偽りの春 三之幕
お千代と弥吉の背が闇に溶け、見えなくなったのを見届けると、お蝶は何事もなかったかのように、すう、と背を伸ばした。
「……ゆきやしょうか」
傍らに控えていた黒子が無言で一礼すると、二人は静かに歩き出した。
手にした蛇の目傘が雨を受ける音だけが、夜のしじまを打つ。
行燈は持たぬ。
火を灯せば、仄暗き路地に不似合いな目印となる。
今宵の空は星も月も姿を見せず、天蓋のごとき雲が空を覆っていた。
雨脚はなお強く、風にまじって雷鳴が遠くから唸りを上げる。
稲光がひとしきり走り、家々の棟と、濡れた石畳を一瞬だけ白々と照らした。
そのとき、お蝶の足が、不意に止まった。
「……んん?」
まるで導かれるように、路地裏へと視線を向ける。
そこには、濃い闇にまぎれて蹲る、ひとりの娘の姿があった。
歳は十五、六と見える。
身に纏うは場違いなほど華やかな振袖。
だが、裾は泥に塗れ、絹の艶も雨に打たれて無惨に貼り付き、まるで蛇の抜け殻のようだ。
娘は肩を震わせ、声もなく嗚咽していた。
その姿を見て、お蝶は静かに歩を進め、声を掛けた。
「……どないしたんだい、あんた。こんな夜半の雨の中、ひとりで彷徨って……」
その口調は、優しさと威厳を帯びて、雨音のなかにもはっきりと届いた。
だが娘はびくりと身を震わせ、顔も見せぬまま、逃げるように立ち上がろうとする。
「ちょいと、待ちなせぇ」
その細い腕を、お蝶の白い手が掴んだ。
力強くも柔らかく、けして痛めることなく、娘を抱き寄せる。
「雨ァ冷たかろうに。ようもまあ、ここまで命からがら逃げてきなすったねぇ」
耳元でささやかれたその言葉に、娘の張り詰めた膚が、かすかに弛んだ。
お蝶は傘を傾け、娘の顔を見下ろした。
伏せた睫毛、濡れた頬、そして――
首元に浮かぶ青き痣。
その痣を見た瞬間、
お蝶の目の奥に、怒りでも悲しみでもない、冷たい決意が宿った。
「……またひとつ、刻まれたかえ」
ぽつりと呟く声は、雨音にかき消されそうになる。
震えながら雨に打たれるこはるの視界に、ふいと差し込むあたたかき灯。
それは、しとやかに広げられた油紙の傘。
そこから覗く顔を見たとき、こはるは目を瞠った。
忘れもしない、あの夜の顔。
雨の山中、村を出て売られていく娘の心を、明るく解きほぐしてくれた旅芸人。
「……あなた様は……あんときの芸者様じゃ、ありゃせんか……?」
声は震え、涙混じりであった。
けれど、女はふうと優しく微笑むばかり。
「ふふ、お見通しでござんすよ。こんな世の中じゃ、よう似た面のひとりやふたり居やすけど……この声と簪、忘れたとは言わせやせんよ」
艶やかな唇が、ほんのりと雨に濡れ、瞳は深き夜のごとく、こはるを見つめる。
夢か現か、思い出か幻か――。
あの夜、互いに名を告げず、たった一夜の邂逅で終わるはずだった縁が、いま、ふたたび、こうして巡ってきたのだ。
「わ、わたし……こはると申します……」
娘はか細き声で名乗った。
今にも消え入りそうな声を、お蝶は受け止め、くすりと笑う。
「ほう、こはるちゃん、でやすか。あたいの名はお蝶。ま、こう見えても、吉原じゃちぃとばかし名の知れた花魁でしてねぇ。そんで、そこに控えておりやす黒子のほうは、顔も名も訳ありでして、あんたさんには黒子とだけ覚えておいでくだんせ」
と、すぐ傍に立つ黒衣の影を、扇でちらりと示した。
黒子――その姿は、舞台の裏方がそのまま抜け出したかのよう。
目鼻を隠した黒布の中に、仄かな気配のみが蠢いている。
常ならば、不気味さに身震いしそうなものであったが、お蝶という艶やかな月があればこそ、黒子の存在は、まるで影のように意識の外へと霞んでしまう。
まこと、不思議なふたりであった。
お蝶はこはるを胸へと抱き寄せた。
娘は驚きに肩を震わせ、羞恥に頬を紅潮させる。胸に届くお蝶の匂いは、どこか馥郁とした花の香り。しかし、その奥に、刃のような冷たき気配が潜んでおることに、こはるはまだ気付かない。
「おっと、こりゃお寒ぅござんしょう。まずは宿に戻って、湯を沸かしやしょ。濡れた着物も脱いで、新しいのをあつらえて……ねぇ、そうしねぇと、あんたさん、風邪引いちまいやすよ」
まるで母が幼子をあやすように、けれどその声音には、女の色と憂いが滲んでいた。
こはるは頷きながらも、その胸の奥底に、言いようのない不安とざわめきを感じていた。
お蝶の笑顔の奥に、隠された何かを、娘の幼き感は、微かに嗅ぎ取っておったのかもしれない。
ふたりの影を呑み込むように、傘の下へ降り注ぐ雨。
お蝶の高下駄が、びしゃり、びしゃりと濡れた石畳を踏みしだき、夜の町を縫うごとく歩を進める。
その後ろに、黒子の影が音も無くぴたりと寄り添う。
ざぁざぁ雨は、なお止まぬ。
土砂降りの雨粒が、瓦を叩き、行灯を濡らし、石畳を洗い、町を沈黙の底へ沈めてゆく。
店も人も、皆、戸を閉ざし、息を潜める夜。音をたてるは、雨と、ふたりの足音のみ。
黒子は娘から目を離さず、雨音に混じる異音を聞き漏らさぬよう、じっと耳を澄ませているようだった。
黒子が獣の気配を嗅ぐように首を傾ける。
ふいに、お蝶が低く呟いた。
「……ふふ、お待ちかねかえ。やっとこさ、来やすったねぇ……」
その声音は、艶やかさの底に、鋼のような殺気を孕み、耳にしたこはるは、背筋を冷たきものが撫でてゆく。
お蝶は、こはるの肩をやさしう抱き、しばし瞳を覗き込む。
その眼差しは、母のごとく、恋人のごとく、そして――斬り捨てるべきものを見極める刺客のもの。
「黒子、おまえさんに預けやす。この娘は、まだこっちの穢れに染まっちゃおりやせん。手を汚させるわけにゃ、いかねぇわ」
静かに囁くと、すう、と踵を返し、通りの中央へと躍り出る。
傘もささず、打たれるがままに髪を濡らし、濡れそぼる簪が月の光を鈍く弾いた。
まるで、闇夜に舞い降りた夜鷹。
されど、その姿には、花魁という業を背負う女の、凛たる気品すら漂っていた。
やがて――。
ざば、と水飛沫を蹴立て、闇よりぬっと現れしは、五つ、六つの人影。
彫りの粗き面々、獣じみた目つき、羽織の下から覗く、鱗や獅子の刺青。
見紛うべくもない、天狐組の外道ども。
お蝶は、しとやかに濡れた手を簪へと添え、唇に笑みを浮かべた。
「ようこそ、夜鷹の町へ……あたいの、おもてなし、たっぷり味わってもらいやしょうかねぇ」
その声音は、雨より冷たく、闇より深く、やくざ共の背をぞくりと凍らせた。
「こっちか! この辺に逃げたって話だ!」
「チッ、どいつもこいつも女の尻ばかり追いやがって……」
雨で視界もきかぬ中、奴らは濡れた眼であたりをきょろきょろと見回していた。
そして――ひとりが、闇の中で動かぬお蝶の姿に気づく。
「おい、あんた……この辺りで、年頃の娘を見かけなかったか?」
声をかけた男の口調には威圧と焦りが混じっていた。
お蝶は片手で濡れ髪を撫でつけ、ゆるりと首を傾けた。
「……見やしたよ。そこの路地で、濡れ鼠のように蹲っておりやした」
花魁言葉には色香と棘が交じり、男の気を惹くようで、しかし侮れば斬られるような緊張を孕んでいた。
お蝶が顔を横に向けると、その先には黒子に抱かれたまま震える娘の姿があった。
やくざもんのひとりが「よしっ」とばかりに歩み寄ろうとした、その時。
すっと――細くも長い腕が、男の前に立ちはだかった。
「けんど、その娘さんを、あんたらに渡す気はありやせんよ」
お蝶の声は静かで、されど確たる響きを帯びていた。
「なんだとォ?」
目の据わった男が、顎をしゃくって睨みつけてくる。
その背後からも、他のやくざもん共がじりじりと間合いを詰めてくる。
雨の音も、空気の流れも、まるで止まったかのようだった。
「よぉく見りゃ、あの時の姐さんじゃねぇか。へっ、ついでにその借りも返してやらあ」
「そりゃあ、光栄なこって。だけど――」
お蝶は濡れた紅の唇を笑みの形に歪めて、すっと腰を落とした。
懐から何かを抜く気配。風が、妖しく流れた。
「娘さんが欲しけりゃ、あたいを犯すなり、殺すなり……まず、あたいを通していってもらいましょうか」
女の身とは思えぬ、剣のような覚悟がその身に宿る。
雨が肩に打ちつける中、ひるむ気配は一寸もない。
やくざもんの一人がにやりと嗤った。
「おう、言われんでも嬲ってやらぁ。俺たちゃ、こういう雨夜がいちばん、血が騒ぐんでなぁ……!」
「威勢だけは一人前でござんすなぁ」
お蝶は足元の水たまりを一歩踏み越え、さらに一歩。
「けんど、今日はね、観客もいなけりゃ、情けも無ぇ。……あたいも、本気でいかせてもらいやすよ?」
黒子が静かに背を向け、娘を連れて路地の奥へと下がってゆく。
お蝶の前には、五人、いや六人の男たち。
だが、その顔に浮かぶのは恐れではなかった。
むしろ、微笑にも似た、血の香りを孕んだ笑みであった。
再び、雷鳴が轟いた。
雨夜の中、女ひとりが、獣どもを迎え撃つ――
その姿は、まさしく「夜の華」、咲き誇る。
「調子こきやがって、やっちまえ!」
闇の中で、鈍く光る匕首が一閃した。
それに応じて、血気盛んなやくざの男たちが、一斉にお蝶に襲い掛かる。その数、五、六人。
だが、お蝶の目は静かで冷徹だ。
雨の音が静かに響く中、朱塗りの傘が宙を舞い、地面に転がり落ちた。
次の瞬間――
お蝶の身が舞い、華やかな振り袖が一瞬の内に風を切り裂く。
それはまさに乱舞、剣を使う者のように、踊るようにして戦う様子。
「グギョェッ……」
男の喉から、異様な奇声が漏れた。まるで蛙の喉を潰されたような、喘ぎにも似た音。
その声を発した男は、口を大きく開けて息を呑み、足元がふらついたかと思うと、そのまま地面に倒れ伏した。
その奇怪な出来事に、他のやくざもんたちは一瞬、動きを止めた。
しかし、頭に血が上り、もう後には引けないとばかりに、再びお蝶に飛び掛かる。
暗がりの中で風が薙がれた。
それは、ただの風ではない。
暗闇に突如として流れる風音が、響き渡る。
次の瞬間、暗がりの中で、無数の刃が交錯したような音が轟く。
それは――
首を失った者の胴が血を噴き上げる音だった。
視界に暗闇が広がる中、そして、その暗闇の中で、血しぶきが紅く舞う。
男たちは、その音とともに――完全に動きを止めた。
恐怖が、まるで生き物のように、彼らの脳裏に巣食ったからだ。
そのうちの一人が、見てはいけないものを見た。
首を飛ばされたその男は、たった今までお蝶のそばにいた。
だが、彼女の手が触れた形跡はない。
まるで、風か何かに切られたようだ。
かまいたちか?
その男が、わずかな間に体をよじるようにして後ろへと足を引く。
しかし、その動きはまるで泥の中を這うように遅かった。
逃げることなどできようはずがなかった。
お蝶が静かに足を踏み出す。
その歩みが、まるで幽霊のように音もなく、死神のように迫る。
叫び声をあげ男が背を向けた瞬間――悲劇が訪れる。
男の上半身が傾いた。
否、右肩から左腰まで何かが趨り、男の上半身が斜めにずり落ちた。
下半身を支えにしていたものは、ただの肉片と化した。
地面に落ちた上半身だけの男は、うごめくようにして息を荒げながら呻き声を漏らし続けた。
その声は、ひどく歪んでいて、誰の耳にも恐怖を残すものだった。
だが、最も恐ろしいのは、その音が不気味に長く生き続けることだった
やがて、苦しみの声が徐々に小さくなり、静寂がその場を支配した。
その呻き声を聴いた者は、夜ごとに夢の中で目を覚まし、耳に張り付いた恐怖に震え続けることだろう。
やくざたちは一斉に逃げようとした。
ただ、逃げるしかないという、命の危機に瀕した者たちの必死な姿だった。
だが――
膝を斬られた男が前のめりに倒れ、その勢いのまま胴体が飛び散る。
続いて、首が空中に跳ね、転がりながら地面を転がった。
そして――手が、まるで生き物のように宙を舞い、血を撒き散らす。
斬られた四肢が宙を舞う。
雨と泥、噴き出す血が混じり合い、穢れた沼を作り出す。
その光景は、死神が舞踏を踊っているようにすら見えた。
そして、最後に残ったのは、腰を抜かして動けなくなった男一人。
その男は、尻を地面に付けたまま、震えが止まらない。
無力感、恐怖、絶望が彼を支配し、ただただ震え続ける。
だが――この悪夢が夢であれば、覚めれば終わる。
しかし、この恐怖の記憶は、瞼の裏に深く焼きつき、どんなに目を閉じても、何度も甦るに違いない。
男は、命乞いのような叫びをあげた。
「ひぃっ、殺してくれ!」
死の方が楽だ、とその身の底から叫んでいた。
だが、彼の叫びが虚しく響く中、昏い陰の中で、お蝶の唇が艶やかに微笑んだ。
「外道は、殺す価値すらありゃしないね」
お蝶の手が動くと同時に、男の片耳が音も立てずに削ぎ落とされた。
「ぎゃえっ!」
男の悲鳴が、荒れた夜の空気に震えをもたらす。
そして――その男は失禁した。
股間から温かいものが流れ出す感覚に、男は完全に制御を失った。
お蝶はそれを見逃すことなく、嘲笑のように微笑んだ。
「お逃げなさいな。逃げなきゃ、もう片方も落っことすよ」
「や、やめ……」
男は必死に泥を掻き分けながら立ち上がろうともがいた。
その眼は、恐怖と絶望で見開かれ、四つん這いの姿勢で何とか逃げようとするが、体は震えてうまく動かない。
その瞬間――
お蝶が、そのまま男の背に蹴りを入れた。
「さっさとお逃げ。もしそのまま尻を突き出している気なら、本当に尻を二つに割ってやるよ」
「ひぇぇっ!」
男は、まともに言葉も出せず、ただ必死に立ち上がり、無我夢中で逃げ出す。
しかし――
少し走ったところで、足がもつれて転んでしまった。
顔面を泥水に叩きつけ、膝を強くつけて、しばらくその場にうずくまる。
それでも、痛みを感じる暇もない。
男は何とか立ち上がり、再び無我夢中で走り出すのだった。
残されたお蝶は、辺りに散らばった血肉の中で、ひとり静かに呟いた。
「……さて」
その声は、まるで冷たい風に乗せて吹き荒れる言葉のように響く。
黒子は一部始終の間、肩に抱いた娘の眼を手で押さえていた。
少女は、恐ろしさで震えが止まらない。
目で見えぬとしても、音はすべて聴こえていた。
恐怖が全身に染み渡り、魂まで凍りつくような感覚が彼女を包み込む。
辺りには、凍りついた狂気が渦を巻いて立ち込め、闇のように重く息をひそめる。
黒子は娘に背を向けさせ、その目を覆い隠していた手を放した。
彼女は一度も振り向こうとしなかった。
振り向くことが、どれほど恐ろしいことであるかを、どこかで直感的に理解していたからだ。
黒子は背中にしっかりと担いだ柿渋色の葛籠を、音もなく地面に下ろした。
そして、まるで冷徹な機械のように、無感情に蓋を持ち上げる。
その音が、娘の耳に届いた時、葛籠の中からは、ただの風ではない、何か異質な気配が立ち込めてくるのを感じた。
お蝶は遠くを眺め甘く囁く。
「おゆきなさいな」
その一言が、闇の中に潜む何かを解き放つ。
続けて、かすかな泣き叫ぶ声が聴こえた。
それは、葛籠の中から流れ出る、無数の絶叫。
悲鳴が聴こえる。
泣き声が聴こえる。
呻き声が聴こえる。
どれも苦痛に満ちている。
どれもこれも、耐えがたい絶望に満ちており、その響きは、魂を揺さぶるような深い恐怖を呼び覚ます。
次の瞬間、葛籠からは、暗闇を帯びた風が吹き出し、荒れ狂うように飛び交った。
まるで獣のように、叫び声をあげながら、〈闇〉が世界を飛び交う。
その〈闇〉は、地面に落ちた血肉を呑み込むように蠢き、何もかもを飲み干そうとしていた。
血の一滴すら残さず、すべてを抹消しようとするかのように、無慈悲に貪り喰う。
たちまち、その場に残るものは、何一つとしてなくなった。
かつてそこにあったはずの血肉、生命の痕跡さえも、跡形もなく消え失せていた。
お蝶は、まるで何事もなかったかのように微笑んだ。
「さっ、あんたさんの世界にお帰り」
お蝶の言葉に服従する〈闇〉は、闇は再び葛籠の中へと戻っていく。
その声が響く度に、地獄の中で囁くような叫び声がこだまする。
そして、黒子は、ゆっくりとその蓋を固く閉じた。
音もなく、確実に、最後のひと息まで封じ込めるように。
娘は震えながらその様子を見守っていた。
何も言えぬまま、ただその目を閉じようとしても、何もかもが耳に焼き付いて離れなかった。
聴いてしまった。
この世ならぬ声、あらゆる恐怖と絶望が凝縮されたその叫びを。
これから一生、〈闇〉を恐れて生きていかなくてはならないかもしれない。
逃げることが正解だったのだろうか?
女郎屋を逃れた自分の選択が、果たしてこれでよかったのか。
娘の胸中には、強烈な迷いが生まれていた。
しかしその迷いの中で、ひとつだけ確かなことがあった。
それは、もう後戻りはできないということだ。
この恐怖を背負って生きていくしかない、という覚悟が、少しずつ固まっていった。
――鬼が棲むなら、鬼より強く
――闇が哭くなら、闇を飲み干して
◇ ◇ ◇
お蝶は、己が投宿する宿の一室に、こはるをそっと匿った。
外は依然、怒れる獣の如き豪雨。
激しき雨音が、窓をしとどに打ち、町を黒き帳に沈めている。
されど、その部屋の中には、ひっそりとした静寂のみが漂っていた。
灯りも細く、息さえも憚るような静けさ。
こはるは敷かれた布団の上に、まるで命の灯を失いかけた蛍のごとく、力なく横たわっていた。
顔色は赤く、されどその紅は病の熱によるもの。
痩せ細った頬には血の気がなく、まるで、魂が今にも逃げ出しそうなほどに衰弱していた。
夜中の奔走、追われ、怯え、挙げ句の豪雨。
とうとう、風邪を患い、身も心もすり減らしきってしまったのであろう。
お蝶は、無言で、静かにこはるの額へと冷えた濡れ布を載せた。
その仕草は、艶も媚もなく、どこまでも無駄を削ぎ落した動き。
それでも、触れられた額には、妙な温もりがじんわりと沁み入った。
「ふふ、よう効く薬がありんすよ。これを飲んで、あったけぇ粥でも食って、ぐっすり眠んなさいな」
お蝶の声は、あくまで優しげに、甘く、娘の耳をくすぐった。
だがその裏に潜む色は、娘にはまだ読み取れなかった。
黒子は、黙って隅に控え、やがて静かにあの黒き葛籠を開けた。
その音は、ぽつり、ぽつりと、部屋の静けさを壊すことなく、どこか湿った闇のように響いた。
こはるは、その音に怯え、無意識のうちに身体を縮こませる。
黒子の姿は、ただの黒衣ではなく、まるで闇そのものが動いているようであり、その恐怖は、娘の中に冷たく広がっていった。
黒子は無言で背を向け、ゆるりと、顔の前に垂らしていた黒布を捲った。
その顔を見たのは、誰でもない、部屋の薄汚れた壁だけ。
何をしておるのか、何を見せたのか、こはるには知る由もなかった。
しばしの間、沈黙のみが満ち、やがて黒子はふたたび黒布を被ると、今度はゆっくりと、娘の顔へと近づいてきた。
まるで闇が、娘の呼吸の中にまで染み入ってくるようであった。
こはるは、瞳を見開き、か細き声を漏らす。
「な……に……?」
その声音には、驚愕と恐怖とがないまぜになっていた。
黒子は、その一瞬、無言で覆面を捲った。
顔が現れた。
だがそれは、娘の目には、夢か幻か、朧なままにしか映らなかった。
理解する暇も与えられぬまま、黒子はすっと己が唇を、娘の唇へと重ねた。
冷たく、恐ろしく、それでいて、どこか甘い感触。
唇を伝って、薬が流し込まれていった。
娘の身体は、拒む力もなく、自然と薬を飲み込んでいた。
黒子の唇が離れ、ふたたび黒布を被ったころには、こはるはただ呆然と、その場に伏していた。
彼女の瞳は虚ろで、まるで遠い遠い夢の中を彷徨っているようであった。
黒子の素顔は、娘の記憶から、すでにぼやけはじめていた。
あれがこの世のものか、あの世のものか、娘の脳裏ではすでに区別がつかず、ただ、その恐ろしさと奇妙な甘さのみが、淡い幻のように残された。
やがて、娘の頬に、じんわりと温もりが戻りはじめた。
冷たかった肌が、ふとした拍子に熱を退け、ほんのりと紅を帯びた。
それが薬の効き目なのか、黒子が用いた異法なのか、それは娘にも分からなかった。
されど、たしかに身体は軽くなっていった。
お蝶は、そんな娘の様子を黙って見守っていた。
その唇に浮かぶ微笑は、まるで母のように優しげではあったが、瞳の奥には、氷のような冷ややかさが、ひっそりと潜んでいた。
「しばらく、ぐっすり眠んなさいな……ねぇ」
その甘やかでありながら、どこか強制するような声音に、娘はようやく目を閉じた。
その眠りが、安らかな夢路であったのか、それとも、より深い悪夢への入り口であったのか――
こはる自身には、知るすべもなかった。
◇ ◇ ◇
先ほど、ようやく温かい粥を口にしたこはるだが、その後に響いたのは、腹の底から鳴る「ぐぅ」という音だった。
ひとしきり風邪が引き、食べることもままならなかった娘の身体は、ようやく空腹を満たすことを望んでいた。
宿の者に頼んで、大きな握り飯を三つほど用意してもらうと、こはるは一気にそれをぺろり平らげた。
その手があっという間に食べ物を消し去る様子は、まるで飢えた獣のようであった。
こはるは最後の一粒を口に入れ終えると、口の端にこびりついた米粒を親指で取り、それを無意識に舐めた。
その仕草を見ていたお蝶は、思わずにっこりと微笑む。
その笑顔に、こはるもまた人懐っこい笑みを返した。
ふと、こはるはふとんの上に膝をつけ、正座をして、お蝶に向かって丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございました」
その一言に、こはるの心の中で何かが震えた。
どこか遠くで不安がよぎるが、それでも今は安堵感が大きかった。
「よっぽど腹を空かせてたんだねぇ」
お蝶は、柔らかな声で笑いながら言った。
その声には、あたたかみが感じられるものの、どこか冷徹なものも含まれていた。
こはるは、少し照れくさそうに頬を赤らめながらも、素直に答える。
「はい、このところ、食べ物も喉を通りませんでした」
「なぜだい?」
お蝶の声は、甘く、そして鋭く響く。
まるで何かを知っているかのような響きに、こはるはしばし言葉を飲み込んだ。
「怖くて……お代官様に抱かれるのが怖くて……」
こはるの表情が急に曇り、目を伏せた。
その声には、過去の恐怖と痛みが込められている。
その言葉を聞いたお蝶は、こはるの髪を優しく撫でながら、穏やかな表情を浮かべた。
「安心おし。あたいが、しっかり守ってあげやすよ」
その言葉に、こはるの心は一瞬救われた気がしたが、それと同時にどこかで違和感が渦巻くのを感じた。
お蝶と黒子。
彼女たちの存在は、こはるにとってまるで魔物のようだが、なぜか強烈に引き寄せられてしまう。
恐怖でありながらも、その異様な魅力に引き寄せられてしまった自分がいることに、こはるは気づいていた。
お蝶はこはるを胸に抱き、また髪を静かに撫でる。
その手のひらは柔らかく、ぬくもりに満ちている。
しかし、その胸に響く鼓動は、こはるの耳には異様に感じられた。
それは、まるで激しい運動をしたかのように、乱れた音が響き渡る。
お蝶はそのまま、ただ静かにこはるを抱きしめているが、こはるはその鼓動が異様に激しいことに気づき、次第に不安が増していく。
不気味な感覚が心を包み込み、こはるは静かに、しかし確かにお蝶の胸から身体を離す。
「いけません」
その一言を口に出さないまでも、心の中でつぶやいていた。
お蝶の優しい腕から逃れるように、少しずつ身を起こすと、こはるはゆっくりと背を向けた。
そのとき、再び鼓動が耳に響く。
それは、まるで彼女の体内から発せられた音であるかのように、こはるの心を揺さぶる。
だが、こはるは目を伏せることなく、その場を静かに離れていった。
その足音が、暗い宿の静寂を破る音となり、何かが始まる予感を感じさせる。
お蝶の瞳は、菩薩の如く穏やかな光を湛えていた。
その瞳の奥には、深い理解と、どこかしらの決意が込められているように感じられる。
柔らかな声で、けれど鋭さを持ってこはるに語りかける。
「ほぅ、なぜお代官様が怖ぇのか、話してくれるかい?」
その問いには、こはるを寄せつける温もりと、背後にひそむ冷徹さが同居している。
まるで、優しさの仮面をかぶった試練のように。
こはるは少しの間、言葉を飲み込んだ。
まるで、その記憶が蘇ることを恐れるかのように。
だが、やがて沈黙が破られた。
「……はい」
静かにそう答えると、こはるは自らの言葉を紡ぎ始めた。
その声はどこか遠くから響いてくるようで、聞く者の胸を重くさせる。
「女郎屋から、突然、姿を消す女郎たちがいるのです。その原因を噂している者もいますが、代官様のことが影にあると……」
こはるの言葉には、目に見えぬ恐怖がこびりついていた。
女郎屋から消える女郎たち。
その影に潜む代官の悪い噂。
そして――。
「……わたしも、そのひとりだったのです」
少し躊躇しながらも、こはるは言葉を続ける。
その声に震えはないが、まるでその時の恐怖が再び身体を駆け巡っているかのようだった。
「代官様の座敷に何度か呼ばれ、何度も抱かれました」
こはるの顔は一瞬、恥じらいと痛みが交錯した色に変わるが、それでも話を続ける。
「その頃、わたしの他にも代官様の相手をしている女郎がいまして……その者たちの首には、代官様が何かしらの印をつけていたのです」
その言葉を口にした瞬間、こはるは深いため息をついた。
「その印は、ただの痣ではありません。噂では、それをつけられた者は、決して逃れることができぬ運命にあると言われていました。代官様の獲物だと」
その言葉が、こはるの心に深く刻まれていることは明らかだった。
「そして……その印をつけられた者は、姿を消すのです」
こはるは一瞬、言葉を詰まらせた。
「足抜けを試みる者もいるのですが、全て失敗に終わり……わたしは、あの女郎たちがどこへ消えたのか、未だに知りません」
その言葉が、部屋に重く響いた。
お蝶は黙ってこはるを見つめ、その眼差しには一切の動揺も見せず、ただじっとしていた。
前に印をつけられた女郎は足抜けをしようとした。
されど、それは成就することはなかった。
この町にお蝶が来てはじめて出会った女郎だ。
こはるは、まるでその時の感覚を思い出すように、瞳を閉じた。
「そして、わたしも印を付けられました」
その言葉の裏には、代官に対する強い憎しみと、同時にそれに縛られた自分の運命に対する呪詛が込められていた。
「だから、怖くなってすぐにその場を逃げ出したのです」
こはるの声は小さく、しかし確かなものだった。
「その後、あなた様に助けられました」
その言葉には、感謝とともに、忘れられない恐怖が深く染み込んでいる。
そして今に至る。
こはるはその話を終え、静かにお蝶を見上げた。
「これがわたしのすべてです。どうしても、あの代官様のことは忘れられません。あんな男が、こんな町に蔓延っているなんて……」
その視線の中には、恐怖だけでなく、絶望や怒りも渦巻いていた。
お蝶は深く思案し、腕を組んでしばし黙ったまま天井を見つめる。
その姿はまるで、常ならぬ事態に対する鋭い感覚を研ぎ澄ませているかのようだった。
そして、やがて低い声で切り出す。
「ほんに、あの代官様がこの騒ぎに関わっておりんすかい?」
その問いは、まるで重い岩を背負うかのように、しっかりとした響きがあった。
こはるはしばらく黙った後、ゆっくりと答えた。
「はい、いなくなった者たちはみんな、あの代官様に印をつけられた者ばかりでした」
その言葉には確かな恐怖と、それに伴う深い恨みが滲んでいる。
お蝶は目を細め、さらに問いを続けた。
「そんなに多くの女郎が姿を消したっつうのに、あの女元締めや天狐組の親分が知らぬわけがないわなぁ。なにか、妙な匂いがしやせんかい?」
その口調に、ほんの少しの不安と鋭い警戒が混ざっていた。
こはるは震えながらも、声を震わせて答える。
「元締めはきっと、あの代官様と繋がっているのです。ぐるなんです、絶対に」
その言葉には、もはや疑念の余地はないという決意が込められていた。
お蝶は静かに頷き、しばし黙ってから言葉を紡いだ。
「元締めが怪しいとは思っていたが、まさかそこまでとはなァ。まあ、いいさ。今はゆっくりとおやすみ。病み上がりの体に無理をさせちゃあいけないよ」
その言葉には、優しさと共に、深い思索が感じられた。
お蝶はこはるをふとんに寝かし、優しく掛け布団をかけてやった。
その手つきはまるで、こはるがまだ小さな子供であるかのように、ひとしきり気を使って丁寧に扱っていた。
ふと、こはるの瞳を覗き込むお蝶。
「町の外まで送ってやりたいところだが、あたいらはまだこの町に用があるんだ。店の者に金を握らせておけば、多少は匿ってくれるだろう。ただし、危なくなったらひとりでお逃げな」
その言葉は、どこか切実な響きがあった。
こはるはお蝶の言葉を静かに聞き入れ、頷きながら小さく答える。
「待っています」
その返事には、確固たる決意と同時に、少しの悲しみも滲んでいるように感じられた。
宿を出た途端、天狐組みのやくざに出会わないとも限らない。
「そうかい」
お蝶はにっこりと微笑み、穏やかな声で続ける。
「用が済んだら、隣村でも町でも、好きなところまで送ってやるよ」
その言葉には、まるでこはるを守る約束のような強い意志が込められていた。
こはるは静かに目を閉じながら、小さな声で応じた。
「ありがとうございます」
その言葉が、これ以上ないほどの感謝を表していた。
もう、おやすみなさいな」
お蝶は静かに言うと、ゆっくりと部屋を後にした。
その足音が静かに消えていくのを、こはるは聞いていた。
「はい、おやすみなさい」
やがて、部屋の中にひとしずくの静けさが広がる。
蝋燭の火が揺れ、微かな光がこはるの瞼の裏に浮かぶ。
闇が訪れぬことはない。
だが、娘はそれでも眠ろうとした。
その瞼の裏に映る火の揺らぎは、無邪気なものではない。
まるで、誰かが見守るように、どこか遠くから娘を見つめている気配が感じられた。
だがその気配は、安らぎを与えるものではなく、ただ恐怖と期待を引き寄せるものだった。
娘は静かに息を吸い、心の中で自分に誓った。
これからの生き様がどうであれ、もう振り返らないと。
そして、再び闇に包まれた世界へと身を沈める。
だが、眠ることができるだろうか。
いや、これからずっと――。






