偽りの春 四之幕
代官屋敷の奥座敷。
重厚な木の床が静かに響く中、お紺は黒塗りの酒器を手に、代官の前に跪いていた。
薄闇の中、行燈の灯りがゆらゆらと揺れ、室内の空気を艶かしく照らし出している。
代官は足を組みながら、ぼんやりと杯を受け取った。
「少しばかり、早ぇんじゃござんせんか?」
お紺の問いかけには、酌の早さではない別の意味が込められていた。
代官は酒を口に含み、ふっと一息つくと、無愛想に言い放つ。
「腹が減っておるのだ。すべてはお主の段取りが悪ぅて、こうなったのじゃ」
その言葉には、ただの愚痴に留まらぬ重みがあった。
むしろそれは、自己中心的な欲望がそのまま表れたような口調だった。
お紺は、その言葉に気を使い、静かに目を伏せながら言った。
「一人ずつ、ゆるりとやるって話じゃありやせんか……」
その言葉は、相手に対しての不満と、それに従ってきた自身の理性を守ろうとする微かな反発を感じさせた。
だが、代官はすぐさまその言葉を遮る。
「良いではないか。女に逃げられたのはお主の責めじゃ」
その言い草には、どこか呆れたような、そして力強い自信が滲んでいる。
「かまわぬわ。女など幾らでもおる。儂を誰と思うておる?」
その冷徹な言葉には、どこか自分を神の如く高く位置づけた思いが感じられ、言葉の重みが胸に突き刺さる。
お紺は代官の言葉に、しばし黙ったまま視線を落とす。
その目には、ただ言い返すことができないような、いや、言いたいことが溢れんばかりに浮かんでいるのが見て取れた。
しかし、彼女は口をつぐみ、ただその視線を伏せた。
目は何かを訴えかけるようでありながら、もはやその言葉は出ることはなかった。
その時、代官の手が無意識に杯を持ち上げ、口に運ばれる。
だが、その視線は次第にお紺の顔に戻り、じっと彼女を見つめる。
「ほう、どうした? その目は何か申したげじゃな」
代官の言葉には、軽い挑発が込められていた。
だが、お紺は答えることなく、静かに唇を噛み締めたまま、沈黙を守り続けた。
その沈黙は、まるで言葉で表せない怒りと、悲しみ、そしてかすかな恐怖が入り混じったもののように、重く静かな空気を作り上げていた。
代官はその沈黙を不快に感じたのか、ふっと酒をあおり、座ったまま体をひねった。
「ふん、お主は言葉を選ぶのが得意なようだな」
その軽口にお紺は微かに顔を上げ、無言で答えた。
お紺の内心には、もう何度もその問いに対する答えを準備していたのだろう。
しかし、その答えが出ることはなかった。
しばらくの間、二人の間に静寂が支配し、ただ行燈の火が揺れる音だけが聞こえていた。
月に一人、という約束だった。
だが今月、その約束はどこへやら。
一人目の娘は、逃げられた挙句に命を落とし、二人目もまた、行方をくらませたときたもので、代官の顔色は日に日に険しくなるばかりだ。
それでも代官は、その堪え性の無さからか、すぐに新たな獲物を求めた。
今度はお千代に目をつけ、あろうことかその首に印をつけてしまった。
だが、印をつけたのは、二人目の逃亡の報が届く前のことであった。
代官という権力を持つ者は、政治の中であれば隠し事など容易いことであろう。
だが、彼が抱えているのは、ただの政治的な権力だけではない。
悪い噂が流れるたびに、女郎たちの心は次第に離れ、耳に届く声が少なくなる。
そして、もうひとつ、お紺はその先を恐れていた。
「逃げた娘を探しに出した子分から、いまだ報せがねぇんでさぁ」
お紺は、代官の前で慎ましやかに告げる。
その声にはわずかな緊張が漂っていた。
代官はその言葉に無関心な態度を示し、あろうことか、酒を口に運びながら言った。
「逃げた娘がまだ見つからぬだけだろう」
「それだけで済めばいいんですがねぇ……お代官様も、どうぞご用心なさいまし」
お紺の言葉には、無理に抑え込んだ警戒心が含まれていた。
その後、お紺はゆらりと立ち上がる。
無駄な動きは一切なく、その姿は艶やかでありながら、どこか冷徹な美しさを持っていた。
彼女は軽く会釈をし、静かに部屋を後にする。
「それでは、御機嫌なすって」
その言葉を残し、奥座敷の障子を閉めると、彼女は小さく呟いた。
「……糞爺め」
その呟きは、降りしきる雨音にかき消され、誰にも聞こえぬまま消えていった。
雨はますます強さを増し、屋敷の屋根を叩く音が、まるでお紺の心の中の動揺を映し出すかのように響いていた。
だが、お紺はその心の動きを誰にも見せることなく、足音を静かに廊下に響かせながら歩みを進めて行った。
◇ ◇ ◇
代官屋敷を出たお紺は、御付きの者たちを従えて、荒れた夜道を歩みはじめた。
雨風は容赦なく強く、空は鉛色に重く垂れ込め、嵐の如く吹き荒れる風に、御付きが持つ行燈の灯りはまるで揺らされる命のように、激しく左右に揺れた。
その灯りが一瞬、雨に濡れてひとたび静まり返ったかと思うと、すうっと音も立てずに消え去った。
その闇の中で、お紺の形相は見たこともないほど歪み、怒りが口元にしわを刻んだ。
「ちっ、あの糞爺め……。どいつもこいつも、腹の立つ奴らばかりだね!」
その怒りは、もはや抑えることのできぬほどの怒涛となり、お紺の体を震わせた。
その眼は、赤く火照り、血走り、全てを焼き尽くすかのように鋭く、そして冷徹に輝いていた。
怒りが最高潮に達したお紺は、その長い爪を前にいた御付きの背に振り下ろしていた。
「ぎゃぁぁぁ!」
男の背は一瞬にして血を噴き出し、息も絶え絶えに地面に両手をついた。
お紺はその苦しむ様子を容赦なく見下し、裾を捲し上げて男の腹を蹴り上げた。
「ぐがっ……」
胃の内容物を吐露した男をお紺が軽蔑した。
「汚らしい真似すんじゃないよ!」
その吐露を、まるで見世物のように冷ややかにお紺は眺め、再び足を踏み込んだ。
その冷徹さが、男の命をさらに削っていく。
怒りの収まらぬお紺は、ひときわ力強く男の後頭部を踏みつけた。
力強く踏み込まれたその頭は、地面に激しく叩きつけられ、男の命はあっけなく奪われた。
その無惨な様を一瞥したお紺は、無表情で呟いた。
「こんな下男、殺したところで腹の虫は収まんねぇよ」
お紺は深く息を吸い込み、その気持ちを静めるように、荒れた風の中で歩き続けた。
足元はぬかるみ、時折足を取られながらも、その姿はどこか冷徹な雰囲気を漂わせていた。
周りの音は、ただただ激しく吹き荒れる風と、無惨に散った男の血の色が映し出された闇だけが支配していた。
その冷たい眼差しの奥底には、深い怒りの炎が燻り続けていた。
◇ ◇ ◇
面を被ったような冷徹さを心に宿しながら、お紺は何食わぬ顔で天狐組の屋敷に戻った。
だが、その足取りがいつもとは違った。
荒れた気性を抑え込むように歩くその姿には、どこか陰湿なものが漂っていた。
屋敷に入ると、子分たちが急ぎ足で駆け寄り、慌てたふためた様子だった。
「姐さん! 一大事でさぁ、奥の間へ、早ぇとこ!」
その様子を見て、お紺は眉をひそめたが、何も言わずに子分に従い、奥の部屋へと向かう。
部屋に入ると、片耳に布を当てられた男が呻き声を上げ、親分の狐吉がその横で怒声を飛ばしていた。
「畜生め、誰にやられたかはっきり言え!」
その怒鳴り声は、まるで屋敷の柱を揺らすかのように響き渡った。
その傍らにいる男は息も絶え絶えで、目の前の状況が一層不安を煽る。
お紺は冷静を装いながらも、視線をぐるりと子分たちに向けた。
「いったいなにがあったんだい?」
その問いかけに、部屋の中は一瞬沈黙に包まれた。
子分たちは口を開かず、ただ怯えた様子でお紺を見つめるばかり。
やがて、答えたのは狐吉だった。
「いや、それがよ……さっぱりわかんねぇんだ」
その答えに、お紺は目を細め、静かに吐息を漏らした。
「わからねぇって、どういうこったい!」
お紺の声が冷徹に響く。
米神血管が浮き出、鋭い目つきが部屋の空気を凍りつかせた。
それを感じ取った子分たちは恐怖に震え、親分でさえも背中を丸めて腰が引けた。
「だってよぉ、おまえ。帰ってきた時にはもう、こうなっちまってて、話も聞けねぇんだ」
親分が言い訳めいた声を上げると、お紺の冷徹な視線がその男に突き刺さった。
お紺は一歩進み、親分を見下ろしながら言った。
「まったく、ウチの組は役立たずばかりだねぇ。あんただよ」
その言葉に、親分は言い返す言葉を失った。
町民や子分たちには恐れられる狐吉であったが、お紺の前ではまるでただの一人の男に過ぎなかった。
「役立たずって言われてもよぉ、いちよう子分たちを探しに出したんだぜ」
それでも狐吉は、言い訳を並べるしかなかった。
だが、その声はどこか弱々しく響き、組の威厳を欠いていた。
お紺はその言葉に対し、冷ややかな笑みを浮かべて言葉を返した。
「探してこのザマかい。なにを言ったとて、話にもなんねぇや」
その場の空気は一気に重く、部屋の中には誰もが息を呑んでいた。
お紺は静かに周囲を見渡し、何事もなかったかのように冷ややかに笑みを浮かべた。
「まあ、たまには、こんなこともあらぁな」
そして、無言で部屋を後にしようとしたその時、振り返りざまに一言。
「けどよ、おめぇが無能なのは、まごうことなき事実さ」
部屋には狐吉をはじめ、何も言えずに立ち尽くす子分たちだけが残された。
女郎を探しに出た子分たちの中で、ただひとり帰ってきたのは、片耳を失った男だけだった。
他の者たちは行方知れず、まだ一向に帰ってこぬ。
狐吉はじっと黙ったまま、やり場のない焦燥感を漂わせていた。
「まったく、なにもかもが、無駄なこった」
そう呟きながら、狐吉は思案顔で室内を歩き回る。
「お紺の奴、まるで人の話を聞く気がねぇ……」
狐吉は頭を掻きながら部屋を出て、お紺のあとを追った。
廊下に出た狐吉は眼をぎょっとさせた。
腕組みをしたお紺が待ち構えていたのだ。
「それで、どうなったんだい?」
お紺はその焦りを決して見せず、淡々と、だが鋭い眼差しで狐吉を見つめた。
彼女の冷徹な視線に、狐吉の背筋がほんのりと寒くなるのを感じた。
「なぁんもねぇ」
親分は深いため息をつき、眉をひそめた。
「さっき戻った子分に聞いたがよ、前に出た連中の足取りすら掴めねぇってよ」
「嵐の夜に隣村まで女郎一人を追いかける根性、ウチの若ぇもんにはねぇだろうさ」
お紺は冷静に言った。
その声には疑念とともに、冷徹な現実が込められていた。
「真っ昼間だって、途中で引き返してくるさ」
言葉の端々に、若い子分たちへの不満が滲んでいる。
それも当然だろう、嵐の中での捜索など、ただでさえ命を懸けた作業だ。
「んで、いったいどこへ消えたんだい?」
お紺は目を細め、部屋の隅を見つめた。
雨音が窓を叩き、外の嵐の音が心をさらに乱す。
「死人が出てるにしても、大勢が死んでりゃあ、何かしら痕跡が残るもんだろ。まさか、神隠しにでも遭ったってのかい?」
その言葉に、周囲の空気が一瞬、凍りついた。
お紺は薄く笑みを浮かべながら言葉を続けた。
「片耳を失った男から察するに、暴力沙汰はあったろうが……」
だが、それにしてもだ。
屍体すら出ないという状況が頭を悩ませる。
お紺の脳裏に浮かぶのは、死体すら現れないという奇妙な事実だ。
まさか、葛籠に吸い込まれたなんて誰が想像しようか。
壁を隔てた先の部屋で、横になる片耳を失った男は、何も言わずに震え続け、眠ることもできなかった。
彼の恐怖は頂点に達し、その顔には見る影もない。
雨の中を走り回った子分たちも、何の成果もなく帰ってきた。
無駄足を踏んだ者たちの顔には、焦りと無力感が色濃く表れていた。
お紺はその情けない光景を思い出し、しばし目を閉じていたが、心の奥底では怒りが煮えたぎっていた。
今宵のお紺は嵐よりも激しく荒れ狂いたい気分だった。
「どいつもこいつも……。」
その呟きに、廊下の空気が重くのしかかる。
だが、お紺はすぐにその怒りを理性で押し込めた。
荒れた気性を抑えなければ、ここでさらに騒ぎを起こしても無駄だ。
敵の正体がまだはっきりしないうちは、むやみに動くべきではない。
だが、もう一つの考えが彼女の中にひらめいた。
「いや、正体には、うすうす心当たりはあるんだがね」
知りたいのは、相手の目的だ。
目の届くところで自由に泳がせたが、今ひとつ相手の目的がはっきりとしていなかった。
「まあ、いずれ分かるさね」
その笑みは、嵐の中で光る雷鳴のように、暗闇の中で不気味に響いた。
そして、お紺は艶やかにほくそえんだ。
◇ ◇ ◇
嵐の過ぎ去った翌朝――。
まるで昨夜の怒号の如き風雨が嘘であったかのように、空は一面、瑠璃色に晴れ渡っていた。
朝日が東の空よりすっと昇ると、湿り気を帯びた町並みに、一気に眩き光が降り注いだ。
その陽射しは、まるでひと晩にして季節が巡り戻ったかのように強く、街道の先にはゆらゆらと陽炎さえ立ち上り、瓦屋根も土蔵も、眩しき銀色に輝いて見えた。
されど、そのあまりの静けさが、かえって町中に不気味な緊張を孕ませていた。
昨夜の嵐が全てを洗い流してしまったかのように、人々の姿はまばらで、朝餉を炊く煙さえも、どこか薄く冷たく感じられた。
まるで、嵐が去った後の空の隅に、見えぬ禍の残り香が漂っているかのようであった。
――紅蓮楼。
その廓にて、またひとり女郎が忽然と姿を消した。
との噂は、今や誰の口にも昇ることなく、しかし誰もがその事実を心に刻みつけていた。
「言わずとも、みんな知ってるんだよ……」
女郎衆のひとりが、障子越しの陽射しに目を細めながら、ぽつりと洩らした。
されど、その言葉に返す者はおらず、ただ重い沈黙だけが、部屋の隅々に満ち満ちていた。
まるで、口に出せば、その名を呼べば、己が身に禍が降りかかるかのように、女郎たちは頑なに口を閉ざした。
音もなく廊下を駆ける天狐組の若い衆たちの足音だけが、いやに響いて聞こえる。
「ええい、どこ行きやがった……!」
楼の玄関口では、怒鳴り声が飛び交い、普段は鷹揚な組の者たちでさえ、顔を真赤にして探し回っている様子が窺えた。
その異様な気配は、女郎たちの不安を、さらに膨らませていった。
「おいおい……また、ひとり、戻らんて話じゃねえか……」
と、若い女郎がぽつりと呟くや、即座に傍らの姐さん格が、鋭くたしなめた。
「……おまえさん、その口、ここでは慎みな。あの話は、紅蓮楼じゃ御法度なんだよ。……たとえ知ってても、口に出しゃあ祟られるよ」
その声色には、静かなるが、何処か底冷えするような重さがあった。
部屋の隅では、別の女たちも、小さき声で何やら囁きあっていた。
その声はかすれ、震え、まるで己が命を守るための呪文のようであった。
だが、そうした怯えた囁きが、却ってこの楼の空気を一層重く、湿っぽく、息苦しきものにしていた。
誰もが知っている。
この町では、女郎が消えるということが、決して珍しきことではないと。
だが、それを口に出す者はいない。
誰もが、知らぬふりを決め込み、笑って日々を過ごすしかないと、知っている。
されど今朝ばかりは、その笑顔すら作ることが叶わかった。
外では陽炎が立つというのに、楼の中は薄暗きまま、女たちはまるで隠れるように息をひそめていた。
そう、この町の女郎衆は、嵐が去った後の晴天よりも、闇夜に潜む禍のほうを、ずっとよく知っていたのであった――。
楼の空気が、より一層、張り詰めていた。
その原因が、まだ戻らぬ者がいるためであることは、火を見るよりも明らかであった。
――そして、唯一、帰ってきた片耳の男。
彼の顔は土気色に染まり、目は血走り、視線はどこか空ろだった。
「あんた……どうしたんだい……?」
誰ともなく、声をかけた女郎も、その答えを望んでなどいなかった。
むしろ、その問いは、恐怖を打ち払うための儀式のようなものであった。
片耳の男は、まるでその声すら届かぬかのように、ただぶるぶると震え、浅い呼吸を繰り返していた。
額からは冷や汗が滴り落ち、乱れた髪に絡み、首筋を伝って着物を濡らしていた。
彼の視線は、遠く、どこか底知れぬ闇の淵を見つめているようであり、その口元からは、掠れた呻き声が、時折、漏れ聞こえた。
その呻きは、まるで己が見てはならぬものを見てしまった者の、それでいて言葉には決してできぬ、底知れぬ恐怖の音であった。
「おいおい、何があったんだ、何を見たんだよ……」
若い衆が問いただそうと詰め寄ったが、男は頑として口を割らなかった。
いや、割るどころか、口を動かすことすら忘れてしまったかのように、ただひたすらに、己の内に閉じこもっていた。
その姿を見た者は、皆、言葉を呑み、背筋に氷のような冷気を走らせた。
何があったのか。
何を見たのか。
それを問うことすら、誰にもできなかった。
噂というものは、言葉に乗せて広まるもの。
だが、この時ばかりは、誰も言葉にできぬ恐怖が、むしろ無言のまま、廓の隅々まで、重く、濃く、じわじわと染み渡っていた。
紅蓮楼の女郎たちは、知っていた。
口にしてはならぬ禍というものが、世には確かに存在することを。
だからこそ、誰ひとり、片耳の男に、詮索じみた問いを浴びせることすらせず、ただ、遠巻きに、その異様な姿を眺めていたのであった。
外では、照りつける日差しが、町を白く焼き尽くさんばかりに輝いていたが、紅蓮楼の中には、夜よりも濃き闇が、未だに立ち込めている。
それは、嵐が残していった、目には見えぬ禍の影であった。
外の騒がしさは、一向に鎮まる気配を見せず、怒号と呻き、駆け足の音が、賭場から女郎屋、料理屋に至るまで、紅蓮楼の隅々を包み込んでいた。
張り詰めた空気は、まるで湿り気を帯びた絹のように、肌にまとわりつき、息苦しさすら覚えるほどであった。
こうした時、肝心の親分である狐吉は、例によって、どこかへ姿をくらまし、まるで役に立たぬ木偶の坊ぶりを晒していた。
誰もが、とうに知っていることであった。
この紅蓮楼を真に牛耳っているのは、狐吉などではなく、お紺という女であることを。
お紺は、重く、湿った空気のなか、ひとり簾越しに色町の賑わいを眺めていた。
いや、賑わいというよりは、まさに蠢きであった。
人が蠢き、金が流れ、酒が匂い、汗が滴り、女と男の欲望と悪意が入り乱れ、町を覆うその気配は、まさに楽園の皮を被った地獄絵であった。
酒楼では、賭場の札が乱れ飛び、負けた男が怒鳴り、勝った者が笑い、歯噛みしながら懐の金を数える。
揚屋では、女郎たちが甘やかな笑顔を浮かべ、夜の夢を買いに来た男どもに、偽りの恋を囁いていた。
路地裏では、借金に喘ぐ女が、夜鷹となり、濁った眼差しで往来を睨み、物乞いの子らが飢えた腹を抱え、腐った饅頭に群がっていた。
汗と脂と血と涙が入り交じるこの町は、まさに人間という生き物の、欲と悪意を煮詰めたる大釜。
お紺は、その煮えたぎる大釜を、誰よりも愛で、育て、手塩にかけて膨らませてきた。
「熟れたところで……喰ろうてやろうと思うておったに、よもや、ここで……腐るかねぇ……」
お紺は、黒漆塗りの長煙管を指先で弄びながら、ひとりごちた。
その声音には、艶やかさと共に、どこか獣じみた低い響きが混じっておった。
それは人の声にあらず、深山幽谷の夜に、ふと耳にすることもある、狐の啼き声にも似ていた。
彼女は、部屋をゆるりと歩き回りながら、思案を巡らせていた。
まるで何かを計るように、まるで何かを待っているかのように。
この乱れ、混沌の渦の中でも、己が静かに沈黙を保つことこそ、今は最良であると、そう読んでいた。
だが、その胸の内、誰にも見せぬ奥底には、冷徹なる光が、ひっそりと、しかし確かに、燃え続けていた。
「……命のあっての物種とは言うが、この紅蓮楼で熟成させた欲望と悪意を、たやすく手放す気なんざ、毛頭ないさ」
お紺は唇の端をわずかに吊り上げ、まるで人の世の営みを嗤うかのように、そっと笑みを浮かべた。
その笑みの奥には、女という皮を被った、何か得体の知れぬものの気配が、ほのかに滲んでいた。
簾の向こう、色町の喧騒の海の中、お紺の琥珀色の瞳は、まるで薄闇に棲む獣のそれのごとく、静かに、冷たく、全てを見据えていた。
この町も、この楼も、この人間どもも、皆、お紺の掌の上にあることを――誰一人、まだ知らぬままで。
◇ ◇ ◇
女郎屋の片隅で、世話役の弥吉は不安そうに目を光らせていた。
今日もまた、印をつけられた女郎が逃げたという知らせが耳に届いたのだ。
これ以上、逃げられるわけにはいかない。
組の面子を保つためにも、すべては弥吉の肩にかかっているのだ。
そんな矢先、弥吉はお千代に見張りを命じられた。
これまでにもお千代は目立った行動を取ったわけではなかったが、印をつけられてからというもの、なにかするのではないかと気になる存在だった。
お千代には、他の女郎たちのように「逃げる」という発想がないことは弥吉も十分に知っていた。
しかし、どうしてもその決意を試したくなった。
狭いふとん部屋に足を踏み入れた弥吉は、目を見開いてお千代の前に立った。
雨戸を閉めきった部屋は薄暗く、静かな時間が流れていた。
だが、弥吉の胸の内は嵐のように荒れていた。
彼は一歩、また一歩とお千代に詰め寄る。
「逃げてくれ!」
弥吉は必死に声を上げた。
その声には、慌てふためく心情がそのまま乗せられていた。
だが、お千代は動じない。
まるで、何事にも動じないかのようにじっと弥吉を見返していた。
「嫌よ、あたいは逃げん」
お千代の声には、確固たる決意が込められていた。
その瞳は、どこか遠くを見つめるようにして冷徹に輝き、まるで周りの全てを遮るようだった。
彼女のその言葉は、弥吉の心に深く突き刺さった。
「どうしてだよ!」
弥吉は声を荒げた。
あまりにも理解できないお千代の心情に、何度も問いかけたくなる。
しかし、そんなことを問う暇もなく、お千代は再び口を開いた。
「姉ちゃんを見つけるまで、あたいは逃げん!」
その言葉は、まるで風のように静かに、そして確実に弥吉の胸を打った。
お千代にとって、逃げるという選択肢は、やはり最初からなかったのだ。
彼女の中には、すべての決意が姉を探し出すという一点に集中していた。
それこそが、彼女がこの場所にいる理由だった。
弥吉はしばし黙り込んだ。
普段ならば厳しく叱責し、命令を下す立場の彼だが、この時ばかりは言葉が出てこなかった。
お千代の強い決意を目の当たりにし、その力強さに圧倒された自分がいた。
お千代は、姉を失った悲しみを抱えながらも、その力強い意志で生きる道を選んだのだ。
弥吉はそれを知っているからこそ、必死に彼女を守りたかった。
しかし、その守りたい気持ちが逆に、お千代にとっては縛りとなっていることを感じ取った。
「お千代……」
弥吉は小さな声で呟いた。
その声は、まるで自分に言い聞かせるように、そして、彼女にお願いするように響いた。
しかし、お千代はただ黙って視線を合わせ、何も言わずに立ち上がった。
その立ち姿には、弥吉にすら隠された何かが感じられた。
彼女の眼差しはどこか遠くを見つめ、まるで運命に挑むような強さを放っていた。
「あたい、逃げんから」
再びお千代の声が響いた。
その声は、弥吉の心に突き刺さり、同時に彼女の覚悟を確かなものとして刻み込んだ。
お千代がどんな覚悟を持っているのか、弥吉はその答えを知っているが、彼の心は晴れないままだった。
「お千佳はおれが見つける……おれとお千佳は恋仲だったんだ……」
その言葉に、お千代は驚きのあまり、思わず目を見開き、口を半開きにした。
これまで弥吉が抱えていた想いが、一気に言葉となって吐き出されたその瞬間、お千代はその重みを感じ取った。
弥吉の心の中にある苦しみと、長い歳月にわたる想いの深さがひしひしと伝わってきた。
弥吉はかつて村を飛び出す前、幼いころからお千佳に心を寄せていた。
しかし、村を離れ、やくざの世界に身を投じた後も、その想いは変わることなく、度々村にいるお千佳のことを思い焦がれていた。
それを知っているのは、弥吉とお千佳を知る少数の者たちだけだった。
そして、女郎屋でお千佳と再会したとき、弥吉の心の中にあった想いが、一瞬にして爆発した。
お千代の目の前で語られるその過去の恋心。
それは、彼女にとっても驚きであり、また何かの運命を感じさせるものでもあった。
お千佳は初め、弥吉に対して単なる頼りになる存在以上の感情を抱いていなかった。
しかし、日々の過酷な状況の中で、弥吉という男に頼りきり、次第に心が揺れ動いていった。
彼が見せる優しさや、時折見せる真剣な眼差しに、お千佳の心は少しずつ変わり始め、やがて二人は自然と男女の仲となった。
しかし、二人の恋はご法度。
弥吉は女郎屋で世話をしている身であり、そんな立場で売り物に手を出したとなれば、たちまち大事に発展するだろう。
お紺の厳しい性格を考えるだけで、弥吉の命がどうなるか、容易に想像できた。
だからこそ、二人の関係は誰にも知られぬように密かに続けられていた。
だが、弥吉にはある決意があった。
やくざから足を洗い、そしてお千佳も足抜けをして、二人で新たな生活をはじめようと心に誓った。
それが、二人の未来だと信じていた。
しかし、その希望は、あまりにも儚いものだった。
ある日、お千佳の首筋に青い痣が現れた。
まるで死刑宣告を受けたかのように、お千佳は狂ったように動揺し、その目には絶望の色が浮かんでいた。
弥吉はその痣を見て、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
お千佳がどれほど恐ろしい目に遭ったのかを知る由もなかった。
だが、それが一つの警告であり、何か重大なことが起きている証拠であることを、弥吉はすぐに察した。
そして、弥吉もまた、どうすることもできずに頭を抱えた。
お千佳の狂気と、次に何が起きるか分からない恐怖に心が引き裂かれるようだった。
これまでの人生で、幾度となく命の危険にさらされたことはあったが、今の恐怖はそれとは比べ物にならないほどに深刻であった。
お千佳が失われること、そして二人の未来が壊されることへの恐れ。
それは、何もかもを犠牲にしてでも守りたかった大切なものだった。
弥吉はお千佳の苦しみを見守ることしかできず、ただその運命に立ち向かう方法を模索し続けるしかなかった。
しかし、すべてが遅すぎるように思えた。
彼の心には、もう一つの不安が膨らんでいた。
それは、お千佳を救う方法が本当にあるのかという、漠然とした不安であった。
その頃、弥吉はお紺に目をつけられていることを薄々感じ取っていた。
お紺の鋭い眼差しが、時折弥吉に向けられるのを避けることはできなかった。
それが警告であり、また脅威でもあることを、弥吉は敏感に感じ取っていた。
だからこそ、無駄に動くことはできず、計画を立ててお千佳と共に逃げる勇気もまた、次第に薄れていった。
弥吉の心の中には、かつてのように明るい希望を抱く余裕はなかった。
お千佳を守ることに心血を注ぎたかったが、その手立てが見つからないまま、状況は悪化の一途を辿っていった。
彼は、恐怖と不安に囚われ、次第に足元がふらつき、心の中で「もう、どうにもならない」と思うようになっていた。
そして、弥吉がおずおずと悩んでしている間に、お千佳は姿を消した。
まるで霧のように、音も立てずに消え失せてしまった。
その後を追うこともできず、弥吉はただ愕然とするばかりだった。
お千佳の失踪は、まるで弥吉の心を完全に凍らせるかのようだった。
彼にとって、それは絶望の一歩手前にまで追い詰められる出来事であった。
失ったものの重さに、弥吉はひたすら黙々と働き、他の者たちに無関心な態度を取り続けた。
かつてあれほど人情に厚く、心優しい男だった弥吉は、まるで違う人間のように冷徹に振舞い、女郎たちに対しても淡々と接するようになった。
その冷徹さが、かえって周囲に不安を抱かせ、彼の内面に何があるのかを誰もが測りかねるようになった。
弥吉は、心の中で一つの壁を築き上げ、誰にも近づこうとはしなかった。
お千佳を失い、そしてすべてを失ったような気がした彼には、もはや誰かに心を開く余裕も力も残っていなかった。
長く冷え込んだ冬の日々が、弥吉を支配するように続いていった。
彼の目の奥には、もう光は見えなかった。
周囲の人々は彼がどれほど痛みを抱えているのか理解することなく、ただ冷徹な男として認識していった。
その冷徹さの中で、弥吉の心は一度、完全に閉ざされてしまった。
その心が再び開かれたのは、あの日だった。
そう、お千佳の妹であるお千代が、女郎屋に売られてきたその日。
弥吉は、自分でも気づかぬうちに心の奥底に閉じ込めていた感情が一気に溢れ出してくるのを感じた。
「あれは……おれの……おれのせいなんだ」
弥吉は手のひらを震わせながら拳を強く握りしめた。
目を閉じて涙をこらえるが、それがさらに胸を締め付けてきた。
涙が零れそうになるのを、ただ必死に抑え込む。
心の中で、悔恨と無力感が渦巻いていた。
「おれはお千佳を連れて逃げる勇気がなかった。親分やお紺姐さんが怖かった。お代官様に悪い噂があると知っていても、おれにはなにもできなかったんだ」
その想いが胸を締め付け、弥吉は堪えきれずに声を震わせた。
あの日、お千佳を守れなかった自分に対する悔しさが、今も消えることはなかった。
もし自分にもっと力があったなら、もしもっと勇気を持っていたなら、あの時お千佳を連れ出すことができたかもしれない――そう思うと、胸の奥で何かが爆発しそうだった。
それでも、弥吉は決意を固めた。
お千代を守ることで、お千佳の無念を少しでも晴らすことができるなら――。
そのために、どんな手を使おうともお千代を守らねばならない。
しかし、お千代はその気持ちを振り払った。
「あたいに構わんでおくれ。あたいは逃げん、絶対に姉ちゃんを村に連れて帰るんだ」
その言葉に、弥吉は思わず顔をしかめた。
お千代の決意は固いが、それが弥吉には許せなかった。
お千代が一人で何もかも背負い込むことを、弥吉はどうしても黙って見過ごすことができなかった。
「おまえがなんと言おうと、おれはおまえを連れ出す」
弥吉の声には、今までの優しさやためらいはなかった。
決して引き下がらない、強い意志が込められていた。
お千代が何を言おうとも、彼はお千代を連れ出すつもりでいた。
その手でお千代の腕を掴むと、弥吉は無理やり部屋の外へと引きずり出した。
お千代はその力に抗おうとしたが、弥吉の腕は強く、動きを封じられてしまう。
二人は無言で歩き出し、その後ろ姿を見守る者もいなかった。
「このまま逃げるしかねぇ……」
弥吉の心の中でそう呟きながら、足元を見つめつつも、前を向く。
その目には、もう迷いはなかった。
彼は自分の力でお千代を守り抜く決意を固めていた。
しかし、今の弥吉にとって、お千代を逃がすことができるのか――その答えは、まだ誰にもわからなかった。
◇ ◇ ◇
店の表は昼の陽光を浴びながらも、ひっきりなしに客が出入りしている。
裏手では、目を光らせた見張りが厳しく立ちはだかり、守りを固めている。
その目線の先には、縁側を隔てた渡り廊下が広がり、そこから天狐組の家へと繋がっている。
もしそこから通り抜ければ、組の真横に出てしまう。
逃げ道はどこにもないように思えた。
いかに弥吉であろうと、この閉じ込められた場所で如何にして抜け出すというのか。
だが、弥吉の決意は揺るがなかった。
迷うことなく、彼は二階へと向かおうとしていた。
お千代を引き寄せながら、彼の眼差しには、あの場所しかないという確固たる自信があった。
それは、他の誰にも知られたくない、そして絶対に誰にも邪魔されない場所だ。
逃げる道は、そこにしかないのだ。
だが、お千代は必死に抵抗した。
彼女は足を踏ん張り、腕を上下に振って必死に抵抗するが、それでも声をあげることはできない。
万が一、声が出てしまえば、周囲に気づかれ、騒ぎが起きてしまう。
それは、弥吉とお千代、二人の命を危険にさらすことになる。
弥吉は必死に周囲の気配を感じ取る。
店内での喧騒が響く中、目を細めて左右に視線を走らせ、二階へ向かう道に誰かが現れないことを確認する。
客の出入りが激しく、夜の商売が忙しい時期であれば、階段を上る途中で誰かと鉢合わせになることもある。
だが、幸いにも、今は誰の姿も見当たらない。
静寂をかき消すように、弥吉は静かに足を踏み出し、階段を一歩一歩登ろうとした。
しかし、足元の音を立てないようにしながらも、引きずられるお千代は動きを止めようと必死に力を込める。
彼女の小さな体が、弥吉の力に逆らって引き摺られる。
その動きに合わせ、弥吉は腕を強く引き寄せるが、決して無理に引きずることはせず、慎重に足元を確かめるように前進する。
ゆっくりと、だが確実に、弥吉は二階へと足を運ぶ。
お千代の体を引き寄せながら、彼はその目を鋭く光らせ、周囲の空気を感じ取ろうとする。
それまで静まり返っていた空気に、突如として冷たい気配が漂った。
その感覚に、弥吉は思わず背筋を凍らせた。
どこからともなく感じるその威圧感に、心の中で何かが反応したが、何も見えぬままただひたすらに身構えるばかりであった。
「どこへ行こうってんだい?」
その声が、弥吉の耳に届いた瞬間、胸の奥が重くなるような思いに包まれた。
驚きに目を見開き、弥吉は急いで階段を見上げた。
視線の先に立つのは、お紺――紺色の着物の裾が、ゆっくりと階段を下りてくる姿だった。
彼女のその歩みは、まるで重力さえも無視するように、淡々と、しかし確実に弥吉へと迫ってきていた。
お千代もその気配に気づき、弥吉の背後で必死に視線を移した。
その顔には恐怖の色が濃く浮かんでいた。
だが、すでに逃げる場所などどこにもないことを、彼女は無意識に理解しているようだった。
お紺の目尻が切れ長に鋭く上がり、冷徹に弥吉を見据えながら、その声が鋭く響いた。
「どこへ行くのかと、あたしは尋ねてるんだ!」
その言葉が弥吉の胸を突き刺した。
心臓が一瞬、ひどく重くなったように感じる。
お紺の怒りが全身に走るのを感じ、弥吉の身体の芯が震えた。
何も言えず、ただ一言。
「へ、へい……」
と、低い声が絞り出される。
だが、そのままではすまない。
言い訳など通用するわけがない。
「そ、それが……客が二階で……」
弥吉は答えたが、言葉が途切れ、続けようとした瞬間、お紺が鼻先で不快そうに嘲笑った。
「その子に客を取らせるなと言ったはずだが、ねぇ?」
その一言で、弥吉は完全に観念した。
どんな言い訳をしようとも、今更お紺の目を欺くことなど不可能だと理解したのだ。
「……逃げろ、お千代!」
弥吉はその言葉を発するやいなや、お千代を突き放した。
しかし、驚くべきことに、お千代はそのまま逃げることなく、むしろ静かにその場に正座をし、深く頭を下げた。
彼女の動きは一切の迷いを感じさせず、その姿勢からは覚悟すらも見て取れる。
「あたいは逃げも隠れもいたしません」
その言葉に、弥吉は心底からの落胆を覚えた。
希望が、まるで砂のように崩れ落ちる感覚が胸を締め付ける。
足から力が抜け、身体がそのまま崩れ落ち、階段に座り込んでしまった。
お紺はしばしその場に立ち、冷ややかな眼差しでお千代を見下ろす。
何も言わずに周囲を見回し、さも当然のように人を呼び寄せる。
「誰か、誰か早く来ておくれ!」
その声が響くと、すぐに数人の若い衆が駆けつけ、命令通りに動き出す。
お紺は、まだ正座したまま頭を下げたお千代を無情に見下ろし、その冷徹な表情のままで言った。
「その子を布団部屋に押し込めておきな!」
それから、弥吉に視線を移し、瞳に不敵な光を宿して語りかけた。
「こいつにはどんな仕置きをしてやろうかね?」
舌なめずりをしながら、その言葉にはぞっとするような妖しい輝きが宿っていた。
その眼差しが弥吉を貫き、心の底から恐怖を引き起こす。
彼の全身が、冷や汗を掻きながらも身動きできずに硬直した。