偽りの春 二之幕
ここは遊郭「紅蓮楼」。
かつての栄華と共に栄え、武士も町人も分け隔てなく迷い込む、夢と欲とが入り混じる廓の一角にその楼閣はあった。
昼はひっそりと閉ざされた格子戸も、夜ともなれば紅の行燈に灯が入り、障子越しに浮かぶ女の影が男どもを誘う。
その名の通り、紅の炎のごとく艶やかで、そして業火のように人の情を焼き尽くす楼である。
娼妓たちは皆、己の名を偽り、過去を封じ、肌一つで世を渡る。
笑うも泣くも芝居のうち。
客の心も懐も、情けと裏腹に搾り尽くす、ここはまさしく地獄の一丁目──。
そんな紅蓮楼の門を、ひとりの少女がくぐったのは、ある雨上がりの夜のこと。
濡れ鼠のような身なりに、旅装を解かぬまま立ち尽くす少女。
その頬は風に焼け、掌には農作業の痕が残る。
まだ年若く、少女とも言えぬほどのか細い体つきであったが、その瞳には静かなる決意の光があった。
帳場の奥より、ひたりひたりと近づいてきた影──
やがて格子戸の向こうから現れたのは、一人の女。
「――あんたが、新しゅう来た子じゃな?」
紺の着物に黒の帯を締め、艶やかな黒髪を高く結い上げたその女は、薄く笑みを浮かべながら少女を見下ろした。
片眉をゆるりと上げ、どこか試すような眼差しを向ける。
紅い唇が灯のように揺れ、白粉の奥のその肌は、夜の光をも弾くような艶を放っていた。
すでに円熟の気配を忍ばせながらも、その所作ひとつひとつに凄みがある。
それが姉御──元締め、お紺であった。
紅蓮楼の主にして、遊郭でも、賭場でも、ひとたびその名を囁けば男たちが身を縮める、艶冶と残酷を併せ持つ女。
廓の娘たちはお紺をして「地獄の女将」と呼び、客たちはその気配を感じるだけで背筋を正した。
お千代は、しばしその視線に射抜かれ、足がすくむのを感じた。
けれど、すぐに唇をきゅっと結び直し、俯きかけた顎を上げる。
その瞳には、決して折れぬ意志が宿っていた。
踏み込んではならぬ世界と知りながら、それでも尚、己の意思で門を叩いた娘の目であった。
そして、低く、確かに名乗る。
「お千代と、申しやす」
その眼には、かつての弱さを噛み殺すような、冷たい意志が宿っていた。
お紺はその様をしばし見つめ、ふっと鼻で笑う。
「ほう……なかなか根性の据わった眼ぇしとるじゃないか。気に入ったよ。今宵から、うちの紅蓮楼の華となりな」
臭いを嗅ぐような仕草でお紺はお千代の顔を睨めるように見る。
「けんど、どこかで見たような面じゃねぇか……?」
細く切れた眼をさらに細め、流れるようにお千代を舐めるように見やった。
傍らでは、親分の狐吉が腕組みしつつ、お千代を値踏みするような目を向けたが、やがて首を横に振った。
「知るかよ。うちは出入りが多ぇんだ。似たような面構えのひとりやふたり、覚えちゃおらん」
「そうかい……ふうん……」
お紺は納得したような、しきらぬような顔をして肩をすくめた。
そのまま軽やかに身を翻すと、柱に立てかけてあった高下駄をつま先で引き寄せ、つと履いて、すたすたと表へ出て行った。
「――ま、ええわ。こっち来な。案内してやる」
媚びとも挑発ともつかぬ流し目を一つよこし、影のように路地へと消えてゆく。
「……え?」
慌ててお千代が外に出るも、お紺の姿はすでに見えない。
夕暮れもとっぷりと暮れ、通りは灯籠の明かりがちらほら灯るばかり。
周囲に人の気配も少なく、不意に心細さが胸に広がる。
――その時。
「なにしてやがんだい、こっちだってんだよ」
すうっと背後から囁くような声がした。
振り返れば、建物と建物の狭間――人ひとり通るのがやっとの細道を、艶めいた女の後ろ姿がするりと歩んでいく。
まるで、あやかしが月の下を誘うように――。
娘は一瞬だけ躊躇したが、唇をきゅっと噛んで、その後ろ姿を追った。
闇の中へ、音もなく吸い込まれていくように。
人ひとりがようやくすり抜けられるほどの狭路――
石垣と板壁に挟まれたその小径を抜けた先、突如として開けたるは、広々とした庭園であった。
外の喧騒が嘘のように静まり返り、常夜燈に照らされた白砂と、枝垂れ桜の影が地を這う。
古びた屋敷が月を背にして構え、まるで世間の時を忘れた隠れ里のようであった。
「……ほれ、こっちだよ」
振り返りもせずに進んだお紺は、廊下を軋ませ縁側へ上がると、ぴたりと手をつき、障子越しに声をかけた。
「弥吉、弥吉! 耳が遠ぇのかい!」
その声は、凛として通る。
ただの女の声ではない。
長年この屋敷を仕切ってきた者の、揺るがぬ支配の響きであった。
「へい、いま行きやす!」
すぐさま内から返答があり、障子がすっと開く。
そこから顔を覗かせたのは、お千代と同じくらいの年頃と思しき若い男――弥吉だった。
この屋敷で使い走りや雑務を一手に担っている下働きのひとりだ。
弥吉はお紺の後ろに立つ娘の姿を目にし、はっと息を呑んだ。
次いで、何か言いかけたようにも見えたが、そのまま目を伏せて頭を下げた。
お千代もまた、弥吉の顔を見つめ返したが、顔に浮かぶのは鋼のごとく無感情な仮面のみ。
目に宿るのは、情の通わぬ冷ややかな光――語るべき過去を、すでに捨て去った者の眼差しであった。
「この子が新入りだよ」
お紺は顎をしゃくり、ふたりの間を繋ぐように言葉を投げた。
「いろいろと手ほどきしてやっとくれ」
「……へい。ですが姐さん、今はどこの部屋も埋まっておりまして。おれの連れてきた新顔に部屋を空けたばかりでして」
弥吉は困ったように眉を寄せて答える。
「ふむ……それなら、死んだ乱菊の部屋にでも――」
そう言いかけたところで、お紺はふいと口を閉ざした。
お千代の顔を一瞬だけ見ると、目を細め、言葉の調子を変える。
「いや、違ぇな。おりんを奥の納戸に移しな。空いた布団部屋を、この子に遣わせな」
「……承知しやした」
弥吉が静かに頭を下げるのを見届けるでもなく、
お紺はすでに廊下を振り返りもせず、ふわりと裾を翻して闇の中へと消えていった。
残された弥吉とお千代のあいだには、言葉少なに、夜の帳が降りたような静寂が漂った。
弥吉は黙して、お千代へと一瞥をくれると、軽く顎をしゃくった。
言葉なくとも、その目にこもるものは、「ついて来い」と語っておった。
廊下を抜け、幾度か曲がり角を経て辿り着いたのは、やはり布団部屋と呼ばれる小間であった。
かつて下働きや客の寝所として使われたその一室は、古びた障子と干した藁の香が残る、つつましやかな隠れ家のような空間であった。
弥吉は先にお千代を中へ招き入れると、周囲に誰の気配もないことを確かめ、音を立てぬよう気を遣いながらも、障子をぴしゃりと閉めた。
しんと静まり返った部屋の内、ほのかに灯る行灯の光が、ふたりの影を畳に落とした。
その刹那――
弥吉が堪えきれぬ想いを爆ぜさせたかのように、突如としてお千代の両肩を掴んだ。
「……おれだよ、お千代。わかるだろ? おれのこと……!」
声は震え、目には熱のようなものが滲んでいた。
どこか夢を見ているかのような、懐かしさと焦燥が入り混じっている。
されど――
お千代はその肩を振り払うでも、涙を流すでもなく、ただ冷たき眼差しを伏せて呟いた。
「……ひと目見たときから、気づいてたさ」
その声音は、まるで雨に濡れた白刃のように鋭く冷えておった。
喜色を浮かべる弥吉とは対照的に、お千代は浮かべる感情の色ひとつ見せず、黙って隅に積まれた布団の上へと腰を下ろす。
くたりと肩を落とし、俯き加減に吐き捨てるように言った。
「村を捨てて……やくざになってたなんてさ。……あんたはもう、あたいの知ってる弥吉じゃないよ」
ぽつりと零れたその一言は、かつて共に過ごした幼き日々の温もりを、無情にも断ち切る刃のようであった。
弥吉はその言葉に目を瞠き、しばし言葉を失った。
灯明の炎が微かに揺れ、ふたりの間にできた影だけが、何かを語ろうとしていた。
弥吉とお千代は、元は同じ村に生まれ育った幼馴染であった。
藁葺き屋根の下、泥だらけになって遊んだ日々。時に喧嘩をし、時に助け合い、肩を並べて大人になるものと、誰もが思っていた。
されど――五年前。
弥吉は何も告げず、村を飛び出した。
家にも、親にも、そしてお千代にも別れの言葉ひとつ残さず。
いまこうして、小さな布団部屋の片隅でふたりは再び向き合っているが、過ぎた歳月が心に落とした澱は、容易には拭えなんだ。
弥吉は、気まずさに視線を逸らしながら、肩を落とし、壁にもたれ掛かった。
その表情はどこか投げやりで、けれど後悔の色が滲んでいった。
「……仕方なかろう。百姓の倅で、学も芸もねぇ。手に職もなけりゃ、人様に誇れるもんもねぇ。そんなおれが、まっとうに生きられる道なんざ、どこにもなかったんだ」
お千代はしばし無言のまま、じっと弥吉を見つめていたが、やがてぽつりと呟くように言う。
「だったら、帰ってくればよかったじゃないか……」
その声は、寂しさを押し隠すように低く、細かった。
が、弥吉は鼻で笑い、ふいと顔を背ける。
「一度飛び出した家に、のこのこ帰れるかよ。親父には、『この家の名を汚すな、今すぐ出ていけ』って言われた。……あの一言で、道は戻れなくなっちまったんだ」
言葉を失うお千代。
部屋には、しんとした沈黙が降りた。
外では風が梢を揺らし、障子越しに笹の葉が擦れる音が聞こえてくる。
まるで、時の流れそのものが音を立てて過ぎていくようであった。
再会とは、いつも華やかで喜ばしいものとは限らぬ。
五年という歳月は、心に溝を穿ち、思い出の面影すら朧にしてしまう。
ふたりの間にあったはずの絆も、今は遠き春の幻のように――薄れゆくばかりであった。
俯いていた弥吉が、ふと顔を上げた。
その眼には迷いと焦りと、どこか救いを乞うような色が浮かんでいた。
「……おい、おれが手引きしてやる。今宵のうちに、ここを出よう。逃げるんだ、お千代」
その言葉に、お千代はすぐには応えなかった。
ただじっと、弥吉の顔を見据え、やがてゆっくりと視線を外し、口を開いた。
「……足抜け、しろってのかい?」
その声は、かすれ、震えていたが、芯は強かった。
「そんなこと、するもんか。あたいは逃げるためにここに来たんじゃないよ」
「だがな……!」
弥吉は声を荒げたが、お千代の眼差しに言葉を飲み込んだ。
再び口を開いた時には、その声音は低く、苦しげな響きを帯びていた。
「……ここの元締め、さっきのお紺姐さんはな、人を人とも思っちゃいねぇ。使えるだけ使って、潰れりゃそれまでだ。無理させられて、倒れた者がどれほどいたか……それに――」
「それに?」
お千代が眉をひそめて問い返すと、弥吉は唇を噛み、しばし口を閉ざした。
その表情には、言うべきか、黙すべきかの葛藤がにじんでおった。
「……なんでもねぇよ」
弥吉はそう言って、目を逸らした。
だが、その態度には、何か大きな秘密を隠していることが、明白であった。
部屋の外からは、下働きの者が立てる足音や、笑い声、遠くの三味線の音がかすかに響いてくる。
だが、この小さな部屋の空気は重く、まるで息をひそめているかのようであった。
お千代は、積まれた布団の上に置いた手を強く握りしめ、じっと弥吉の横顔を見つめた。
その目は、どこか決意の色を帯びていた。
――逃げるのはたやすい。
されど、それでは何も変わらぬ。
お千代の胸には、何かしらの覚悟が芽生えつつあった。
「この店――この女郎屋には、悪い噂があるんでしょ?」
お千代の声は静かであったが、胸の奥底から搾り出すような張りがあった。
弥吉は、ぴくりと眉を動かしたものの、すぐに視線を外し、低く答えた。
「……おれはなんも、知らねぇ」
その声音は、あまりにも不自然に平坦であった。
そう口にすると、弥吉は踵を返し、部屋を出ようとした。
まるで、その場にいるのが耐えきれぬとでも言うように。
だが、お千代の細い手が、するりと伸びてその腕を掴んだ。
「……ほんとうは、知ってるんでしょう?」
弥吉は黙したまま、顔を前に向けている。
目を合わそうとはしなかった。
お千代は、震える指で彼の腕を強く引いた。
半ば強引に、真正面から睨みつけるように眼を合わせた。
「あたいの目を見て言いなよ。嘘はいやよ。姉ちゃんのこと――なにか知ってるなら、ちゃんと話して」
「……おれは、嘘なんて――」
「お願い。姉ちゃんがどうなったのか、知ってることがあるなら、聞かせて。たとえ残酷でも、知らぬままでいるよりましだよ……!」
お千代の眼には、言葉よりも鋭い真剣が宿っていた。
弥吉は唇を噛み締め、拳を握りしめた。
そして次の瞬間――
「知らねぇって言ってるだろうがッ!」
怒鳴るように叫びながら、弥吉は腕を振り払い、お千代の細い体を突き飛ばした。
お千代は、その勢いで畳に崩れ落ち、尻もちをついた。
着物の裾が乱れ、解けかけた髪が頬にかかる。
その大きな瞳には、こらえきれぬ涙が滲み、溢れそうになっていた。
それでも、お千代は唇を噛み、懸命に声を絞り出した。
「……あたいは、姉ちゃんのことが……知りたくて……。誰かに言われたわけじゃない、自分で、ここに来るって決めたの。覚悟を決めて、この場所に足を踏み入れたんだよ!」
震える声には、強い意志と深い哀しみが混じっていた。
弥吉は、その場に立ち尽くし、拳をぶるぶると震わせた。
その眼には悔しさと、どうしようもない憤りが宿っていた。
「……おれだって、ずっと探してたさ。あいつは、おれにとっても――大事な人だった……。けど、ある日、突然……なんの前触れもなく、この店から……いなくなっちまったんだ」
お千代の目が大きく見開かれた。
「やっぱり……なにか、あったんだね」
弥吉は、うなずく代わりに、低く、重く呟いた。
「遣り手婆に聞いたさ。足抜けしたって言われた。……でもな、それきりだ。遺品もねぇ、文もねぇ。まるで初めからいなかったみてぇに、誰も話したがらねぇ」
「親分は……?」
「知らねぇ、の一点張りだった。お紺姐さんに聞け、ってよ」
その名を聞いた瞬間、お千代の背筋が寒気を帯びたように震えた。
――お紺。
あの艶やかな眼差しの奥に潜む、底知れぬ闇。
もはや、ただの噂では済まされぬ。姉の影は、この屋敷のどこかに、きっと沈んでいる。
お千代は、そっと立ち上がり、着物の裾を整えると、ぬぐった涙の跡を隠すように顔を上げた。
「あたいが調べるわ。どんなに怖くても。姉ちゃんがここで、なにをされたのか……この手で掘り起こしてみせる」
弥吉は、何も言えず、その背を見つめていた。
――それは、今よりおよそ一年前のことだった。
突如、姿を消した女郎のひとりがいたという。
その名を「さくらぎ」――本名を「お千佳」と言った。
年の頃は二十を少し越えたばかり、肌理細やかな白粉の下に、どこか憂いを帯びた面差しを隠し持った女だったと、もっぱらの噂であった。
そのお千佳こそ、他ならぬお千代の姉であったのだ。
弥吉は、畳の上に静かに立ち尽くしながら、睨むとも、憐れむともつかぬまなざしで、お千代を見据えた。
その眼には、言葉にできぬ葛藤と焦燥が、影となって滲んでいる。
「……おまえは、はよう此処を出て行け。こんな場所に長くいていい娘じゃねぇ」
声は低く、絞り出すようであった。
されどお千代は、きっぱりと首を振り、その場を動こうとはせなんだ。
「嫌だよ」
短くも揺るぎない返事である。
「お千佳は、おれが探す。だから……おまえまで、いなくなるようなことには、なってほしくねぇ」
「それでも、嫌だよ。あたいは覚悟を決めて、ここに来たんだもの。姉ちゃんのために、この手で何かを掴むって決めたの。後悔はしないよ」
小さくとも、凛としたその声音に、弥吉は眉をひそめた。
「……なら、せめて――お代官様には近づくな」
「……お代官様?」
お千代の声が、かすかに緊張を帯びる。
「なにか、あるのかい?」
「いや……別に……」
弥吉は視線を泳がせた。
だが、嘘のつけぬ性根は、すぐにその曖昧さを打ち砕いた。
「弥吉。あんた、あたいには隠せないよ。代官がなにかに関係あるんでしょ?」
「みんなお代官様がなにか知ってるって噂してる。けどよ、相手はお代官様だぜ、どうこうできる相手じゃねぇんだ」
「意気地なし!」
お千代の一喝が、部屋にぴんと響いた。
弥吉は顔を歪め、唇を噛みしめた。
「そういうことじゃねぇだろ、畜生……!」
言葉を吐き捨てるように吐き、弥吉は、早口にまくし立てた。
「とにかく、お代官様には近づくな。それから……お紺姐さんにも用心しろ。あの姐さんはな、馬鹿みてぇに勘が鋭ぇんだ。ちょっとの動きも見逃しゃしねぇ。……無理は、するなよ。あばよ」
その言葉を最後に、弥吉はお千代が何か言う間も与えず、戸を開けて、さっと出て行ってしまった。
部屋に残されたのは、ぽつねんと座り込むお千代ひとり。
静寂の中、ふと、部屋の空気が重たく感じられた。
積まれた布団の匂い。
煤けた壁。軋む床。
――ここに、姉もいたのだろうか。
この部屋に、姉が横たわった夜があったのかもしれぬ。
そう思うと、肌を撫でる空気さえも、姉の残り香のように感じられた。
「……姉ちゃん」
かすれた声が、誰に届くともなく零れた。
だが、ひとつだけ、胸の内に火が灯っていた。
それは――味方がいる、という確かな思いである。
たとえ寡黙でも、不器用でも、あの弥吉は、己を案じてくれていた。
だからこそ、彼の言葉の中にあった恐れは、決して空言ではない。
代官とお紺。
その名が、暗雲のごとく、お千代の胸中に重くのしかかった。
だが、退くことなど、できはしない。
ここで立ち止まれば、姉の行方は永久に闇へと沈む。
お千代は、静かに、しかし確かに、拳を握った。
◇ ◇ ◇
石灯籠に淡く火が灯ってはおるものの、夜の帳は深く、庭の隅々までは見通せなんだ。
風もなく、虫の声ひとつせぬ闇の中――そこに身を半ば乗り出し、じいと目を凝らす女がひとり。
紅を引いた唇が、ふとほころんだ。
「桜の下にゃ屍が埋まっておる、てぇ、よう申したもんでございやすなァ……」
どこか艶めき、どこか挑むような声音である。
花魁――お蝶。
白粉に浮かぶ艶やかな眼差しは、ただの飾り女のそれではなかった。
そのまま廊下をしずしずと戻ると、畳に膝を落とし、正座のかたちを整える。
ぱん、と涼やかな音を立てて手を打ち合わせた。
「こりゃ、こりゃ、失敬つかまつりやした。あっし、どうやら思い違いをしておりやした。屍の話といやァ、柳の下でございやしたなァ……」
言い直した唇の端には、笑みとも皮肉ともつかぬ色が浮かんでいた。
その座敷は、紅玉楼の奥、いつもは使われぬ上座の間。
今日ばかりは特別に設えられていた。
お蝶と連れの黒子が、この間に通されたのは、元締めであるお紺姐さんの口添えによるものであった。
相対するは、代官のお付きの侍ども。
黒紋付の裃を着た二人の武士は、居住まい正しゅう座しながらも、盃を片手に酒をゆるりと口に運んでいる。
とはいえ酔いは最小限、顔色一つ変えぬまま、気配だけは研ぎ澄まされていた。
隣の座敷では、当の代官様が、江戸から招いた噺家や三味線持ちを囲み、どんちゃんと酒宴の真っ最中。
そのご機嫌次第で、花魁どもが呼ばれるか否かが決まるという寸法である。
この付人の侍たちに芸を認められ、気に入られれば、後日、お代官様の御前に上がることも叶う――
つまりは、今宵の席こそが、見えぬ品定めの場。
お蝶は、内心でその空気を読み切っていた。
侍のひとりが目を細め、酒を口に含みながら低く問うた。
「うむ……して、そなたらの芸とやら、いかほどのものか、見せてもらおうか。退屈凌ぎにも足らぬとなれば、無礼と心得よ」
お蝶はにっこりと、けれど艶の裏に何かしらの鋼を忍ばせた微笑みで応じた。
「そりゃあ、せっかちなことでござんすなァ。されど、退屈もまた、色のうちにてぇことでござんしょ? 今宵はたんと、骨の髄までご堪能いただきとうございやす」
背後に控える黒子が、静かに衣擦れを立てて立ち上がった。
かすかな香の香りがふわりと座敷に漂いはじめる。
さて、これよりが真の幕開け。
芸か幻か、それとも毒か――
お蝶の眼差しが、柳の下の闇のように、じわりと座敷を包みはじめていた。
黒子は尚も無言のまま、葛籠の蓋に手を添えたまま、身じろぎひとつせず正座していた。
薄闇に溶けこむようなその姿は、まるで人形に魂が宿るのを待つ陰陽師のようでもある。
対してお蝶は、濃紅の唇を弦に寄せながら、ぽろりぽろりと三味線の音を爪弾いた。
まだ唄も舞も始めぬうちから、どこか禍々しい音色が座敷に忍び入り、武士たちの耳を撫でる。
ふと、お蝶が目を伏せたまま問いかける。
「さてさて――お武家様方は、身の毛もよだつような、血の香り漂う怪しき噺は、お嫌いではござんせんか?」
その艶めいた花魁口調に、一人の侍がくつくつと笑った。
「ふふっ、これはまた結構なことだ。お代官様も、そういった奇っ怪な噺がお好みだったな」
もう一人の侍もそれに頷き、盃を置いた。
「うむ。あの御方は、夜な夜な噺家を集めては、血腥い因縁や、禍福の裏返る話を噺を好まれたわ」」
お蝶はその言葉にゆるりと笑みを浮かべた。
伏し目がちに微笑む様は、まるで春の桜が散る間際、儚くも艶やかなひとひらのよう。
「おそれ入谷の鬼子母神。こりゃまた結構な御趣味でござんすなァ……。実は今しがた、外の桜の古木を眺めておりやして――。ひとつ、よろしき噺を思い出しやした」
侍たちの視線が、一斉にお蝶の唇へと注がれた。
「今は秋。桜の花はひとひらも咲いちゃおりやせんが……。これより語りますは、春の宵に咲いた、いっそ毒花のような、悲しゅうて恐ろしゅうて、美しき――そんな噺でございやす」
そう言って、お蝶はゆるりと姿勢を正し、三味線を強くかき鳴らした。
その瞬間、黒子が音に呼ばれたように葛籠を開け、一体の女形の人形を取り出した。
絹の着物、うるんだ瞳、しなやかな手。
けれどその顔にはどこか虚ろな影が差している。
示し合わせたわけでもないのに、まるで台本があったかのような呼吸。
お蝶の唄と黒子の舞台が、ぴたりと重なり合ってゆく。
唄は、ある男の噺であった。
かつて、ひとりの田舎侍が、都の女郎に恋をした。
金も身分もないその男は、ただ真心だけを差し出した。
女郎は笑った。「馬鹿なひと」と。
けれど、いつしかその真心にほだされ、女もまた、恋に落ちた。
だがその恋は、決して許されぬもの。
男は借金を背負い、女は心を売り、やがて運命の歯車がきしむ音を立てた。
「ひと目会いたい。せめて、ひと目……」
唄に合わせて、黒子の操る人形が、障子の方へとふらふらと歩き出す。
――その瞬間。
座敷の外、空が唸った。
ざぁ、と雨が落ち、突風が庭の桜の枝を叩いた。
稲光が、障子に女の影を焼きつける。
刹那、三味線の音が高鳴ると同時に、雷鳴が轟き渡った。
その轟きに、侍たちの背筋がぴんと張る。
だが、お蝶は動じない。
唄を続ける声は、なお艶やかに、なお切なく――
「……されど、恋しき人の影は、夜桜のごとく儚く消え……残されたは、ただひとひらの血染めの簪――」
三味線が、ぴたりと止まった。
静寂が座敷を包み、黒子の人形もまた、動きを止めて膝を折る。
まるでそこに、女の魂がふっと抜けたかのように。
……雨の音だけが、しとしとと響いていた。
◇ ◇ ◇
時を同じくして――。
帳に包まれた渡り廊下を、そろりそろりと歩いている女の影があった。
その傍らには、黒羽織をまとった紅蓮楼の元締め――お紺の姿。
連れられているのは、まだ年若き娘――お千代。
見習いとはいえ、紅も薄く、目元にあどけなさを残した美しい娘であった。
お千代は、ふと立ち止まる。
今しがた通り過ぎた座敷から、三味線の音が響いてくる。
幽かに唄声も混じる――それはお蝶の唄。
どこか艶やかで、どこか哀しき音色。
されど、お紺は振り向きもせず、手を取るようにして隣の座敷の前で膝をついた。
「……参りましょうに」
ふたり、廊下に正座し、静かに一礼。
お紺が障子に手をかけて、すうっと開け放った。
「失礼つかまつりまする」
開けられたその座敷では、豪奢な帳が吊られ、香が焚かれ、酒の匂いと女の笑いが渦巻いていた。
座敷の奥、畳に胡坐をかいた枯れ木のような男。
代官――沼渕主水が、どっぷりと仰け反って酒を煽っている。
脇には白粉濃き芸者たちが、唄い、舞い、扇を振って取り巻いていた。
だが、障子が開かれるや否や、主水の目玉がぎょろりと動いた。
「ほほう……これはまた……」
お千代の姿に目を止めるや、その目は舐めるようにその細身を見下ろした。
「こっちじゃ、はよ寄れ」
主水は濁声でそう言い、胡坐の傍に空の猪口を突き出す。
お千代は一礼し、膝をにじらせて主水の横へ。
手慣れぬ所作ながらも、酒をそっと注ぎ入れる。
と、その横顔に主水の鼻が寄る。
吐きかけるような息が、お千代の頬を撫でた。
「上玉じゃのぅ……。肌がまだ、桃のように瑞々しゅうて」
主水の手が、まるで蛇のようににゅるりと伸びかけたが、お千代は微かに身を引いた。
その様を見て、主水はにたりと笑い、こう言った。
「もうよういらぬ。下がれ、下がれ。ほかの者どもも皆、出て行け。わしはこの娘と、ゆるりと杯を交わすゆえ」
その声に、唄い踊っていた芸者たちがぴたりと動きを止めた。
扇を閉じ、帯を直し、無言のまま廊下へと出てゆく。
女たちの足音も、どこか沈みがちである。
最後に残ったのは、お紺。
彼女はお千代の横顔に、何かを試すような目を向けたのち――
口元に不気味な艶笑を浮かべ、ひとこと。
「どうぞ……ごゆるりと……」
その言葉を残し、障子を音も高く、ぴしゃりと閉めた。
――こうして、お千代と代官、ふたりきりの座敷が出来上がった。
「ほぅ……若うてええ躰じゃ。まこと、ええ肌をしとるわ……」
主水は酒に濡れた唇をぬぐいもせず、にやりと嗤う。
そして、膝をにじると同時に、裾の間より枯れ枝のごとく節くれだった指先が、するりと這い出した。
その指が、お千代の着物の裾を押し分け、白魚のような太腿へと這い寄っていく。
初めは布越しであったが、やがては直接、肌へと触れた。
「……っ!」
お千代の躰がびくりと跳ねた。
恐怖に血の気が引き、白粉の下の肌が青ざめてゆく。
だが、主水は意に介さぬ。
強引に顔を寄せ、震えるお千代の頬へとその顔を擦りつけた。
「怖がることはない。儂はな、女を悦ばす術、よう心得ておるわ」
そのとき、お千代の頬を、ぬらりとした何かが這った。
粘つき、ねっとりと動く、それは――蛞蝓にも似た主水の舌であった。
「ひ……っ」
お千代は咄嗟に顔を背ける。
しかし主水の舌は、首筋を伝い、耳の裏へと舐め上げた。
「ほれ、甘い音が出ておるぞ……。まだ嬢になりきっておらぬ娘の肌……たまらぬわい……」
息を荒げ、言葉を押し殺すように震えるお千代。
それでも、主水の手は執拗に迫る。
肩を抱き、帯に指をかけ、次第に身体ごと覆いかぶさらんとする。
お千代は、逃げた。
畳を滑るようにして身を引き、懐紙のように軽やかな所作で離れようとする。
だが――主水はまるで大蛇のごとく、ずるりと追ってきた。
「ふふ……儂が怖いか?」
その声は低く、粘りつくようで、まるで這い寄る怨霊のようでもあった。
お千代は、言葉を返せぬ。
ただ、表情だけが何かを訴えていた。恐怖と羞恥、そして――己への嫌悪。
「……良い顔じゃ……そちの、その恐れに引きつった面……なんと甘美なことよ」
主水の顔が笑い崩れ、目は見開き、頬をひくひくと痙攣させる。
欲望に溺れた男の醜態が、そこにあった。
「いや……まだ……心の覚悟が……」
お千代の声は、蚊の鳴くような囁きであった。
だが、それすらも主水は悦楽と受け取った。
「覚悟など、女にゃいらん。黙って抱かれておればええのじゃ。……大人しく、儂のものになれ」
その言葉と同時に、主水の腕が伸び、帯を引き解こうとしたその刹那――
「いや……いやでございます……。あまりにも緊張いたしまして……こ、これ、ひとまず厠に……」
声も震え、身を竦めながら、お千代は両の手で必死に主水の躰を押し退けた。
白粉の下の肌が青ざめ、指先は冷たくなるほどに恐怖していた。
それでも、気力を振り絞り、背後の障子へと身を翻す。
「すぐに戻って参りまする! 嘘など申しませぬ、すぐに……」
震える声でそう言い置き、障子を開けて廊下へと飛び出す。
だがその背に、怒号が響いた。
「こらッ! 逃がさんぞッ!」
主水が血走った目で立ち上がり、濁った吐息を撒き散らしながら身を起こす。
その足が畳を鳴らした瞬間――お千代は迷いなく、廊下を駆けた。
簪が揺れ、帯がはためく。
遠く、お蝶の唄声と三味線の音が微かに聞こえるが、今はそれも遥か遠く――。
お千代は、走った。
その小さな足で、必死に、逃げるようにして、夜の廊下を――。
そしてようやく、ひとつの木戸の前で足を止めた。
そこは、本当に厠であった。
見張りもなければ、声もない。
お千代は震える手で戸を開き、中へと滑り込む。
中はひんやりとした空気に包まれていた。
月の光が板戸の隙間から射し、わずかに闇を裂いている。
お千代は背を戸に預け、肩で荒く息をした。
頬に触れた指先は冷え切り、心拍ばかりが煩く鳴っていた。
「……はぁ……はぁ……」
自らを抱くように腕を回し、震えを抑える。
だが、全身が痙攣し、喉の奥からは嗚咽が漏れそうになる。
そのまま、ゆるりと裾を捲り上げ、懐から忍ばせていた小布を取り出した。
誰にも見せられぬ仕草で、自らの股座へと手を伸ばす。
――冷たく、湿っていた。
「ぐっ……」
その瞬間、口を噤み、奥歯を強く噛み締めた。
こみ上げるものを堪え、目を閉じる。
だが、目頭からはどうしても――一筋、涙が零れ落ちた。
涙は静かに頬を伝い、小布に落ちた。
雨音も聞こえぬほど、厠の中は静まり返っていた。
厠を出たお千代が、濡れた石畳を踏みしめて廊下へ戻ると、ちょうどそこへ、お蝶が歩み寄って来た。
宵の帳は濃く、薄紅の灯に照らされる二人の影が障子に映る。
お千代は一瞬、目を伏せて通り過ぎようとしたが――
その手首を、お蝶がすっと掴んだ。
「……おやおや、どこぞで手をお痛めかえ? まさか、誰かに乱暴でもされたんじゃありんせんか?」
艶やかな花魁口調は、しかし冷ややかに響いた。
お蝶の瞳が、お千代の指先から先、赤く汚れた手のひらに注がれている。
お千代はわずかに肩を震わせ、小さく首を横に振った。
「いえ……何でもございません……ほんの、ちょっと、転んだだけでございます……」
「そいつぁ結構。けんど、血ぃ垂らしたまんまじゃ、どこぞの鬼に嗅ぎつけられちまいやすぜ。ほれ」
そう言って、お蝶は懐より白き手巾を取り出すと、お千代の手をそっと包み込むように拭った。
まるで、幼子をあやすような、優しい手つきであった。
血と共に、お千代の震えまでも吸い取るような、ぬくもり。
だが、お蝶はそれ以上、何も訊ねぬまま、手巾を懐に戻すと、静かに視線を外した。
――手から流れた血ではなかった。
「さァ、行きなせぇ。今宵の座敷は、あんたにしか務まりゃしねぇ。……背ぇ伸ばして、お行きなせぇ」
お千代は、ふとお蝶の横顔を見上げると、小さく頭を垂れ、再び足を進めた。
――そして、再びあの座敷へ。
障子をそっと開ければ、酒と香の匂いが渦巻いている。
正座したまま、主水は待ち構えていた。
「遅かったのう、小娘。逃げおうたかと思うたが……戻ってきおったか。見上げた根性よのう」
お千代は畳の上に膝をつき、深々と額を下げた。
「……お待たせいたしました。先ほどは……未熟ゆえ、覚悟が定まりませなんだ。されど……今は、心の準備が整うております」
その声は澄み渡り、怯えの色ひとつ無かった。
顔を上げたお千代の瞳は凛として、何かを秘めていた。
主水は愉悦の笑みを浮かべ、空いた盃を投げ捨てる。
「よう申した。女の癖に、肝が据わっておるわ……ますます気に入ったぞ」
そして、蝋燭が吹き消された。
部屋は淡い闇に包まれ、外では風が雨戸を叩き、雷鳴が空を引き裂く。
雷光が、主水の顔を照らす――
その顔は獣の如く歪み、舌なめずりをしながら、お千代に滲み寄る。
お千代は、その忌まわしい表情を、まっすぐに見つめ――
やがて目を閉じた。
身を任せ、声も出さず、ただ傀儡のように、為すがままに。
感情を失くし、涙も流さず。
魂の置き場所を遠くに移し、ただ、身を晒すだけの存在と化して。
そんなお千代に、主水は嘲るように囁いた。
「ほほぅ……話では生娘と聞いておったが――」
その指が股座に伸びた。
だが、すぐに眉をひそめ、何かを感じ取るように手を引いた。
血に染まった指先を舐める主水。
だが、それが何を意味するかまでは気づいていない。
「……ふん、なまぐさき匂いがするのう。今宵は、格別じゃ」
主水はなおも歪んだ笑みを浮かべていた。
されど、その血の意味を知るのは――
この世で、ただ一人、お千代のみ。
心を押し殺し、唇を噛み締めたお千代の胸奥には、まだ消えぬ火が、静かに燃えていた。
◇ ◇ ◇
――ふと我に返れば、そこはもう料亭の外であった。
長き悪夢から醒めたお千代の頬を、容赦なき雨が打つ。
空より落ちるは涙か、祟りか。土砂降りの雨は地を穿ち、心をも濡らしていた。
ぼんやりと立ち尽くすその背に、男の声が響いた。
「お千代っ!」
名前を呼ばれて、はっと振り向く。
そこに居たのは、番頭見習いの弥吉であった。傘を差し、息を切らして立っている。
「弥吉……? なして、ここに?」
「お千代が、お代官様のお座敷に呼ばれたって聞いたんだ。気が気じゃなくてよ……お紺姐さんに、傘届けてくるって言い訳して、飛んできたんだよ」
「……お紺姐さんは?」
「おれが傘渡したら、『あとはお前の役目さ』って、さっさと帰っちまったよ」
お千代は何も答えず、ぽつりと視線を落とし、そのままふらふらと歩き出した。
傘もささず、雨に打たれるまま、よろける足取りで夜道を進もうとする。
「こら、待てって!」
慌てて駆け寄った弥吉は、自分の傘を傾け、お千代の肩を包んだ。
だが、その肩は細く、冷たく、まるで人の温もりを忘れた抜け殻のようであった。
「……大丈夫かよ?」
「……平気、さ」
小さく呟いた声には、力がなかった。
そのまま、お千代はぐらりと前のめりになり――
「おっと!」
咄嗟に弥吉が傘を放り出し、両腕でお千代の身を抱きとめた。
「おいっ、お千代! しっかりしろって!」
その頬に触れると、肌は冷たく、目の焦点も虚ろ。
だが――弥吉の目に映ったのは、項垂れた首筋に浮かぶ青き痣。
「……ッ、畜生が……!」
悔しさに奥歯を噛みしめた。
それは、代官に目をつけられた女に刻まれる、業の印。
無念さを滲ませながらも、お千代はもう何も言わず、静かに意識を手放していた。
「大丈夫だ、お千代……もう、誰にも触らせやしねぇ……!」
弥吉は、お千代の身を背に負った。
幼き頃、共に遊び、笑い合ったあの面影はもうそこにはない。
背中に感じる重みは、知らぬ間に女へと成長したお千代の、哀しみと覚悟の重みであった。
雨は止まず、風は肌を刺すように吹いていた。
弥吉はぬかるむ夜道に足を取られながらも、黙々と歩みを進める。
放られた傘と共に、行燈も壊れて使い物にならない。
暗き夜道に、灯りは無し。
だが、弥吉の目に迷いはなかった。
その背に預けられた命の重さが、彼を支えていた。
そして――
離れの屋根下、格子の影より、その様をじっと見つめる者がいた。
お蝶である。
紅を引いた唇を引き結び、瞳の奥に、言葉にせぬ哀しみと怒りを宿したまま。
雨にも濡れず、声もあげず、ただ黙って二人の背を見送っていた。
やがて二つの影は、闇の帳に飲まれていった。
――誰にも見えぬ夜の底へ。