢に過ぎない。
しかし、その警戒心の中にも、狐吉の言葉が一つの鍵を握っていることに気づくべきだった。
――うちの若い衆が行方知れず。
どこかで別の思惑が絡んでいるのだろうか?
人に物を尋ねるにしては物騒な装いだ。
周りを取り囲んでいる人数を見ると、余程お紺に気を付けろと言付けられたのだろう。
それを、二人は確かに感じ取っていた。
そして、狐吉がどれだけ警戒していても、その背後に潜む本当の意図に気づけるかどうかは、今後の行動にかかっていた。
それだけ二人は警戒されているということだ。
その場の空気が一層重く、緊迫する中で、お蝶の顔には微笑みが浮かんでいた。
誰もが息を呑むその瞬間に、彼女はゆっくりと口元を緩め、まるで何事も無かったかのように言葉を放った。
「親分さんとこの若い衆、いったい何があったんでございましょうな? あたいら、しがない旅芸人で、こんな大勢に囲まれる筋合いはありゃしませんぜ?」
その物腰、まさに花魁らしいしなやかな佇まいであったが、言葉の裏には鋭い刃を潜ませている。
それは、ただの言葉遊びではない、彼女がこの場の空気を支配している証であった。
狐吉の目が一瞬細められる。若干の警戒とともに、彼はお蝶の言葉を受け止めながら、その行動を見定めようとしていた。
狐吉はその表情を読み解くようにじっとお蝶を見つめる。
そして、どこか遠くを見つめるように、眉をひそめながら呟いた。
「お紺の勘がそう言った通り、お前さんたちは只者じゃない。だがな、ここにいる連中を相手に、若い衆をどうこうする力があるとは考えにくい。まさか、そんな突拍子もないことをやらかしたとも思えんが……」
しかし、お蝶が行方不明になった若い衆たちをどうこうしたという、一本の線には繋がっていない。
まさかこの二人が多勢に無勢をどうにかできる、そこまでの想像をするのは突拍子すぎる。
たとえそれが事実であってもだ。
親分が感じていた余裕は、表面に過ぎなかった。
実際には、彼の胸中に潜む疑念は徐々に膨らみつつあった。
お蝶たちが単なる芸を持ち寄った二人組ではないことは、すでに理解していた。
しかし、若い衆の行方不明と彼女たちの関わりが結びつかない限り、狐吉にとってその問いの答えはまだ見えなかった。
そのためにまだ親分には貫禄という余裕があった。
「何にせよ、少なくともお前さんたちは、何かしら知っているように見受けられる。おれが仏の顔をしているうちに、大人しく吐いてもらおうか?」
その言葉が発せられると、場の空気が一層張り詰めた。
狐吉の眼光が鋭く、お蝶に向けられる。
その目にはすでに一歩も引かない覚悟がうかがえる。
だが、お蝶はその問いに対して動じることなく、ただ静かに微笑んだ。
目を細め、その表情にはまるで魔性のような輝きが宿っていた。
彼女の唇から零れたのは、あくまで遊び心を含んだ言葉だった。
「ふふふ、では、ここでお魅せしてやりましょうかい?」
その言葉と共に、彼女の艶やかな笑顔が広がる。
あたかもこの世のものとは思えぬ美貌が、狐吉の眼前に煌めき、周囲の空気を一変させる。
それはあまりにも異質なものだった。
彼女の微笑みの裏には、深い魔性が潜んでいることを、今、まさに実感していた。
狐吉はその笑顔に、思わず背筋が凍るのを感じた。
だが、同時にその美しさと恐ろしさに心を奪われるような不思議な感覚が湧き上がった。
お蝶のその一瞬の表情が、ただの美しさではないことを直感的に感じ取ったのだ。
この場において、彼女たちはただの芸人ではない。
それどころか、恐ろしい力を秘めた者たちだと、狐吉はようやく気づく。
それでも、彼は冷静を装い、少し笑みを浮かべて言った。
狐吉は、心の底から怯え震えた。
その感覚がどこかで感じたことのあるものであると気づく。
ああ、そうだ、お紺と似ている。
お蝶のその眼差し、その雰囲気、全てがあの時の恐ろしさに重なる。
そして、確かに、お蝶とお紺はどこか似ている。
だが、それがどういう意味を持つのか、狐吉にはまだ完全には理解できていなかった。
汗がじわじわと滲み出て、顔にまとわりつく。
手のひらに冷や汗を握りしめながらも、狐吉はどうしてもその恐怖を表に出すわけにはいかぬと、歯を食いしばって堪えた。
周囲にいる子分たちの目もある。
ここで恐怖を露呈すれば、その顔を失うのは一瞬であろう。
だが、心はすでに恐怖に捕らわれ、どうしても冷静さを保つことができなかった。
お蝶はそれに気付いてされに嗾ける。
「昨晩、親分さんの子分がどうなったのか、ここで再現してみせましょうかねぇ?」
お蝶のその言葉に、周囲の者たちが息を呑むのがはっきりと感じ取れる。
誰一人として、その場で息をつける者はなかった。
いくら周りに仲間がいるからといっても、この空気に呑まれた者は誰もが恐れを隠し切れずにいた。
ひとしきりの静寂の後、周囲の男たちは、恐怖からか生唾を飲み込む音が、部屋の中に次々と響き渡る。
それは、何か得体のしれぬ恐ろしいものが、今、現実に迫り来る予感を彼らの身体が覚えている証だった。
冷汗が一層肌を冷やし、息が詰まる思いが広がった。
もし余裕があれば、恐ろしさ半分、興味半分で見たいと思うかもしれないが、ここにいる誰もが見たくないと思った。
それがなんであるかわからずとも、見たくないと本能的に危機を感じたのだ。
黙ってその場に立ち尽くす男たちに、お蝶はさらに歩み寄り、艶やかな瞳を輝かせながら口を開く。
「どうでやす? 見たくはありやせんか?」
「な……にを見せてくれるっていうんだ?」
その言葉を発した瞬間、震える声を抑えることができなかった。それは隠そうとしても隠し切れぬ怯えから漏れ出た、情けない響きだった。
その言葉は、まるで鞭のように周囲の者たちの胸を打った。
花魁口調で、まるでささやくように語るその声が、無意識に彼らを引き寄せ、そして遠ざける。
恐ろしさを感じつつも、どこか好奇心を呼び覚ますかのような、二重の感情を抱かせる。
その魅力的な声の響きには、妙な引力があった。まさに、引き寄せられたかのように、目の前の状況から目を離すことができなかった。
だが、その引力に逆らうように、一人の男がぎこちなく身を退く。
たとえ心の中で興味が湧こうとも、今ここで立ち尽くしていることが生死を分ける一線であることを、誰もが本能的に感じ取っていたからだ。
親分はまるで石像のように動かなかった。
目を閉じず、息を飲むことすら忘れたかのように、ただ無言でその場に固まっている。
周囲の空気がひどく重く、肌に触れるものすべてが冷たく感じられた。
今日は夏のように暑い日であったというのに、この部屋はまるで冬の霜に包まれたかのような冷たさを感じさせる。
まるで、何か異次元から来た冷気が一気に押し寄せてきたかのようだ。
その冷気が親分の背中を伝わり、彼の心までも凍りつかせているように感じられた。
お蝶は、いかなる緊迫した状況にも一切動じることなく、ただ微笑みを浮かべている。
まるで、彼女にとってはこの時間こそが至高の瞬間であるかのように、その笑みは艶やかで、誘惑的で、どこか毒の香りを漂わせていた。
その顔立ちはまるで天女のように美しいが、見る者は皆、何かしらの恐怖を覚えずにはいられなかった。
その艶笑の中、お蝶は一言も発さず、親分がどう反応するか、彼の動きをじっと待っている。
まるで、獲物が自分に近づいてくるのを楽しむように、静かに、しかし確実にその時を待っている。
息遣いが、まるで空気そのものに乗り移ったように感じられる。
その静寂があまりに深いと感じているとき、ふいに「ガタン」と大きな音が響いた。
部屋に響き渡ったその音は、まるで長く続いた静寂が破れた音のように、重く響いた。
黒子が、しっかりと背中を丸め、ゆっくりと葛籠を下ろす音だった。
足元に何かが置かれるその音に、周囲の者たちも一斉に意識を集中させた。
黒子は言葉を発していない。
ただ黙々と行動し、静かな存在感を放っているだけだった。
その姿勢は、あくまで冷静で無駄がなく、存在そのものが周囲を圧倒していた。
葛籠が床に置かれ、黒子はその隣に無駄なく正座を決めた。
部屋の中の全員が目を奪われていた。
どこか戦場のような緊張感を漂わせながら、黒子は黙って周囲を見回し、静かな眼差しを親分へと向けた。
その目は、無言であるがゆえに、かえって鋭く冷徹に感じられる。
まるで、どこからともなく迫る暗雲のように、その空気がますます重く、緊張感が増していく。
親分も、黒子の動きに完全に意識を向けていたが、依然としてその目を合わせることはなかった。
親分の片足が、まるで意識のないままに、重たく地面を擦りながら引かれていった。
その足先が、爪先からじわじわと震えを伝え、まるで大地が親分を拒むかのように、微細に震えていた。
親分の表情は見るも無残で、言葉を発するどころか、口を開けたまま動けぬようだ。
お蝶はその動きひとつひとつを見逃さなかった。
彼女の目は鋭く、まるで隙間なく相手を観察する猛禽のようだった。
その視線を感じた親分は、息を呑むことすら忘れて、ただただ震えている。
もう言葉を返すことなどできない。
彼の唇が震え、口をパクパクと動かしているが、その音すら空気に吸い込まれていく。まるで泡を噴きそうなほど、恐怖に支配されていた。
お蝶は、ゆっくりとした足取りで親分に一歩近づく。
華奢な体躯に似つかわしくない、その足取りの鋭さに、周囲の者たちの緊張が一層高まった。
「このままでは埒が明きませんぜ、親分さん?」
その声は、穏やかでありながらも、どこか人を引き寄せるような力強さを持っていた。
あくまで、優美に、それでいて鋭く彼を追い詰めるその口調が、恐怖を一層深める。
親分は、もはや言葉を返す力すらなく、ただ無念に唇を震わせている。
その様子を見たお蝶は、さらに一歩、彼に詰め寄った。
まるで、美しい毒蛇がその獲物に最期の一撃を加えるような、冷徹で優雅な動きだ。
「もう十分にお前さん、恐怖を味わいなすったね?」
お蝶はその問いかけに、どこか愉悦を含ませて笑みを浮かべた。
その笑みには、優しさの欠片も感じられない。
ただただ冷徹な美しさだけがそこにあった。
「まだ恐怖を味わいやすかい? それとも、刹那に命を断って欲しいと、あたいに土下座でもしやすかね?」
その声が響き渡ると、親分の顔色は更に蒼白となり、まるでその場から消え失せてしまいたいかのように、動けなくなった。
お蝶は一度、ゆっくりと目を閉じた。
その瞬間、部屋の空気が一変した。
周囲の者たちは動けず、息を呑んだままでいる。
しかし、その瞬間をきっかけに、突如として逃げ出す者たちがいた。
親分の子分たちが、顔を見合わせ、慌てて足を向ける。
彼らの動きは一糸乱れぬものではなかったが、今の状況がもはや勝ち目がないことを理解したのだ。
そして、親分自身もその場から逃げ出した。
だが、それを咎める者は誰一人としていなかった。
逃げるが勝ち、とはよく言ったものだ。
今まさに、その言葉が真実であることを彼らは確信したに違いない。
勝てる見込みのない戦に挑むのも名誉であろう。
しかし、無駄に命を落とすようなことになれば、誰もがその決断を後悔するだろう。
だからこそ、親分も子分たちも、迷わずその場を離れたのである。
お蝶はその逃げていく親分の背中に、冷徹な声で呟いた。
「逃げるんですかい? 逃げられませんぜ?」
その言葉は、まるで呪詛のように、空気に染み込んでいく。
どこまでも、冷たい響きを持った言葉だった。
囲まれていたのは、お蝶たちではなかった。
むしろ、そこに捕らえられ、囲い込まれていたのは、他ならぬ親分たちであった。
彼らこそが罠の中心にいた。
それは、まさしく死の罠であった。
無数の男たちが、まるで場所を追われるように、ひとりまたひとりと細切れにされていった。
それはまるでところてんを押し出すようだった。
お蝶も黒子も指一つ動かしていない。
全ては仕組まれた罠に、彼らが自ら飛び込んだ結果であった。
まるで所詮は命の価値など無きよう、男たちは次々に鋭い〝網〟に掛かり、その身を切り裂かれていった。
目の前で肉の塊となり果てた者を見て、残された者たちは、その場で足を止めようとした。
しかし、後ろから押し寄せる者たちの圧力に、誰もが慌ててその場を離れられず、まるで将棋倒しのように、次々と倒れた。
細切れにされて事切れた者たちは、まだ幸運だったと言えよう。
だが、何度も何度も鋭利な刃がその肉体に突き刺さり、無残に引き裂かれた者たちの中には、生きながら絶望の苦しみを味わう者もいた。
痛みを感じることすらできぬほど、無惨に裂けた体の残骸が、その場に散らばっていった。
発狂した一人の男がお蝶に襲い掛かった。
その眼は、もはや理性を失い、ただの野獣のように突進してきた。
お蝶はまるで風のように軽やかに一歩後ろに引き、男の攻撃を華麗に躱した。
そのまま、男は止まることなく、無警戒に黒子の方へ突っ込んできた。
だが、黒子は動かない。
葛籠の横に正座したまま、微動だにせず、その目はただ前を見据えていた。
男が自らの力で自滅するのを、黒子は知っていたのだ。
男が黒子のもとにまでたどり着くことはなかった。
予想通り、その男は途中で足を取られ、腹から地面に突っ伏した。
背中を見せるような格好で倒れた男の体は、何かが壊れた音を立てて崩れ落ちた。
それはなぜか?
その原因はすぐに分かる。
男の膝はすでに断たれていたのだ。
何も知らずに突っ込んできた男は、力尽き、勢いのまま黒子にぶつかろうとしたが、足元を失って、無残に地面に倒れたのであった。
悲惨な光景に血の香りが立ち込めた。
その空気は重く湿っているかのように感じられる。
血しぶきが飛び散り、冷徹な殺戮の中に身を投じる者たちの惨劇が目の前に広がっていった。
お蝶は、そんな血の匂いと混じる空気を、まるで楽しんでいるかのようにゆっくりと見渡した。
そして、静かな声で言った。
「そろそろご覚悟をお決めになったらどうですかい?」
その問いかけには、恐怖の響きと冷徹さが同居していた。
その声は、まるで全てを見透かしているような不気味な強さを持ち、誰もがその言葉の中に自分の運命を感じ取ったに違いない。
その場に立っている者たちの中には、もちろん親分も含まれていた。
彼の目の前には、すでに幾つもの死体が広がっており、その目はどこか虚ろで、もはや反応すらできぬほどの恐怖に支配されていた。
だが、お蝶のその問いかけには、全く反応することがなかった。
誰もが恐怖に足をすくませ、いまやその場にいるのは、ただの影だけとなっていた。
震える親分の手に、ひときわ異彩を放つ短銃が握られていた。
その手は、まるで命を握るかのように震え、ただ一度、引き金を引くことに全てを賭けるかのように見えた。
銃口は最初、地面に向いていたが、親分の手は震えながらも次第にその銃口を持ち上げ、ついにお蝶の姿を捉える。
彼女は動じることなく、堂々と立っていた。
その瞳の奥には、冷徹で美しい光が宿っている。
撃てと言わんばかりだ。
親分はその光景に背筋を凍らせながらも、意を決して吠えるように声をあげた。
「アァァァァァッ!」
その声は、まるで獣のように荒々しく、震える体を無理にでも動かそうとするような叫びだった。
引き金が引かれ、その銃声が鳴り響く。
だが、銃弾はどこか遠くの空へと消えていった。
快晴の空に、空しく消えていったその弾丸は、まるで最初から当たる気配すらないかのように感じられた。
お蝶はその瞬間、微動だにせず、笑みを浮かべた。
魔性の笑み。
その顔に、微塵の恐怖も不安も見えない。
ただ、深い底知れぬ確信と、妖しさが込められていた。
「銃なんてものは、そうそう当たるもんじゃありやせんよ。そんなに震えていては、余計に当たりゃしませんぜ。あたいの業は百発百中ですけどね、ねえ?」
その言葉が耳に届くと、刹那、お蝶は腕を振った。
親分は、あまりの恐怖に、思わずその震えが止まった。
しかし、何も起こらないように見える。
お蝶はただ、無感情に腕を振っただけだ。
その瞬間、時間が静止したかのように感じられた。
周囲の音が一切消え、ただ息を呑むような空気が流れる。
数秒の時が流れた。
息を呑んだ親分が急に笑い出した。
「ははははっ、なにが百発百中だ。なにも起こらんじゃないか――ッ!?」
その笑いが響く中、親分の体に異変が起きた。
それは、確かにお蝶の手によって引き起こされた、静かなる死の刃が目に見える形で実行された証だった。
「いえ、あたいは確かに斬りやしたよ」
と、お蝶は呟く。
その言葉が耳に届いた瞬間、親分は自分の身に起きた異変に気づいた。
その体が、まるで瞬きのようにずれていくのを感じた。
腰に乗っていた胴体が、何か異音を発し、激しく動き出した。
すでに胴が輪切りにされていてた。
血管が裂け、胴体の動きは次第に狂い、悶絶しながら親分の上半身は血に染まっていった。
その足元がふらつき、崩れかけた姿勢で、ようやく理解した。
その眼差しには未だかすかな光が宿っており、地面に落ちる血を見つめながら、何とか生きていることを実感していた。
しかし、その時間も長くはなかった。
放っておけば、そのうち事切れるだろう。
その間に、土を掻き毟るがいい――死ぬ前にせめて、その絶望を味わうがいい。
天狐組の親分――狐吉は最後を迎えた。
そして、生き残った子分たちは、まるで死神に触れられたかのように、次々と地面に尻を付けて倒れていった。
絶望に顔を伏せ、もはや死を待つばかりとなった。
しかし、本当の最後は、まだこれからだった。
まだ、最期の一手が残っていた。
黒子の手が、ゆっくりと葛籠の蓋に掛かる。
その音が、まるで死神がその鎌を構えたかのように、静寂の中で響き渡る。
そして――。
◇ ◇ ◇
弥吉はふんどし姿で、天井から無惨にも吊るされていた。
その姿は、まるで命の尽きる時を迎える者のように見えた。
体は痙攣し、額からは汗が滝のように流れ落ちる。
その肌はすでに蒼白く、血の気を失っていた。
時折、竹棒で打たれる痛みによって意識は一瞬鮮明になるが、またすぐに闇に引き戻される。
何度も何度も、竹棒が身体に食い込み、鈍い音を立てて弥吉の躰を叩く。
そのたびに、彼は苦しみのあまり叫ぶこともできず、ただ虚しく呻くだけだった。
打たれるたびに、意識が遠くなり、冷たい水が彼の顔にぶっ掛けられ、その冷たさに一瞬だけ生きる力を感じるものの、それもまたすぐに消え去っていく。
「よし、またひと叩きだ!」
と、男たちのひどい笑い声が響く。
だが、その声すら、弥吉の耳にはまるで遠くから聞こえるように感じられる。
彼はもはや、どこが現実で、どこが幻かもわからぬような状態に陥っていた。
その間にも、竹棒での仕置きが繰り返され、弥吉の体に深い傷が刻まれていく。
だが、それすらも次第に感じなくなっていった。
痛みさえも、もはや遠い世界のもののように感じられる。
気を失いかけ、まるで死と生の間を漂うように、弥吉は朦朧とした意識の中で思考していた。
目を開けても、周囲がぼやけて見えるだけ。
冷たい水の感触が顔を覆い、やっとその感覚が現実を思い出させてくれる。
水は冷たく、心の中でかすかな怒りと絶望が交錯する。
だが、その思いも、やがて冷水の冷たさと同じように薄れていく。
気を失う度に、彼はふとした瞬間に目を覚ます。
見るもの全てが歪み、音も色もすべてがぼんやりとし、彼はその中で、死という運命に何度も引き寄せられるように感じていた。
しかし、その命はなかなか絶えなかった。
まるで意志の強さが、身体を引き止めているかのように。
だが、弥吉の心の奥底では、ただひとつの感情が強く芽生え始めていた。
それは、死への恐怖ではなく、もはや自分を待つ復讐の炎のようなものだった。
どれほど苦しみ、命を削られようとも、彼にはそれを越える力が残っていた。
そして、これからもその力が目を覚ます時が来ることを、弥吉は感じ取っていた。
しかし、それがいつ来るのかは分からない。
ただ、今はただ無限の苦しみと戦いながら、意識の中でその時を待っていた。
地下室の重苦しい空気の中に、足音が響き渡る。
誰かが、ゆっくりと足を踏み入れた。かすかな足音が、冷たい石の床を打ちながら、暗闇を切り裂いていく。
その足音の主は、まるで周囲の空気までも支配しているかのように、静かな威圧感を放っていた。
お紺が姿を現した。
高ぶりを抑えきれない笑みを口元に浮かべ、手にした扇子を軽くひらりと振りながら、無遠慮に弥吉の姿を見下ろす。
その瞳は、まるで闇の中で光を放つ不吉な星のように妖しく輝き、弥吉のすべてを知っているかのように見つめていた。
「もうだいぶ痛めつけられたようだねぇ……」
その言葉には、まるで彼が耐えてきた苦しみに対しての冷徹な観察と、少しの楽しさが含まれていた。
弥吉の身体はもう無力に垂れ、血と汗でべっとりと濡れている。
だが、お紺の目にはそれすらもただの“遊び道具”に過ぎなかった。
弥吉の前に立ったお紺の瞳は、弥吉の弱った姿をじっくりと舐め回すように、ゆっくりと、くるりとその身体を巡らせた。
「本番はこれからだよ」
その一言に、地下室に漂う空気が一層重く、冷たく、鋭くなった。
お紺は、足元にひざまずいている弥吉に歩み寄ると、優雅にその長い指を伸ばし、弥吉の項垂れた顎を力強く引き上げた。
まるで自分の意のままに操る人形のように、無理矢理に顔を上向かせる。
その瞳は笑みを浮かべながら、どこまでも冷徹に、弥吉の顔を舐めるように見つめていた。
「可愛げも無いね、あんた。だが、まだまだお前には楽しませてもらうからさ」
言葉の端々に、明らかに冷笑を含みつつ、お紺は片腕を横に振り、周囲にいた男たちを一掃する。
「お前たちはお行き、あとはあたしがやるよ。邪魔をされたら面倒だからね」
妖しく輝くお紺の瞳に見られ、仕置きをしていた男たちは、恐怖を抱きながら黙ってその場をに逃げた。
心の中でまだ消えない一抹の抵抗が、弥吉を微かに生かしていた。
それがどれほど無意味で、無力なものであろうとも、苦しみの中でも彼はまだ生きる力を求めていた。
だが、その力がどれほど無駄なものであるかを、今この瞬間、お紺ははっきりと知っているのだった。
そして、地下室の闇の中で、今度こそ本当の恐怖が始まろうとしていた。
二人きりになった部屋で、お紺は積極的に責めた。
弥吉の脚に自らの脚を絡め、竹棒で打たれた赤い傷に指先を這わせた。
小さく痙攣する弥吉の反応を楽しみながら、お紺はさらに責めて攻めた。
長く伸びたお紺の舌が、汗を噴出す弥吉の胸板を這う。
雄臭を嗅ぎながら、お紺の指先は次々と弥吉の敏感な部分を攻めていく。
「前からあんたには目をつけてたのさ、いつか喰ってやろうってね」
お紺の前歯が弥吉の乳首を甘噛みする。
「本当はもっと熟してから喰いたかったんだけど……仕様がないね!」
「ギャァァッ!」
眼を見開きながら弥吉は口を大きく開けた。
胸板から顔を離したお紺の口は紅く濡れていた。
そして、胸板は乳首ごと皮を喰われていた。
本当に喰われると弥吉は恐怖した。
竹棒で叩かれるよりも恐ろしい。
生きたまま喰われるなど、底の知れぬ恐怖と苦痛だ。
「た、助けてくれ!」
弥吉は震えながら声を振り絞った。
必死に助けを求めるその声が、暗い地下室の中で空しく響き渡る。
その顔には恐怖の色が濃く、眼は焦点を失い、息も荒くなっていた。
彼の全身は痛みと恐怖で支配され、ただその場から逃げ出すことだけを必死に考えているようだった。
だが、その求められた「助け」を、どこからも得ることはなかった。
お紺は冷ややかな微笑みを浮かべながら、弥吉の恐怖に満ちた顔をじっくりと観察していた。
その目には、少しの同情も、少しの慈悲も見受けられない。
ただ、無慈悲な好奇心が浮かんでいるばかりだ。
「できないねぇ」
彼女の声は、まるで冷徹な冷泉のように響く。
まるで弥吉の悲鳴など、何の感情も呼び起こさない。
ただ、物のように扱われるだけだ。
「お、おおお願いだ!」
弥吉は再度懇願した。
だが、その声にはかすかな希望も見えなくなっていた。
どうせ、どんなに叫んでも無駄だと、心のどこかで理解していた。
それでも、最後の一縷の望みをかけて、なおも彼女に頼む。
だが、お紺の表情に変化はない。
彼女は軽く鼻で笑いながら、弥吉に言葉を投げかける。
「あんたはあたしを裏切った、二度も」
その言葉は、弥吉の心に深い傷を残すものだった。
何度も言い訳を試みようとするが、言葉が出てこない。
自分が彼女に対して犯した裏切りの事実が、無情に思い起こされるだけだった。
沈黙が支配する。
お紺はその沈黙を無視して、弥吉の前に優雅に膝をつくと、じっと彼を見つめた。
ごくりと、弥吉の喉が鳴る。
彼の体はすでに恐怖と痛みで動けず、息を呑むのが精一杯だった。
その顔からは、何か言葉を発する力すらも失われているようだった。
お紺の冷たい指先が、弥吉の胸の傷にそっと触れる。
傷口からはまだ血が滲んでおり、その触れられた感覚に、弥吉は強い痛みと共に恐怖が胸を締めつけるのを感じた。
「ギャ!」
弥吉は痛みに耐えきれず、思わず声を上げた。
胸の中で、痛みと恐怖が一気に噴き出し、全身が震える。
その声に、お紺は微笑みを浮かべながら、まるで楽しんでいるかのように彼の反応を見守る。
その笑みは、ただの楽しみではない。
無慈悲な愉悦、そしてその痛みからさらに深い場所へと追いやる楽しみ。
それが、お紺の眼差しに浮かぶ冷徹な光であった。
「痛いかい? それとも、まだ足りないか?」
お紺は囁くように言いながら、その指先で傷口を更に押し込む。
弥吉の身体は反射的に震え、また一度、声を上げそうになるが、その言葉を飲み込んだ。
痛みを超えて、もはや恐怖と絶望が彼を支配していた。
それでも、お紺の楽しみは続く。
「一度目は、そうさね……名はなんとだったか。ほれ、あんたが夢中になっていたあの娘のことさ」
お紺は地下牢の湿り気をも愉しむように、ゆっくりと弥吉の顔を覗き込んだ。
その眼には、獲物を弄ぶ蛇のような光が宿っている。
弥吉の全身がぴくりと震えた。
忘れようとしても、忘れられるはずがない。
あれは――お千代の姉、お千佳――己が若き日に、魂ごと惚れ込んだ女であった。
「ふふ、やっぱり思い出したね。あたしは見逃さなかったよ。あんたがあの娘を見つめる眼……まるで宝でも見るようだった」
お紺は笑いながら続けた。
その声は、まるで絹のように柔らかいが、心の奥を鋭くえぐる冷たさを含んでいた。
「だからね、わざと代官に売ってやったのさ。あの娘を地獄に落とせば、あんたがどれだけ苦しむか……それを見てみたかったのさ」
嗜虐に満ちたその言葉に、弥吉の顔から血の気が引いてゆく。
口を開いて何か言おうとするが、声にならない。
しかし、なおも弥吉は首を振る。
必死に己の弱さを隠すかのように、怒りと恐怖と後悔を呑み込んだ。
「おれは……そんな女、知らねえ……だから、助けてくれ……姐さん……」
かすれた声で懇願する弥吉。
その様は見るに堪えぬほど惨めであったが、お紺の眼には、それすらも一興と映る。
「そうさねえ、あんたはあの娘を忘れたかのように、まるで忠犬みたいにあたしに尽くしてくれたよ。あのときは、ちっとばかり許してやろうかとも思ったさ。でもね……」
お紺の声は低くなり、そこにぞっとするほどの憎悪と諦念が混じっていた。
「二度も裏切られるとは、思いもしなかったよ……弥吉」
「おれが……姐さんを裏切るだなんて……」
呻くように呟く弥吉。
目は虚ろで、言葉に実が伴っていない。
だが、お紺の言葉はとどまらぬ。
「あの娘さ……あんたがこの間、逃がそうとしていたあの娘……まさかとは思ったけどね。あれ、あの娘の妹じゃないのかい?」
びくりと、弥吉の肩が跳ねた。
瞠目したその眼は、まさに見透かされた者のそれだった。
だが、お紺の表情は変わらぬまま、言葉を紡ぎ続ける。
「顔も、名も……あたしには覚えがないけれどね。臭いが同じなんだよ」
「……臭い、だと?」
弥吉の声が震える。
その声には、理屈を超えた戦慄が滲んでいた。
「あたしの鼻は利くんだ。あんたが惚れる女の、あの生臭さ……甘ったるくて、薄ら寒い臭い……同じなのさ。あたしの中に染み付いてんだよ、あの娘の苦しむ声と一緒にな」
お紺はどこか陶酔したような表情を浮かべ、弥吉の胸に手を這わせる。
その指先は、まるで彫刻刀のように冷たく、そして残酷だ。
弥吉は、もはや息を呑むことすらできなかった。
お紺の言葉は、単なる比喩ではない。
彼女の嗅ぎ取る「臭い」とは、魂の記憶か、あるいは地獄に通ずる呪術めいたものか――。
弥吉の胸中に芽生えたのは、もはや後悔でも悲しみでもない。
――恐怖そのもの。
この女は、人ではない。
それが、弥吉の喉までせり上がってきた確信だった。
「さて――どこから喰らおうかねぇ?」
お紺は、ぞっとするほど艶めかしい声でそう囁いた。
爛々と光るその眼差しは、まるで肉を求める獣のごとく、吊るされた弥吉の躰を舐め回していた。
「や、やめてくれ……っ!」
弥吉の声はもはや叫びではなかった。
嘆願とも、泣き言ともつかぬ、獣のうめきに近いもの。
血と汗に濡れたその顔に、恐怖と後悔と、微かな希望が入り混じっている。
「もう……もう嘘はつかねえ。姐さん……姐さんに、魂を売る……売るから、どうか助けてくれ!」
それは虚飾ではなかった。
本心からの言葉であった。
魂を売ってでも、この地獄から逃れたい――もはや、男の矜持など残ってはいない。
お紺は、しばし黙したまま、弥吉の苦悶にゆっくりと微笑む。
「魂を……売るんだって?」
唇の端が、氷のように冷たく吊り上がった。
「売る、売る! おれのすべてを姐さんに預ける、だから……だから命だけは!」
懇願する弥吉の瞳には、光が乞うように揺れていた。
その様は、まるで断頭台を前にした罪人が神に縋る姿に似ている。
だが、お紺の口から返ってきたのは、赦しではなかった。
「醜いもんだねぇ、人間ってのは」
静かに吐き出されたその声には、情も容赦もない。
そこに宿っていたのは、呪いにも似た絶望の色。
裏切りだった。
あまりに明白な、そして取り返しのつかぬ――裏切り。
お千代への裏切り。
命がけで彼女を逃がそうとした、あの一瞬の決意を、いま自らの口で踏みにじったのだ。
かつて愛した女、お千佳への裏切りもまた、過去に置き去りにされたまま葬り去られている。
弥吉は、女を裏切ったのだ。
何度も、何人も。
それはもう、誰のせいでもない。
弥吉自身が選び、そして積み重ねてきた罪――。
お紺はその全てを見透かし、いとおしむように、弥吉の頬に手を添える。
その指先は、まるで母が子を慰めるような優しさで、だが爪の先には、静かに血が滲んでいた。
「魂を売るんだろう? ならば、あたしが喰らってあげようじゃないか。魂ごとね」
その囁きは、まるで甘い毒。
弥吉の心の奥に深く染み入り、逃げ道をすべて塞いだ。
そして、地の底より這い寄るような嗤いが、暗い地下の牢を満たした。
鼻水と涙とがぐしゃぐしゃに絡み合い、弥吉はまるで嬰児のごとく声を上げて泣いた。
「た、助けてくれぇ……なんでも……なんでも言うこと聞くけん……」
泥のように崩れた男の懇願を前に、お紺はしばし沈黙した。
闇の中、その瞳だけが妖しく、まばゆく金色に輝く。
「――その言葉。嘘も偽りも、寸分もないんだね?」
闇に潜む魔の問いに、弥吉は打ち震えながら首を縦に振った。
もはや反論の意志すら持たぬ、ただの犬のように。
お紺は、にたりと笑んだ。
「いい子だよ。では……助けてあげようじゃないか」
その声音は、どこか慈悲深さを装っていたが、底の底では冷えきっていた。
だが、ただではない。
無償の救いなど、この女の辞書には存在しない。
お紺は静かに、だが決して選択の余地を与えぬ口調で告げる。
「見返りとして――あんた、あの娘を、代官の屋敷へ連れてお行き」
それは、裏切りに次ぐ裏切り。
愛の記憶に唾を吐き、希望を喰い物にして、なおお紺への忠誠を示せという命だ。
そして――魂を売った以上、弥吉に拒む道はない。
返事など要らぬ。
返事など、許されぬ。
お紺はすでに知っているのだ。
男の意志など、とうに喰らい尽くしたあとだと。
縄を解かれた弥吉は、糸の切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。
身を支える力すらなく、地べたに這いつくばる。
そんな哀れな男に背を向け、お紺は音もなく階段を昇ってゆく――が、その足がふと止まる。
闇の中で、ひとつだけ、冷たく澄んだ声が落ちた。
「――もし、あたしをまた裏切るような真似をしたら……地の果て、地獄の奥底まで追いかけて、喰い殺してやるからね」
それは誓いにも似た呪詛。
血に飢えた蛇のように、耳朶に絡みついて離れぬ。
ここが地獄ならば、これから堕ちるのはその更に下。
地獄の更に底に、もはや魂の居場所すらない。
弥吉の口からは、呻きにも嗚咽にもならぬ空気が洩れた。
心の底から湧き上がる絶望が、声にならぬまま胸を穿つ。
そのとき――地下の闇に、ひときわ不気味な嗤い声が響いた。
「クツクツクツ……クククク……」
それは、お紺ではない。
誰かが見ている。
どこかで嗤っている。
弥吉が堕ちた地獄は、まだまだ浅かった。
幕は静かに、次の地獄の始まりを告げようとしていた――。